第45話
「ファーストダンスを終えて、一息ついたころね。私は婚約者と挨拶に回っていたの。遠くでアイリスが誰かと話しているのが見えたわ」
ダフニー様がきれいな眉を吊り上げて話す。
「最初はあのバカ、間違えた、婚約者と話しているのかと思った。でも、アイリスは話しながらじりじりと後ずさるの。おかしいと思ったら、相手の顔が見えた。女を上から下まで舐めまわすかに見るあの下衆野郎、ジャン・カルドに捕まっていたのよ」
怒りで口調が乱れるダフニー様は、異国のお茶を一口味わってまた話し始めた。
「下衆野郎は酔いが回っていて、目つきが怪しかった。見たところ、アイリスの近くにバカもいない。私は婚約者に目配せして、すぐ二人でアイリスのところへ向かったわ。でもあと少しのところでアイリスは壁際に追い詰められ、下衆野郎はアイリスに厭らしく笑って手を伸ばした」
ダフニー様は大きく息を吐いて続けた。
「ちょうど従妹をエスコート中のエンリケ・サイス伯爵令息が、後ろから下衆の肩を掴んだの。振り向かせて『久しぶりだな。ジャン・カルド』と言ったけど、友好的には聞こえなかったわね。その隙に私はアイリスの手を引いて、壁際から連れ出したわ。アイリスもホッとした笑顔になって、私の婚約者も庇うように前に出た。そこによ、あのバカが『やあ、皆様お揃いだね』って果実水を持って現れて、しかも『ジャン、アイリスの相手をありがとう』なんて言うのよ!」
ダフニー様はもう一度お茶を口にしてから、話しだした。
「その場はもう酷かった。虚勢を張る下衆を睨むサイス様と私達、バカは不思議顔で、オリビアは溜息をついて『ダスティン様、疲れたので帰りましょう』と言ったの。サイス様は親類のもとへ去り、私達はオリビアと馬鹿を馬車まで見送ったわ」
ダフニー様は一度言葉を切り、呼吸を整えた。
「下衆野郎はいつも下位貴族のご令嬢が一人になるのを狙って声をかけて、不愉快な言葉や侮辱的な扱いで絡んでくるの。幸い決定的なことは起きていないけれど、難を逃れた話はよく聞くわ。そんな男と自分の婚約者を二人にするなんて信じられない!」
怒りに震えるダフニー様の話を聞いて、私は前回のことを思い出す。
婚約したばかりの若すぎた私はジャン・カルドやニコラス・アザリーに挨拶以降はいないものとして扱われた。それが変わったのは結婚後。ニコラス・アザリーからは冷たい視線を、ジャン・カルドからは粘つくような視線を感じるようになった。ダスティンに訴えると、そういう類の視線を受け流しておくのも次期伯爵夫人としての格だと言われた。
『ただでさえ君は若いのだから、それらにも騒ぎ立てない大人としての振る舞いを見せていかないと』
そう言われて、足りない自分は次から黙って従った。我慢できなくなったのはあの子を失ってから初めて出た夜会でのこと。あのときは、
「ごめんなさい、ミリカ嬢」
どうやら私は考え込んでしまったらしい。気づけば、ダフニー様が私を覗くこむように視線を合わせて謝罪していた。
「思い出して、つい怒りが溢れてしまったの。あなたの婚約者を貶めてしまったことを謝罪します」
「私からお願いしたことです。そのようなことも全く知らず、失礼しました」
「いいえ。何もなかったのですもの。令嬢のそのような話はしないのがよろしいわ」
「姉は、衝撃を受けていなかったでしょうか」
私の心配を、ダフニー様は困り笑いで続けた。
「アイリスへ下衆に何を言われたのか尋ねたら、留学で頭がいっぱいで聞いていなかったのですって」
何というか、アイリス姉さまらしい。ではダスティンに言っていた『あのデビュタントがあったから』とはそのときのダスティンの態度によるものだろうか。
ダフニー様は急に姿勢を正し、私を真っ直ぐに見つめて切り出す。
「ミリカ嬢、今日の目的は本当にその話なの?」
「あの、ダフニー様、それはどういったことをお訊きですか?」
問われている意味が掴めず、質問に質問で返してしまった。
「遠慮しないで。あなたの胸の内全てを聞くわ。私、アイリスと約束しているの」
「姉とですか?」
「ええ。この前最初にこちらに来てから、一度ご実家に戻ったでしょう? 何でも婚約解消の書式に不備があったとか」
「そう、です」
そういえば、ダスティンが呪われたことを隠すためにそういう話にしておくとアイリス姉さまが言っていた気がする。
「あの夜は、アイリスが隣国での未来を掴めたと私達も浮かれていたの。そこへ知らせが来て一度帰ったでしょう。戻って来た時のアイリスは、何か気がかりなように見えた」
ダフニー様と意見交換会の皆様は、アイリス姉さまを宥めてどうにか聞きだしたそうだ。
「あの婚約者と次に縁を結んだのは一番若いあなた、それも自ら望んでなったこと。アイリスはとても心配していたの。自分は隣国、ロージーは王都に行く。何かあればあの子の味方はまだ少ない。だから、妹を助けてあげてほしいと頼まれたわ」
姉さまがそんな風に私を思っていたなんて。胸が詰まって目が潤みそうだ。思わず俯く私に、ダフニー様は予想外のことを告げた。
「ミリカ嬢は婚約が嫌になったのでしょう? いつでも手を貸すわよ」
私の涙は秒で乾き、顔を上げるとダフニー様が謎の使命感に燃えていた。
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