第14話
風を心地よいと感じたのは最初だけだった。
ふわりと頬を撫でた風は、すぐにひゅうと耳元で鳴るほど強くなった。とっさに横を向いた私は、イエルが何かを呟くのを見た。瞬時にゴウッと叩きつける勢いの風で目が開けられなくなる。私は縮こまって身を守るしかなかった。
どのくらいそうしていただろう。風圧を感じなくなったのと、声をかけられたのはほぼ同時だった。
「大丈夫ですか? ご令嬢」
「え、ええ」
顔を上げると、イエルがにっこりと笑った。そして今更だが、私は蓋ごとずっと手を掴まれていたのに気づいた。父ともダスティンとも違う、大きな手。思わずまじまじと掴まれた手を見てしまう。
私の目線に気づき、イエルはパッと手を放して一歩下がった。
「失礼しました。ではそれを持って、ここから出ましょうか」
イエルが左手を差し出し、私は蓋を渡す。イエルは受け取って、空いた右手でひょいと掴んだ身箱を蓋の上に重ねた。
改めて見た木箱は、イエルの片手ほどの大きさで飾り気のない文箱だった。中から覗くたくさんの手紙は私のよく知る筆跡のものだ。
振り返ると、部屋の中の人々はお互い支えあって風を耐えたようだ。皆、髪や服などが相当乱れていた。
「今の風は? 何が起こった?」
リックウッド伯爵は呆然と呟いた。皆の無事にホッとしつつも、私は部屋の中にかすかな違和感があった。
「皆様、ご無事で何よりです」
そう言ったイエルだけがすっきりとした見た目を保っていた。あの風を同じように浴びたはずなのに。いや、イエルだけではない。あれほどの風にさらされた部屋も全く荒れていなかった。
「神官騎士殿、何をなさった?」
身なりを整えた父が問うと、イエルはすまして答える。
「私よりも、ほぼブロック伯爵家のお力ですね」
「どういうことかな?」
「ご説明の前に皆様にお聞きしたいのですが、ご気分はいかがです?」
言われて私はハッとした。頭痛が全くなくなっていた。吐き気も、息苦しさも。なんなら清々しさを感じるくらいだ。
私の様子を見たイエルはニヤリと笑って、さらに問う。
「リックウッド伯爵。ここ一年ほどはご家族間や屋敷内が刺々しく、安らげなかったのでは?」
「それは……」
リックウッド伯爵は目を見開いた後、口を噤んだ。イエルは構わず続けていく。
「長期の呪いは本人以外に周りの者も蝕みます。ご子息はここ一年はブロック伯爵家で守られていましたから、浄化されるのを恐れたのでしょう。このような呪いの媒介を用いました。どの家にも届けられる『手紙』という手段でね」
イエルは台の上の蓋をされた箱を右手でぽんぽんと叩いた。
「先ほどご令嬢が見分されたうち、蓋をしたこちらが呪いの媒介となった手紙です。封印してますのでご心配なく。弱いものですが、興味深い。研究のため持ち帰りますね。私も手紙が媒介だとはわかっていましたが、微弱で特定が難しくて。ご令嬢のおかげで助かりました!」
「……それは、何よりですわ」
あまりの勢いに、私はそれしか言えなかった。嬉しそうに語るイエルを誰も止められない。
「私が持っているこの箱にも手紙が入っております。この箱だけ別に奥でしまわれていたのですよ。しかも、箱に封印の術まで施されて。誰からのお手紙だと思います?」
皆を見ていたずらっぽく笑うイエルに、私は答える。
「私の姉、アイリス・ブロックですね」
「おや、ご存知でしたか」
イエルは少しがっかりしたらしい。私は確信をもって答えた。
「ええ、姉の筆跡でしたから」
しまわれていた手紙はアイリス姉さまのもの。ダスティンへの宛名しか見えなかったが、何度も見た筆跡だ。間違いない。
「なるほど。そういう理由で。とても愛情深い方なのですね。手紙から溢れるお気持ちが強く、一種の護符になっています。それ自体は珍しくないのですよ。家族や恋人からの強い愛情がこもれば、個人的なお守りになりますから。しかし、呪う側からは非常に厄介です。封印を施した箱にしまうよう誘導されたのでしょう。ご丁寧なことで。そうやって呪いを重ねて広げて、リックウッド邸、いや領内にも広がったようです」
「領内までとは……信じられん」
リックウッド伯爵は困惑のあまり、呟いた。
「残念ながら。うっすらと侵されておりました。ご令嬢が倒れたのが証拠です」
「私が?!」
驚く私にイエルが不思議そうに答えた。
「おや、ご自覚がない? ご令嬢の不調は呪いに因るものですよ。こちらの領内に入ってからご気分が悪くなられたのでは?」
言われてみれば、思い当たる節もある。
「私、てっきり、馬車酔いかと」
「でしたら、お部屋にいる間に楽になるはずです。こちらで過ごしたほうが酷くなっておられましたよ。呪いの中心ですから当然ですが。それに皆様にも影響が出ておりました」
戸惑う一同を見渡して、イエルはなおも続けた。
「ご令嬢の侍女は、私に直に意見しましたね? 両伯爵も館に入られたときから、私を睨みつけておられる。こちらの使用人は音を立てすぎでは? 全員が苛立ちを隠そうともせず、不躾を咎めもしない。ブロック邸では見られなかったこれこそが呪いの影響です」
そうだ、貴族は不快感をそのまま表に出したりはしない。使用人は、客人や主人の前での無作法など許されない。その当たり前の感覚すら狂わされているのだ。私は今更ながらぞっとした。皆がその恐ろしさを知り、無言になる。
「それに対抗できるのが護り、具体的にはこちらのアイリス嬢のお手紙ですね。大切な人のため、思いを込めた美しく力強い護符。最高ですね! でも、それだけではありません。ご令嬢、一つお聞きしてよろしいですか?」
イエルにらんらんと輝く目で問いかけられ、気圧された私は頷いた。
「呪いの媒介となった手紙を差し出した時、なぜ部屋の奥へ逃げたのです?」
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