第1話
「私がきみを愛しているとでも?」
床に倒れた私に、夫は静かに告げた。
寝酒を煽った直後、私は息ができず蹲った。ヒューヒューと喉が鳴る。苦しい。目がかすみ、声が出せない。そのまま倒れ、必死で見上げると表情の消えた男が立っていた。
知らない、こんな冷たい目の夫、何故、どうして。
「そろそろか」
呟いた夫は突然声を張り上げた。
「誰か、来てくれ! 妻が! ミリカ!」
メイドたちの叫びや、護衛の足音、怒号が聞こえる。人が来るとさも衝撃を受けた夫らしく振舞っていた。迫真の演技だ。
いつも優しい六つ年上の夫。婚約は私が十二歳のとき。同じ伯爵家の我が家と彼の実家は長く親交もあり、兄のような存在だった。それから十年、我が家に婿入りしてずっとやってきた、なのに。
夫は私を抱きしめ囁いた。
「さよなら、ミリカ。きみを愛するふりも終わりだ」
朦朧とする私が最期に見たのは、夫渾身の悲痛な顔だった。
◇
「目が覚めた?」
誰かが私を覗き込んでいる。初めて聞く女性の声だ。目がかすんでよく見えない。
「大丈夫?」
「はい……」
答えている間にその人の顔がだんだんはっきりしてきた。若い女性だ。くすんだ銀髪をてっぺんで丸く結んでいる。化粧っ気のない顔に、足首までのストンとした薄灰色の貫頭衣風の衣装。私は寝台に寝かされていた。真っ白な部屋に私と彼女の二人だけのようだ。
「ここは、どこでしょう? 私……」
戸惑う私に、彼女は優しく尋ねた。
「自分のことはわかる?」
「私は、ミリカ・ブロック。ダスティン・ブロック伯爵の妻ですわ」
「そう。ブロック伯爵家の悪妻と噂のね」
あまりの言い様に私は眉を顰めた。彼女は笑顔でこちらを観察しながらさらに言う。
「あなた、二人の姉から断られた夫と結婚してわがまま放題の、未だにお嬢様気分で、婿入り夫を蔑ろにしている悪妻と有名なあのミリカ・ブロック伯爵夫人でしょう?」
「無礼な!」
私は起き上がって睨むが、飄々とした態度は変わらなかった。
私はいつの間にか王都では『噂の悪妻』になっていた。羽振りの良さを妬まれたのだろう。ぱっとしない容姿を嗤われる王都より、田舎の領地で薬草農園を充実させる方が楽しかっただけなのに。そういう妻は見苦しいらしい。
「元気そうね。で、殺されたのは覚えてる?」
息をのむ。そうだ。私は毒を飲まされた! 思い出した途端に苦しくなり、私は胸を押さえた。
「私……、私!」
「もう大丈夫。落ち着いて」
彼女は、はくはくと口を開ける私の腕を優しくさする。
「あなたは夫に殺された」
混乱する私に、彼女は淡々と告げた。それでダスティンの最後の言葉を思い出す。
『きみを愛するふりも終わりだ』
そうか。私の初恋も、献身も必要なかったのだ。殺されるまでわからない自分の馬鹿さ加減に眩暈がした。
「少し話をしましょうか」
彼女が指先で虚空を指すと、透明な板が現れた。
「ヒッ」
驚く私に構わず、彼女はその板を指先でとんと叩く。たちまち、闇の中に大きな炎が揺らぐ様が見えた。
「なぜ、急にものが! この動く景色はいったい」
怪しげな術に取り乱した私に、彼女は怯まず言葉を続けた。
「これは遠くの景色を映す道具。今燃えているのは、ブロック伯爵家の領主館と領内の薬草農園」
私はその光景に絶句した。畑一面に炎が広がっており、崩れる館や逃げ惑う人々の様子がはっきりとみえた。
「夫のダスティンはあなたを殺した後、放火して自死。運悪く風の強い日で、あなたの上の姉アイリスから託された薬草農園に飛び火してほぼ全滅した。でも、ダスティンの犯行の証拠はなく、あなたがたの死も大火も不幸な事故とされたわ。喪主は下の姉ロージー。領は遠縁の子爵が継ぐことになった。アイリスは隣国の薬師になって家庭もあるし、ロージーは王女付きの近衛騎士だから」
次々と並べられる事柄についてゆけず、私はうろたえた。
「待って。確かにアイリス姉さまは隣国に嫁いだし、ロージー姉さまは王宮勤めよ。でも、これは信じられないわ」
当惑する私に彼女はふっと微笑んだ。
「しかたないか」
呟いた彼女の姿が急に光りはじめ、思わず目を瞑った。目を開けたときにはその姿が全く変わっていた。
神々しく光る銀髪、慈悲深い笑みと威厳に満ちた眼差しは、神殿で祀られている尊き姿そのものだった。湧き上がる畏怖に私はその場でひれ伏した。
「私はこの世界の管理者たる運命の女神マリス。捻じ曲げられた運命を糾すため、あなたの一生を変える機会をあげましょう」
慄き跪く私に、のんきな声が響く。
「わかった? これ、疲れるからやめるわ」
私が恐る恐る顔を上げると、彼女、もとい女神さまは元の姿で首をコキコキと鳴らしていた。あまりの落差に気が抜ける。
「で、本題。あなたの死から半年後に疫病が流行り、瞬く間に広がった。幸い特効薬が早めに見つかるけど、量産ができなかった。材料となる薬草の一大産地が火災で大打撃を受けていたから」
「それは、我が領の」
「そう。ブロック領の薬草農園。それでもアイリスのいる隣国とこの王国は、他国よりも薬草収穫量が多かったの。そこに目を付けた北の帝国は、王国と隣国を次々に攻め落として属国に」
女神さまがまた板に触れると光景が変わっていった。焼野原、起き上がれなくなった人々、薬を求める様子、帝国兵たち、その中に王女殿下を背に戦うロージー姉さまの姿があった。
「ロージー姉さま!」
「この後、ロージーは王女を逃がして死亡。アイリスは夫とともに帝国で監視され、五年後に病死」
「そんな!」
「この時間軸ではね。これが最悪のバッドエンド」
私は板の中の悲惨な姿に泣き崩れた。
「なぜ、こんな目に」
「……私もこれは不本意で、未来を計算し、模擬実験の末に特異点を探した」
女神さまは静かに語りかける。
「残念だけど、疫病と帝国からの侵攻は回避できない。ただブロック領の薬草農園が無事なら、特効薬が量産できる。その後の帝国の侵攻も小競り合いで終わり、ロージーもアイリスも大勢の人も助かるわ。つまり、あなた方の夫婦円満が世界平和の鍵になる」
「夫婦円満が、世界平和……?」
「よって、神の名の下に命じます。ミリカ・ブロックよ。もう一度ダスティンと結婚し、夫婦円満に過ごしなさい!」
女神さまは自信満々に宣言するが、仰る意味がわからない。私は頬を濡らしたまましばらくぽかんとしていた。
「……あの、私、死んだので無理ではありませんか?」
「私の権限で、十年前の婚約直前に時間を戻しましょう」
困惑する私に、女神さまは笑顔で胸を張って仰るのだが。
「恐れながら、アイリス姉さまの婚約をそのまま婚姻に導けばよいかと」
「それはダメ」
女神さまにぴしゃりと撥ね退けられた。
「先程言った通り、疫病は避けられない。特効薬を一番最初に発見したのは、アイリスの所属する隣国の王宮薬師局の研究班よ。隣国では珍しいアイリスの知識がその一助となった。つまり、アイリスの留学で死者が減る。アイリスには必ず隣国で薬師になってもらわないと困るの」
「留学で、死者が減る……」
考え込む私に女神さまは続けた。
「ちなみに、ロージーも王女の盾として必ず近衛騎士になってもらう。帝国の侵攻で王女が死せばこの王国の薬草は帝国に独占されて、民の使える特効薬はなくなるわ」
女神さまの言葉にヒュッと喉が鳴る。竦む私を見据え、女神さまははっきりと言った。
「最初の一歩で流れが変わるわ。あなたが変えるのよ」
驚愕で震えが止まらない。私は女神さまに決死で奏上した。
「私、あの夫とまた結婚するのですか? 毒殺の上この罰は非道うございます!」