魔法少女と歯車
煌々とした冷たい夜の光の中、人々が行きかうビル街にて。
「お兄さん。ちょっといい?」
一人の女子高校生が、くたびれたサラリーマンの男に声をかけた。男は周りをチラと見ると、小声で少女に言った。
「……なにか?」
「急にごめんなさい。少しお話を聞いてもらいたくって」
笑みを浮かべた唇に、人差し指を当てて少女は男を見つめる。男は眉をひそめると、鬱陶しげな表情で歩き出した。
「変なことには関わりたく無いので。他あたってください」
「変なことって何?」
少女はクスッと無邪気に笑いながら男の横についてくる。男は足を速めた。
「……勘弁してくれませんか?忙しいんです。何か困っていることがあるなら警察にでも行ってください」
周りをきょろきょろ見ながら落ち着き無さげに男は言う。行き交う人々のうち何人かは、この奇妙な二人組に目を向けているようであった。
「あなたに用があるの」
少女はちらりと男の瞳を見つめると。
「そう。周りの目が気になるのね」
と呟き、懐からステッキ状の何かを取り出した。一瞬、強い光に包まれて男は目を瞑った。そして次の瞬間には人のいない真っ暗な公園に立っていた。
「なに……?」
男は瞬きをして辺りを見回した。少女は男の前に立ち、上目遣いに見つめた。
「あたしの話を聞いてくれる?」
「な、なんだ?」
狼狽える男を意に返さず、一呼吸おいて少女は話し始めた。
「あたし、魔法少女なの。人の悪い感情や辛い感情が高まると『ネガティブパルス』っていう特殊な波が溢れ出て、それが集まると、人や地球に害をなす魔物が産まれる。それを倒すのが私の役割」
真剣に話す少女から顔を反らし、男は夜の天を仰いだ。それから溜息交じりの声を出した。
「……もう遅いし、家に帰ったらどうだい?」
「信じていないのね?」
少女は男の顔を指さした。男は再び溜息をつくと、腕を組んで少女を見下ろした。
「……分かりました。それで、その魔法少女さんが僕に何の用で?」
「あなたから出るネガティブパルスの量が多すぎるの。だから、あなたの相談に乗ってあげようと思って」
「え、なぜ?」
「言ったでしょ。ネガティブパルスは悪い感情や辛い感情がもとになっているの。言い換えると悩み事やストレスね。それらを軽減してあげることで、ネガティブパルスを抑えられるかも」
男は顔をしかめると、見つめる少女の瞳から眼を反らし、腕時計を見つめた。
「……また今度で良いですか?明日早いので」
少女は無言で頷くと、再び辺りは強い光に包まれた。
気が付くと男は、人々が行き交うビル街に立っていた。少女の姿はそこにはもう無かった。
頭の痛くなるようなアラーム音が鳴り響き、男は唸り声をあげてそれを止めた。布団から上体だけ起こすと、しばらくそのまま何も無い場所を見つめていた。それからやがて、頭を振りながら立ち上がった。
一枚だけ焼いたトーストとインスタントコーヒー。それが彼の朝食だ。トーストにマーガリンを塗って齧りつつ、リモコンを手に取りテレビをつけた。なんてことない情報番組。その内容が頭に入るわけではないが、何もつけ無いよりはマシと思い、流している。やがて小さなシワのついたスーツを着て男は狭いアパートの部屋を出た。家から歩いて十数分の駅から満員電車に揺られ、人ごみに流されて乗り換える。流され続けて気が付くと勤め先の前に着いている。一回深呼吸をして、彼は飛び込んだ。
やがて昼休憩の時間となる。息苦しさも少しは軽くなる、砂漠のオアシス。一人でゆっくり食事をしたいが都会では一人になるには金がかかる。金のない彼は、勤め人が詰め込まれた安い蕎麦チェーン店でたぬき蕎麦を注文し、スマホ片手に一口啜った。
「たぬき蕎麦が好きなの?」
そんな声が聞こえた。自身に向かって発せられた気がして目線だけを左隣に移すと、少女が一人座っていた。キャスケット帽子を深くかぶり、ぶかぶかのオーバーサイズなパーカーを着た少女だ。帽子の奥に見えた瞳は昨晩の魔法少女のものだった。魔法少女は大きなエビ天の乗った蕎麦を啜り、小さなカレーを一口食べると、再度聞いた。
「たぬき蕎麦、好きなの?」
「……別に」
男は目を反らして蕎麦を一気にかきこむと、逃げるように店を出た。
仕事終わり。人の群れから逃げるように、男は自宅の最寄り駅へと直行した。駅近くのスーパーに寄って小さな総菜を物色している時、魔法少女がまた隣に現れた。
「お酒は買わないの?」
クリーム色のキャスケット帽越しに男の顔をまっすぐ見つめて、魔法少女は尋ねる。
「大人は何か嫌なことがあったら、お酒を飲んで忘れるって聞いたのだけど」
「……明日仕事だから」
少女の方を見ることなく、男は独り言のように呟いた。小さなビニール袋を片手にスーパーを出て、街灯の少ない薄暗い住宅地の坂道を速足で歩く男の後ろを、魔法少女がついてくる。
「今日も、何か嫌なこととかあったの?あたし、相談にのるよ?」
「別に。いつも通りですから」
小さく呟きながら、魔法少女の声を振り切るように男は足を速めた。
「さっきからずっと、ネガティブパルスが流れ続けている。ストレスや不満、悩みを抱えているということよ。それを解消したいの。その原因を突き止めたいの」
「……だとしたら」
男は立ち止まって言った。
「……その原因は君だと思う。君に付きまとわれていることによるストレスだと。もうついてくるのをやめてもらえます?家も近いので」
魔法少女は小走りで男の目の前に回り込み、彼をまっすぐに見つめた。
「嘘。あたしと出会う前から、同じくらいの量のネガティブパルスが漏れていたわ。あたしが原因では無いはず」
男は眉をひそめて少女を睨んだ。少女はその男の顔を見ると、少し悲しそうな顔になり、小さく俯いた。
「……でも、迷惑だったのならごめんなさい。ただ、あなたの悩みを解決できたらって思って……」
しばらく、沈黙が続いた。少女は顔を伏せ、黙って男の前に立ち尽くしていた。男は、なんだか大人気なかったかな、と考えた。十歳近く年下の子に対して感情的になりすぎたと。男は、少女に向かいゆっくりと口を開いた。
「……いや、俺の方こそごめん。少し強く言い過ぎた」
少女は顔をあげて、男を見た。男はできるだけ優しい表情をしようと意識して彼女の目を見つめ返した。
「……その、ネガティブなんとかを止める必要があるんだよね?具体的にどうすれば良いのかな」
「だから、あなたの中のストレスとか悩みとかを解消する必要があるの。ネガティブパルスの根源はそこだから」
どうやら、はっきりとした解決策は無いらしい。
「でも、悩みと言っても……俺にはこれといった悩みは無いんだけど」
「それじゃあ、今、幸せなの?」
少女は尋ねた。男は困ってしまった。そんな問いに即答できるほど男は幸せでも不幸せでも無かった。
「別に……。でも、今の世の中、自分が幸せって言えるような人の方が少ないんじゃないかな」
「じゃあ、幸せになろうよ。あたしがサポートするから」
「幸せにって……」
なろうとしてなれるものなら苦労はしない。そう言おうとしたが、彼は口をつぐんだ。口に出したら、彼女の発するピュアな言葉で否定されてしまう気がしたからだ。それは何故だかとても嫌だった。男は頷いた。
「分かったよ。でもサポートって、具体的に何をするんだい?」
「まだ分からない。でも、大丈夫。人は誰だって、幸せになる資格を持っているから。幸せになろうと頑張れば、きっとなれるわ」
彼女はウインクして言った。それを見たとき、男は、彼女が本当に魔法少女なのだと悟った。純粋無垢で世間知らずな、魔法のように非現実的な存在なのだと。
次の日の朝。頭の痛くなるようなアラームの音は鳴り響かなかった。代わりに携帯電話から発せられた音は、ウシの鳴き声であった。男は牧場で凶暴なウシに追い回される夢を見て、飛び起きた。
昨日の夜、男が幸せになれるようサポートすると言った魔法少女は、まず手始めにアラーム音を動物の鳴き声にするよう提案してきた。彼女本人は、猫の鳴き声に設定していて、朝は快適に起きられるのだそうだ。そういうものか、と考えた男はとりあえず携帯電話の設定でデフォルトのアラーム音の中に動物の鳴き声があるかと探してみたところ、何故かウシしか無かった。仕方なく、それに設定したというわけだ。あまり良い寝起きでは無かった。
朝食はまたトーストとインスタントコーヒー。それと、なんとなく牛乳を飲んでみた。少し前に買ったやつの残りだが、匂いは正常なので大丈夫だろう。
大丈夫では無かった。あの牛乳は腐っていた。男は自身の嗅覚を呪った。仕事の間腹の痛みに耐えつつ、またいつもよりも多くトイレに行きつつ、昼休憩を迎えるころには、痛みは少しマシになっていた。胃腸に優しいものを、と考えた男は、うどん屋に入った。
店内は昨日の蕎麦屋と同じく、昼休みのサラリーマンで溢れていた。たぬきうどんを持って席に座ると、直後、向かいの席に魔法少女が現れた。彼女はカレーうどんに揚げ物をたくさん、それとおにぎりをおぼんに並べて、ニコニコと男に話しかけた。
「やっぱり、たぬきが好きなのね」
「……いや、偶然だよ」
男は彼女のおぼんに並んだ大量の揚げ物を見て、少し胃もたれがするのを感じた。魔法少女はおにぎりを齧りながら男に話しかける。
「今朝はどうだった?目覚めは良かった?」
「あー……。いや、別に良くは無かったな」
男は腹をさすりながら答えた。少女は「おかしいなあ…」などと呟きながら揚げ物をぱくついた。
「おいしい~。お兄さん、揚げ物は食べないの?」
「いや、俺は良いや」
男は、から揚げが大好物だった高校時代を懐かしく思い出していた。少女は全ての揚げ物をぺろりとたいらげると、カレーうどんに箸を移した。
「食事は幸せへの第一歩。医食同源って言葉があるように、健康と食事は切っても切り離せない深い関係性で結ばれているわ」
その医食同源の考え方に、大量の揚げ物やカレーうどんはおそらく入っていないのではないかと男はひっそりと思った。
「食事は、身体の健康だけじゃなく、心の健康にも直結しているわ…。お兄さん、『セロトニン』って知っている?」
魔法少女の口から急に科学的な用語が飛び出した。
「セロトニンは幸せホルモンって言われていて、これが大量に分泌されると、人は幸せに感じるらしいのね。幸せになるための第一歩は、セロトニンをいっぱい出すこと!」
彼女は元気いっぱいにカレーうどんを啜った。
「あ、今セロトニン出ているかも~」
「そんなことで出る物なのか……?」
訝し気に言う男に、魔法少女は答える。
「セロトニンは、トリプトファンっていう物質が変化して出来るらしいわ。つまり、トリプトファンがいっぱい入っているものを食べると良いってことね。大豆や乳製品に含まれているそうよ」
少女は再びうどんを啜り、続けた。
「あと、このトリプトファンをセロトニンに変化させる助けになるのがビタミンB6。マグロの赤身や鶏ささみ、ニンニクとかに含まれているらしいわね」
今の話で出た食材はどれも、カレーうどんや揚げ物には含まれていないのではないかと男は思った。しかし、彼女は見るからに幸せそうだ。セロトニンとは違う何か別のホルモンが出ているのだろう。
「……なんで、そんな栄養士みたいな話を急に?」
「だって、こういう科学的な話の方が、具体的だし信頼できるでしょ?」
魔法少女は小首を傾げ、大きく光のある目で男を見つめて言った。
「あたしは、悩み事がある時は鶏ささみと豆腐を食べて、日光浴をするの。『セロトニン増えろ~』って思いながらね、そうしたら、なんだか心が落ち着いて安心するから」
カレーうどんの汁を飲み干して、魔法少女は続ける。
「あたし自身もそうだけど、皆『科学』を信仰しているじゃない?だったら、幸せになる方法も科学にお聞きすれば良いのよ」
そう言って陽のように笑うと、「お仕事頑張ってね!」と軽やかに手を振って少女は店から出て行った。
その日の帰り、男はスーパーで鶏のささみと豆腐を買った。家で一人それを食べながら、無意識に、こんなことで幸せになれるはずが無いと考えていた。男は科学を信じているつもりであった。しかし『幸せ』に関して言えば、自分は驚くほどにスピリチュアルで非科学的なのだ。そんな結論に行き着き、幸せになれる魔法は無いのかと思いながら、寝た。
次に魔法少女が現れたのは一週間後。雨が強く降る日であった。その日は休日で、予約していた歯医者へ重い足を運んだ帰りのことであった。肌寒いバス停で一人待っている時、魔法少女が現れた。カラフルな傘を自慢げに男に見せながら言う。
「良いでしょ?新しく買ったの」
「……色鮮やかだね」
男は静かに言った。いくつになっても慣れない歯医者で精神をすり減らした帰りに、冷たい雨で服や靴下がジットリ湿り、いつも以上にテンションが低かった。そんな男の心持ちを知ってか知らずか少女は無邪気に続けた。
「あたし、雨の日って好きなんだ。傘や地面を跳ねる水の音とか、ずっと聞いていたいって思うの」
「へえ。晴れの日の方が好きそうだけど」
「晴れの日も好きよ。どっちの方が上ってことは無いもの」
確かに、そんな順位に意味は無い。好きなものは好きというだけだろう。
二人は、しばらく無言でただそこに立っていた。雨の音があるから静寂では無かった。誰かと二人でいるときの無言が苦手な男も、今はそれが気にならなかった。これも雨の効果の一つかな、と男は考えた。
「一昨日、魔物が出たの」
少女がポツリと言った。
男はちらりと横目に少女の顔を見た。少女は無表情で、コンクリートに跳ねる水滴を見つめていた。男は前に向きなおすと、小さく尋ねた。
「魔物ってどういう感じのやつなの」
「色々。決まった形は無いわ」
「見た目に統一性は無いのか」
少女は無言で頷いた。男は、今言った自分の言葉が少女の言ったことを言い換えただけだと気付いた。
湿った空気の中で二人は黙っていた。水滴が頬をかすめ、濡らす。雨音が強くなってほしいと思ったが、裏腹に雨は次第に弱くなっていった。
やがて雨は止んだ。雲の切れ間から光がさした。
「見て!虹!」
少女の明るい声で男は空を見上げた。透き通るように清々しい青空に、虹がかかっていた。いつぶりだろう、こんな綺麗な虹を見るのは。
やがてバスが来た。今日はささみを食べるのかと聞くと、陽に照らされた魔法少女は一瞬キョトンとした後、少し困ったように笑った。
数日の時が経ったその日もまた雨が降っており、暗い街を水滴が濡らしていた。雨に風情を感じて好きになれるのは、心に余裕がある時だけだと男は思った。
それは仕事帰りの夜、最寄りの駅から大粒の雨を無気力に眺めている時であった。夜の冷たい雨は、男の中の寂しい心をより一層強く育てていく。
「傘忘れたの?」
いつものように突然現れた魔法少女が、からかうように笑顔で声をかけた。
「そういうわけじゃないよ」
男は軽く笑って言った。心が疲れている今でも笑う余裕はあるのだな、と男は自分で思った。
「雨音に聴き入っていたってカンジ?お兄さんも雨の日の良さが分かってきたのかしら」
「さあね」
男は黒い折りたたみ傘を開くと、水の跳ねるコンクリートに足を踏み入れた。靴下が湿り始める。魔法少女も色鮮やかな傘をさしてその後ろをついてくる。
「何か良いことがあったの?」
「別に」
むしろ逆である。
「そうなんだ。でも、少し嬉しそう」
それは否定できなかった。魔法少女が現れてから、男の足取りは軽かった。夜の雨音というものも意外と悪くない気がした。
「雨音には、人の気持ちを増長させる効果があるって私は思うの。良い気持ちも、悪い気持ちも。だから雨の日ほど良いことや楽しいことを考えたいわね。わくわくが増えて、溢れて歌いたくなるもの」
魔法少女は軽やかに駆けて男を追い越すと、くるりとその場で回って、笑った。それから男の隣を歩きながら鼻歌を口ずさんだ。どこかで聞いたことのあるメロディだと思っていたら、たまに少女が呟く「favorite things」という歌詞でそれが何の曲かを薄っすら思い出した。恐らく彼女は、その部分の歌詞しか分からないのだろう。
男は何か楽しいことを考えてみようとした。楽しいことや明るいことは、常に過去にある。男の記憶は高校時代まで遡った。
「君くらいの歳の頃は、毎日もっと明るかったような気がするな」
根拠も無いのに自分が特別だと思っていた昔。他者からの評価が無くても自分を肯定することができた時代。いつからだろうか、自分の価値判断を他者に委ねるようになったのは。
「楽しいこと考えた?」
少女が無邪気に聞く。靴下がじとじとに濡れるのを感じつつ、男は自嘲気味の笑顔で答えた。
「ここ最近は無いな。思いつかない」
「じゃあこれからの事を考えれば良いわ。明日とか明後日とか、あれやりたい、これやりたい、こんなことがあったら良いなとか」
男は苦笑いをした。未来に希望を持てるのは現状が輝いている者だけだと男は思った。未来は常に今の延長線上であり、今が駄目なら未来も駄目なのだ。
「小さなことで良いのよ」
魔法少女は言う。
「仕事終わりにお酒が飲みたい。ぐっすりと眠りたい。大好きなお菓子を食べたい。面白い動画を見たい。好きな曲を聴いて歌いたい。気になる映画が見たい。可愛い猫ちゃんと遊びたい。綺麗な星空を眺めたい。何もせずにぼーっとしていたい。ほんの小さな、誰でもできる『やりたい』が積み重なって、今が良くなって、その先に未来があるのよ。きっと、明るい未来が」
その明るい言葉が、希望に満ちた考え方が、魔法少女の操る魔法だ。男は昔の自分を見ているような気分になった。そして、その魔法を自分はもう使えないのだと悟った。
少女はさらに語る。
「あたしは大人になりたいな。一生懸命働く社会人や、家族を支えるお母さん?具体的には分からないけれど……」
男は不思議そうな表情で魔法少女を見た。人は常に、自分の持っている物の価値には気づかないのかもしれない。
その日の空は、雲一つない青空だった。暖かい日差しに照らされて、男は珍しく朗らかな心持ちで家を出た。雨は明るい気持ちも暗い気持ちも増長させると魔法少女は言っていたが、晴れの日の太陽は無条件で人の気持ちを明るくする。そんな気がした。昼飯時になると、たまにはガッツリ系も悪くないと考えた男は、カツ丼のチェーン店に入った。結果として窮屈な腹を抱えながら店を出ることとなったが、不思議と心は満たされ、何だか若返ったようであった。気分のいい日は何をやっても良いほうへ捕らえることが出来る。
仕事終わりに夜空を見上げると、一等星がよく見えた。都会の空は星が少ない。ふと満点の星空を見たくなった男は、スマホで星のよく見えるスポットを調べていた。ほとんどが山奥や都心から遠い田舎などであり、休日に行くには体力的に難しいと感じた。また次の休みも寝て終わりそうだ。男は一人軽く笑うと、軽やかに帰路に就いた。
最寄の駅から家までの道に緩い坂道がある。その坂道の一番上に少女の人影があった。電灯に照らされて魔法少女が静かに待っていた。
「そんなところで何をしているんだい?」
男は尋ねた。少女は少し困ったような笑みを浮かべた。その左頬の白肌に赤い線が入っていた。
「その切り傷、どうした?」
「……ちょっと引っかけただけ」
少女は静かに言って男の傍に来た。男は鞄の奥を漁ると、少し前に買った絆創膏の残りを箱から取り出して差し出した。
「これ、貼っときなよ」
少女は一回無言で受け取って少し見た後、絆創膏を男に返した。
「……貼って」
「は?」
「良いから」
男は困惑しながら絆創膏を手に取り、少女の顔と交互に見た。少女は両手を後ろに組んで男の方を向きながら目を瞑っていた。
「いや、自分で貼れるだろう」
少女は何も答えず頬を近づけた。男は自分の額に手を当てて、少し目を泳がし考えた。やがて目線を少女に戻すと、観念したようにゆっくりと絆創膏の紙を剥がし始めた。
絆創膏にしわが入らないよう少し伸ばしながら、白いガーゼ部分から傷に当てた。本当はガーゼのみが傷に当たるようすべきなのだろうが、傷の長さは絆創膏全体でようやく覆えるほどのものであった。指が少女の頬に触れる。傷が痛まないようにそっと力をかけずに貼り付けて、すぐに手を離した。ガーゼそのものを医療用のテープか何かで貼った方が良かったかなと少し思った。
「ん。ありがと」
少女はゆっくり目を開けて頬の絆創膏に触れると、ほほ笑んだ。
「知ってる?弱っている心には、人との触れあい、スキンシップが効果的なんですって。ストレスを軽減させる効果があるそうよ」
ニヤッといたずらっぽい表情で少女は呟く。
「お兄さんにピッタリ」
「俺が常にストレス抱えてるみたいな言い方はやめなさい」
男は溜息をついて軽く笑った。
「あら、違うの?」
「見くびられたら困るな。今日はだいぶ気分が良かった。天気も良かったし」
少女はくすくすと笑った。男もまた髪をかきながら薄く笑う。それから絆創膏の箱を鞄にしまう時、ふと気づいた。
(『絆』を『創る』って書くのか)
心の中で呟きつつ、苦笑いをした。まるで魔法少女の言いそうなことじゃないか。少女が男の表情を見て不思議そうに笑って言う。
「ほんとに、今日は良いことあったみたいね」
男は何も言わずに少女の頬を見た。これは絆を創るためのものじゃ無い。傷を繕うためのものだ。
夜の住宅街を二人並んで歩きながら、魔法少女は言う。
「次のお休みの日、ちょっと付き合ってくれない?」
「え?」
「......行きたいとこがあるの」
その日は少し汗ばむくらいの陽気で、青い空には大きな純白の雲が泳いでいた。西武鉄道本川越駅の改札近くで男が一人立っていると、改札を通って魔法少女が駆けてきた。
「ごめんなさい、待った?」
「いや、別に」
それから二人は強い日差しの下を歩き出した。魔法少女曰く、どうしても食べたいスイーツがあるらしい。男は別に甘味が好きなわけでは無いが、用事も特に無いので同行することにしたのだ。
「それで、その食べたいものって何なんだ?」
「これこれ!」
少女が見せるスマホの画面を覗き込むと、そこには『生芋ようかんソフト』というものが載っていた。紫芋とさつまいもの2種類があるようだ。
「食べたいものを食べる。これも幸せへの第一歩ね」
そう言って意気揚々と進む少女を横目に歩く男の表情にもまた、なんとなく笑みが浮かんだ。
「そういうものかもな」
今日は暑いし、アイスが美味しく食べられそうだ。二人はしばらく歩くが、意外と駅から距離がある。軽やかに進む少女とは対照的に、運動不足が祟って男の呼吸は荒くなっていった。
「……今からでもバスに乗らないか?」
「何言ってるの!もうすぐ着くわ」
やがて、現代的な建物群から雰囲気が一変し、蔵造りの趣ある街並みが見えてきた。男は辺りを見渡す。観光向けの店のみでなく、銀行や歯医者までもがレトロさを醸し出す立派な建物の中にあり、その世界観に溶け込んでいる。観光客と思わしき若い女性二人組が着物を着て優雅に歩いているかと思ったら、信号で立ち止まった際にペットボトルのミネラルウォーターをがぶ飲みしていた。男は少し笑いそうになった。今日は暑いし、のども乾く。
「おいしそう!」
少女が一つの店の前で立ち止まって言った。そこではプリンが売っていた。古風な建物にスタイリッシュなスイーツショップが入っている。そのコントラストが独特の魅力的な雰囲気を放っていた。よく見ると、そういう店が結構多い。少女はいつの間にかプリンを買って食べていた。
「おいしーい‼」
「芋ようかんソフトは良いの?」
「もちろんそっちも食べるわ」
そんなことを話しながら、少女はスイーツ店のハシゴを始めた。芋羊羹にチョコレートソフトクリーム、抹茶のわらび餅にフルーツ大福なんかもあり、和洋様々だ。男はその傍らで漬物屋や土産物店の変なTシャツなどを眺めていた。メインの通りを少し外れ、細い道を進むと駄菓子屋などの店が並ぶ小さな通りに入った。
「あった!」
目当てのソフトクリームが売っている店を見つけ、少女は走った。目を輝かせて店の前に立つと、財布の中を覗き込んだ。その瞬間、表情が曇った。そしてそのまましばらくその場で黙りこみ、立ちすくんでいた。
「……あれだけ食べていたらなあ……」
少女の様子を見て男は呟いた。そして、おもむろに芋ようかんソフトを二つ注文すると、そのうち一つを少女に渡した。少女は目を見開いて男の顔を見た。
「良いの?」
「大した金額じゃ無いし。食べたかったんだろ?」
少女は少しはにかんだような笑みを口元に滲ませ、無言でソフトクリームを受け取った。そして一口舐めて表情を輝かせた。
「……ありがと」
「うん」
しばらく二人は何も喋らず、ただソフトクリームを味わいながらゆっくりと歩いていた。照りつく日差しにひんやりと淡い甘さが染みわたる。男はちらりと少女の顔を横目で見ると、彼女の目が少し潤んでいることに気が付いた。細い一筋の雫がツッと落ちて頬の絆創膏を通って落ちた。
「泣くほど美味しかった?」
「え?」
少女は自分の涙に気づくと、照れながら慌てて目を拭った。
「あれ、おかしいな!」
そう言って笑いながら、指で軽く頬に触れた。そして、目線を下に向けながらポツリと呟いた。
「食べたいなって、思ってたからかな」
少女の様子に何か違和感を感じた男は、何か声をかけようとした。だがその文言が思いつかず無言で口を動かしていると、少女は何かを見つけて指さした。
「見て!あれ……」
少女の指さす先には大きなブルドッグの像が置いてあった。それを見て少女は「……そっくり」と小さく呟いた。
「何に?」
男は尋ねた。飼っている犬にでも似ているのだろうか。少女が答えようと笑顔で振り向いた時、男の後ろに何かを見つけて目線を落とした。
男が振り返って自身の背後を見ると、そこには本物の白いブルドッグがいた。ブルドッグは吠えることなく舌も出さず、黒く大きな目玉でこちらをじっと見つめていた。何か変だと思った男は、それがこの犬の息遣いにあると気づいた。犬特有の『ハッハッ』といった呼吸は一切無く、何も音を発することなく口を閉じてただこちらを見つめている。いや、犬が見つめているのは男ではなく魔法少女のみであった。
「ごめん、お兄さん。ちょっと用事が入っちゃった」
少女が申し訳なさそうに小声で言った。
「あたし、行かなきゃいけないから、またね」
「え?ちょっ……」
「ソフトクリーム、ありがとね!」
男が何か言おうとした瞬間、辺りが強い光に包まれた。瞑った目を開けた時、そこには少女もブルドックもいなかった。
それから、しばらく少女は男の前に現れなかった。
魔法少女がいようがいまいが、日々は続く。彼女と出会う前と後で、特に生活に大きな変化があったわけでも無い。相変わらず頭痛のするようなアラームで目を覚まし、ボーッとした頭で少ない朝食を食べて、満員電車に揺られ息苦しい職場へと向かう。昼は軽く早く食べられるものを人の混み合う店で食べて、夜は疲れた身体を引きずり一人、家へと帰る。
一つ変わったことがあるとしたら、空を見上げる回数が増えたということだろうか。晴れの日、雨の日、そして曇りの日。天気によって気持ちが左右されることはそんなに無いが、雨の日には少し楽しいことを考えるようになった。楽しいことは常に過去にある。現在も未来も輝きを持たずに不透明で薄暗い。
明るい思い出は相変わらず学生時代の出来事が多いが、時折魔法少女が出てくるようになった。初めて出会った人ごみの中や、うどん屋での会話、歯医者帰りの雨の日や、芋ようかんソフトを食べたこと。
魔法少女の思い出と共に湧き上がる、辛く息苦しく憂鬱で無気力な日々。そして少女の言葉の数々。
少女の言葉が魔法の呪文のように作用して、雨音を何か素敵な映画のBGMかのように感じさせた。気分を盛り上げてどこかドラマチックにさせるBGM。感情を増長させると言うのはこういうことかと男は思った。辛い時、寂しい時でさえも雨の中で一人鼻歌を歌えば、ネガティブな感情もペーソスやノスタルジックといった綺麗な表現に変換できる。それは悪くない心持ちだった。
ある日の仕事帰り。曇天の夜空の下を男はゆっくりと歩いていた。自宅近くの緩い坂道に差しかかった時、その坂の一番上の街灯の下に、白いブルドッグが静かに座っていた。異質で不気味な雰囲気を纏い、男を無言で見つめている。男は、何とはなしにブルドッグに話しかけた。
「あの子は元気かい?」
ブルドッグは何も発さずに黒い瞳で男を見つめていた。途端、強い光に包まれ、男は目を瞑った。そっと目を開くと、真っ暗な公園に男は立っていた。空を見上げると満天の星空が輝いていた。天の川が広がり、時折流れ星が光る。
しばらく見とれていると、何か小さな物音がした。小さな公園のすみにこれまた小さなベンチがあり、その上に何かが横たわっている。小さな物音はそれだった。男が恐る恐る近づいて見ると、それは魔法少女だった。寝ているようだが何かがおかしい。呼吸が荒く、顔色が悪い。そっと掌に触れてみると熱い。額に手をやる。明らかに高熱であった。
医療機関に連絡すべく、男は懐からスマホを取り出した。しかし全くの圏外であり、いかなる通信手段も使うことが出来ない。それならばと、近所に助けを求めるため公園の外へと向かったが、目に見えない強力な力に跳ね返されて公園から出ることが出来なかった。
男は看病するための道具も、タオルや水なども持っていなかった。せめてもの対応として自分の着ていた上着を少女にかけた。少女の具合は一向に良くならないばかりか、心なしか表情はより苦しそうで息もさらに荒くなっている。何も出来ない男は、無意識に少女の手を握っていた。ふと、足元を見るとブルドッグが古い電球のようなものが付いた杖状の何かを咥えて男を見つめていた。
男はその杖を受け取ると、少女の手に握らせた。少女が薄っすらと目を開く。ゼエゼエと息をしながら、半目で男の顔を見た。
「……おにい...さん?」
その時、杖の電球が淡く暖かな光を放った。その穏やかな光が数分間少女と男を包み、やがて消えた。辺りは再び真っ暗になった。少女の呼吸は穏やかになり、静かに眠っていた。表情も少し穏やかになったようだ。
時計が止まっていたため詳しくは分からないが、一、二時間ほど過ぎただろうか。ガバッと少女が上体を起こした。しばらくそのまま呆然としていたが、自身にかけられた上着に目を落とすと、男の方を見た。
「あ、あれ。なんでここに……?」
男は何も答えず、足元にいる白いブルドッグを見た。どう説明すれば良いか分からなかったのだ。男自身も、何故ここにいるのか理解していなかった。少女は、ブルドッグに視線を移すと、納得したように頷いた。男はそっと聞く。
「気分はどうだ?」
「うーん……。気分は楽になったかな。まだ少しふらっとするけど……」
少女はゆっくりと立ち上がろうとした。それを男は止めて、もう少し横になっているように言った。それから改めて周りを見回して聞いた。
「ここは、どこなんだ?」
「なんて言ったら良いのかな……」
少女は目を瞑った。
「あたしの個人空間ってとこかしら」
曰く、魔法少女と呼ばれる者は皆、自分だけの特殊な空間を持っているらしい。その空間の内装は人によって違い、彼女の場合は満天の星空が輝く夜の公園だ。基本的には、彼女自身と彼女が許可したものしか入ることはできないそうだ。
横たわったまま目を瞑り、少女は静かに呼吸する。男はそっと上着をかけ直しつつ、言う。
「家に帰って、布団の上で寝た方が良いんじゃないか?」
「この空間は治癒効果もあるから。魔物からのダメージを癒すにはここの方が良いの」
少女の言葉で、男は彼女の熱がただの風邪ではないということを知った。ちらりと足元のブルドックを見る。ブルドックは男の方には目もくれず、冷たい無表情で真っ黒な目を少女に向けていた。
「熱は、魔物と戦ったせいなのか」
「珍しく、しくじっちゃった!」
少女は声を大きくして笑った。男の言葉を遮るように。これ以上何も聞くなと言わんばかりに。男は何も言えなかった。本当は問い詰めたいことがたくさんあった。だが、それは聞いてはいけない気がした。そしてもし尋ねたところで、彼女は否定するとしか思えなかった。
少女はやがて、再び眠りについた。静かな寝息が聞こえてくる。男は、少女の寝るベンチの隣にあった別のベンチに座り、星空を眺めていた。どれほどの時間が経っただろうか。男は少し眠くなり、少しだけ目を閉じた。
「~さん。ぃ~さんっ。お兄ぃ~~さん!」
肩を揺らされ、男は目を覚ました。ぼんやりとした視界が定まると、目の前に魔法少女の顔があり、こちらを見つめていた。男はハッとして聞いた。
「今、何時だ⁈」
「この空間に、時間は無いわ」
少女は爆笑を堪えているような半笑いで言った。
「お兄さん、ぐっすり寝てたよ?疲れてるのね」
にやにやと少女はからかうように笑った。男は少し頭を振ると、立ち上がった。少女は綺麗に畳んだ上着を男に手渡した。
「ありがとね。看病してくれて」
「……。んいや、俺は何もして無いし……」
「そんなこと無い。嬉しかった」
少女は男の顔から目を反らし、肩の辺りを見て言う。それからふわりとベンチに腰掛け、夜空を見上げた。男もまた少女の目線と同じ方向を見上げた。星の並びは先ほどと全く変わることなく、同じ場所で流れ星が流れた。
「あたし、たまに思うの。永遠にこの場所に隠れていたいって」
男は少しだけ顔を動かし、目の片隅で少女の方を見た。表情は読み取れなかった。
「でも、それじゃ楽しくないものね」
時間の止まった特殊空間。恐らく、この世界では歳をとることも死ぬことも無いのだろう。だが、心の時間だけは止められない。
「ごめんなさい、長い時間付き合ってもらっちゃって。もう帰ろう。元の世界へ。お兄さん」
「ああ」
男は小声で答えた。少女は古びた杖を手に取った。彼女が杖を構えた瞬間、男は尋ねた。
「また、魔物と戦うのか」
「それが、魔法少女だから」
そう言ってにこっと笑うと、少女は杖を振るった。
杖が光を放つ瞬間、男は咄嗟にその杖を掴んだ。少女は少し驚いた表情で手を止め、男を見た。辺りは依然暗いままで、星だけが輝いている。少女の持つ杖を手で抑えながら、男は少女を見た。少女もまた男の顔を見つめ返していた。
「ど、どうしたの……?」
少女が恐る恐る口を開いた。男は静かにそっと杖から手を放しつつ、意を決したように言う。
「辞められないか……?魔物と戦うの」
「え?」
「魔物は倒さなきゃいけないものかもしれないけど……。それで傷つくことは、君が傷つく必要は無いはずだ」
大して事情も知らない者が外野からそんなことを言うのは無責任極まりないだろうことは分かっている。それでも、魔物との戦いで高熱を出し苦しんでいた彼女を目の当たりにした。そして何より、気が付いてしまった。あの時の言葉の意味に。
「……あたしは大丈夫だから」
少女は静かに笑った。その笑顔からは何も分からない。
「あたしは、自分で望んで魔法少女になったの。世のため、人のために戦えるなんて、素敵なことでしょ。それに選ばれるなんて、名誉なことだし」
男の顔を正面から見つめて、魔法少女は言う。その瞳を見たら、男はもう何も言えなくなってしまった。彼女に傷ついてほしくないというのは、自分の我儘なのかもしれないとすら思う。
「心配してくれて、ありがとう。嬉しい」
見つめる少女の笑顔から、男はばつが悪そうに顔を反らした。少女は背伸びをして男の顔に両手で触れると、自分の方へ向けた。二人は見つめ合った。
「心配してくれるなら、見てて、あたしを。そして応援して欲しい。魔法少女の最後の戦いを」
「最後の?」
男は少女の表情を見た。少女もまた男を見つめ続ける。
「魔法少女は、一定の期間戦い続けて生き残ったら、最後は卒業するの。でもその前に大物の魔物を倒さなくちゃいけない。それが『ラスボス』なの。あたしは負けた。でも、次は勝つ。そして、今度は無事に戻ってくるから。大人になるために」
それは、一人の少女が背負うには重すぎる覚悟であるように男は感じた。止めたい。辞めさせたい。だが、それは魔法少女の望みに反する。彼女を子ども扱いして危険だからと使命から遠ざけようとするのは、男のエゴだろうか。彼には分からない。
自分が彼女くらいの歳の頃を思い出す。子ども扱いして抑え込んでくる、『守る』という言葉で首輪をつける声。明るい記憶しか無いと思っていた学生時代、そのリアルタイムは決して楽では無かったはずだ。辛い、辛い、辛い、息苦しい、薄暗い、分からない。そんな感情が渦巻いた日々を今まで忘れていた。
「これまで、ずっと一人だった。誰にも知られないまま戦ってた。それで良いと思ってた。でも、ほんとは知って欲しかったんだ。応援して欲しかったんだ。今気づいたの」
「そうか」
男は、そっと少女の両手を取り、自分の顔から離した。両の手を繋ぎ、男は静かに言った。それは、『大人』としては出してはいけない答えだった。
「分かった。頑張れ」
「ありがと」
少女は満面の笑みを浮かべた。男は頷いた。
それから幾つかの日にちが経過した、とある休日の朝。男の部屋を魔法少女が訪ねてきた。足元には白いブルドッグを連れている。その日がきたと、彼女は告げた。
男の自宅から十数分の最寄り駅。そのすぐ近くのスーパーで、男と魔法少女はカートを転がし、食べ物を物色していた。
「これも食べたい!」
「そうか」
少女が指さしたから揚げを、男はカゴに入れた。カゴの中はすでに様々なお惣菜やお菓子、ジュース類が山のように積み重なっていた。少女は少し心配気に男を見る。
「でも、良いの?こんなにいっぱい……」
「良いんだよ。ラスボス戦前なんだから。勝利の前祝いみたいなものさ」
ビニール袋いっぱいに買った食事を詰めて、それを持って二人は店の外に出た。大きなエコバッグを持っていれば良かったかなと少しだけ男は思った。
少女が杖を振るうと強烈な閃光が発せられ、二人はまた星空の公園に立っていた。公園内にある木製のテーブルに買ってきたものを広げて、宴が始まった。男は自分用に買ってきたビール缶に指をかけた。
「大人は、何かあるとすぐにお酒を飲みたがるわね」
オレンジジュースのペットボトルを開けながら、少女がからかうように言う。男は小さく苦笑した。
ボトルと缶が軽くぶつかり、二人はそれぞれの飲み物に口をつけた。それから、総菜や菓子を食べながら二人は話をした。最初は他愛もない世間話から始まり、少し笑える話や、日常のちょっとした愚痴、悩みなど、後になったら忘れてしまいそうなどうでもいい内容の会話が続いた。
「俺が君くらいの歳の頃は……」
酒で若干頬を紅潮させながら、男は語る。
「毎日楽しかった?」
少女が付け足した。
「……ああ。今思えばな。けど、当時は違った……と、思う。大変なことや辛いことが色々あった」
「そうなんだ」
少女はオレンジジュースを一口飲み、ポテトチップスを齧って続けた。
「……あたしも、そう。楽しいこともあるけど、大変なことや辛いこともたくさんある。たまにね、ちょっと考えることもあるわ。もし、過去に戻れたらって。魔法少女にならない選択肢を選んでたら、どうなったんだろうって。後悔はしていないつもりだったけど……」
「『過去に戻れたら』か。分かるよ。痛いほど」
男自身は何度そう思ったことか、分からない。
「それでも、過去には戻れない。それは確かなことなんだ。だから、過去に戻りたいって考えることは悲しいことだよ。それよりも、前に進むべきなんだ。今が辛いのなら」
魔法少女は男の目をまじまじと見た。男はさらに話し続ける。酒の上での言葉だが、魔法少女との邂逅から現在に至るまで、男自身が悩み考えて得た答えの一つだ。
「今が辛く、苦しいからこそ、今を全力で生きるべきなんだ。きっと。必死に、必死に、今を走り抜けて、辛い現実を過去にするべきなんだ。多分。今より明るい未来へ、全力で向かうべきなんだ。今の辛い現実も、いつかは笑い話にできるから。いつかは『良い思い出』と言える日がきっと来るから。そんな未来に早く、早く、辿り着くために。現在を全力で駆け抜けるべきなんだ」
それは、男自身が見つけた魔法の言葉であった。男は、グビッと缶の中身を一気に飲んだ。少女は紅くなっていく男の顔を見つめながら、木のテーブルに腕枕を置き、頬を横たわらせた。
「あたし、今は楽しい。でも、同時に怖くて、辛いの。過去に戻って、逃げ出したいって、どうしても思っちゃう。戦いたくないって、嫌だ、嫌だって、考えちゃう」
テーブルに頭を乗せたまま、男が置いた缶を見た。
「それを飲んだら、怖いって感情は無くなるかな?楽しさだけで心を満たせるかな」
そう言いながら、少女は男の飲みさしの缶に手を伸ばす。缶に触れた手を、男はそっと止めた。
「だめだよ。これは大人の飲み物だ。君はまだ、大人じゃない」
「経験させてよ。大人を。もしかしたら……」
少女は一瞬口をつぐみ、また開いた。
「もしかしたら、なれないかもしれないから」
「なるんだよ。大人に」
男ははっきりした口調で言った。
「子供はいつか必ず大人になる。でも、それは今じゃない。全ては戦いが終わったその先だ。そうだろ?」
少女は少し眠たそうな半目で、缶をじっと見ていた。
「どんな飲み物なの?お酒って。教えて」
「そうだな……。雨音みたいなものかな」
少女は顔をあげて、男の顔に目を向けた。
「人の気持ちを増長させる効果があると思う。良い気持ちも、悪い気持ちも。だからこそ、良い時や楽しい時にこそ飲みたくなるものだな」
「今、楽しい?」
「ああ。だってそうだろ?君は、魔法少女として立派に戦い抜いて、無事に卒業して、いずれは立派な大人になる。色々な苦しみや辛さを乗り越え続けて、幸せな未来を目指して進める大人にきっとなる。これは、その前祝いなんだから」
男は真っ赤な顔で弾けるように笑った。それを見つめる少女の口元にも笑みが浮かんだ。
「……太陽みたい」
それから、どれくらい話したのだろうか。分からない。相変わらずこの空間には時が存在せず、この宴は永遠に続くようにすら思えた。だが、それでは未来には進めない。今を過去にすることが出来ない。全てを食べきった後、少女はゆっくりと立ち上がった。男はその姿を見上げた。少女の姿と、背景の星屑たちが無音で煌く。
「あたし、全力で生き抜く。頑張って、頑張って、走り抜ける、今を。今を明るく楽しい思い出にするために。そんなこともあったねって、あなたとお酒を酌み交わせるように。だから……」
少女は杖を手に取った。ゆっくりと杖の先が光を放ち、それはどんどんと強くなっていく。月明かりのように儚く淡く冷たく美しい煌きとなる。
「だから、見守っていて。見届けて。あたしの変身」
男は頷いた。杖から溢れた光の煌きが少女を包んで膨らみ、弾けた。男の目の前には魔法少女が立っていた。「行ってくる」と彼女が笑うから「行ってこい」と彼は答えた。
頭の痛くなるようなアラーム音が鳴り響く。啓太は唸り声をあげてそれを止めた。しばらくボーッとした後、頭を軽く振ると、両頬を強く叩き、「よしっ」と声を上げて起き上がった。朝食はトースト一枚と野菜サラダ。サラダの中には昨日の晩の残りである鶏ささみを小さく裂いて入れてある。それと、冷蔵庫から牛乳を取り出して賞味期限を確認し、カップに注いだ。
テレビに映るのはなんてことの無い朝の情報番組。だが、その中に話題のおもしろ動画を紹介するコーナーがあり、啓太は最近それに少しはまっている。サラダを口にしながら、軽く笑う。それから、クリーニングに出したばかりのスーツに着替え、家を出た。
満員電車に流されながら、ふと窓の外を見る。雲一つない青空に小さく飛行船が飛んでいた。珍しいものを見た、と啓太は一人笑った。やがて、会社の前に辿り着く。一回深呼吸をして、彼は飛び込んだ。
「辛い、息苦しい。楽しくない?分かるよ。よく分かる。俺もそうだったから。っていうか今もそうだし」
昼休憩の時間。啓太は後輩の男と共に、サラリーマンで賑わう安い蕎麦屋に来ていた。注文したのはたぬき蕎麦。後輩の男は、天ぷらの乗った蕎麦を注文した。
「でもな、どんなに昔に戻りたい、やり直したいって思ったって、それは無理なんだ。そんなこといくら考えたって仕方がないこと。それよりも、今を全力で駆け抜けて、早く未来に進む事を考えるんだよ。未来から見たら、辛い今だって過去の思い出の一つなんだから」
「はあ……」
後輩は力なく頷いた。そして、モソモソと天ぷらを齧る。そんな姿を、啓太は苦笑いして見ていた。悩んでいる時に他者からかけられるポジティブな言葉ほど鬱陶しいものは無い。それは分かっているのだが、つい声をかけてしまう。魔法の言葉は、自分自身で見つけるしか無いのだ。俺は、少しはその助けになれるだろうか。そんなことを考えながら蕎麦を啜った。
啓太自身が魔法の言葉を見つけたきっかけは、一人の不思議な少女だった。名前も知らない彼女が戦いに向かう背を見届け、見送ってから五年。未だその姿を見ていない。安否は不明だが、彼の中には確信があった。苦しみ、悩み、もがきつつも、あの時の魔法少女は今を全力で生きている。そう思える。
「松川さん。ありがとうございました」
昼飯と悩み相談のお礼を後輩から言われ、啓太は静かに笑った。
「気にすんなよ。さ、午後の仕事も頑張って耐え抜こうぜ」
そんなことを話しながら、二人の勤め人は蕎麦屋を後にした。
二人と入れ替わるように、リクルートスーツを着た女性が蕎麦屋に入ってきた。落ち着き無い様子で時間を確認しつつ、蕎麦と小さなカレー、そして揚げ物を一つだけ注文した。蕎麦を食べつつも、時折鞄の中のファイルから履歴書を取り出して、その内容を見返し、確認する。名前の欄には『葉櫻綾乃』という彼女の名前が書いてある。前に受けた企業に提出した履歴書で、あろうことか自分の名前の文字を間違えていたことがあった。そういうケアレスミスが一番怖い。彼女は注意深く自身の名前を見直した。
志望動機や特技、経歴、これまで取り組んだことなど色々な欄がある。彼女は過去に一時、人とは違う特別な経験をしていたこともある。だが、それは履歴書に書けるようなものでは無かった。どんなに貴重な体験であっても、企業受けするものでなければ就職活動において意味は無い。
やがて約束の時間が近づき、綾乃は緊張した面持ちで蕎麦屋から出た。ふと空を見上げると、青空に小さく飛行船が飛んでいた。珍しいものを見たな、と彼女は一人笑うと、気を引き締めて面接会場へと向かった。
立派な大人になるために。今日も彼女は苦しみ、悩み、戦い続ける。明るい未来を目指して、全力で駆け抜けている。