規制の意味ってあるのだろうか。いや、無いはずだ。という主張。
正直、私は特に大きな思想は持っていない。海外の統一的な宗教に触れた人からは驚愕されがちな、精霊信仰に近いのではとも評される日本人らしい宗教観を持っている仏教徒の端くれの端くれくらいの人間でしかない。
そして、こんなところでこんな文章を書く人間でしかない。こんな人間からすれば、世間様の表現規制の流れというのは何が問題であるのか良くわからない。
昭和や平成初期のテレビ映像を思えば、令和のテレビなんてとてもとてもマイルドな表現しかしていない。お色気シーンというのは皆無になったし、ハラスメントらしい言動もなくなったし、体に爆竹を巻くこともなく、舞台を自動車が走り回ることもないのだ。
だというのに、世間では表現規制をしろ!などと抜かす活動家がいる。
必要性が分からない。
これでもかなり刺激が弱くなった世の中だというのに、未だに目に沁みて痛いとぬかすのか。なんとも虚弱な心。失笑であろう。
もちろん、嫌なものを嫌だ、と言う自由は確かにある。誰にでもあるべきだ。
私なんて、嫌だとなかなか宣言できなくて損をする性分であるから、嫌だと面向かって宣言できる人はとても感心するし、ぜひそうありたいと思う。
だが、表現規制などというものの必要性だけは分からない。
嫌なものが嫌であるから消えてくれと言うのは確かに自由なのだ。
ただそこには必ず好きなものが好きであるから消さないでくれという人間も居るのだ。
嫌なものを悪とし、嫌なものを好む人間を悪魔とし、嫌なものを祓い清めるかのように燃やす。神の御旗を掲げながら。
私には、彼ら活動家がそういった狂信の一味にしか思えないときがある。
また、私はこうも思うのだ。
人が人の想像と創造を禁止して、刺激物を一切受け付けなくなってしまった世界はどれだけ味気ないのか、と。
互いが互いに禁止された表現を生み出してしまわないように、心を凍らせながら生きるなど、どれほど価値のない日々であるのか、と。
現実はよほど汚らわしいものであるのに、空想上の世界を焼き払ったところで一体何があるというのか、と。
理解に苦しむ。
さらに、夢は起こりうる現実に対する心の備えである、という話がある。事実であるかは知らぬ。ただ私にはとても腑に落ちる話である。
であるならば、空想はどうでろうか。空想の結実である表現はどうであろうか。それらはきっと酷い現実の可能性を他者に伝える崇高な手段ではなかろうか。
味気なくなってしまった世界しか知らなくとも、現実は度々厳しく空想を飛び越えた惨状を見せつけてくるのに。
型通りの穏やかな表現しか知らない心で現実を受け止めることができるというのか。
想像力の欠如に怯えることができない活動家など、あまりの想像力の欠如が恐ろしい。