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ゆめうつつのあなたに

作者: どろだんご

並木道にはたっぷりと、温い直方体の風が抜けていく。最低限風と認識できる程の弱々しさで、寂しさの象徴である風がここまで寂しい勢いなのが、何だか皮肉的だった。草花の一つも揺らすことはなく、産毛を撫でるだけのそよ風でも、身体は少しずつ風下へ導かれていく。


小径を挟む街路樹を見ていると、計画的に生やされた林にも、鬱蒼として野放図となった森にも見えた。順々に形を変えたというよりは、その何れも内包しているようで、瞬く度に自由な姿を見せる。延々と立つ木々の平行線は、遥か先で消失点を作っていた。


道のりを辿ると木組みの柵で囲われた広場へと繋がっていく。等間隔で並んだ針葉樹がその場所だけを避けるように空間を作り、間を縫い差し込む陽光を迎え入れる。辺りで漂う蛍のような光源は、一人の人影を照らしていた。


理屈も、理性もそこにはなく、ただただその人物の元へ急がなければならないという思考に襲われる。強迫観念は好奇心に変わり、好奇心は欲へと変わる。そのどちらも備えたような意思に突き動かされ、手を伸ばす。掴んでいたのは四畳半の一室だった。




「あのさ。私もかなり暇な部類だっていう自負はあるんだけど」


「日に二度も痴話喧嘩の相談に乗る気はないかなあって!」


「はあ…」


学内のカフェテリアには男女が二人、場所代のコーヒーを挟みながら人生相談を肴に話を広げる。


「天文学的確率でたまたま同日にダブルブッキングしたか」


「若しくは二人共事件の当事者だったか…」


「恐らく後者です…」


「よくわかってんじゃん、大河ぁ〜」


ボリュームを増す明音の声は、カフェテリア中の客の耳に届いていく。学生というものは恋の生産消費が激しい人種である。故に数ある痴情のもつれの一つとしか捉えられず、周囲は気にも留めていないようであった。悩み萎れる大河を前に、明音は調子を上げる。


「相談内容、音読しましょうか?」


「いえ、結構なんで…」


大河は機械音のようなしゃがれ声を絞り出す。


「じゃあ自分の口から言え!」


「はあ…その…恋人がサークルの飲み会に出席していたので」


「それでそれで」


徐々に距離を詰める明音に、大河は目を細めながら視線をずらす。視界に迫る黒髪は、安いリンスの匂いがした。


「不貞を疑い問い詰めたところ」


「うんうん。そのあとが大事よ」


「…大喧嘩になりました」


歯切れの悪い説明に、明音は顔を中央に寄せてしかめ面をする。さながら気を曲げた子供のようで、童顔の明音には違和感のない表情だった。


「何か忘れてない?足りてないよね?」


「手、出たんでしょ?」


「うっ…」


廃品のレコードの如く、かすれた声帯は音を紡ぐ事を拒む。


「そこまで取り立てる程じゃない!肩を掴んだくらいで…」


大河の収まらない動揺は、カップの水面を波立たせる。微量のカフェイン程度では、鎮静剤に程遠い。


「度合いはどうでもいいよ。五十歩百歩!デコピンだろうが拳骨だろうが、全部暴力表現だから」


「力で男が女の上に立っちゃあ駄目なんだっ


「…はい」


バツの悪そうな表情が罪悪感に沈んでいくのを見て、説教の度が過ぎたと明音は顧みる。


「とにかく…愛情受けて嫌がる人はいないだろうし、それを恥じらいもなく出来るのはアンタの良さではあるけど」


「…今の大河にあるのは性欲じゃない!支配欲!束縛は破局の素だ!以上!」


説教を垂れる勢いのまま明音は席を立つ。男でも着るのを躊躇うようなレザーのジャケットを翻しながら、大河に背を向ける。煩わしい小物は持ち歩かない主義らしく、両手は上着のポケットに収めていた。


店を後にしようとする明音に、未だ項垂れる大河は一言呟いた。


「彼女との喧嘩中に…他の女性と話すのはやっぱり駄目だったかな?」


大股で歩く明音の脚が止まる。スニーカーのゴム底が擦れて不快な音が残る。


「よくわかってんじゃん」


視線も合わさず、明音は去る。

机には明音の飲み残しが置かれていた。底には溶け残った大量の砂糖がしぶとく張り付いている。適当に自分のカップに入れて混ぜ、大河は空のコーヒーフレッシュと一緒にカウンターへ届ける。厨房で無機質に流れる皿と水道の効果音が、早急な帰宅を促しているようにも思えた。




曖昧だった初冬の寒さは、室内外での寒暖差を経て訪れを実感する。張り付いて残る汗で、体温が保たれるくらいの外気が大河には丁度良かった。冬の長夜に備えて、この日は早く床に就こうかなどと考える。


大河が家に戻ると、昭穂が扉に寄り掛かるようにして帰りを待っていた。突然の訪問に虚を衝かれたような想いだったが、その人影が昭穂と分かると僅かな距離をも刻み足で急いだ。


「おかえり」


笑みともつかない平坦な表情で、大河を迎える。


「昭穂!ごめん!俺…」


「良いのよ、別に。私だって疑わせるようなことして悪かったかなって」


再び言葉と共に紡がれた表情は、口角を上にあげた笑顔だった。傾げる首に遅れて、夕越しに照る髪は琥珀色をしていた。老婆心が働いたのか、独居老人の如く散らかった大河の部屋を見て、昭穂は上着を脱ぐより先に掃除を始める。菓子類の山は全てゴミ箱行きとなり、脱ぎ捨てられた衣服は端を揃えて畳まれる。


「結果として言い争いにはなっちゃったけどね、私結構嬉しいんだ。あなたが心配してくれてたって思うと」


口を動かしつつ、昭穂は四方八方に散乱した大学関係の書類をまとめる。鞄の底で蛇腹状に折られていたレポートを見つけて、すぐさま大河は奥へ隠す。その程度で見栄を張らなくとも、部屋の不潔さが揺らぐことはなかった。隅々まで手の回る昭穂に仕事を奪われ、大河は独り呆けていた。


「ごめん…色々疑っちゃって。やっぱり昭穂は頭も良いし、顔も可愛いし、気遣いだって出来るし、やっぱりモテるのかなって…」


痛みを鎮めるために他の痛みに逃げる。そんな延々と苦痛に蓋をし合う大河は、昭穂が最も嫌う一面だった。


「ちょっとしたコンパとか遊びとか全く縁がないからさ、俺。知り合いも昭穂と明音くらいだし…ずっと側にいて欲しかったんだ…」


痛みが最深に達し、自分を傷付ける武器を失うと、くすぶる蕾のように口籠る。昭穂はゴミ袋を手から離し、大河の髪を撫でた。汚れた手で摩ることのないよう、カーディガンの袖を掌にまとっている。


「今日はさ、もうゆっくり休みなよ。もう私、何も思ってないから」


「…」


「あとさ、一つ聞いていいかな?」


「私と明音。どっちが好きなの?」


鋭利な刃物を突き立てるように、昭穂の言葉が胸を貫く。


「明音が教えてくれた。私の後に、あなたも相談に来たんだって。確かに明音は頼り甲斐があるからね。困った時は弱音、あの子に吐きたくなるよね」


「そんなの決まってるじゃないか!昭穂。そんなこと…言わないでくれよ…」


自分の毒を昭穂に飲ませてしまったようで、大河は深い後悔の感情に駆られる。


「そっか」


昭穂は闇に溶けていくように部屋を後にする。丁寧に陳列されたゴミ袋を蹴り、整理したレポートを粉々に破り捨て、散らした衣服に包まりながら目を閉じる。


元々大河と明音は義務教育から大学まで、生活を共にした幼馴染であった。ボーイッシュな性格故か、同性の友達のように接し合い常に悩みを打ち明ける程の仲だった。大学では顔の広い明音から「卑屈なお前の母親代わりだ」と昭穂を紹介され、恋人として付き合うようになったのはつい最近の出来事である。根暗な大河に常に目線を合わせてくれるのが明音だとすれば、昭穂は淀んだ感情すらも包み込む聖母のような存在だった。そのような品定めは避けるべきだと思い、大河は全て忘れて眠りに没入する。どうせならもっと確信を持って、彼女に愛を叫ぶべきだった。




広い食卓を囲む。冷凍食品でも良いよと言うが、構わずキッチンに立つ。異様に背の低い冷蔵庫を漁りながら、手に余る程の食材を取り出す。野菜をむしり、肉をちぎり、洗剤で味を調えながら弱火で煮込む。試しに汁を味見してみるが、とても口に入れて良い味ではない。不味いというより雲を掴むような特徴の無さで、恐らく食品としての体を成していない。


恐る恐る向かいの席に物を運ぶと、相手は美味しそうにそれを食べる。のべつ幕なしに食べる様子を見て、スプーンを口に運ぶが実感無くするりと食材が喉をすり抜けていく。しかしそれでも、目の前の愛しの人物が、嬉々として口にするのを眺めているだけで喜びを感じていられる。思わず席を立ち、強く抱きしめ、口の中が混ざり合い、顔を見る。ぼやけた輪郭には、短く整えられた黒髪が写った。


欲のままに溶け合うことを望みながら、再び力の限り抱擁をする。大河が抱いていたのは無惨にも脱ぎ捨てられた衣服の山だった。


大河は以前も夢で同じ影を見た。感情に体を任せ、甘い時間を共にし、影に想いを馳せた。しかし大河の知る自分の恋人は、髪を茶に染めた長髪の女性である。どうして他の存在が夢の世界に浮かび上がって来るのか。大河は深く考えるのを止める。所詮は夢。空想に道理などなく、大河の周りの物体は狂った挙動をしており、その領域は現実ではない。もしかすると大河の深層心理では昭穂が黒髪の乙女に化けているのかもしれない。決して移り気したわけではない。


故に、再び夢の世界を欲しても良いのだと、大河は朧げな意識の中で思う。




カーテンを閉じ、外界の情報を遮断した四畳半に、時間の感覚は消え去っていた。昼も夜も訪れず、大河の周囲を覆うのは名前の無い暗闇だけ。震える手で室内を探りながら、大河は薬を探す。

前回は華々しい春の景色を見た。雄々しく咲く桜から散る儚い花弁、そよぐ風に黒髪をなびかす彼女と共に。


いつかは陰鬱とした梅雨の景色を見た。雲から降り注ぐ雨粒を浴び、雫を黒髪から滴らせる彼女と共に。


雄大な森林も、荘厳な寺社仏閣も、絢爛な花畑も彼女と見た。何れの景色も彼女は大河を受け入れて、笑顔で抱擁する。現実よりも美しい夢に、大河は心を奪われていた。


鞄に敷かれた睡眠薬を見つける。次は海の景色を、と思いながら大河は薬の封を破る。すると、静寂と暗闇を破るように部屋の扉が開いた。ドアノブを握っていたのは黒髪の明音だった。変わり果てた大河の姿に、明音は言葉を失いかける。


「…大学来なかったの、一ヶ月くらい?その間、誰とも会わなかったのかな?」


平生を装っても、明音は僅かに震えていた。


「…医者に会ったかな?医療用の眠剤が欲しくて」


あっさりとした物言いに、明音は恐怖すら感じる。


「昭穂に悪いと思わないの?ずっと放っておいてさ。昭穂、ここに来るの怖がってた」


「…」


闇に隠れた大河の表情は窺えない。


「私は悪いと思ってる。もしかしたら昭穂に勘違いさせたかもしれないって。二人の仲を知りながら、大河と友達で居続けようとしてたから」


大河は、詰まる喉元を抑えながら、胸の内を吐露する。


「…お」


乾いた畳に、ぽたりぽたりと涙の垂れる音がする。


「…俺、恋人として情けない。昭穂をずっと愛してるのに…」


「…昭穂と話すことを…逃げている自分がいるんだ…」


「本当に昭穂に迷惑をかけた…明音にも心配かけさせたよ…」


「面と向かって…話さなきゃならない…」


そうして大河は、夢で見た黒髪の人物の話をする。一つ一つ言葉を紡ぐ度に、明音は苦しみと悲しみを込めた表情で、徐々に顔を曇らせていった。そこには、茶毛で長髪の乙女は現れない。大河は止めどなく、夢の思い出を語る。昭穂も、明音も忘れて。


明音は人差し指を大河の唇に当て、言葉を止める。闇に目が慣れ、現れた大河の顔に明音は顔を近づける。二人は唇を合わせる。それでも愛情は湧き出ない。昭穂への愛情は揺るがない。

想いを伝えると、明音の悪戯じみた表情には涙が垂れる。


「ごめんね。ちょっと期待しちゃったな。夢の中に黒髪の女の子が出るって聞いて」


涙はすぐに乾いて、明音は澄んだ笑顔を見せる。


「私の色仕掛けでなびかないってことは、昭穂への愛は本物ってことでしょ」


大河は頷く。


「黒髪の人なんて忘れて、昭穂の元へ早く行きなさいよ」


飲んだ睡眠薬が、少しずつ効いてくる。




砂浜が鳴いている。粒が擦れ合う比喩というわけではなく、それこそ声帯を持って叫んでいるかのようだった。白く広がった砂浜には男女が二人、海原を見つめている。水を掛け合い、燦々と輝く太陽を浴び、砂には愛の文字をなぞる。幸せを身体中に味わった。そして、浅瀬で水に濡れながら、二人顔を合わせる。


曖昧で雲がかったその顔を見たいと、常々願っていた。自分が愛する者の顔はどのような人物なのかと。それでも景色は晴れない。すると、黒髪の人物は向かいの頬に手を寄せてきた。口付けの準備かと思いきや、顎を掴まれ、自然下に向けて来る。無邪気な焦らしにも思えたが、水面を下にしたまま顔を動かしてはくれない。魚でも居るのだろうと思って、波紋が収まるのを待つ。


水面には大河の顔ではなく、昭穂の顔が写っていた。長く垂らした茶髪を、海水にさらす昭穂の顔があった。そして目の前で笑う黒髪の人物は、女性ではなく、大河そのものであった。


わがままに昭穂を振り回し、常に側に置こうとし、自分の理想を押し付ける。乱暴な愛情は、夢の中で昭穂を乗っ取る事でしか、叶うことは無かった。思い詰めた果てに得てしまった体に罪悪感を感じながら、目の前に立つ大河を見つめる。他人に何かをさせるのではなく、自らが動かねばならない。再び昭穂と顔を合わせ、一言謝りたい。その気持ちで胸が一杯だった。


大河は目を覚ます。鬱屈とした空気を壊すべく、扉を開けた。

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