2.耳飾り
張角たち三兄弟は、己の行いに名を付けたことはなかった。
ただ病を治し、飢えを和らげ、天を敬う道を説いただけだ。
だが人の口は、風よりも早い。
「黄色い頭巾の者たちが、奇跡を起こすらしい」
「張角という男を頭目にした一団だ」
「いや、もう“党”を成しているそうだ」
誰かの噂に、誰かが尾ひれを付け、
いつしかその集まりは黄巾党と呼ばれるようになっていた。
信じる者たちが勝手に名を作り、勝手に広め、
その名は張角の知らぬところで独り歩きを始めていた。
―――――
平原の市。
七星北斗は、籠に入れた野菜を並べていた。
土のついた大根、麦、干した豆。
朝露の残る作物は、北斗が丹精込めて育てたものだ。
値を付ける間もなく、周囲の話し声が耳に入る。
「聞いたか、黄巾党ってのが各地に広がってるってよ」
「病を治すって話だが、官は怪しんでるらしい」
「乱を起こす前触れだとか……」
北斗は、何も言わずに耳を傾ける。
噂話の中の張角の名は、いつの間にか
“仙術を操る教祖”のように語られていた。
売り物を手に取った老人が、ぽつりと漏らす。
「世が苦しいと、奇跡に縋りたくなるもんだ」
北斗は、籠を整えながら、小さく息を吐いた。
畑で感じる土の重みと、
市場で飛び交う言葉の軽さ。
その差に、胸の奥がざわつく。
―――――
一方、天水の山。
ナナホシは弓を背に、獣道を進んでいた。
今日はイノシシ狩りだ。
村の食糧を確保するため、若者たちと山に入っている。
風向きを読み、足音を殺す。
あの時、病床の母を救った張角の背中を、ふと思い出す。
「……静かに」
低く告げた瞬間、藪が揺れた。
黒い影が突進してくる。
ナナホシは迷わず矢を放つ。
獣の咆哮が山に響き、やがて倒れる音がした。
息を整えながら、仲間が言う。
「最近、黄巾党って連中が増えてるらしいな」
「乱世が近いってことか」
ナナホシは、血のついた手を見つめ、答えなかった。
病を治す人々が、
なぜ“党”などと呼ばれねばならないのか。
山の静けさの中で、彼女は思う。
救われた命の記憶と、
今、狩った命の重さ。
その両方を抱えながら、
ナナホシは山を下りていった。
―――――
噂は、誰の意思とも関係なく広がる。
名は、人を束ねもすれば、縛りもする。
同じ名を持つ二人の北斗は、
それぞれの場所で、
まだ形のない“乱世”の影に触れ始めていた。




