プロローグ
男は蹲ったまま一夜を過ごした。
漸く動けるようになったのは昨晩の嵐が嘘のように静まり、太陽が登り始めた朝方だった。
──何なんだよアレは。
旅館の部屋から見えた光景は気味が悪いものだった。
嵐の中女が走っていた。
必死に走る女の後ろを黒い影が付いていた。
風の音、風が揺らす木々の音、雨が地面を叩く音。
女は踊る様に走り続け、いよいよ崖の先端まで到達すると、躊躇なく飛んだ。
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「それ」を見たのは偶然だった。
男はその日、有給休暇を取って温泉旅館へとやって来ていた。この旅館、海側の部屋は割高で山側の部屋は格安と、分かりやすい料金設定で男は迷わず山側の格安部屋を選んだ。
一人旅だ。部屋にかけるより食事に重点を置いたのだ。
旅館に着くなり早速温泉を堪能し、ランクアップさせた豪華な食事に小躍りし、敷かれた布団に転がった。
何をするでもなくゴロゴロして再び温泉に浸り、うとうと。なんて贅沢なんだと男は満足しながら部屋の明かりを落とした。
目を覚ましたのは激しい風と雨の音で、だった。
時間を確認すると午前二時過ぎ。所謂丑三つ時。嫌な時間に起きてしまったともう一度布団を深く被りなおそうとした時だ。
閉じたカーテン越しに閃光が走り直後に雷鳴が轟いた。
真夜中の嵐。
男は布団を被ったままカーテンから外を覗いた。
今考えれば何故そんな事をしたのかと自分を責めたい。丑三つ時の雷雨なんて冷静に考えれば潜在意識で恐怖するもののはずなのに。
覗き見た窓の外では稲妻が光る度に風に揺れる山の木々が照らされ、揺れるその間に異質な存在の姿がチラリチラリと見え隠れした。
稲妻が光る度に浮かぶ長い髪とやけに白く見える肌。
女だ。しかも何も着ていない。素っ裸の女が山を駆け抜けていた。
「ひぃっ」思わず男は息を飲み、部屋を見回した。
静まり返った旅館の一室、もし、明かりが灯っていれば影ができる。そうすると、あちら側がこちらを見る事があったら覗いて居ることがバレてしまう。
いや、異常な光景だったのだからそこで見るのを止めればよかったのだ。
それでも男は恐怖心より好奇心が勝り限りなく狭く開いたカーテンの隙間から女を見続けた。
そこでまた気が付かなくて良い事に男は気付いてしまった。必死に走る女の後ろを幾つかの影が付いている。
──なんだよアレ。まさか襲われているのか?
何か事が起きていることは確かだ。
追われる者と追う者。なのに、そこにあるのは違和感だった。
女は逃げているというより走る事を楽しんでいるかの様に見え、黒い影達はそれをただ見守っている様にも見える。
しかし、嵐の真夜中に行う遊びにしては余りにも異様で異常な光景だ。
目が離せず彼らを見続けて男ははっとする。
女があのまま走り続けてしまえばその先にあるのは「崖」だ。
背筋にゾワゾワとしたものが這い上がり心臓は痛いほどに鼓動を打つ。
そしてその瞬間がやって来た。
喉は張り付き額を汗が伝う。
木々の間を見え隠れしていた女は足を止める事なく、そのままの速さであっという間にその崖を飛んだ。
「あっ!」
思わず出た声に慌てて口を押さえた。
飛んだ。女が飛んだ。
影達は崖まで行かず木々の境目に暫く居てからゾロゾロと方向を変え、消えて行った。
ズリズリと座り込み今の光景は何だったのか、女はどうなった? あの影は何をしていた?。
男はそのまま窓辺に蹲り、見てしまった光景に震えながら一夜を過ごした。