エピローグ
カッチコッチカッチコッチ
チッチッチッチッチッチッ
コチコチコチコチコチコチ
止めどなく時を刻む音。
「人に愛されて、優しくて、厳しくて。助けを求めたら絶対に手を差し伸べてくれるって分かっていたから余計に」
黙々とグラスを磨くマスターは相槌も返事もしない。
「あたし、馬鹿だからさ⋯⋯店もダメにしたし、人付き合いもダメにした。友情も⋯⋯」
空になったグラスにポトリと雫が落ちた。
誰もが今の姿を見れば「今更後悔しても、もう遅い」そう言うだろう。けれど、彼女は、彼女だけは怒りながらも見捨てはしない。あまつさえ「おかえり」と笑うのだ。
その彼女とはもう二度と会えないのだ。
カッチコッチカッチコッチ
チッチッチッチッチッチッ
コチコチコチコチコチコチ
こんなに時計があっても時を戻す事はできない。
やってしまった事を告白しても過去には戻れない。
「自分の人生もダメにしちゃった⋯⋯」
転落は早かった。
独立して開いた店はあっという間に借金にまみれた。昔の伝手でお金を借りたがすぐに返済に窮した。
自分には「身体」があると付き合いを広げたが、その中に危険な人種がいたのだ。
気が付いたら薬漬け。
「落ちるところまで落ちて⋯⋯本当、馬鹿だわ」
止めどなく零れ落ちる雫がグラスに溜まってゆく。
自分はこんなに苦しいのに何故彼女だけ幸せになるのか。
嫉妬から彼女の大切な物を奪った。
それは、ただ虚しい行為だった。
事の最中、朦朧とした彼は何度も彼女の名前を呼んでいた。
憎しみが抑えられなくなり、彼女を呼び出し絶望させたかったのに──彼女は最後まで彼を信じ、自分と「話をしよう」と手を差し伸べてくれた。
「ごめんなさい。あたし、なりたかった。貴女になりたかった。こんなあたし、大嫌いだった⋯⋯あたしは大嫌いなあたしを⋯⋯殺したの⋯⋯」
会えない彼女に謝っても届く事はないのに。
「バイオレットフィズのカクテル言葉ご存知ですか?」
ずっと黙っていたマスターが磨き終えたグラスを片付け言葉を発した。
「私を覚えていて。です」
女はキョトンとした表情の後、泣き笑いを見せた。
「あたしにピッタリね」
カッチコッチカッチコッチ
チッチッチッチッチッチッ
コチコチコチコチコチコチ
ゴーンゴーン⋯⋯
ピピピピ⋯⋯
ジリリリ⋯⋯
時計の音が大きくなり一斉に時刻を告げた。
──コトン──
今まで女が座っていた所に小さな時計が転がった。
それは文字盤がワインレッドの小さな時計。桜と般若がデザインされた一風変わった腕時計。
「御来店ありがとうございました」
マスターは小さな時計を拾い上げ、カウンターのショーケースへと仕舞いパタリと蓋を閉じた。
────────────────────────
ナミが居なくなって一年経った。
ナミの店は空き店舗になり、部屋も新しい住人が入り、元から彼女がこの街に居なかったかの様に時は流れている。
ユウトはこの春、違う土地の営業所へ移動する事になった。マリカはユウトに付いて行く。マリカとユウトは離れる事になる街を最後にと歩いていた。
「いざ離れるとなると寂しいものね」
マリカは「この場所で色々あったわ」とマリカのフラワーショップがあった場所で足を止めた。
「時計館」そう書かれたイーゼル看板が出された元店舗から灯りが漏れている。
「⋯⋯そうだな」
ユウトはナミに襲われた夜を思い出してマリカの肩を抱き寄せた。
「もうっ! あの日の事は仕方なかったって言ってるでしょ? 私達はいい歳なんだからそんな事いつまでも後悔しても仕方ないの!」
「でも、不貞した事には変わりない」
「結婚前だった。結婚してからそう言う事があったら⋯⋯別れる」
「ないから! 絶対ないから! 誓うから。なんならここで叫んで誓う!」
「ここでは誓わなくて良いからっ」
あの日。
ユウトは「相談がある」と押しかけて来たナミを追い返そうとしていた。しかし、ナミの後ろに居た男達が突然ユウトを押さえ込み、無理矢理酒を飲まされた。
後で教えられたのはその酒には睡眠薬が溶かされていたと言う。
幸か不幸か朦朧としていたおかげで最中のことは覚えていない。ただひたすらにマリカを想っていた。
激しい吐き気と倦怠感、嫌悪感と罪悪感に目覚めたユウトに飛び込んできたのは腹部を刺され意識を失ったマリカの姿だった。
真っ先に救急車を呼び、救急隊が部屋に入ってきたのを見届けてユウトも再び意識を失った。
次に目覚めたのはあの日から五日経った病院で。自分より重傷だったマリカがユウトの手を握っていた。お互い「無事で良かった」と泣き笑いを交わし、命ある事に感謝した。
それから暫くは大変だった。
二人が入院しているその間に「愛憎の果ての殺人未遂事件」などと三角関係の末に起きた事件だとニュースになった。
何度も警察の事情聴取を受け、ユウトから睡眠薬以外の薬物反応が出たと疑われ、容疑が晴れたのは退院の前日。
警察はナミを追っているがあれから行方を晦まして生きているのか死んでいるのか──否、ユウトはナミが既に生きていないと知っている。
ほんの少しだけ、その筋の人間の耳にナミの話が入るようにしただけ。
彼らは「ルート」を知られる事を忌避する。自分達に繋がる前に尻尾を切り落としてしまうのだから酷い話だ。
彼らに追い詰められたナミはその身を投げたと言う。
──これは、俺の秘密。
直接手を下したわけではない。一般人のたわいない話をユウトはしただけだと、マリカの肩に回した腕に力を込めた。
マリカは険しい表情のユウトを見上げてクスリと笑う。
ナミは可哀想な人だった。
マリカよりも美人でマリカよりもおねだり上手で。誰もが自分を選ぶと思い込んでいた自信家のナミ。
派手で美人なナミと並べば自然とマリカは「清楚」に見られた。必死にならなくとも周りは勝手にナミと比べてマリカを褒めてくれた。
マリカはナミが「マリカ」になりたがっていると気付いていた。
マリカはそんなナミの隣に居るだけで「マリカ」の価値が上がって行った。
二人だけが「マリカ」の価値を知っていた。
「私にこんな傷を付けたナミを絶対に忘れてあげない」
ナミに刺された箇所はたまに痛むがそれがマリカは嬉しかった。
二度と会えない、会う事もない美しいナミ。そのナミが残した唯一の傷。
この傷のおかげでユウトは絶対にマリカを裏切ることはないのだ。
微かな笑みと共に小さく呟かれた言葉は届かず「何か言った?」と首を傾げるユウトに「何でもない」とマリカは答えた。
「ねえ、折角だから入ってみようよ。BARかな」
返事を聞かず手を引くユウトが店の扉を開いた。一斉に溢れるそれは時を刻む音の洪水。
カッチコッチカッチコッチ
チッチッチッチッチッチッ
コチコチコチコチコチコチ
「凄い⋯⋯」
「時計だらけ」
「いらっしゃいませ」
時計に囲まれた店内のカウンター。マスターが声をかけた。
「最初の一杯は私がお客様にお薦めしたいものを、お出しております。もちろんその分はサービスです。お座りになりますか?」
「面白い」そう言ってカウンターに座るユウトの隣に並んでマリカも腰を下ろす。
カッチコッチカッチコッチ
チッチッチッチッチッチッ
コチコチコチコチコチコチ
「ねえ、マスターどうしてこんなに時計だらけなの?」
「気が付いたら増えてしまったのですよ」
「こんなになる前に気がつくものだろう」と隣でユウトが笑った。
「シンガポールスリングとギムレットです。お好きな方をどうぞ」
差し出されたカクテルを二人は迷う事なく手に取った。
ユウトはシンガポールスリング。マリカはギムレット。
「凄いな。飲みたい物が分かっている」
「ええ。私もギムレットが飲みたいって思っていたの」
「お気に召して頂けたようで」
マスターは軽く一礼してグラスを磨き始める。
ふと、腕時計が並べられたショーケースがマリカの目に止まった。
それは並んだシックな腕時計の中映えるワインレッドの腕時計。
「マスター。この時計、見せてもらっても良いかしら?」
「ええ、是非。お手に取ってご覧ください」
「キレイ⋯⋯」
「特注品かな。般若と桜⋯⋯少し怖いな」
ワインレッドの文字盤に描かれた般若と桜。
「般若の面てあるでしょ? よく見ると般若の表情は上半分だけ見ると悲しんでいるように見えるの。
そう見れば怒りだけではなく、人の心を表しているのかも知らないわね」
鬼となった自身の羞恥と後ろめたさを嘆き悲しみながら、そうなってしまった全てに対してへの激しい怒りを表す般若は元は美しい女性だったのだろう。
相対する感情を同時に持ち得るのは「人間」だからこそ。
「⋯⋯ナミ⋯⋯」
マリカは時計を手にしてポトリと涙を落とした。
何故かは分からないが、この腕時計が懐かしい。
「あの、これ⋯⋯譲って頂けませんか⋯⋯」
カッチコッチカッチコッチ
チッチッチッチッチッチッ
コチコチコチコチコチコチ
ゴーンゴーン⋯⋯
ピピピピ⋯⋯
ジリリリ⋯⋯
時計達が突然時刻を告げた。
はっとしたマリカとユウトが顔を上げると何事も無かったようにマスターはグラスを磨き続けている。
「あら? もうこんな時間?」
「マリカ、ゆっくりし過ぎた。引っ越し業者の時間忘れていたよ」
慌ただしく席を立つ二人が「あっ」と声を上げて振り向いた。
「お支払い⋯⋯」
「サービスです」
「でも」と戸惑う二人にマスターは「では、縁があった時に」と頭を下げた。
「ありがとうございます。素敵なお店でした。また、来ます」
静かに扉が閉じられ、マスターは顔を上げた。
「シンガポールスリングのカクテル言葉は「秘密」。ギムレットのカクテル言葉は「遠い人を想う」」
二人の関係にピッタリだろう。
マスターは一つ空きが出来たショーケースをパタリと閉じて口元を緩ませた。
「貴女の願いは叶いましたね」
時計館に集まる時計達は持ち主を選ぶ。
ワインレッドの腕時計はマリカを選んだ。
彼女はマリカの元へ行きたがっていたのだから当然と言えば当然。
「御来店ありがとうございました」
・
・
・
マリカとユウトは違和感を感じつつもお互い触れられずに小走りで駅へと向かっていた。
変わっていて素敵な店だった。時計が多くて不思議な店。
しかし、思い出せないのだ。
何度思い浮かべても真っ黒なまま。
──マスターはどんな人だったのか──
話をした。グラスを磨いていた。思い出せるのはそれだけだ。
「ギリギリだなあ」
「急げるだけ急ごう」
ユウトの手を取ったマリカの左手首にワインレッドの腕時計がキラリと光る。
心なしか般若の表情が柔らかくなっている事に、二人は気付く事はなかった。