後編
その日マリカは花束を作っていた。
用意したのは百八本の薔薇とかすみ草。
プロポーズされてから約一年。
ずっと待たせてしまっている。
ナミの問題は解決の目処が立たず返事はまだ出来ないけれど、だからこそ「私の気持ちは変わらない」そう伝える事にした。
百八本の薔薇と言えば男性が女性に渡す物なのだろうが返事を待たせているのはマリカだとユウトを思いながら一本一本に気持ちを込めて、ユウトと共に在りたいと花束を作り上げた。
花束を抱え待ち合わせ場所に着いたのは約束の時間の十分前。
顔見知りが驚いた表情を見せながらも察してくれたのか微笑みながら通り過ぎて行く。
待ち合わせの時間。
ユウトの姿はまだ見えない。少々の遅れは想定内。
十五分過ぎた。
先程通り過ぎた顔見知りとまた目が合う。微かに眉を寄せて通り過ぎた。
三十分過ぎた。
何かあったのなら連絡をくれるはず。握りしめたスマホは何の反応もしていない。
一時間。
マリカはぎゅっと花束を抱きしめる。むせかえる薔薇の香りが一層の不安を湧き上がらせた。
何かあったのだろうか。何かあれば連絡をしてくれる。
待たせ過ぎたのだろうか。それならば自分のせいだ。
失望されたのだろうか。ならばこの恋は終わりにしなくてはならない。
泣きたいのを堪えてマリカはスマホを操作する。
震える指先は上手く動いてくれないが、視界がぼやける前に、伝えなくてはならない。
こんな終わりだとしてもユウトには感謝している。好きだった。だからこそユウトの幸せを願うと伝えたい。
──貴方の幸せを願っています──
たった一言を入力するだけなのに、幸せの文字にとうとうマリカの堰堤は決壊した。
溢れる涙が薔薇に降り注ぎマリカは嗚咽を漏らした。
座り込むマリカに誰も話しかけられないで通り過ぎて行く。
どれだけ蹲っていたのか辺りから人気が無くなり繁華街からは客引きの声、女性の笑い声が聞こえ始めた。
マリカは花束を抱え、何を見るでもなく虚なまま時間と共に表情を変える街並みを眺め続けた。なんとか打ち終えたメッセージを画面に残したまま送信できず時間だけが過ぎて行く。
「⋯⋯帰ろう」
そう言って立ち上がるマリカの手元がブルルと震えた。
──家に来て──
画面に映るそっけない一言。
ブルル。
「⋯⋯何、これ⋯⋯」
再び震えたスマホの画面にユウトの部屋が映し出されている。その画面の奥のベッドには横たわるユウト。
構図が「一人では撮れない写真」だ。
もちろんセルフタイマーを使えばいくらでも撮れるが、マリカは写真の端に映る物に気が付いた。
それはワインレッドのネイル。
この色を好んで使う人物はマリカの知っている中では「彼女」だけ、だ。
──けりをつけなくては。
プロポーズの返事はナミの問題を片付けてからと自分から言ったのだ。
負けない。何よりも自分自身に負けられない。
マリカは震える手を強く握り締めて顔を上げた。
・
・
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「マリカーっ久しぶりいー。遅かったじゃない」
マリカがユウトの部屋に着くとあられもない姿のナミが出迎えた。
マリカは玄関先ではしゃぐナミを「近所迷惑よ」と窘めながら奥を窺う。
「ユウトは?」
「やだあ、久しぶりなのに冷たいなあ⋯⋯だからユウトに飽きられちゃったのね。ふふ」
勝ち誇った妖艶な笑みを見せるナミを無視して部屋に上がったマリカは散乱する空き缶と乱雑に脱ぎ捨てられた服をチラリと見てユウトへと近付いた。
グッタリと寝入っているユウトを見下ろして溜息を吐くと振り返り冷ややかな視線をナミへと向けた。
「何よ。ああ、なんで私がここに居るのか、ね。私ね、ユウトからマリカと別れたいのに別れてくれないって相談を前からずっと受けていたの。余程マリカと別れたかったのね。強くもないお酒をこんなに飲んじゃって」
服を着ながらナミは勝手に話を続ける。
「今夜も相談を受けていたんだけど、ユウトが本当は私の方が好きだって告白してくれたのよ。だから──」
「寝たの」とマリカの耳元でナミが囁いた。
溜息を吐いたマリカが呆れた様にナミを見返すとナミは動揺を見せた。
ナミの癖だ。「嘘」を吐いている時は視線が泳ぐ。
「ナミ、ユウトにお酒と睡眠薬を飲ませたわね」
マリカはユウトの寝息が規則的に立てられている事に胸を撫で下ろしてナミを睨みつけた。
「知らないわっ」
そっぽを向くナミにマリカは確信する。
ナミは睡眠薬入りのアルコールを無理矢理飲ませた挙句、酩酊状態のユウトと事に及んだのだ。
マリカは一つユウトと約束をしていた。
──必ず別れを受け入れる事──
それは、愛情が薄いからではなく、互いの幸せを願える様に。
ユウトが別れたいといえばマリカは受け入れると彼は知っているのだからこんなやり方で別れようとはしない。
「私はユウトを信じるの。最後になるのなら尚更信じる」
「裏切られたのに信じる?信じられるの?あんた馬鹿じゃないの。あははっ! 惨めね、捨てられたって認められないなんて。あたしの方が美人だもの。あんたとあたしだったら、あたしを選ぶに決まってるじゃない!」
テーブルの上の物をなぎ払いながらナミが叫ぶ。
ナミの目は見開かれ、瞳孔が小刻みに揺れている。
その形相は──般若の様。
「あのね?ユウトはあたしを抱いたのよ。下手だったけどね。コイツで満足できるのはあんた位だわ。でも、コイツエリートだし? 顔も良いし。あんたのお下がりだけど貰ってあげるわ。金が無くなったら捨てるからその時にでも拾えば?あははっあはっひゃはっ」
ケタケタと笑いながら品のない言葉を次々と吐き出すナミ。
それをじっと聞くだけのマリカ。その目には憐れみが浮かんでいる。それがナミには気に入らなかった。
「余裕ぶってんじゃねーよ! 何でも手にしているあんたが最初から気に入らなかった。ブスなのに勘違いして人気者気取り? あたしの方がずっとずっと美人よ! なのに誰もがあんたを褒める。あたしが寝てやったのにあたしから離れていくのよ!」
般若は己自身の内側にある。それは自身の生きてきた道。その中で得た物。
ナミは彼女の道が思い通りの華やかなものではない事への渺然たる怒りと、欲しいものを手にした者への茫々たる嫉妬に飲まれていた。
「ああっ気持ち悪いっあたしが喋ってんだよごちゃごちゃ煩い!」
突然ナミは取り乱し始めた。聞こえない声に怯え、苛立ち、体を掻きむしりはじめる。
その仕草はまさに──薬の中毒症状だった。
「ナミ⋯⋯貴女、落ちる所まで落ちたのね」
どうして、こんなになるまで助けを求めてくれなかったのか。あんなに綺麗だったのにどうして、こんなに醜くなってしまったのか。
──ああ、私をこんなにまで憎んでいたのね。
「うう⋯⋯ん⋯⋯マリ、カ⋯⋯」
ユウトの呻き声にほんの一瞬意識が逸れてしまった。
同時にマリカはほっとする。睡眠薬が切れればユウトは目覚める。起きた時、彼は罪悪感に苛まれるのだろう。けれど、それはユウトの意思ではなかった。そう言ってあげたい。
ユウトがそれでも別れると言うのなら、受け入れる。
──そして、出会いから、初めからやり直そう──
苦しそうなユウトの額に手を当て、彼のその体温を感じてマリカは安心から微笑んだ。
ナミはマリカが「何でも持っている」と勘違いしている。
マリカは何も持っていないのに。施設で育ったマリカには家族と呼べる人が居ない。子供の頃はそれで虐められていた。寂しかった。一人は嫌だった。だから大好きな花で人と繋がれる仕事を始めた。
マリカから見ればナミの自由さが羨ましかった。誰もが振り向くその華やかな容姿も、相手を楽しませるその話術も。
ナミはマリカが嫌いだったとしてもマリカはナミが好きだった。この街で初めて出来た大切な友達だった。
ナミとはもう終わりだ。今夜、二人は決別する。
「ナミ、ちゃんと話をしましょう──」
マリカが振り向きナミの肩に手を置くと、俯いていたナミが顔を上げた。
涙で化粧はボロボロになってしまっている。
虚で焦点の合わない目のナミに視線を合わせる様にマリカが屈むとナミは薄らとした笑みを浮かべた──。
──ズブリ──
「⋯⋯っ!? ⋯⋯あ、ああ⋯⋯」
衝撃と熱がマリカの腹部に広がった。
カシャンと物音がした方向に視線を向けてマリカは絶句する。
廊下に投げられたのは真っ赤に染まった果物ナイフだった。
「ナ、ミ⋯⋯貴女⋯⋯、あな、た⋯⋯」
「あはっひゃはっ! やったわ!化け物を倒したわ。あひゃはっ」
マリカが痛みと苦しさにやっと声を出す姿を見下ろすナミはひどく歪んだ笑顔で笑い声を上げた。
震えながら伸ばされたマリカの手を払いナミは高笑いを上げながら外へと素足のまま部屋を出て走り去って行ってしまった。
「ナミ⋯⋯」
ぬるりとしたものが床を染める。
マリカは痛みの中、ゆっくりと意識を手放した。