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中学生哲夫の成長物語

秋晴れが続く、休日の午後。陽射しが家々の外壁を、明るく照らす。

世間では大型連休、シルバーウイークだ。一年で一番陽気なこの季節に、レジャーに励む家庭は家を留守にする。もっとも、大半の家は空けられることなく、住人は家にいる。休日でも仕事を抱えているか、あるいはこの家のように、家族は半端な時間を持て余してどこか落ち着きなく過ごしている。

ここは、郊外の住宅街。2階建ての家は、少し古いものの4人家族が住むには十分な大きさだった。家は持ち主を一度替えた。家の内部はところどころリフォームされ、クロスを張り替えた部屋は中から見ると新築のように真新しい。一方で、一階の廊下には急場の耐震工事があつらえてあり、家は新旧入り混じった様相である。

それは住人の入れ替えや建て替えで、雑多な風景を作り上げてきた、この住宅街の縮図でもある。


2階には、この家の中学生の長男「哲夫」の部屋があった。南向きの部屋は、窓から射し込んだ光で明るい。陽射しは白いクロスに反射し、光量は部屋の隅々にまで届いていた。哲夫は部屋で、窓を背にして絨毯の上に裸足で立っていた。

グレーのスウェットにノーブランドの長袖トレーナーという、この上なくラフな部屋着姿である。

この部屋には他にも家族がいた。哲夫の向かいに立つのは一つ年下の妹の萌花。彼女は花の刺繍の入った白のハイネックにボルドーのジャージ上下を合わせている。プチプラだが若者らしい上手な着こなしだ。萌花の隣には母親がいて、さっきから手を所在なげに動かしている。大きな花柄模様のチェニックの上からカーディガンを羽織っていて、服は新しくて良いものなのに、どこかちぐはぐな雰囲気だ。

部屋には窓を向いてパイプベットが置かれていた。それから、机と小さめのクローゼット。いずれも同じ時期に揃えられたものだ。6畳の部屋には家具が並び、残ったスペースは広くない。つまり3人がくつろぐげる広さではない。3人はこの狭い部屋で、異様な雰囲気で立ちすくんでいた。

部屋の入り口は廊下につながり、扉の陰で光は廊下まで届かない。わずかに開いた扉の向こうには、一階のリビングから上がってきた父がいるはずだ。


3人の間で張り詰められていた異様な空気を、「ドッゴン!」という鈍い振動音がわった。白いサラな壁紙にヒトの活動がはじめて刻印される。

それは中学2年生の哲夫の拳が、たった今つけた痕だ。殴られた壁は小さく振動し、音はさらに外側まで広く波を伝える。振動音の後に続くのは静寂。普段と何も変わらない日常の連続。カレンダーしか掛かっていないシンプルは部屋には、白い壁紙が何事もなかったように浮き立つ。

でも、哲夫の心の中では留まっていたものが、一気に堰を切って溢れ出ていた。不思議と手に痛みは感じない。壁紙の細かな凹凸が皮膚の深いところと一時的に同調し、知覚されるのが心地よいくらいだ。 拳の骨は折れただろうか。血は出ていないようだ。

まるでシンバルみたいな拳の合図に続く、長い沈黙。聞こえてくるのは哲夫の荒い息ばかり。


家族全員が混沌の渦の中にいて自分以外の全てが混乱している。と、哲夫は思った。

(ここに至るまでの出来事を全て時系列に並べたなら、僕は悪くないと誰の目にも分かるはず。悪いのは僕じゃない!僕がこんなに怒るのは当然の事なんだ。我を失って壁を殴ったんじゃない。正気だからだ。拳は今このタイミングで、正しくちゃんと鳴り響いたんだ。)

アドレナリンが哲夫の身体を駆け巡って、握り締めた手は震えていた。


ことのはじまりは、家で昼食中の会話だった。学校の中間テストを哲夫が受けなかった事を、他の家族がなじったのだ。

父、母、妹と哲夫の4人は、一階のリビングで母作った焼きそばと味噌汁を食べていた。哲夫は自分がこれから話の中心にあげられることをまだ知らない。そうは言っても、テストのボイコットが槍玉に上がるのは時間の問題だったわけだが。

父はもやしとわかめを箸で摘み味噌汁を飲み干すと、椀を机に置いた。視線は家族の誰を見つめるでもなく、どこか遠くを見ている。これはいつも通りの父の姿だ。

向かい合う妹と母はすでに食事を終えていた。母親の湯飲みはさっきからずっと手の中にあって、湯飲みは手の体温で温まっている。ペットボトルから注いだお茶を飲みながら、テストの話題について持ち出すタイミングを二人して伺う。

哲夫は皿に残った焼きそばをきれいに食べ終えると、箸をおいた。

それを見計って、母がモジモジしながら

「お兄ちゃん。テストはどうしたの?」と、口を開いた。

母にしては、これでも随分と直接的に聞いたものだ。世間話や愚痴のたぐいは絶え間ないが、いつも直接の物言いを母はしない。

隣にいた妹は、援護船を出すぞとばかりに、自分の内情もごちゃ混ぜにして話をつなげる。

「お兄ちゃんごまかせるとでも思っているの?中間テストは私も受けたし、結果はもう連休前に返ってきたんだからみんな知っているのよ。お兄ちゃんがテストをサボったって。」


萌花は哲夫と同じ中学に通う。兄の哲夫が中学二年生、妹の萌花は中学一年生だ。

「2年生の勉強が大変なのはわかるよ、来年には受験生だしね。私だって中学に入ったら、小学生の頃とは勝手が違って、勉強が難しいとわかったし。」

萌花と哲夫は同じ中学校に通うが、学校内での人気度と知名度の総数もしそんなものがあればだがなら、萌花の方がレベルは上だろう。萌花は持ち前の明るさと機転の良さで、入学してからの半年間であっという間に学内での地位を確固たるものにした。萌花は友達も多く、何かと一目置かれている。一年生にして、すでになかなかの情報通だ。部活はバスケ部で、そこでの立ち回りも上手く、頑張り屋で上級生からも慕われている。

バスケ部には哲夫と同じクラスの2年生のA子がいる。


「どうしてテストを受けなかったのか」哲夫の言い分を、萌花は待たなかった。はじめから兄の話など聞く気など、彼女にはなかった。

兄が何か言ったところで、妹に反論の合いの手を与えるくらいにしかならないことを哲夫は知っている。だが、槍玉にあげられるのは、残念ながら、あきらかに哲夫の方なのだ。

「中間テストを受けなかったの?でも、その日、学校に行ったよね。今回のテストは理科と数学が特に難しくて、2年生は全体的に成績が良くなかったって。ねえ、ちゃんと私の話を聞いているの?お兄ちゃん来年は3年生、受験生になるんだよ。大事な時期なんでしょ?わかっている?」

萌花は、母親に代わって哲夫を叱るのが自分の役目と信じている。実際、萌花が裏で焚きつけてなければ、今回のことは家族の話題に上ってなかったかもしれない。哲夫のサボタージュは、無視されていたかもしれなかった。


中間テストの日、哲夫はいつも通りに登校して試験を受けた。学校には普通に登校したし、普段の成績もそれほど悪いわけではない。周りの目には何の問題も映っていなかった。

しかし、この時の答案用紙を、彼は白紙で提出した。問題の回答どころか、名前すら書かなかった。

「担任の先生が心配して、電話をかけてきたんよ。哲夫くん家庭での様子はいかがですかって。」

母が萌花のセリフに続いてようやく言葉を発した。

父は黙っている。こう言うとまるで亭主関白な父親像を思い浮かべるかもしれない。だが、家庭での実権を握っているのは母の方だ。

いつもは母が間接的に出しまくる指示で、父はようやく動く。でも、今日の父は何だか様子が違う。突き放すような視線を母にむけるか、或はそこに居るだけで我関せずだ。


「テストをボイコットする。」こう言えば、どこの家庭にもありがちな思春期だの反抗期だののごくありふれたよくある話の一つに過ぎない。だが当の家庭にとっては、問題を抱えている家庭の総数の多少など救いにならない。

「中二の息子がテストをボイコットした。」これは一家における一大事だ。少なくとも、哲夫の母にとっては。

 「テスト勉強はやっていた。準備はちゃんと普通にした。」

哲夫は一言話すと、このさきに続ける言葉を何度も何度も舌のうえで回して準備した。喉が乾いている。そして、ついに言葉を吐き出した。

「テストが始まって筆箱を開けた時、使える鉛筆が一本も入っていなかった。だからテストを受けられなかったんだ。」

哲夫は自分が状況をうまく説明できていないことに気づいてなかった。家で中学校でのいじめを話すのは、今日が初めてだった。

いじめはこのテストの時が最初ではない。中学生になってはじまり、1年以上の期間を経てゆっくり熟成されてきたものだった。クラスでの無視や陰口による孤立は、今や日常的になり、自分の持ち物がなくなったり汚されたり壊されることは、陰日向に続いていた。彼には、自分の何が悪くてこうなったのか思い当たる節もなかった。

テスト前に鉛筆が折られてたのも今回がはじめてではない。2年になってからは特に、鉛筆が執拗に折られたり消しゴムがなくなることが頻繁に繰り返されていた。ごくはじめの頃は、いじめられている確証がなかったし(自分の思い違い)としてやり過ごそうとしていた。だが、この秋のテストと時に感じた悪意はあからさまでショックだった。直接の暴行でなくても、バキバキにおられた鉛筆の残骸や乱暴に扱った跡のある筆箱には、自分に向けられた憎悪がハッキリと読み取れて吐き気がした。おとなしくして、それをやり過ごそうとしいるうちに、今度は自分がいじめの加害者だという噂が流された。

哲夫は担任からいじめの件で職員室に呼び出された。その時、彼はこれで却って自分の濡れ衣は晴ただろうと思ってい。ところが担任は、自分は被害者なのか加害者か見極められない様子で言った。

「いじめている側だろうが、いじめられている側だろうが、どちらにしても周りとうまくやれていないお前に問題があるんだ。」

教師はそう言って、ことの真偽を明らかにすることなく哲夫だけを叱った。教室に帰ると他のクラスメイトの何人かが自分にだけにわかるように陰口を叩いた。「バカじゃねえの」とか「あいつオカシイから」とか。嫌がらせは、その後ますますエスカレートしていった。

「自分は正しいことをしている」と、哲夫は思う。なのに不思議なことに、誰も自分の味方につかない。近頃は教室にいると背中から突き飛ばされたり物を投げらることが頻繁にあり、嘲笑う声をそれとなく自分にだけわかる様に浴びせる。

(いじめなんて無視していればそのうち飽きて止まる。勉強をちゃんとしていれさえすればいい。)

そんな楽観が、学校に通い続けるのには必要だった。「ようやくいじめも納まりつつあるかな。」そんなふうに思える日も近頃は続いていた。そんな中、再び悪意の不意打ちを食らったのが今回のテストだった。

テスト前の緊張感と相まって思考が行き詰まり、嫌になって投げやりにテストを白紙のまま提出したのだった。

学校の帰りすがら、それでも哲夫の心は混乱していた。

(もしかしたら、俺は欠陥人間なのかもしれない。昔から脇が甘いとかぼーっとしているとかよく言われていたし。こうなったら、親に一連のいじめを説明すべきなのだろうか。「家族だけが味方」と、誰かも言っていたし。でも、どうやって? 何度も言われていたんだから、僕がテスト前にちゃんと筆記用具を確認しておけば良かったと言われたら…。今回のことも今までの諸々も、やられたら黙ってないで、最初からやり返すべきだったんだ。でも、もう遅い、きっと。かと言って、このままでは嫌がらせがエスカレートするばかりだ。いっそ中学を最初から別のクラスでやり直したい。)


担任から家に連絡があり、連休に入り。ようやく今日、こうしてことが動き出したわけだが。残念ながら家族に相談すると言う哲夫の試みへの家族の反応は、がっかりするほど鈍かった。哲夫の決死の告発は、理解や思いやりとは程遠いところで迎えられる。

「それなら鉛筆を借りればよかったじゃないの。受けなくていい理由にはならないよ。」

萌花の言葉に母も同意する。

「だから、受けなかったんじゃない。受けられなかったんだって最初から言っているだろう!」

舌がようやく回ってきて、哲夫は話し続ける。

「俺の鞄を勝手に開けた奴がいるはずなんだ。俺のテストは意図的に妨害されたんだ。これまでだって…」

話の続きを、無関心が遮断した。

「そんな言い訳なんて、聞きたくない。勉強したとかしてないとかかなんて関係ないの。受けるべきテストなんだから最後までやりなさいよ。」


・・・・・・

萌花のバスケ部の先輩のA子は、哲夫と同じクラスの中学2年生だ。1年生の時はなんとなく顔なじみの同級生というだけだったが、哲夫の周りは気がつけばA子の取り巻きに包囲されていた。クラスメイトの無視だの噂話だのはよくあることだ。気付いていても気にしないふりをしていた。

自分を強く持てば、メンタルを保つのはそんなに難しいことではない、と信じながら。いつの間にか、哲夫はいじめの加害者でクラスのB美をいじめている、という話になっていた。哲夫は、もちろんこれも無視した。この噂話が教員の耳に入り、哲夫が担任に怒られたのは先に話した通りだ。噂の出所についてなんの判断も下さなかった学校に哲夫は不信感を抱く。

(嘘と真実が見分けられない。そんな事って本当にあるのだろうか?)

大人は忙しい。「曖昧なままにしておく」それは、社会では必要なスキルなのだ。実際に曖昧なことは、多々ある。だが、そんな事情を理解するには、哲夫はまだ純真で単純で若すぎる。

嫌がらせは止むどころか、どんどんエスカレートしていった。気づけば、クラスに哲夫の味方はいない。

ある日、教室でB美とA子が一緒にいるのを見かけた。二人は椅子を前後で並べ親しげに話していた。

哲夫をチラリと見てから、A子は「ふん。」と鼻を鳴らして再びB美に向き直った。B美はわざとらしく視線を哲夫から逸らして、薄ら笑いを作る。

哲夫に対する一連のいじめを裏で操っていたのはA子だった。このことを知ったのは、実はわりと最近のことである。

標的を孤立させ絶望させて追い詰めてから落とす。そんな事はA子にとってはバスケのゴールを決めるくらい造作もない事だ。A子は直接手を下さない。だから、哲夫は長いことA子の策に気づかずにいたのだ。

・・・・・・

これだけはっきり伝えれば、家族にも少しはわかってもらえただろうか。哲夫は自分のいじめへの説明が十分でないことを理解しないまま、援護を期待する。彼は母の、父の、萌花の反応を伺う。

(きっと、今日のことがきっかけになって、これから楽になる。)

だが家族は、哲夫の側に立つ努力が不十分だった。どころが、母の台詞は予想もしていないものだった。

「それでこの先、その。学校には行くの?行かないの?大事なテストだったんでしょう?試験はもう一度受けるの?」

(学校に行かない?もう一回テストだなんて。いま一体なんの話をしているんだ)

「もういい。学校には行かない!」

哲夫は反射的に言葉を吐き捨てるとリビングを出ていった。怒りで肩を震わせながら、階段を蹴るように上って自分の部屋に向かう。

そうして2階に着く頃には、怒りの感情の底から絶望がゆっくりと昇ってきて虚しさをおぼえる。幸い、後ろから哲夫を追いかける足音がした。

ところが、足音の主は哲夫を気遣ってはいなかった。一方で、彼の吐き捨てた台詞が本人の思っても見なかった形で別のページを開きつつあった。

「ふざけないで、学校辞めるだなんて馬鹿じゃないの。いい加減にしなさいよ、お兄ちゃん。鉛筆をただ折られただけでしょ。」後を追って哲夫の部屋に入った萌花は、慣れた口調で淀みなく哲夫を非難する。

遅れて部屋に入った母もなんとなく萌花に同調しようとする。いまとばかりに、哲夫を非難するタイミングを探すがみつからない。

「正気じゃないわ、今まで上手くやれてたじゃないの。今までできたことがどうしてできないの。そうゆう反抗的なところって、お兄ちゃんのキャラじゃない。」

萌花が出す金切り声が、家族の総意であるかのように大きくなった。


萌花が、学校での一連のいじめの主犯(おそらくA子とその取り巻き)と重なって見えた。だいたい、萌花はバスケ部先輩のA子の肩を持って、一緒になって自分を悪く言っていた側じゃないか。

母親が、論点をずらして問題を無視した教師と重なって見える。教師だって、A子の嫌がらせに薄々感づいていたはずなんだ。

父と世間の無関心が重なって見える。いじめなど、どこでもある事なのだ。いちいち構ってなんかいられない。

言い返す言葉を探す代わりに、哲夫は思わず拳を振り上げて壁を思いっきり殴った。

ドゴッン!

物が相手とはいえ、哲夫が腕力に訴えたのは初めてのことだった。

拳を握りしめて睨むと、妹はようやく口を閉じる。

(今は兄に侮蔑の視線を投げつけるだけにしよう。)母の方は顔を醜く歪ませている。

ようやく静けさを取した部屋で、哲夫は思考の自由を得た。

口元を緩ませると、力の解放に浸る自分自身に驚いた。

何と言う僥倖!

もし今、思い残す後悔が一つあるとするのなら…唯一の後悔は。なんでもっと早く、こうしなかったのかということだ。

拳が奏でるのはフィナーレなどではない。哲夫の物語は今始まったばかりだ。


・・・A子・・・

A子は中学から一緒になった同級生だ。髪はストレートの黒髪で肩より少し長いくらい。前髪をパッツリと切り、白い肌にキリリとした目をしている。赤いラインの目貼りメイクをしたら、きっと彼女によく似合う。背丈は成長期にあって、クラスでは小さい方だ。彼女は「可愛い」と言われている。


ピカピカの制服。はじめての中学の教室。配属されたクラスで、A子は哲夫にやたらと話しかけてくる。きっと誰にでも気をかける八方美人なんだろう。正直なところ、押しの強い子を僕は苦手だ。

「おはよう」

哲夫の席は教室の後ろの窓際の席だ。入り口近く前の方に座る彼女は、僕を認めるとわざわざ席まで寄ってきて、毎朝かならず声をかける。

「ああ、うん。」

僕は一応、返事する。最初こそ彼女に話を合わせていたけれど、どんどん話し込んでくるから気後れしてしまう。

このクラスの生徒達は男女の仲がいい方ではない。憎しみあっているわけではないけど、年頃もあってかお互い目に見えない大きな溝がある。

教室の他の生徒がごくたち二人を見ている。気恥ずかしいじゃないか。わざわざ席まで来ないで欲しい。

A子は次の日も同じようにした。次の日も、その次の日も。哲夫が無視しようとしても話しかけてきた。

「挨拶」の風紀委員のつもりか?僕だって、挨拶くらいはするよ。でも、クラスで目立ちたくないんだ。わざわざみんなに聞こえるような大きい声で話しかけられるのはちょっと嫌だった。

僕の返答の仕方はどんどんぞんざいになって行く。ポケットに手を突っ込んだまま、わざといい加減に返事をする。ついには朝ギリギリの時間まで登校を遅らせて、みんなが着席するまで待って、A子を避ける。だんだんそんな自分がバカみたいに思えてきて、それから挨拶もせず返事もしないことにした。

朝、彼女が僕を見たら僕はさっと顔を伏せる。

A子は、「キッ」と怖い顔をした。


学校生活に慣れた頃、部活動の希望調査票が配られた。

哲夫はサッカー部に入部しようと決めている。サッカーが誰より上手い、と言うわけではない。受け入れ人数が多くて楽な部活だと聞いたからだ。

近所には民間のカッサークラブが複数あって、上手い子は皆どこかのクラブに所属している。

彼らはプロを目指した大会に出るために、学校の部活動が免除されている。サッカー部の顧問は社会科の先生だ。噂によれば練習はキツくない。

A子は配られた調査票を手に、哲夫の机までやってきた。

「哲夫くん、なんの部活にするか決めた?」

哲夫は一瞬身構えて、その時いやそうな顔をしたかもしれない。

A子は親しげな表情で哲夫を見つめる。以前に彼女を無視して、気に障らせたのは哲夫の思い過ごしだったようだ。彼女は、しつこく付き纏わなくなったし、あの時の僕の態度はもう気にしていないみたいだ。

「第一希望はサッカー部。第二希望は水泳かな。」

哲夫は第二希望の水泳には、全く興味がない。水泳は受け入れ人数が限られた人気の部だから、第二希望は通らないだろうとの算段だ。

「バスケ部に入りなよ。うちのバスケは強いんだよ。顧問は体育の先生で、練習が厳しいんだって。まあ、強いのは女子バスケなんだけどね。でも、男子の方だってそこそこ強い。同じ先生が指導するしね。」

哲夫は「バスケ部だけには絶対に入らないぞ」と思った。毎日汗だくで練習し、みんなで一緒になって大会での優勝を目指す。あるいは、自分の限界に挑戦する。でも、そんな熱血には憧れないタイプもいる。哲夫もそんな1人だ。


哲夫はA子が大嫌いと言うわけではない。彼女は「可愛い」方だろうし、気配りも上手だ。

でも、そんなことは関係ないんだ。彼女のことが苦手だ。A子の笑い方はどうも僕を馬鹿にしている様に見えてしまうし、そもそも女なんて興味ないし鬱陶しいだけだ。


A子の魅力を哲夫は知らない。A子の恐ろしさも。

彼女の家庭は、外見からは窺い知れないほどその内部は荒れていた。複雑な家庭環境や彼女が家族から受ける日々の重圧など、哲夫には理解しろ同情しろと言っても出来ないしろものだ。

顔を知っている程度のクラスメイト、というのが哲夫のA子に対する認識だ。

一方、彼女は自分自身に対する気負った理想のイメージがあった。

「親や教師から見たら自分は従順で完璧な生徒」

今は実際、その理想に近づきつつある、と彼女は思っている。きっと自分は俊敏で元気が良い。そうでなければならない、と。

彼女は自分を擬態化させるのがとても得意だ。もしパズルのピースの穴を誰かに指し示されたら、自分はその穴にぴったり合うように自分を作り替えることが出来る、と思う。日々そのように努力しているから、擬態の腕はますます磨かれつつある。

彼女は希望通りバスケット部に入り、哲夫もサッカー部員になった。哲夫のサッカーの方は、結局時間潰しにしか練習しなかったけれど。


秋になった。A子はバスケット部のレギュラーになり、次の大会に出るらしい。うちの学校のバスケ部は市内でもとても強いのだ。1年生でしかも背の低い彼女がそんな部のレギュラーを取れたのはかなり頑張ったからだろう。ボールを体育館の倉庫に取りに行く時、バスケット部の練習風景を見かけた。顧問はボール片手に怒り、

部員の生徒たちは皆頭を垂れて黙って聞いていた。30分後、ボールをしまいに行った時、顧問はまだ同じ体勢で怒鳴り声を上げていた。まあ、やり切ったものにしか分からない世界を哲夫は経験し損ねたわけだが。


理想の自分になりきれないA子の笑顔には陰がさす。彼女のその陰は日ごとに大きくなる。

何気ない会話。浮ついていて開けっぴろげに見える無邪気な哲夫は、自虐的になってゆくA子の変化には気づかない。たまりゆく不満。彼女が心の内に秘めた鋭い刃は、やがてエッジを外へ向けて、その矛先を探る。ロックオンされる哲夫。


哲夫は、あいつは自分のことしか考えていない。

彼は周りに迷惑ばかりかけている。

日々の努力を怠っているのに、なぜか彼は欲しいものを全て手に入れているのか。穏やかな家庭や学校環境も、周りの評価も、自分の気持ちさえも。何も知りもしないくせに。

ああ、ムカつく。あいつのこと、最初は結構気に入ってたのに。この私が、わざわざ気をかけてやっていたのにな…。


彼女は自分が辛抱強い方だと考えているが、吸い込まれるようなその瞳にはいつも闇と嫉妬と怒りが消えない。でも側から見れば、A子はちょっとした難しさを抱えたごく普通の女子中学生だ。

自分の不満や怒りは大人たちからは見えないように隠さなくてはならない。誰からも注目されなくても、たとえ全員が自分を見ていなくても、やらなければいけないことはきちんとやり通す。大人になるには必ず試練が必要なのだ。自分の力を試すには、哲夫はちょうどいいターゲット。

私なら、それをとても簡単にやってみせる。


女子生徒とはもちろん男子生徒ともつるまない哲夫にとっては、彼女は理解できない存在だった。

投げかけられる言葉は

「おはよう。」とか

「これから部活なの。」とか。どれも些細で普通に聞こえるものばかり。

それは、マシュマロやつきたての餅のような柔らかくて弾力があり、どれも何気なく聞こえるものだ。ふわふわと軽いボールのような。しかし、言葉はどれも注意深く慎重に準備されたもので、A子は完璧なタイミングでそれを投げる。

哲夫はそのまま返事をする。サッカーのヘディングでワンバウンドで返すように。

ぶっきら棒にポケットに手を突っ込んだまま、投げられたボールを、そのまま同じ軌道で返す。

投げられるボールの形が、いつの間にか球が崩れて歪になる。

歪みがあると、同じ軌道を描けない。

白かったボールには、やがて具合の悪い病人ような陰がさす。

哲夫は、やはりワンバウンドで投げ返すだけだ。

ボールの色はすっかり燻み、白いところがなくなる。それから、球の形はますます崩れていく。

さらにどんどんと乾いていけば、硬い部分が露出して弾力を失い、言葉は用を成さなくなる。弾力を失った言葉はあちこちぶつかりながら、さらに崩れやすい何かに変わる。

哲夫には言葉そのものしか見えない。色の変化にまで気づけない。どうして形が変わってゆくのかもわからない。ただその軌道にのみ注意を払って、投げかけられたものを何とか返すだけだ。

以前はボールだったその塊は、崩れた箇所から血のような汁を垂らす。時間をかけ待っていたところで、どうにも元には戻らない。

放っておけば叩きつけられた肉片のように、酸いたような臭いを放つ。

うけとめることは既に不可能だ。思わず避けるしかない。誰にも受け止められない塊は、そのまま床に叩き付けられて原型を留めない。

A子の投げたそれを、哲夫は後片付けもせずに立ち去る。


A子は初め、自分の話を聞いてくれる哲夫のことが好きだった。彼ならきっと、自分のことがわかってくれると勘違いしていた。だが、今となっては、いつまでもあどけなさの抜けない哲夫の笑顔にA子の苛立ちと嫉妬とが入り混じっている。

当の哲夫はA子に興味あるそぶりすら見せない。哲夫にとってはA子は、ちょっと厄介な、どうでもいい存在だ。哲夫はそんな自分の気持ちを隠そうとすることすら思いつかない。

可愛さ余って憎さ百倍

A子にしてみれば、自分をむかつかせたのは哲夫であり、それは哲夫の落ち度なのだ。

私を出向かせるなんて失礼なやつだ。人が間違いに対して代償を払うのは当然だ。この私が正しいと信じるルールならば、自分の周りに共有されるべきだ。

彼女は思う。

好きなものを手に入れる方法はいろいろある。

自分のそばに置いて愛でてもいいし、それが叶わないなら、思い通り言うことを聞かないのなら壊してしまえばいい。お気に入りが誰か他の人のものにならないように。あるいは、成長して自分より大きくならないように。

外堀を埋めて、自分は擬態して隠れる。対象を孤立させて、真嘘を混ぜながら追い詰めていく。A子にとってそれは難しいことではない。とりわけ、哲夫のような従順で単純で反撃することを知らない人間を陥れることは。

彼女の計画は一年後、さらに哲夫の妹萌花を取り込む事で、クライマックスを迎える。

クラスの中で私に歯向かうものはいない。私は他人をちゃんと見極める。誰かさんとは、違って。

あとは、「私が哲夫にむかついていることを周りの人間に表す」、それだけでいい。

孤立した草食動物一匹を仕留めるのはたやすい。狩られる対象は、やられる直前まで敵の存在に気付けない。彼女の擬態、保護色はとても優秀なのだから。


もし過去に戻れるのであれば、哲夫はどのように振る舞えば中学校でのいじめを回避できたのだろうか?

歴史物語では「時代を決めた分岐点」なるものが語られる。哲夫の分岐点だって小さく幾つにも枝分かれしている。

「あの時の時間を遡って」と考えて、問題はどこにあったのだろう。

問題がA子の言うように哲夫の側にあるのだとして、哲夫はA子と会話した時にどのよう接すれば良かったのだろうか。

例えばもし、哲夫がA子の目を見て微笑みながら話していたら。

哲夫が会話の内容に耳を傾け、ポケットから手を出して、聞いているフリだけでもしていたなら。

声のトーンを心持ち高めに、弾ませるように返事をしていたなら。

会話のボールが形をなさなくなる前に、哲夫から話を切り上げていたなら。

哲夫が敵と味方を素早く嗅ぎ分け、A子よりもっと広く深くネットワークの輪をあらかじめ広げていたなら。

そういった事はどれも、中学生の哲夫の世界とは無縁のものばかりだ。

中学生男子の世界観が、まるでアメンボのように浮き足立ったものだったとして、それになんの落ち度があるというのか。アメンボにできることと言ったら、せいぜい水面にふわふわと浮かびながら緩急の風を受け、みなもに留まるように全振りするだけだ。そんな水たまりのような小さな世界が全てである、純粋にどこまでも初心な少年、哲夫。



大型連休が明けた就学日、哲夫は学校に行かなかった。

哲夫は自分の部屋の布団の中で、まどろんでいるふりをする。

( 今は何時だろうか。)

どうにも落ち着かない。目はとっくに覚めていて、直ぐにだって飛び起きて行動を開始できる。だが、どうしても身体を垂直に起こす力が湧いてこない。頭ばかりが冴えていて、怒りが湧いてきては今度は急にふさぎ込む。

(子どもをしつけてその頭の中まで支配しようとしておきながら、人の心や物を一方的に壊すのを咎めないのは理解できない。ヘラヘラ笑って調子を合わせる奴の方が正しいというのであれば、なぜはじめからそのように教えなかったのか。愚かなのは無知なのは、約束を守らないのは彼らの方だ。)

萌花は既に学校に行き、父は仕事に行き、母もパートに出かけたようだ。こうして横になって待っていても、誰も部屋にはこないのだからさっさと起き上がって何か行動すべきだ。本当にそう思う。でも…。


一昨日、つまり連休の最終日は哲夫の14歳の誕生日だった。何も特別なことがない、いつもと変わらない1日だった。誕生会が開かれなかったのは哲夫が壁を殴ったこととは関係がない。もともと誕生日に家族でケーキを食べる予定はなかった。プレゼントも(今回に限っては幸いなことに)最初から期待していなかった。

「12歳はトゥエンティー。13歳はサーティーン。」

「ティーンエイジャーになったら、お誕生会はおしまい。」とは、母のアイディアだ。

哲夫はまだ起きてこない。

(世の中ほうが90度傾いて、俺のいる世界が水平になればいいのに。)でも、頭だけはますます冴えてくる。

(力が湧いてこないのは誕生日を祝ってくれなかったこととは関係ないはずだ。俺は不貞腐れされているのだろうか?何に対して?誕生日に何もなかったことは関係ないだろう。去年の13歳もお祝いしなかったのだから、今年もないのはわかっていた。学校は?みんなひどい。俺は被害者なんだぞ。当然じゃないか、チキショー。もう何も考えたくない…)

グルグルと同じことばかり考えて時間が過ぎるのを待つ。部屋の紺色の厚手の遮光カーテンは優秀で、その重みで外からの光を遮っていた。だが、カーテンは熱の進入と拡散まで防げるものではない。部屋の温度から察するに、時間はお昼近くになっただろうか。ガラス窓とカーテンの防御を乗り越えた外気温が部屋の空気を温める。室温は外気温から少し遅れて、これからピークを迎えるだろう。

自分は布団の中で覚醒しているつもりになっていたが、途中で何度か眠ってしまったようだ。秋から季節を飛び越えて初夏を迎える短い夢を2回見た。


哲夫はついに立ち上がり、一階のリビングへ降りた。何か食べようとキッチンの冷蔵庫に向かうと、ちょうど母が職場のお昼休みに家に帰ってきたところだった。母は反射的に哲夫から目を逸らし、ヤカンに火をかけようと水を汲む。日常の行動に思考は要らない。だから人は生きていける。

湯を沸かしたところで、母は思い返したように哲夫に向き直った。哲夫に、学校はこの先どうするのかと聞いてきた。

「お母さんは学校から連絡があって、金曜の6時に担任の先生の話を聞きに行くことになっているんだけど…」

母は思う。

職場でも家庭でも、面倒なことはみんなして当たり前のように全て自分に押し付ける。自分ばかりが振り回されているようで、母には不満だ。

哲夫はたんに、いわゆる反抗期なのだ。この厄介だが一度は通るという世間でいうところの反抗期は、一時的なものと人は言う。それは麻疹みたいに一度はかかると。

一回は経験する厄介ごとであるならば、なるべくことが最小限に収まるように、早く時間が問題を解決しないだろうか。

「お前も先生に会いに、一緒に学校に行くかい?」

哲夫は応えなかった。

気持ちの上では何か答えようとしたのかもしれない。

だが母はそんな哲夫の気持ち読み取ろうと深追いすることもなく、

「じゃあ、母さん一人で行ってくるからね。」

と、あっさりと話を切った。


二人は母の買ってきたシャケ弁当をリビングで黙って食べた。弁当を慌ただしく食べ終えると、母は会社の方の終わらない厄介ごとを片付けに、職場へと早足で戻って行った。


翌週の金曜日、母親は職場先から直接中学校に出向いた。

タイトスカートにストッキングを履いた母親は足元に寒気を感じた。そろそろコートが必要な季節だ。

空はまだ、日が沈んだばかりで明るさを残している。1日で最も美しい時間、マジックアワーだ。朱鷺色の空が、これから何かいいことがあるんじゃ無いかと期待させる。悪いことの方が起こりそうな状況であったが。

自分がこの学校に来るのは、何回目だろう?

哲夫の入学式、体育祭、授業参観、萌花の入学式。すっかり馴染みな、自分の庭のように感じる。


担任は職員室で母親を認めると、上の階の教室まで案内した。教室内は暗く、窓の外には小さく星が光っている。担任が電気をつけると、教室全体が明るくなり星が消えて見えなくなった。生徒の習字やら活動日誌といった作品がスポットライトに照らし出される。人工の光がさりゆく太陽に勝利した瞬間だ。


母親と担任は向かい合って生徒用の椅子に座った。ひんやりとした椅子は脚が金属製のパイプでできていて、ふくろはぎに触れて冷たい。

何から話したらわからない母親に、担任は世間話をした。

自分が赴任する前の学校の話。少子化で市内の公立の中学校は統廃合されたこと。さらに二つの学校の閉鎖を検討しているが、地元民の反対によりこの話は進んでいない。英語教育が強化された話。高校入試の内容が変化しているので、萌花の受験時には今までのやり方が通じなくなっているだろう…

母親もそれに答えるように、子供たちの小中での思い出話をした。

部活の話。哲夫の入っていたサッカー部は比較的のんびりとしていた。妹のバスケット部も練習熱心だが、部活ばかりで勉強が疎かにならないか心配だ。

母親の口は普段の滑らかさを取り戻し、話をいくらでも出来そうだった。哲夫がB美をいじめていたとか、いじめられている側であると言った話題は出なかった。母親は哲夫の筆記用具が頻繁に壊されたり無くなっていないか話をそれとなく振ったが、その件はお茶を濁されて終わってしまった。無理に話をゴリ押しするほどの証拠も確証も母親にはない。

話がこれで終わって、あとは帰るだけならそれも悪くない。テストのことはなかったことにして、あとは哲夫が学校に戻ってくれればいいだけだ。

母親は一瞬、今日はもう帰ろうかなと腰を浮かせた。

担任はようやく、積まれたプリントの山から何枚かを取り出し母親の前に並べた。それから例の哲夫がボイコットしたテストの経緯を簡単に話す。2年生になってから返されていなかった提出物の山。一番上に乗っているのは哲夫が提出した白紙の答案用紙。もっとも名前も書かれていないから誰のものかはわからないが、証拠になるものだ。過去の成績表の一覧も見せられた。哲夫の成績は取り立てて悪くないと考えていたが、平均点を軸に考えると入学してから下がり続けている。哲夫には分の悪い情報だ。

それから哲夫の家での様子を聞き取るために、母親に説明を求めた。

(ああ、あの子。本当に困った子だわ。)

声には出さないが、母親の深いため息の真意は誰がみたって明らかだろう。

(自分がここでなにか話を聞いても、哲夫は元の彼に戻らない。学校にはこんな時のための秘策はないのかしら?)

言葉こそ交わされていつものの、担任のとの話し合いはなんとも暖簾に腕押しだった。暖簾に腕押しなのは母親の方も同じだったろう。

でも、愚痴モードでの母親の話ぶりは雄弁である。

息子が家でろくに口も聞かない。

テストのことを追求したら、暴れて壁を殴った。

力も強くなったしどう対処したらいいのか分からない。

妹の萌花と一緒にすると喧嘩になるから仲裁に入るのが大変…

もう話すこともなくなり、会話が途切れて沈黙が続く。外はすっかり暗い。カーテンを引いていないから教室の中は外から丸見えかもしれない。床からひんやりと冷たい空気が上ってくる。


(話すことがなくなったわ。今から急いで帰って今夜の夕飯の支度に間に合うかしら。)

家での哲夫の様子を聞きながらメモを取っていた担任は、メモから顔をあげた。

「暴力があるなら、哲夫くんが落ち着くまでゆっくり家で休んだ方がいいのかもしれませんね。」

学校に行かないことを肯定されて、母親は面食った。

そんな選択枠が学校から示されるとは思ってもみない事だったからだ。と、同時に、心の負担が軽くなるのを感じた。

「でも、このまま家にいて、いつか自然に自分から学校に行きますでしょうか?勉強も遅れますし。」

「学校に自分から行くか行かないかについては、何とも言えませんが…」

母親が望むように、希望をもてるような返答をしたいのは山々だが、担任としての発言には学校の責任問題が伴われる。

「もしも、このまま不登校が長期化して、来年度にも及ぶようでしたら、3年生時の担任に申し送りをします。」

今時の学校側は不登校というものをあっさりと言ってくれるものだ。と、母親は思う。きっと珍しい事ではないのだろう。

「中学校を卒業できますか。高校だって今時は行っておかないと。」

母親の頭の中に「留年」の文字が浮かんだ。哲夫が一年休んで萌花と一緒の学年で学校に戻れるのであれば、二人を一緒に卒業させればいいではないか。

「卒業の心配はありませんよ。中学校は義務教育ですから。高校進学については、やり方はいろいろあります。資料はこちらでお渡ししてもいいですが、それは来年度の話ですね。」

「勉強につきましては…ご自宅でされてみてはいかがでしょう。参考書もいろいろ出ていますし。もし、家での勉強が難しいようでしたらフリースクールに通われてみては。」

「フリースクールとはなんですか?」

「塾。いわゆる私塾ですね。文科省から認可を受けたタイプのものもあります。ご自身でお調べになってみては?」

担任との話し合いは、ここで打ち切りとなった。


(いま帰れば夕飯の支度に間に合う。今日は時間がないから、少し手抜きして刺身を買って、夫に発泡酒をつけよう。)

学校を早足に出た母親は、大いに明るさを取り戻していた。

「休んだ方がいい。」

「卒業はできる。」

この2つの話は特に気に入った。学校から免罪符をもらったように心強い。

萌花は兄の不登校には大反対するだろう。でも大丈夫だ。なぜなら、先生がいいとおっしゃったのだから。


早くも次の土曜日がやってきた。母親にとってはあっという間だった。

日々の生活に追われて、気づけばもう週の半ばだ。


哲夫は気にしないフリをして忙しい母を横目に黙っていたが、内心担任から何を言われたのか気になっていて仕方がない。

母が中学校での面談を終えてから5日目になる。学校に行かないことについて何を言われたのかも気になるが、それ以上に気がかりなのが他の女子生徒を哲夫がいじめていたと言う例の濡れ衣事件だった。俺への疑いは晴れただろうか。それとも、担任は母に自分が加害者だと告げ口して母はそれを信じて僕に怒っているのだろうか。どちらにしても、自分への嫌がらせは自己解決の域を超えている。少なくとも哲夫にとって。何らかの対策が取られないのであれば、とてもではないがこのまま学校に戻る気にはなれない。


哲夫は面談のあと、少しは自分の正しさが認められて解決策が示されるのではと期待していたのだが。母親はいつも通りの生活を送っていて、中学校側からのいじめ解決の提案があったという期待は薄れつつあった。

哲夫には一連のいじめがとっくに過去の出来事の一つになっているとは思ってもみなかった。当事者以外にとっては、これは虐められた側が気にしなければそれで済む話なのだ。

言った言わない、小突いた叩いていない、壊したちょっと当たっただけ、好き嫌い。

こんな些細な小競り合いは、生きていればあるのがあたりまえ。気にしていたらキリがない。

「いじめられる方にも問題がある。」とは、八方を素早く丸く収める時の常套句だ。

・・・・・・

母親の仕事は土曜日は午前中のみの出勤だ。お昼前には家に帰る。

土曜の仕事が終わり、母はこのあと家に帰らなければいけないことを思い出して気が重くなった。早朝から部活に行った萌花が夕方家に帰るまでの時間を哲夫と二人で過ごさないといけない。

「担任が直接、哲夫に言ってくれればいいのに。」

と、母親はひとりごちた。

やっぱり担任との面談には連れていくべきだった。私一人には荷が重い。これから週末はずっとこうやって過ごすことになるのだろうか?いっそ仕事が忙しくなって、休みが日曜だけになればいい。日曜なら萌花と夫が家にいることが多い。

今日は、そんなことが考えられるくらいには仕事の時間に余裕がある。


母親は中学校での担任との話し合いについて、まだ一度も哲夫には話をしていなかった。わざわざ哲夫に伝えなければいけないような事は無いような気がするし、自分の毎日がともかく目まぐるしかった。

余裕があるときは一旦家に帰って食事の準備をすることもあるが、たいていのお昼はいつも慌ただしく過ぎる。

夜は部活から帰った萌花と一緒に食事の準備や他の家事に追われるし。夜は夕飯を子供たちに食べさせながら夫の夕食を別メニューで準備する。

夫が何も言わずに無事に食事を終えて箸を置いても、自分の仕事は終わらない。皿を洗い、洗濯機を回し明日の仕事の準備を済ませ、皆がお風呂に入ったら、ようやく一息できる時間だ。

持ち帰りの仕事もある。寝るまでに終わる時もあれば、終わらならい時もある。


「先生の話だと、中学校は登校しなくても卒業できるそうだよ。勉強は学校の代わりに塾へ行くか家でしなさいだって。」

母親は夫、萌花、哲夫がいる夕食時に、誰に言うでもなく喋った。

「家にいて勉強なんて進むわけないじゃん。学校に行けばいいだけなのに、なんでお金払って塾行かなきゃ行けないの?」

萌花ははっきりしている。

この子は特別だと母親は思う。萌花は家のこともよく手伝う。しかも、お金をかけるでもなくおしゃれでセンスが良い。勝気なのにフェミニンで、頭の回転も速い。

萌花の行動力を見るたびに、なんだか自分のことのように誇らしい。この子はきっと自分の道を切り開いて自立した大人の女性になると思う。

萌花はいつも自分のそばにいてくれた。娘と二人でいるとおしゃべりが止まらない。実家の楽しかった3姉妹との思い出が再現されたみたいに。

おしゃべりついでに困り事はいつも萌花に相談する。職場のこと、家族のこと。大抵は自分が愚痴を言うだけなのだが、萌花が相手だと話が一方通行だけで終わらない。


いつだったか職場の同じトラブルについて何度も文句を言ってたときのことだ。3回ほど同じ事を言ったところで萌花が口を挟んだ。

「お母さんの職場のその人、いちいち相手にするからバカ見るんじゃん。お母さんが最初から無視して相手にしなきゃいいんだよ。」

萌花ははっきり、そう言った。職場の同僚に同じような話をしたら、同じ愚痴の言い合いになるかお茶を濁されるだけなのに。

萌花は母親である自分にもちゃんと意見する。彼女はまだ若い。新しい時代を生きていく彼女は進歩的で洗練されていると思う。


夫は何も言わない。結婚前に付き合っている頃からそうだった。だから相談はしない。家庭のことだって、一方的に自分が愚痴るだけだ。それを聞いているのかもわからない。

夫が意見を言わないからもっと話しを続ける。しつこく言ってようやく相槌が帰ってくる。相槌だってたまにしかしない。大抵は無視だ。

哲夫は夫に似たところがある。彼の祖母である姑が夫と同じように哲夫を育てたせいだと思う。今の哲夫も夫と同じ反応だ。自分が当事者なのに黙って他人事のように振る舞っている。何を考えているのかわからない。学校のこと、今後どうするつもりなのだろう。

哲夫の返事を待つともなく待っていると、ふと自分の実家のことが頭に浮かんだ。

・・・・・・

自分は3人姉妹の長女だ。自分より2つ年下の妹、更にもう2つ年下の妹。母と父と三姉妹。家はいつも楽しくて姦しかった。

末の妹は結婚しなかった。今は住んでいた実家を引き払い、自分の母と一緒に中古のマンションで暮らしている。

2番目は結婚してすぐに義理両親の介護に追われた。義理両親が他界し、いよいよ夫との二人暮らしが始まった2年後、今度は夫が他界した。今は夫の残した猫と一緒に夫の家で一人暮らをしている。

実家はそれなりに裕福な方だった。3人とも人並み以上の我慢を強いられることなく、新しい服を着て学校に行き習い事にも通った。自分はダンスを習い、妹二人はピアノを習った。家族で外出するイベントがあるときには、二日前から3姉妹プラス母の女4人でファッションショーを楽しんだ。


自分が大学一年生の夏に、突然父が亡くなった。普段は仕事で家にいない父だったが、亡くなるとは誰も予想していなかった。母をはじめ家族にとっては青天の霹靂。父も無念だったと思う。

母は取り乱し、精神が不安定になった。お葬式が済み、女4人だけでお斎いただいく。父の遺品整理はしめやかながらも思い出話に花が咲いたが、残された家族にはもう一つの問題が持ち上がっていた。皆の生活と3姉妹の学費をどうするかというお金の話だ。

自分は大学に在学中で、次女の妹は次の年に美大の受験を控えていた。

真ん中の妹はちょっと変わっていて、独特の美的センスの持ち主だ。合う人とは徹底に合って、妹のことをやたらに褒める。合わない人は妹のことを「奇抜すぎる」とか「落ち着かない」とか言って妹を好まない。妹の方も言われてしめやかにするでもなく、反抗的な態度を隠さない。ピアノの先生は妹が美大を受験したいと言ったときにこう言った。

「彼女のリズム感覚は独特だ。絵の才能もあると思う。技術的に磨かれてこそ、彼女のセンスは生かされるから、美大に行って人に習うのは素晴らしいことだと思う。」

父が亡くなって、「お金が心配だから。」とは口にしなかったけれど、妹は美大を諦めて近くの短大に行くことにした。もし芸術活動を続ようと思ったら、学費だけでなく付き合いや寄付などでとてもお金が必要になったと思う。

妹は短大を出てからすぐに、学生時代に知り合った9つ年上の男性と結婚した。家に挨拶にやってきた彼は、ひょろっと背が高く青年のような風貌で、実年齢より歳が若く見えた。彼も独特のセンスの持ち主で二人はお似合いのカップルに見えた。

妹が結婚して暫くしたある夏の暑い日、舅である彼の父親が倒れた。妹は姑と一緒になって舅の看病をしたが、翌年に舅は亡くなった。気落ちした姑はやがて痴呆に冒されるようになり、今度は姑の介護が始まった。妹はよく姑に尽くしたと思う。介護は長く続いたのち、姑は静かに息を引き取った。その後、夫と二人だけの穏やかな生活が2年ほど続いた。

妹夫婦はお互いを認め合い、愛し合い、二人は幸せそうだった。

一緒に旅行に行き、写真を撮り、絵を描いてピアノを弾く。

そんな矢先に彼は遠征先で事故に遭い、帰らぬ人となった。二人の間に子どもはいない。今は彼の残した家で彼の猫と暮らしている。

妹に実家の母や末の妹と一緒に暮らさないかと提案したことがある。妹は「夫の忘形見の猫と暮らしたい」と言って嫁ぎ先の家に残った。

長靴を与えたって、残された猫は妹を「カラバ侯爵」にはしてくれないだろう。無理な話だ。猫はすっかり歳をとった。彼女は思い出の詰まった家でピアノを弾き、時々教えたりもしている。地域のボランティア活動で演奏するのが生きがいだそうだ。


末の妹は気落ちした母を慰めつつ、家から通える医療系の専門学校に行った。今は地元に残って母と暮らす。母に寄り添い彼女も母を慕う。時々メールで母の様子を知らせてくる。お付き合いをする人はいるらしいが、二人とも仕事が忙しいらしい。結婚する予定はないようだ。


自分は大学を卒業して都会で就職した。大学を出たのは自分だけだ。姉妹の中では一番恵まれていた。

勝気な大学時代の同級生が言った言葉が今でも心に響いている。

「女はね、経済的にも精神的にも自立していなきゃいけないのよ。男に頼っていてはロクな人生が待っていないわ。」

この時、自分はなんとなく頷いた。なんとなくだ。

時間が経つにつれこの言葉は軽くなるどころか重くなり、今ではまるで足かせを着けたかのように自分の足を引っ張っている。

いつだったかこんな夢を見た。急いで逃げようとするのに地面がぬかるんで走れない。足を取られて前に倒れ、顔は涙と血と泥で汚れる。それを周りの人間が助けるどころが囃し立てて、やがて自分に石を投げつける。気分が悪くなる夢だ。平和で満ち足りた家族団欒を楽しむ者にこんな夢は相応しくない。


夫とは職場恋愛で結婚して、自分は職を離れた。当時は「腰掛け社員」なんて言葉がまだ残っていた。こう言うと、仕事に無責任なOLに聞こえるかもしれないが、そもそも、社内結婚をしたらどちらか職を離れるのが暗黙の了解だった時代だ。

でも夫に家庭で必要とされている自分は、輝いていて誇らしかった。職場のみんなは心から結婚を祝福し、夫は結婚後順調に業績を伸ばして会社に利益をもたらした。彼が仕事に集中できたのは家庭の一切を自分が引き受けたからできたことだ。

一緒に同居した女やもめの姑は、嫁である自分に完全には満足していなかった。

姑は何に対してもよく文句を言う。

家事の至らなさの文句は枕詞のように常について回るが、彼女の不満の行先はそれだけでは終わらない。

キッチンの水まわり、家の作り、野菜の値段、近所の人の話し方、ニュースで流れる行政の不祥事、芸能人の不逞、亡き夫の過去の自分への扱い。彼こそが私の不幸の元凶だったと…。

まあ、舅の昔話を聞く限り、同意しないでもない。


なんとか矛先が自分に向かないようにやり過ごしているうちにうまい方法を思いついた。姑と一緒になって同じように悪口を言えば良いのだ。

沈黙が続いたらなば、文句の行先が自分に向く前にとりあえず他の人についての文句を言う。

この方法はとても有効だった。

今まで姑を避けていたのに、連帯感が生まれて仲良くなった。だんだん一緒になって悪口を言うことが楽しくなってきて、正しいことをしている気がした。そしてこのやり方は、再就職先でも大いに有効であることが後にわかる。

一方、仕事を辞めなかった仲間たちは家庭に入った自分に辛辣だった。大学を出ておきながら、その教育を生かせていないのは恥ずべきなことだと言う。

「夫の稼ぎに頼って生きるなんて、情けない人生だわ。」

上記の夢はそんな時期にみたものだ。

もっとも、そんなことはすぐ気にならなくなった。妊娠して毎日が目まぐるしく変化したのだ。姑は長男の誕生を飛び上がって喜んだ。そして自分は、次の子をすぐに身篭った。

第二子のつわりは最初の子とは比較にならないほど酷く、とても育児どころではない。

幸い初孫の誕生に喜ぶ姑は、喜んで息子のお世話を願い出てくれた。自分が生まれてくる子のために安心して養生できたのは、これまで姑と仲良くやっていたからできたことだ。


萌花を出産して家に帰ると、祖母の腕に抱かれた息子はすっかり姑の子になっていた。

彼女は哲夫を離さない。でもこれは自分にとって幸いなことだ。哲夫のことは祖母に任せて、自分は萌花の世話に集中できるのだから。

赤ちゃんなんて皆同じと思っていたら、萌花は哲夫とは違っていた。

萌花はふわふわして大人しくて、人形を抱いているみたいだ。哲夫はすでにヤンチャな兆しを見せていて、すぐどこかに走っていってしまうのに。


ある日、祖母が哲夫を膝に抱きながら話しかけているのを聞いてしまった。

「哲夫。お前はおじいちゃんの生まれ変わりなんだよ。お前の哲の字はおじいちゃんの名前からとったものだ。じいじは私を置いて先に行ってしまったけれど、こうして帰ってきてくれてばあばは嬉しいんだ。」

自分は酷くショックを受けた。

名付けは夫がしたものとばかり思っていたのに。

それに、姑は昔の話を蒸し返しては既に鬼籍の舅の悪口ばかり言うのに、どうして今更哲夫と舅が一緒だと思うのだろう。


その夜、夫に今日あったことを話すと、哲夫の名付けについて問いただした。

「私たちの子よ。どうして母親と一緒になって父親の名前なんかつけたの?しかも私にそのことを黙っていた。」

怒りが収らなかった。

夫は黙って聞いている。なおもしつこく食い下がると夫は大声を出した。

「うるさい!大体お前が萌花を妊娠中に、誰が哲夫の世話をしていたと思っているんだ。だいたい今だって哲夫はお前より祖母であるお袋に懐いているじゃないか。」

自分は黙った。

意地悪な誰かの声が、頭の中でリフレインする。

「ほら見たことか。受動的に生きてきた人生が必然的に行き着いた先さ。」


その日以来、この家を出て仕事について、お金を稼ぐことが自分の目標になった。金額がささやかであってもいい。社会に出なければ、と。

夫を説得して姑と別居するための家を探し、イヤイヤ期の終わりつつある萌花と哲夫を保育園に入れて、新居の近くに仕事を見つけた。

哲夫が4歳、萌花は3歳の時のことである。

以来、我ながらよく頑張っていると思う。今では、少し時給も上がった。

それでも、一度仕事を離れて下がった分はとても取り戻せない。結婚を機に職を離れたせいで、本当にお金が損をしたと思う。


自分は家庭での役割もよく我慢して頑張ってきた。姑に尽くし、一男一女に恵まれ、新居に移ってから家の事を手伝わない夫を尻目に家事の一切を取り仕切っている。

なのに、自分への称賛はちっとも聞かれない。

誰も労ってはくれない。

空気にでもなったようだ。

みな、母である自分への感謝の気持ちを忘れていると思うことばかりだ。


家庭の団欒は幸せの風景だ。なのに、家族の集まるこのリビングにいて、立ち上るような哀しみは何処から湧いてくるのだろう。

あるはずのない孤独感から逃れられないのは何故だろう。


誰かに抱きしめられて「愛している」と言われることも、見つめられて「君は美しい」と言われることもとっくに諦めてきた。なのに、せめて手を握って「母さん、いつもありがとう」の言葉くらい、自分にあってもよいではないか。


自分の人生はもっと良いものであるはずだった。

少し遅れたものの舵を切り直し、自分の自由になるお金と人生をなんとか取り返しつつある。これまでの十数年はあっという間だったのだから、子供たちの自立までの折り返し十数年も、自分の意思でコントロールして同じように駆け足で過ぎるはずだと信じでいた。


哲夫の不登校はそんな自分の計画に影を落とすものだ。不登校のことを職場や親戚や知人に、絶対に知られたくない。

息子はもう中学生なんだ。自分のことは自分でなんとかするべきだと思う。

「そんな些細な揉め事は、己の力で勝手になんとかしてくれ、お前は男だろ。」

そんなふうに思う、口には出さないけれど。


哲夫のため、シフトの変更を職場に申し出た。

お昼休みの時間を1時間延長したいと申し出たら、何とか認められた。

今は90分の休みを使って、哲夫のために家に帰り、頑張って彼にお昼ご飯を用意している。


「母親は、子供のそばにいてやるべき。」

これも誰かが言った言葉だ。

これ以上頑張るのはごめんだ。

でも、私は頑張っている。自分はやはり、この子の母親なのだから。

・・・・・・

母親と哲夫のお昼のサイクルは決まり切ったものになりつつあった。

母とテレビをつけてながらお弁当を食べる。

母親が職場の悪口を言う、テレビに映し出されて報道で槍玉に上がっている人たちの悪口を言う。

ここまでは哲夫は母の話し相手になる。母の話を聞くのは、運んできてくれるお弁当の代金の支払いの代わりだと思っているからだ。


そして次に、悪口の対象が家族か親戚か自分に向かう。父親についての愚痴は「はいはい。」と聞き流す。内容はすでにBGMで、言葉はほとんど頭に入ってこない。

ただ、話の内容がよく知る人のこととなると、いやでも心に引っ掛かる。

特に小さい頃自分を可愛がってくれていた、祖母の悪口を聞くのが嫌だった。


祖母についての悪口は、そのまま母に当てはまると思う。家族の話を母が持ち出したら、お昼はおしまい。

哲夫は皿を下げて、2階に上り自分の部屋に退避する。


母の愚痴を聞くのが哲夫にとっての「仕事」になってからと言うもの、ノスタルジックな気分を味わうことが多くなった気がする。

思い返してみれば、こんなに母の話を聞く機会は今までになかった。

母の話は、職場とテレビで見かける自分の知らない人たちの事がほとんどなのだが、合間合間に家族の昔話を挟むことがある。

どれもこれも知っているようで知らない話の方が多かった。知っているつもりの話題でも、母の記憶を通して話を聞くと、自分の知る昔の出来事はまた違った風景に映った。



自分がまだもっと小さくてまだ萌花が生まれる前、俺は今よりずっとわがままで親を困らせてばかりいる子だった。

たくさん親を困らせた分、たくさん我慢しなければいけないのは当然なのかもしれない。

母親はふくらみ始めたお腹に哲夫の小さな手を当てさせると言った。

「お前はもうすぐお兄ちゃんになるんだよ。お兄ちゃんになって妹を可愛がるんだよ。」

「お前のゆりかごは、もうこの子にあげるんだ。大きくなるお前にはもう必要のないものだからね。」


実のところ、この回想はほとんど間違っている。母から説明された状況をもとに哲夫が後から想像したものだ。

年子で生まれた妹とは1歳しか歳が離れていないから、母が妹を妊娠していた時の哲夫はまだネンネの赤ちゃんだ。

母親は妊娠中の悪阻があまりにひどく入院していた時期もあり、哲夫のお世話は当時同居していた祖母の担当だった。父親も祖母と一緒になって哲夫の世話を彼なりに結構頑張った。

これは父と祖母とのささやかな思い出に残るエピソードを残してくれたものだ。おしっこと服に染み付いたミルクと赤ん坊の鳴き声に塗りたくられた出来事ではあるけれど。

久しぶりの育児で手順を忘れていた祖母、初めての育児で戸惑う父。二人の必死さが伝わったのか赤子なりに空気を読んだのかわからないが、哲夫は意外と手のかからない幼児だった。


記憶に通りに、哲夫が実際に言われた言葉もいくつかある。

「哲夫、お兄ちゃんになったね。ばあばは嬉しいよ。これからは妹とお母さんを守ってちゃんと社会の役に立つ人間になるために頑張るんだよ。」

哲夫が5歳で萌花がかぞえ3歳の七五三のお祝いの時に祖母から言われた言葉だ。

祖母とは昨年の4歳まで家族一緒に祖母の家で同居していた。哲夫はすでに祖母の家で過ごしていた日々の記憶が曖昧になっている。去年まではいつもばあばの膝の上でお菓子を食べ、お話を聞かせてもらっていたのに。


七五三では近くの日本料理屋でお祝いの席が設けられ盛大に行われた。母方の祖母と叔母二人、去年までは一緒に暮らしていた父方の祖母。叔母達は着物姿の萌花のことをお人形さんのようだと言ってはしゃいでいた。彼女には華がある。父方の祖母は哲夫の手を握り涙を流していた。

ばあばは、どうしてあの時泣いていたのだろう。



担任との面談から3週間が経った。

哲夫はあれから学校に一度も行かず、哲夫が学校に行かない世界というものが家庭でも学校でも回り出している。

あんがい当の本人は呑気なものだ。少なくとも、母の目にはそう映っている。

「そのうち行くんじゃないか。」

家族がポツポツとそんなこと言うことはなくなった。学校から電話連絡をもらったのは面談の後に1度だけ。登校を催促するものではなく、家庭での学習アドバイスや不登校時に必要となる事務的な手続きの連絡だった。

「待つ以外の策を講ずるべきだろう。」

いつまでも家にいる哲夫を見かねて、家族の意見が一致した。

中学2年生が。学校で本来学ぶべきことは多い。

家での勉強が充分とはやはり思えない。

「勉強より先にすべきことがあるだろう」

と言う人もあるだろうが、今の時間を失うと取り返しがつかないのではないか。両親は普通校への進学を諦めていなかった。母親は家から近い私塾を探して予約した。スクールの評判はいいらしい。哲夫は両親に連れられて、家から一番近くのフリースクールを見に行くことになった。


今日は平日の昼前。スクールを見学するため父親はなんとか仕事の休みを午前中に取得した。

母親は「父親なんだから、半休くらい取るくらいは当たり前。」

と言いつつ、夫がついて来ることに安堵した。

あとは、知人が教えてくれたスクールにたどり着くだけなのだが、家族は道に迷っていた。

父、母、哲夫の3人は知らない土地で、寒くなりつつある空気の中をさっきからウロウロと行き来する。

(まるで家族で旅行に来ているみたいだな。)

やはり、哲夫は呑気なものだ。3人の中で一番状況が飲み込めていないとみえる。

母親はメモ書きを手に右往左往する。コントみたいな動きだが、心の中はパニックだった。

メモ書きは誰からかもらったものそのままらしく、どうにも不案内だ。このままではスクールにつけない。父親は黙ってついて来る。仕事が忙しい父がこうして学校探しに付き合うのは、おそらく最初で最後だろう。

「ああ、ここだわ。普通の家みたいに見えるけど、きっとここよ。」

目の前の小さな案内板に母が気づいた。矢印の先には少し大きめの一軒家。学校というより普通の家のように見える。「フリースクール」手書きの大きな表札がかかっていた。

「ごめんください。今日予約していました。」

母は呼び鈴を押した。約束の時間を5分すぎている。扉を開けて中を覗き「ごめんください」と、再び呼んだ。母より少し年上の人懐っこそうな中年の女性が奥からゆっくり出てきた。歩き方がアヒルに似ていて優しい雰囲気のおばさんだ。哲夫はこっそり、「アヒルおばさん」と言うあだ名を付けた。

アヒルおばさんは3人を中に通し、広い部屋まで案内した。20人は入れるだろうか。普通の家にしてはかなり大きい。3人はおばちゃんに促されて椅子に腰掛けた。

「寒くなりましたね。今日は日差しがあるから暖かい方かしら?」

穏やかな声に反してアヒルおばさんの視線は落ち着かず、何か探しているらしかった。

席を立つと会話を続けながら部屋の中をグルグル周り、ようやくお目当てのバックを見つけたようだ。

そのバッグにはアヒルがプリントされていた。よく見れば、おばさんのスモッグにもポケットにアヒルがいる。人は好きな対象にお互い似るというけれど、おばさんがアヒルっぽいと哲夫が感じたのは、きっとおばさんがアヒルが大好きだからだろう。

アヒルおばさんはバックから教室のパンフレットを取り出すと落ち着きを取り戻し、優しい声で話しかけた。

「お名前は、哲夫くん?」

「年はいくつ?」

それから、両親の方をチラリと見る。

哲夫の知らないところで、話はあらかたつけてあるのだろう。

「ここまですぐこれた?どうやってきたの?場所は分かりにくかったかしら?」

「歩いて40分くらいかかりました。でも、迷った分は時間が余計にかかったかな。」

哲夫は聞かれるままに答える。反抗するでも不貞腐れるでもない。不登校中であったとしても、見た目も中身も普通の中学生だ。

「じゃあ、歩いて30分くらいかな?ちょっと遠いけど、一人で通えるかしらね。お日様を浴びて、毎朝歩くのは健康にもいいのよ。」

どうやら、自分がここに通うことは既に決まっているらしい。


3人は奥の別の部屋に案内された。アヒルおばちゃんは引き戸を開ける。さっきいた教室より狭い部屋だった。

机が10台ほど。半分にはデスクトップPCが置かれている。一台のPCの前に年上に見える男の子が一人いて、何か作業をしていた。

おばさんはその子に声をかける。彼はモニターから目を離さずに何か返事を返した。

ブルーバーバリーのカッターシャツにジーンズ。大きなメガネをかけている。恰幅が良く色白な頬は柔らかそうだ。


「とりあえず、月曜日と水曜日の週2回通われてはいかがですか?あの子は哲夫くんより学年が一つ上です。哲夫君ともし気が合えば、彼が来ている日なので。彼は、賢い子なんですよ。」

アヒルおばさんは両親に向かって話す。おばちゃんは哲夫たちを部屋に残して、両親を他の部屋に案内するために退席した。部屋には哲夫と男の子の二人が残された。

哲夫はあらためて男の子のことを見た。もしこの教室に通うのなら、彼は哲夫の先輩になる。向こうはこちらを見る気ははないらしい。彼はまだモニターから目を離さない。

時折、独り言を言いながらキーボードを叩く。指圧が強いのだろう。キーボードを打つ音は力強く、リズミカルだ。

哲夫は、5分ほど待つでもなく彼のことを待っただろうか。

「君何年生、どこに住んでいるの?」

PC作業を終えた彼は、不意に話しかけてきた。

ぶっきらぼうで距離が随分近い気がする。つまり、わりと図々しい。男の子は先ほど無視していた時間を埋め合わすかのように、哲夫を質問攻めにした。ここは一つ、彼に合わせよう。哲夫が他に行くところはないのだから。

哲夫は引きこもり始めて1ヶ月。先輩の不登校はもっと長そうだ。先輩と哲夫の共通点は、不登校以外見えてこない。お互いに、以前通っていた中学校の話題は避けていたからかもしれない。

でも、先輩は自分とは違う。

彼はなんと言うか、とても変わっていた。

先輩は話す時の距離がとても近い。他の人より二歩は近づいて喋る。

相手に親しみを示すためにわざとかもしれないけれど、相手に近づき過ぎているとは思っていないようだ。

先輩は汗っかきだ。肌はしっとりとしていて、独特な香りがした。ハーブのようなスーッとする、いい匂いだ。

先輩は話し出すと止まらない。

一方的に話すことが多く、詳しく説明しようとしているけれど、よくわからないことが多い。とにかく熱く語る。PCを見ながら、絵を描きながら、本を読みながら、作業をしながら話すことが多い。そしてよそ見していても、不思議とこちらの話も聞いている。

中学校での話は自分からしない先輩だったが、一度、彼の所属していた美術部でのこんなエピソードを聞いた。


絵が大好きだった先輩は、美術部に所属していた。毎年定員オーバーで抽選になる程人気のある部活だった。部にはカリキュラムがあり、、水彩画から始まって、アクリル画、油絵、デッサン、版画、彫刻、日本画と一通り経験するように組まれていた。無事美術部に入れた先輩は、皆と一緒に水彩画をかいた。ところが、1ヶ月経ち2ヶ月経ち、周りがアクリル画や油絵を描きはじめても、先輩は水彩画だけに夢中だった。さらに数ヶ月がたち、皆が鉛筆を持って外に風景画のデッサンしに行っても、先輩は一人部屋に残って水彩画を描いていた。上級生の部長がついに先輩に切れてこう言った。

「お前はなんのためにここにいるんだ。みんなの輪を乱すんじゃない。次回も部員と一緒に版画を彫刻刀で彫らないのなら、部活を辞めてくれ。家で勝手に水彩画でもなんでも描けばいい。」と言われたらしい。

先輩は周りには合わせずに、そのままあっさり部を辞めた。そして、ついに中学校も行かなくなった。

「水彩画のいいところはね。その透明度にあるんだ。」先輩の話は大事なところをすっ飛ばしてどんどん続く。

「小学生でもかけるくらい簡単なのに、透明度を生かすための技法がいろいろあるんだ。」哲夫は先輩の目を見て聞いている。

「塗り直しができないところがデメリットだけれど、そこがいい。緊張感を持って一気に仕上げるのがコツなんだ。」

あんまり熱く語るから、哲夫も部活の話をしようと思って、大して熱心でなかったサッカー部の話をした。

もっとも、哲夫の話に先輩は全く興味がないみたいだった。哲夫の話を遮って、今度はゲームについて熱く語る。

哲夫が好きなアクションゲームには興味がなく、RPGにハマっているそうだ。

「今昆虫を集めているんだ。ヒケシアゲハの雄だけがどうしても見つからない。」

合いの手を待つでもなく、話は止まらない。

でも、一方的に喋ってはいても、彼はちっとも先輩風を吹かしたところはない。

好きなことを話す時に見せるはにかんだ笑顔が、哲夫は嫌いじゃなかった

彼と散々話した後、いや、聴き続けたあと、哲夫は枯れ葉を踏みながら帰宅した。道すがら目は「ヒケシアゲハ」を探していた。

アゲハなんているはずない。今は冬だし、ゲームの中の昆虫だ。そんな自分がおかしくて笑ってしまう。


そのも休み時間に、先輩は一人黙々と絵を描いていた。外は寒い。枯れ葉も落ちて、北風が暴れている。部屋では暖房の音が唸るように重低音が響く度に暖かい風が吹き付ける。

「もうここで絵を描くのは今日で最後になる。今日中に先生の絵を完成させたいんだ。」

簡潔に説明しているつもりらしいが、先輩の話は唐突すぎで何を言っているのかわからないことがよくある。

ここのメンバーは生徒も先生もそんな先輩の言い方に慣れているみたいだ。彼の話を適当に聞き流したりツッコミを入れたりするのがとてもうまい。自分もみんながやっているみたいに先輩の話にうまく返事ができればいいのに。

(今日で最後になる。)

(先生の絵)

先生というのはアヒルおばさんのことだ。

先輩はここ数日この絵を描いていたが、背景ばかりで人物を描く様子が全くない。背景は水色と深緑のコントラストで水面のように楕円のふちが白が光っている。

最後というのは今年最後と言ったところだろうか?なら、来年は?来年はどうなるのだろう?


「部屋を換気するから、その間外に行って体を動かしておいで。」

部屋を廻っていた先生が運動してくるように促した。

「肺にも新しい空気を入れなくちゃね。」

閉めきっていた窓が全開にされると、寒気が一気に入り込んできた。換気が終わっても部屋が温まるにはまだ時間がかかりそうだ。先輩も自分も他の生徒とともに外に出た。

近くにあったサッカーボールが目に止まったので、哲夫は久しぶりにリフティングに夢中になった。ドリブルも楽しいが、一人だとつまらない。

先輩にパスをすると、ボールは受け止められずに飛んでいってしまった。僕のボールも先輩の話のように彼には唐突だろうか。

ラリーの続きを頑張ってみたが、半分以上の時間は先輩がキャッチし損ねたボールを取りに行くのに費やされた。

やはりスポーツは苦手らしい。


やがて外での時間が終わり、 部屋に戻れるようになりパスの練習はお開きとなった。

部屋に戻ってもまだ、先輩は息が苦しそう。外ではほとんどの時間を彼だけ走って過ごしていたからだ。

自分の身体は動き足りない。なのに笑い出してしまう。息を切らせるのも、額に流れたあせも、手応えのない思いボールも、何もかもが本当に面白かったから。

先輩は一緒に笑わなかったが、代わりに

「今度うちに遊びに来ないか?」と、言った。

「実は俺、好きな子がいるんだ…」

なんの脈絡もなく彼は言った。先輩は嬉しさが隠せずに口元が緩んでいる。

(これが青春ってやつだなぁ)なんて、先輩の鼓動の速さに合わせて自分も別の意味でドキドキし始めるのを感じて続きを待つと、先輩は聞き覚えのある名前を口にした。

唖然として変な顔をする哲夫。

隣で聞いていたアヒルおばさんが

「はいはい。」

と、手合いを入れながら笑っている。部屋にいた二人の生徒も同じ反応だ。

どうやら先輩の片思い?はみんな知っていることらしい。

哲夫は一応確かめる、といった風に口を開いた。

「それって、子供番組の歌のお姉さんの名前だよね?」

先輩はイエスと言う代わりに隠しきれない笑顔で答える。

「彼女は僕の憧れの人なんだ。いつか彼女と結婚したい。」

部屋にいた2人の女の子たちは、たまらず笑い出す。

「彼女を幸せにするような人になりたい。だから僕は隣県の高校をこの冬受験してそれから大学行って、ちゃんとした社会人になるんだ。」

哲夫はこれを聞いて笑わなかった。

(もし先輩が高校に受かったら…。先輩とこうして一緒にいられるのも、2〜3ヶ月しかない。そうしたら、僕はどうしたらいいのだろうか。僕も今から勉強したら、先輩と同じ高校に行けるだろうか。)

そんなことを先に考えた。


人を動かすのに、高尚な理由なんて要らない。きっかけは何だっていいんだ。

哲夫は知り合ったばかりの先輩があっという間に巣立っていくようで、なんだか羨ましくなった。


「来週の木曜日うちに遊びに来ないか?見せたいものがあるんだ。」

「3時から4時までの番組は見逃せないから、その時間は家でテレビを見るからな!」

(まさかとは思うが、先輩はお姉さんの番組をを生で見るために中学を中退したんだろうか?)

そんな疑問が一瞬頭をよぎった。


部屋が暖房で暖まりすぎたのだろうか。頬が火照る。絵を描き続ける先輩。口では歌のお姉さんの話が止まらない。

哲夫はこっそり一息つくと、なるべくさりげなく質問してみた。

「歌のお姉さんって、どんなキャラクターなの?」

本当はお姉さんのキャラクターについて聞きたいんじゃない。哲夫の意図は別にある。先輩が好きな人のキャラクターをどう言った言葉で表現するのか試しに聞いててみたかった。

(笑顔が素敵な人。見ている人に元気を分ける人。優しい声の人。あるいは、)

哲夫は回答を予想しながら、先輩の返事をまった。

先輩は、手に持っていた筆の動きを止めて顔を上げると、

「う〜ん。」とだけ唸った。

手には筆を執ったまま。再び視線を落として静かに作業が再開される。

哲夫は、先輩の言葉を待つ。

(俺は馬鹿な質問をしたのだろうか。)

やがて先輩はゆっくりと口を開き、答えの続きを捻り出した。

「お姉さんが歌っている時のキャラクターというのはあるね。でもね、それは歌によって決まっていて、キャラクターは歌ごとに違うんだ。」

「つまり、お姉さん自身を表すキャラクターというのは…思いつかないね。」

哲夫が期待している答えではなかった。何をいっているのか分からない。

「じゃあ、僕のキャラクター。僕ってどんな人物に見えるの。」

これは、哲夫が本当に聞きたかった質問だった。

先輩はなおもこちらを見ない。

無視してるのではない、思考は続いている。沈黙の時間に先輩はちゃんと考えているのだ。

(うっかりしている。気が利かない。何を考えているのかわからない。)

先輩の答えにショックを受けないように、哲夫は自分に最悪の答えを用意して自分にぶつけてみる。ジャブを受ける練習をしているのだ。

「僕が思うに、キャラクターっていうのは自身の記号化を指すと思うんだよ。でも君は生きて成長していだろ。」

先輩は、独り言のようにつぶやいた。

「現実の人は成長するものだ、環境によってどんどん変わる。固定化されたキャラクターの枠なんて、本人が望めばいつでも超えていることができる。生きている人は記号や物とは違う。」

「例えば、全10巻の漫画や本を読と仮定するだろ。僕は1冊目を取り、それから、たまたま先に手に入った3巻を読んで7巻を読んで。その次に2巻を読んだとする。でも、主人公は最初の1ページであっても、7巻の登場するときも、本質がさして変わらない。キャラクターが意味をなすのは不連続な時間軸や分散化された世界での話さ。それは自分と関係の希薄な第三者のために記憶のキューを与えるための記号だから。キャラクターそれ自体は形骸化され、中身がいくら空っぽになっていってもいいんだ。持ち主であった主人を大きく離れてしまっても、自分という記号が大きなものであれば、人々の個々の中でそれは植え付けられたことたタネのように生き続けるから。」

気づけば、先輩は哲夫の瞳を覗き込んでいた。

「でも、現実にこうして君は生きているだろう。キャラクターという記号化の枠に固定されるのか、未来へ続く一方通行の自分の変化を受け入れ尊重するか。哲夫君にとってどちらが大切なんだい?」

人は、ヒトは、人間は成長を続ける。 幼児期の求心力を維持しつつ大人になる幼型性熟ネオテニーこそは人間進化の精鋭ではないか。


「桜の木の下で待ち合わせをしよう。9時がいいかな?」

先輩は言った。

相変わらずPCのモニターの前に座り、目はお気に入りの問題の続きを解いている。

「桜の木?」

哲夫はどこの場所だか分からない。

明日木曜日に先輩の家に遊びに行く約束をしたのだが、家の場所が分からない。わかる場所まで自分が迎えに行くのが良いだろうと、待ち合わせ場所と時間を指定された。

「哲夫君がこの教室に来るときは川沿いの道を登ってくるだろう。その途中にある大きめな桜の木だよ。」

今は冬だ。桜の花は咲いていないから、どの木が桜なのか哲夫には見当がつかない。

「土手の近くに祠があって、道祖神が祀ってある所の近く。あれってかなり古いものだけど、近所の誰かが手入れしているみたいなんだよね。」

「木も古くて大きいのかい?」

と、哲夫は尋ねる。頭の中に大きな老木がイメージとして浮かんだ。

「桜はそこまで古いものじゃないよ。あれは染井吉野だから。あそこは雰囲気がいい。だから、桜は比較的最近誰かが植えたと思うよ。」

それから哲夫が話をフォローしていないのを見透かすように。

「少し開けた川岸の松のところまで行ったら、行き過ぎだからね。」

と、付け足した。


土手なんてどこまで進んでも似たよう風景だ。まだ、どこの場所を指しているのか自信がなかった。哲夫は教室に通うまでの道順を振り返り、川べりの風景を思い出そうとする。思い返しているうちに思考がそれて、どんな格好で行こうか考え始める。

自分が持ってる服のバリエーションは多くないが、明日は今日よりも寒そうだ。去年出した厚手のコートはどこにしまっただろう。

哲夫は慌てて我にかえると、先輩に待ち合わせ場所をもう一度確認した。あと10分で教室が終了して、皆が家に帰る時間になる。


先輩は面白い、そして、つくづく凄いと哲夫は思う。

自分と先輩は同じ場所にいるはずなのに見ている世界がまるで違う。先輩の凄いところは、彼の世界を他人である僕に「言葉で見せる」ことが出来るところだ。彼の言葉を追ってゆけば、僕も一緒に「彼の世界」を見ることが出来る気がする。人々は皆、だいたい誰もが同じようなところに注目し同じように感じるものだと思っていた。見ているものはほぼ一緒。感じ方だっていくつかのバリエーションがあったとしても結局は数パターンに収束してゆく。同じだから思い出話でみんな盛り上がることができるのだ。でも、先輩と話していると世界が広がって感じられる。まるで、特別な覗き眼鏡をでも見せてもらっているように。

さらに凄いと思うのは、先輩はみんなに対して平等に接する点だ。ぶっきらぼうだが、先輩風を吹かせることがない。いろいろなことを知っているのに彼は偉ぶらない。いくら冗談を言っても人のことを心から馬鹿にしたりしないし、分からないと聞かれても気が済むまで付き合う。下に見ることも上に見ることもしない。

彼ほどフェアな人を僕は知らない。

なのに、彼のことを偉そうだとか尊大だと感じる人は、多いらしい。

大人を馬鹿にし、友達には不親切だと信じる人もいる。不登校に至った経緯は先輩がなれなれしいからとか、人と違うところが問題になったとも聞いた。でも、それは彼のもつ能力のせいではないだろうか?


人々は時に、「普通」であることに自らの能力を全振りして生きている。

「ふつう」にするは、「外見を取り繕ったり」「当たり障りのない話をして円滑なコミュニケーションをとったり」それから、「脱いだ服を洗濯機に入れたりゴミをゴミ箱に捨てる」といった生活のためのことを含め、たわいもけれども大事な事を山とこなしていかないといけない。そう言った「当たり前のふつう」を全員ができれば良いが、これができない人も世の中には結構いる。

ところで、才能に特化し過ぎる人々はどうだろう?

「常人には成し得ない才能」と言うものは産まれながら付加的に与えられているものではない。

その「才能」を形にするために持っている時間と労力を能力のために全振りし、結果的に「ふつうの生活」を犠牲にする人もいる。

そうやって「才能」が人から認められる人は幸せだ。でも、能力が開花することも、さらには普通にすらなれない人たちがほとんどなのではないだろうか。なのに人々は、攻防の果てに「能力を開花させた」稀な人にまで、さらに「普通」を成すことを要求する。

自分たちが求めすぎているとは微塵も思わないのだろうか。世間はエッジが立った「天才」にすら欠点を探し出してはあげつらう。


「人に見せる」「表現をする」「平等であろうとする」ことに全力を注いでいる先輩に、更に「普通に見えるように振る舞え」と要求するのは、間違っていると思う。学校に馴染めなかった原因が彼の個性的な能力と引き換えだと考えると、他人事ながら泣けてくる。

いや、何の才能も持ち合わせない自分も不登校になったのは同じじゃないか。そんなことを考えると、哲夫の思考はここで止まる。


次の日の朝、哲夫はコートを着込んでマフラーをしっかりと首に巻くと少し早めに家を出た。土手を吹く風が強い。川辺では背の高いセイタカアワダチソウのの吹き荒んだ寒風が、哲夫の視界を狭くさせる。

北風が強くても今日はしっかり目を開いて歩こう。待ち合わせ場所のそれらしき「桜の木」は、少しの注意を払えば」簡単に見つけられた。

土手には小さな鳥小屋のような屋根のついた祠もある。先輩の言っていた、道祖神だろう。

中には古い石像が納められている。今までは転がっていた大きな石だと思って気にしていなかった。小さな小さなお地蔵さんみたいだ。


哲夫は自分が呼ばれたと思って顔をあげた。

息せき切って体を揺らしながら走ってくる先輩の姿があった。走るといっても早足よりゆっくりだ。

カッターシャツにトレーナーを着ているだけなのに、寒くないのだろうか。額には汗が滲んでいる。先輩は屈みながら大きく息をついてから、湿った手で黒縁メガネの位置をなおした。黒縁眼鏡をかけた先輩はいつもより少年っぽく丸く見える。

このスタイルの先輩は、保育園で「お兄ちゃん」と可愛がられている。


「妹を保育園に送ってきたところなんだ。場所は、うちの隣なんだけどね。」先輩の両親は仕事に行っていていないので、妹の園への送り迎えは時々先輩が担当する。

地元に縁のなかった先輩の両親は、園の隣の家をわざわざ選んで、この家に引っ越したそうだ。


家の玄関は乱雑で、小さなピンクの長靴や砂遊び用のおもちゃが転がっていた。廊下にもリビングにも人形やらプラスチックの玩具が溢れる。

先輩の後について部屋に入った哲夫は一瞬ギョッとして立ち止まった。壁一面に飾られている色とりどりの水彩画。写真にはすべて人物の写真が小さく横に貼り付けられている。ここは妹の部屋ではなく本当に中学生男子の部屋だろうか?

さらに一歩奥に入ると、作品は天井にまで貼られ、プラネタリウムにでも入ったような感覚になる。この世界の中心にいるのがシーンズにチェックの長袖シャツ姿の先輩。さながらこのプラネタリウムの館長さんといった貫禄だ。

先輩は脱いだ厚手のトレーナーを玩具の山に載せると指差しながらいった。

「この黄色いのがうちの妹」

黄色と白の縞には赤い形が浮いている。横には小さな女の子の写真が先輩と一緒に写っている。

「あの上の2枚の右が母で、左が父だよ。」

笑顔の男性と女性の写真が同じように飾ってあった。

この絵の雰囲気は見たことがある。教室で先輩が描いていた「アヒルのおばちゃん」の絵だ。つまりこれらは背景ではなく完成しているのだろう。

「教室でも見たけど、この絵って何?」

「ポートレイト、人物画だよ。」

口元も目もニヤニヤと笑っている。

壁に貼られたコレクションには機能的なものもあった。

目立つところに貼ってあるカレンダーだ。

一歩近づいて日付を確認する。何かおかしい。今は冬なのに、カレンダーの女の人は春の日差しに笑顔が輝く。

「えっ。」

さらにカレンダーの歴を確認した。

「これって一昨年のカレンダーじゃないか。」

ロングヘアーで微笑むその女の人は「先輩の「憧れの人。歌のお姉さん」だ。自分が知るより少し若く見える。

「妹の持っていたカレンダーだったんだけね、もういらないっていうのを待ってからもらったんだ。」

哲夫は先輩が歌のお姉さんをお嫁さんにしたいと話していたのを思い出した。

「僕は結婚するなら大人しい子がいいな。」哲夫は呟いた。

「女はおしとやかで、自己主張しないのが美徳なんだっておばさんが言っていた。」

「どうなんだろう。」先輩は真顔で哲夫を見た。

「どっちでもいいんじゃない?ただ、人は何かを表現するべきなんだ。何歳であっても、男であっても女であっても、そんなことは問題じゃない。」

「自分を表現するのは本能だと思う?表現欲なんて聞いたことないけど。」

哲夫も考え始める。

「そういう意味で言ったら、社会的欲求かな。君が何かを表現しようとするだろう。それは意識していてもいなくても舞台の袖下でずっと控えていて、心の主から呼ばれる合図を待っているのさ。外に出るのを準備しながらね。発芽を待つ種みたいなもんだ。誰にでもある欲求だし、皆チャンスがあれば大事に育てなきゃもったいない。」

「じゃあ聞くけど、僕の話を聞きたがる奴なんてどこにいる?他人の心のうちを聞きたい奴なんてそうそういるはずない。」

「そんなことないさ。家族は君に興味を示さないかもしれない、先生も、近所の人も同級生も。でも、もっと広くに呼びかけたなら、もっと遠くまで声を届けられたなら、君の声は届くべき人を見つけるはずなんだ。」


妹のお迎えの時間が近づいている。

先輩は親に代わってすぐ隣のこども園に妹を迎えに行った。


留守番を任された哲夫は、先輩の描いた絵をまじまじと見て写真と比べる。ラフに引かれた幾何学的線。線と線の間の空間は淡いグラデーションが水彩画で幾重にも色彩を変えて塗り重ねられている。抽象画だろうか、部屋に飾ってあるのは7枚か8枚。どの絵にも人物の写った写真が横に飾ってある。一番新しいのは、歌のお姉さんの横に並んで飾って小さな女の子の写っているツーショットの写真と先輩が写っていた。女の子が迎えに行っている妹だろう。黄色と白の波模様に、赤とオレンジの王冠の入ったハート型が太陽が浮かぶように。哲夫は思わず、小さな声を上げた。これは抽象画ではない。さっき哲夫が先輩と食べたお昼ご飯だ。先輩が妹のために作った卵焼きとハートにくり抜いた人参の温サラダだ。きっと妹にせがまれて何度もつくったのだろう。左上の天井近くには防波堤で釣具を持って満面の笑みを浮かべる父親の写真があった。絵は青と銀のグラデーションに不規則に楕円や曲線が並んでいる。「これは、魚だ。」防波堤で父が獲ったものだろう。隣に母親の写真。指輪をした指。左手の指のアップだろう。もう一枚はおそらく右手で、小さな子供の手を握っている。

これらの絵は、抽象画ではない。写真の人物に関わるもののマクロな描写。一種のポートレイトだ。

つぎに哲夫はお姉さんの隣の絵をまじまじと見つめる。淡いピンク色の花弁だろうか…カレンダーに描かれている季節は手前がチューリップと背景に桜が写っている。きっと、桜の花びらだ。

先輩の絵が理解できるものになってきた気がした。

保育園から帰った妹は先輩の膝の上で歌のお姉さんが歌って踊るのを見ている。どうやらここが妹の定位置らしい。二人は真剣にテレビを見ていた。哲夫はこれ以上笑ってしまわないように、先輩の家を後にした。


家に帰ると、リビングの机の上にポリ袋が置かれていて、中にはお弁当が入っていた。哲夫が食べるだろうと思って、母親が用意していたものだ。

(しまった、今日出かけることを母親に言うのをすっかり忘れていた。)哲夫のお腹は先輩の作ったお昼ご飯とおやつですでに満たされている。お弁当はお腹いっぱいでもう食べられない。母親を怒らせてしまったかな、と思う。同時に母親をガッカリさせた自分が情けなく思えてきた。

「ごめんなさい」と一人呟いた。


2ヶ月後、先輩は無事高校入試に合格した。

哲夫がスクールに行くと教室は人数は少ないものの、お祭り騒ぎだった。先輩が合格通知を見せに来て、今日これから急遽卒業式をやるのだと言う。

「感謝すべきことがたくさんある。僕らは幸せだ。」

先輩が述べた答辞が哲夫の中でこだました。


哲夫は、教室に戻ると先輩が描いた先生の絵(先輩のいうところのポートレイト)をマジマジと見つめた。水色、緑、黒に塗られていくつもの線が並行に走っている。哲夫は一人合点した。これは池を泳ぐアヒルのアップだ。公園の水面の上を白い羽と産毛に覆われたアヒルが浮かぶ。

先輩と自分は違う世界に住んでいるとばかり思っていたが、同じ人物を見て同じ様に感じていた。 僕らは案外似通っていたのかもしれない。

帰り道、ふと待ち合わせした桜の前で立ち止まった。花が1輪2輪と咲いている。硬い蕾が赤く膨らみつつあった。



「ここにはいつ戻ってきてもいいんだよ。気軽に遊びにきたらいい。いつでも待っているから。」

アヒルのおばちゃんの言葉は優しい。

その言葉が自分を気遣うためのものだったと気づくのに、まるでカタツムリが這うように時間がかかる。なぜだろう、春先はいつも頭にワタが詰められているようで、腹は水の入った樽のように重たく感じる。

「自律神経が乱れているんじゃないの。」

母親はどこかでそんなアドバイスを聞いてきたらしく、おばちゃんもこれには同意していた。でも、だからといって「自律神経」という言葉が気分を軽くする呪文にはならない。季節が過ぎれば治るものであるならば、夏まで冬眠して過ごせたらいい。


哲夫はフリースクールを辞めることにした。

先輩のいないこの2ヶ月間は、教室にいてもつまらなかった。休みがちになり、5月はまだ2回しか登校していない。4月になってから新しく入ってきた声の大きな新入生とは、どうにも気が合わない。

「一緒にサッカーでもしたら」と、アヒルのおばちゃんは言う。

(先輩が学年関係なく自分と接していた時のように、自分も同じように後輩を広い心で向かえ入れられたらいいのに。)

頭では分かっていても、先輩のようには振るまえない。

そんな狭い自分の心の包容力と、知識のなさとに対峙するのも嫌になってしまった。それと、母に負担をかけているのが嫌だった。学費のこともそうだが、ここに来る時は弁当を持参する必要がある。中学校に通っていた時は給食だったからお弁当はいらなかった。中学校に通う萌花は、給食を食べる。なのに、週二回、忙しくしている母に早朝お弁当を用意してもらうのは気が引けた。


「それ、哲夫くんにって置いていった箱だよ。」

アヒルのおばちゃんは段ボールの箱を指差した。先輩が自分に残すと約束していたものだ。

「好きなのを持って行きなさい。少し重いけど、持って帰れるかい?」

段ボールを開けるとたくさんの本が入っている。本に混じってゲームのソフトが入っていた。

(先輩がいつも熱く語っていたゲームソフトじゃないか。)何冊かの参考書の中から使い込まれた一冊の本を取り上げる。先輩が入学した中学校入試の過去問だ。よく開いて勉強したのだろう、開いたところが跡がついている。

(先輩のものは、ここに置いていくべきなのかもしれない。)

おばちゃんは哲夫の心をよんでか、さらに念を押してきた。

「箱ごと持って行きなさい。彼は他にもいろいろ置いていったんだし。教室に残す分は、こっちに別の箱にもう一つあるんだから。」

それは、参考書や過去問で、来年受験を控えた哲夫に「ふさわしい」と選んでくれたものだった。

先輩だけではない。アヒルのおばちゃんもこれからの哲夫に「必要になるものだから」との思いで持って帰るよう勧めてくれているのだった。


とりあえず箱は家に持って帰った。まずは段ボールの中からRPGのゲームソフトを取り出してスイッチを入れる。先輩が大好きと語っていたゲームだろう。

哲夫の目はモニターに釘付けになった。画面には哲夫と同じくらいの男の子が映っていて、草原を駆け回っている。

主人公が向かう先には姫がいた。

見たことがある、先輩の家のカレンダーに映っていた歌のお姉さんによく似ていた。


「ゲームの中の姫に会うために、ゲームを続けていたの?」

哲夫は心の中で先輩に尋ねた。

「そうだよ。」

返事が聞こえた気がした。ジャケットの姫をまじまじと見つめる哲夫。

先輩は歌のお姉さんに会いに行ったのだろうか。


<哲夫の卒業>

「哲夫、早く降りてらっしゃい。もうすぐ約束の時間よ。」

母はイベント事にはうるさい。母は今日のためにわざわざ仕事を休んで、朝からバタバタしていた。

3月も末。去年先輩が卒業してからあっという間に一年が経った。

中学時代の同級生はこの春卒業したはずである。

「もうなにやっているの。ちょっとあんたその格好どうにかしなさい、もう先生が来るんだよ。」

母は化粧をしてクリーニングから出してきたスカートスーツを着込んでいる。膝丈のクリーム色の服はお祝いの式の時だけ着るものだ。

「ちょっと、スウェットなんて寝巻きじゃない。最後くらいちゃんとしてちょうだい。」

寝巻きから部屋着に着替えるのが習慣になっている哲夫は、もう随分と外出をしていない。

「ちゃんとした服」がどこに仕舞ってあるのか、そもそもちゃんとした服がどんな物か感覚が鈍っていた。

「ほら、制服があったでしょ。着替えてきて。」

哲夫は部屋に戻って見慣れた洋服ダンスの観音扉の弾き戸を開けた。中学校の制服が目の前にかけてあった。

ずっとここに掛かっていたはずだ。毎日見ていたはずなのに、不思議と今まで目には入っていなかった。

スウェットを脱ぎ制服の白いシャツに腕を通す。二の腕に袖口が引っかかりキツい。手首も長袖から大幅に出てしまい、ボタンがうまく止められない。

昔はこんなではなかった。学校に通っていた頃には自分にちょうど良いサイズだった制服だったのに。

哲夫は焦った。ちょうどそのタイミングで、玄関のチャイムが鳴った。

応答に出る母親の声がする。

哲夫は急いで下も制服のジャケットとズボンに着替えた。


玄関では粧し込んだ母親と男性二人が押し問答をしていた。

一人は、中学校の校長だ。もう一人も母親と面識があるようだ。多分3年生時の担任なのであろう。近頃は、教師は個人宅には上がらない。玄関先で済まそうとするのを、

「そこをなんとか」と言って、母は先生方をリビングにお通しした。


哲夫が下に降りてゆくと、リビングに正装をした二人の男性が並んでいた。

先ほどの校長と担任だ。哲夫は促されて二人の前に立った。

哲夫は自分が情けなく思えてきた。

校長は燕尾服を着ている。隣に立つ担任の先生はそれよりラフだがスーツを着ている。

自分の制服は今や小さ過ぎて動きにくいほどパツパツだ。

髪も伸びてボサボサだし、薄ら髭も生えている。


明るいリビングには電気がついている。窓の外を照らすお日様の光はもっと明るい。外は風が強く、花弁も一緒に舞っている。

花弁は吹き込んだ風に乗って玄関まで入り込んでいた。校長の肩にもひとひら乗っている


ピアノこそないものの、式は実際の卒業式と同じように進行した。

担任は哲夫の名前を読み上げる。

校長はお祝いの言葉を読み上げて、証書は哲夫に手渡された。

「卒業おめでとう。この先どんな形でも良いから、社会とつながりを持ちなさい。この一年、君が学校で過ごせる様に努力が足らず、すまなかった。でも、失った時間はきっと取り戻せますよ。」

校長の声は真剣だった。目にはうっすらと涙がにじむ。

哲夫は情けないやらありがたいやらの感情がごちゃ混ぜになったまま目頭が熱くなった。小学校の卒業式でも泣かなかったのに、あふれ出る涙を止めることができない。母親と担任も気づけばもらい泣きしている。


式は10分ほどで終わった。お茶と食事を辞退して先生二人は帰ていった

哲夫のための「卒業式」が終わって先生方が去ると、哲夫は不思議と爽やかな気分で心が軽くなるのを感じた。


「ちょっと出かけて来る。」

爽やかなのは、春の陽気のせいもあるだろう。外の空気を吸いに散歩に出ることにした。

「お昼には、帰ってきてね。」母の声が後ろから追いかける。


アヒルのおばちゃんにもいつかお礼を言わなきゃ。

そんなことを考えつつ、通い慣れたフリースクールへの川沿いの道を歩く。

ちょうど、先輩と待ち合わせした桜の木までやってきたところで、スクールに行くのを諦めた。

時間がある時に出直さなきゃ、母がお昼を用意して待っている。


春の突風が吹き荒れる。風はますます強くなるばかりだ。今年の春は早くに来た。夏もすぐそこまでに迫っているだろう。

暖かく重たい空気は巻き上がり、哲夫の顔めがけて叩きつける。

目に砂が入り、目をつぶる。

突風は今やいくつもの手のように連なり層になって渦になり、目の前の桜の木をかき乱す。

漸く薄目を開けると、春の嵐は桜の花弁を一つ残らずはぎ取ろうとしているところだった。


母はダイニングテーブルにひとり座っていた。テーブルにはスギ板のおひつが置かれていて、作ったばかりのちらし寿司からは、まだ湯気がうっすら上がっている。吸い物も出汁を取り、鍋に作り終えてあった。

今日は萌花と3人が家にいる。

仕事で居ない父をのぞいて、これから3人で哲夫の卒業祝いを兼ねた昼食だ。


外の風は強いが、部屋の中は窓から差し込む太陽に明るく照らされて、初夏を思わせるように暖かい。お昼にいつもつけっぱなしのテレビも、今日はオフのままだった。

酢飯の香りがツンと鼻につく。

皆が集まる食事の前に、母はさっき校長先生から授与された卒業証書を膝の上で広げて見ていた。



3月はイベントの多い楽しい季節だ。今日のメニューは久々に用意したものだ。

ちらし寿司もハマグリのお吸い物も、子供たちが小さい頃ひな祭りの時期によく作っていたメニューだった。

あれは、まだ子供たちが小学生に上がる前だったろう。祖母の家から引っ越したばかりで、後片付けもままならなかった母は、ひとり忙しく機嫌が悪かった。

それでも、雛祭りは意地でもちゃんとお祝いしなければと思い返し、祝膳を用意した。

「おばあちゃんの作ったお寿司には、錦糸卵がのっていたけれど、これじゃあまるで炒り卵ね。」

そんなことを言いながら。用意したメニューだ。大好物ではないけれど、懐かしい味だ。


「部屋にいる萌花を呼んで来てちょうだい。」

家に帰った哲夫を見て、母は顔を上げて言った。萌花は哲夫が声をかけるより前に、母の声を聞いてリビングに出てきた。

萌花はちらし寿司をお皿に取り分け、母はハマグリの吸い物を腕に注ぎ、哲夫はテーブルを片付けて布巾で拭く。


吸い物をすすりながら、哲夫の卒業証書を見て萌花は言った。

「お兄ちゃん。これで晴れて、不登校からニートへステップアップだね。」

母が思わず「ふっ。」と鼻で笑う。

確かに笑うところかもしれない。

萌花の言葉は、それでも嫌味ではなく、お祝いの言葉だ。哲夫も不思議と悪い気はしなかった。

家族全員の機嫌が良いのは久しぶりかもしれない。

母にしては珍しく、今日は職場の悪口も家族への愚痴も口にすることはなかった。

代わりに、子供たちの知らない、自分の実家の昔話をした。


裕福だった実家では、母の母、つまり哲夫たちの祖母は昔、当時珍しい職業婦人だったこと。祖母が、祖父と結婚してからは仕事を辞め、長女の自分たちはじめ3姉妹の世話に負われたこと。祖父が母の学生時代に突然亡くなって家族が困窮したこと。祖母は一番末の娘、叔母と今のマンションに移り住んだこと。離れて暮らす真ん中の娘、叔母は猫を飼い続けるために祖母のいるマンションに帰る気がない話、など。哲夫や萌花の知らない家での、母親の物語だ。

それから、父と結婚した後の話。父方の祖父は当時すでに亡くなっていて、姑である祖母とは結婚当初に一時同居していたこと。哲夫が生まれ、萌花が生まれて祖母は哲夫をずいぶんと可愛がっていた話。

小学校入学前後に祖母のお葬式に出た哲夫たちには、記憶のあるところだ。

このへんの話については子守唄みたいに何度も聞かされていて、頭に焼きついている。



小さい頃から、哲夫と萌花はいつも一緒だった。自然にそうなるのではなく、どこに行くにも萌花がついてくるのだ。

親も兄妹が一緒だと安心するらしい。特に母親はいつだって妹の味方だ。

友達と遊びに出かけようとすると必ず妹がついてくる。

僕は妹と一緒は嫌なのだ。だって僕らの遊びが乱暴だったり、全力で走り回ろうとすると萌香は泣いて全力で止めようとするから。

「そんなことをしちゃダメ!」

妹は自分の思い通りに周りを支配したがる。

僕らの遊び方に合わせようとしないし、それが萌花の「遊び方」なのだ。


いつだったか、「お前の妹は変だ。」と一緒に遊んでいた友達の一人に言われた。

友達の言葉は哲夫の頭の中で「お前は変だ。」と言い換えられる。これ以上萌花のわがままにみんなを巻き込めそうにない。

哲夫は諦めて、友達に「帰る」と言うと、公園をあとにした。哲夫が歩き出すと萌花がスキップで後をついてくる。

妹と二人で歩く帰り道。周囲はまだ明るい。

「お前が変だよ。」

書き換えた友達の言葉が、頭の中でリフレインする。

哲夫は気晴らしに歌を作った。


赤い夕焼け、いつもの空に、上見上げれば、映ず星、大きな夜空は、

帰り至て、きらめく月光、雲の影 今朝の朝焼け 心躍るは

魚のような 白い三日月 澄み渡る空 背には星座 側にはいつも

高い空


歌の続きを考えていたら、妹は歌に割って入ってきた。

(仕方ない)。

哲夫は、頭を空っぽにしようとする。歌の続きは、また今度考えればいいや。


自分が小学校に入学した時の思い出は、いつでも哲夫をウキウキさせるものだった。純な哲夫が純粋に楽しかった頃の思い出だ。

(春から小学1年生)

それは自分が一番幸せだった時期に違いない。

ピカピカの一年生。入学式。広い校庭に大きな校舎。大きな筆箱も持ち物の何もかもが新しい。萌花はまだこども園だから、小学校にはお兄ちゃんひとりで通う。

ランドセルは母と妹と当時まだ元気だった祖母と哲夫の4人で一緒に見に行った。


哲夫には気に入っていたランドセルがあった。

「お兄ちゃんいいな、私も小学校に行きたい。」萌花が言う。

「それは、ダメ。お兄ちゃんは学校に勉強しに行くんだ。遊びじゃないよ。」

「お兄ちゃんいいな。萌花もランドセル欲しい。」

「萌花はまだ子ども園だからね。あと一年我慢したらランドセルを買ってあげるからね。」祖母が答える。

祖母と離れて新しい家で暮らすようになって、2年近くになる。祖母と会うのは去年の七五三以来だ。


母と祖母は哲夫に黒いランドセルを推す。男の子には無難な色がいいそうだ。

哲夫には願ったりだ。同じ黒と言っても、実は黒にもいろいろある。

哲夫は売り場に並んだコーナーから一つを選んだ。このランドセルが自分のものになる為にはここにいるメンバーの賛同が必要だが、祖母はきっと僕の希望を聞いてくれる。

「ここに鳥のマークがついているよ。」

ランドセルを見た萌花が、側面を飾るエンブレムを指差して言った。

「サッカーのエンブレムだよ。」

このエンブレムはこのランドセルがプレミアである印であり、価格をプレミアにさせる理由でもある。

「この鳥黒いよ、もしかしてカラス?」

萌花の声に祖母が反応する。

「あら、八咫烏じゃない。萌花ちゃん見てごらん。足が3本あるでしょう?神様のお使いの特別な烏よ。」

「神話の鳥がどうして子供のランドセルについているのかしら?」

祖母は信心深いがスポーツには詳しくない。

「サッカーのエンブレムだって。」

哲夫はヤタガラスのことは知らなかったが、「ほら。」と言ってかぶせを開けた。

かぶせの裏にはサッカーボールがデザインされた模様があしらわれている。

祖母は、孫が気に入っているならと、喜んでプレミアムランドセルを買ってくれた。

プレミアムランドセルを持って家に帰った哲夫は、自分の部屋にこもった。部屋には新しい机、洋服ダンスには新しい体操着。夕陽に照らされて黒光するランドセルをマジマジと見つめていた。星の鋲、かぶせやポケットに施された紺色のステッチ。シルバーの留め具はピカピカに輝いていてる。エンブレムの「ヤタガラス」は3本のうちの一本の足で赤い玉を掴んでいる。赤い玉は、ボールだろうか、それとも赤い星だろうか?


祖母はその年の秋に自宅で転倒して入院し、その後あっという間に亡くなった。

祖母の遺品を整理しに家族で家を訪れると、机にはランドセルを背負って笑う哲夫の写真が飾ってあった。

祖母と萌花のランドセルを買いに行く約束は果たされなかった。


・・・・・

夏休みはあっという間に終わってしまった。ニートだから休みなんて関係ないけれど。気づけばもう9月も上旬だ。

この夏休みの成果は、たくさん昆虫コレクションが揃ったことだ。もちろん河原や公園に虫取り網を持って集めたわけではなく、ゲームの話である。

先輩が残していった段ボールいっぱいの本や参考書はそれなりに活用していた。参考書は時々は開いたし、本も読みやすいものはあらかた読んだ。でも、一番時間をかけて取り組んでいるのは彼が好きだったゲームだ。

「ヒケシアゲハのオスだけどうしても見つけられなかったんだ。オルディアのそばに生息しているはずなんだけれど。

昆虫コレクションをコンプリートして、館長さんの女の子が喜ぶ顔がみたい。」

先輩が熱く語っていたことを思い出す。彼が話していたのは、もう2年も前になる。

哲夫はこの夏、まるで修行僧のように、毎日モニター中の大海原に出かけは虫を獲り、魚を釣った。


先輩と同じ高校を受験しようと考えていた時期もあった。でも哲夫の家から高校に行くための交通手段がないのと、私立の学費はかなり高めだった。

公立の高校を受験しようとも考えた。でも、誰にも理由を言えないけれど受験会場で元同級生と顔を合わせるのを避けたかった。

人に言わせればくだらないことだろうが、僕には一大事なのだ。

受験会場で顔を合わせて、クラスの噂になるのは嫌だ。その上、自分だけ不合格で馬鹿にされるかと思うと耐えられない。もし合格したとしても、高校でまたいじめが再開されるかもしれない。

そんな言い訳を見つけてからは勉強に身が入らず、受験自体を諦めそうになる。


そんな夏休みが終わる頃だった。先輩から封書が送られてきた。

机に置いてあったチラシや親宛のダイレクトメールの山からそれを見つけたときには、哲夫は小躍りをした。

ああ、信じられない、先輩の字だ。右上がりの独特な筆跡が懐かしい。


先輩はすごく真面目な顔をして冗談を言う。いや、冗談なのか本人は本気で言っているのか、いまだにわからない。論理的で難解と見せかけて、実はただの言葉遊びだったりする 。

先輩は相手構わず冗談を言っては、一人悦に入る。そんな先輩に呆れたり大人を含め中には腹を立てる人もいるけれど、僕は周りのそんな反応も含め笑いがこみ上げてくる。

まあ、内容は半分も頭に入ってこないし、理解するのに時間をかけているうちに内容を忘れちゃうくらいなのだけれど。

先輩はよく水彩画で「ポートレイト」を描いていた。妹、両親、憧れの歌のお姉さん。フリースクールのアヒルのおばちゃん。目の前で描くのを見たこともある。その時、先輩に僕のキャラクターがどう見えているのか聞いたけれど、答えは無かった。


その封筒には誕生日のメッセージカードが入っていた。

封筒を開けると中から葉書大のカードが出てきた。それはカードに描かれた水彩画だった。

「これは僕のポートレートに違いない。やったー、僕を描いてくれたんだ。」

カードには、ハケで塗ったような青の絵具が一面に描かれていた。グレーがかったグラデーションに点が浮かぶ。

絵に手紙が添えられていた。哲夫はワクワクしながら読んだ。


「哲夫くんのキャラクターについて考えてみました。キャラクター、characterはギリシャ語で「印」の意味の語源です。哲夫くんの誕生日は天秤座なので、君の星座を探そうと夜空を見上げたけど見つけられませんでした。街の夜は君のキャラを見つけ出すには明るすぎたみたいです。

たくさんの星が観察される美しい夜空なら、きっと乙女座一等星スピカと蠍座の赤い心臓アンタレスの間に天秤座は見つかります。

神話に登場する天秤は、人々の正義を測るため女神アストレアが用いる道具でした。ちなみに、女神は悪に傾く人々を見限って天上の世界へ帰り、天秤だけが夜空に残されました。

お誕生日おめでとう」


あいかわらず訳がわからない。これが誕生日を祝うメッセージだろうか。

先輩の話はいつも呪文のように難解だった。手紙だから分かりにくいのではなく、直接会って話してもて同じだろう。

哲夫は手紙の内容を噛み砕こうと、もう一度マジマジと絵の方を見た。

手紙の内容からいって、これは夜空の絵だろう。満天の星ではなく、家から見えた街の夜空。そんなボヤけた空だ。

左下の方に上からのせられた赤い点が目を引く。右上には背景から白抜きした小さな丸の形。たぶんどちらも星だ。

赤いのは蠍座の心臓アンタレスなのだろう。白抜きの小さな点が(スピカ)ということか。だが、アンタレスとスピカの間のグレーのグラデーションには何も描かれてなかった。


「ちぇっ。」

天秤座のあるべき場所には何も描かれていないのだ。ちょっとがっかりした。でも、天秤座の神話は気に入った。

僕のキャラクターは天秤座。女神アストレアに打ち捨てられ、星空に残された道具。世界で人々の正義をじっと見守り測り続けている。

このキャラクター気に入った。 一人でいても、正しいことを見つけてちゃんと実行する。孤独なヒーローみたいにでカッコいいじゃないか。


自分も先輩に何かいい報告がしたいな。先輩の高校に合格してキャンパスに僕が現れる。そんなドッキリを夢見たこともあったけど、どうも叶えられそうにない。受かって高校の話とかしたいが、先輩がコンプリートしたがっていたゲームの続きの話でもいい。

何かいい報告がしたいな。哲夫はしまったままだったゲームソフトを取り出すと、本体にセットした。先ずはトンボを捕まえに行かないと。


ゲームはなかなか終わらなかった。昼間の時間では限りがあるから、家族が寝静まってから夜中にテレビを占領してゲームする。すっかり夜型になり、朝起きられない。

家族は僕の生活について何か話ているようだった。萌花は家族が出かけて僕が1人家に残される時間の多くなる「夏休みの終わり」を気にしていた。もっとも、僕には決まった夏休みがあるわけでも、世間の休みも関係ないのだけれど。

哲夫は(君は生きて成長しているからね)という先輩の声を思い出しながら、プレイし続けた。


<拳2>

妹の萌花が、突然ノックもなしに部屋に入ってきた。土曜の朝のことだ。「おはよう」の挨拶もない。

これから面倒なことになりそうだ。萌花の目は、一方的な正義感で満ち溢れている。


兄は近頃、家族が寝静まる夜にリビングで明け方近くまでゲームばかりしている。哲夫を除く家族3人が集まると、母はしきりにその話題を持ち出す。

夜中のゲームについては家族全員が知っている。睡眠不足は昼間に補えばいいのだから呑気なものだ。

だが、毎日顔を合わせてる母親が、哲夫に直接何か言ったことはない。


萌花はズカズカと部屋の奥まで入ると紺のカーテンを一気に両開きにし、勢いついでに窓も全開にした。

「この部屋埃っぽい!」

萌花は、向き直ると哲夫を睨みつけた。

「昨夜、何時までゲームしていたの?いつまで夏休み気分でいるつもり?ああ、お兄ちゃんは高校生じゃなくてニートだから、休みなんて関係ないんだよね。」

萌花の苛々スイッチは朝からしっかり入っている。昨夜よく眠れなかったのかもしれない。

テレビの音量を下げていても、萌花の部屋はすぐ隣だから、リビングでしていることは筒抜けなのだ。


萌花の部屋は一階で、他の部屋からアクセスしやすい。部屋の一部は母の服や家族の物に占領されてて、家族はよく出入りする。

小学2年生の萌花がこの部屋を与えられた時、彼女はとても喜んでた。というより、萌花が強く希望したから、彼女の部屋はこの場所になった。

自分だけの部屋を手に入れて、ワクワクする。しかも、隣のリビングはいつでも家族がいて賑やかだった。

テレビを見ながらみんなが盛り上がっている時、自分だけさっと自室へ抜け出してベットの上の大きな熊の人形に抱きつく。それからリビングに戻って、また家族と一緒にテレビを見る。そんなことが出来る、とっておきな部屋だった。そして、母がよく服を取りに出入りするのもポイント高い。

「明日は家族で出かけるけれど、何を着て行こうかしら?」

母がクローゼットの前で呟いたら自分の出番だ。

頭の回転が早い萌花は母の服を母よりもよく把握している。コーディネートの腕は自分の方が絶対に上だ。

そうして、服を出したり仕舞ったりりしながら、母の話を聞く。職場の話、家族の話、諸々の昔話。

自分も小学校での出来事なんかをとりとめなく話す。母を独り占めできる、とてもお気に入りの空間だ。

でも、萌花は成長して中学生になった。今や家族よりも友達とのコミュニケーションやプライベートの方が大事なお年頃だ。


「どうしてゲーム機が出しっぱなしになっているの。使ったら片付けてよ。朝からあんなものが目に飛び込んできたら気が散るじゃないの。だいたいいつまでテレビをつけているつもり?私受験生なのよ。夜はしっかり睡眠を取って、勉強に集中しないといけないの」

(受験生)はパワーワードだ。居合わせた人全員を黙らせる力がある。

でも、何より萌花の言うことは正論だ。彼女は口で勝てる相手ではない。

萌花の言うことはいつだって正しい。

もともと高かった萌花の女王様度は、今や名実ともに最高値にある。

萌花は何も答えしない哲夫の袖をつかむと、そのまま一階のリビングまで引っ張り出した。


「学校を卒業したんだから、高校受験するんじゃなかったの?ねえ、知ってる?8月が過ぎたらもう夏休みは終わりなの。学校行っていないお兄ちゃんには、春でも冬でも、毎日が休みで関係ないのかもしれないけどね。お母さんたちをどれだけ心配させるつもりなの」萌花の言葉は止まらない。

「私はこれから試験を受けなきゃならないの。お兄ちゃんの同級生だった人たちは今頃どうしているかしらね。」

今日萌花が部屋に入ってきたのは、もともとは兄を心配する母親を気遣っての役回りだった。だが、頭の回転は早くても、萌花の口の滑りはブレーキのかけ方を知らない。

「私お兄ちゃんと違って、人生を諦めてなんかいないの。」


哲夫の口は閉じられたままだった。

掴まれたままの袖は、まだ萌花の手の中にある。拘束を解こうとする度に、萌花は倍の力でさらに袖を引っ張った。

「黙ってないで、なんか言いなさいよ!リビングはみんなが使う場所よ。こんなもの出していないでちゃんと片付けて。」

哲夫から手を離し、萌花は机の上にダイレクトメールに混ざって置いてある先輩の誕生日カードを取り上げて、チラシと一緒にゴミ箱に放り込んだ。


次の瞬間、哲夫は萌花の頬に平手打ちしていた。萌花のリミッターの外れた感情に身体が反応してしまったのだ。

怒りの制御が効かなかったのは、寝起きで頭が働いてなかったせいかもしれない。

無意識に叩いたから、かなりの力が出てしまった。

気づけば、萌花の身体は右頬を矢尻にキッチンに向かって飛んでいた。そのまま、食器棚の前で落下する。同時に、鈍い音して彼女は床に倒れこんだ。

音は、カウンターに萌花が額をぶつけものだった。

小麦色の額に白い筋が走る。

その傷は、今度は徐々に赤みを足して膨張し始めていた。すぐにひどいミミズ腫れになるに違いない。時間は止まることなく、血潮とともに流れ続ける。

哲夫は萌花を助けおこそうと、慌ててそばへ駆け寄った。だが、全ては後の祭りだ。


萌花の瞳が哲夫を捉える。哲夫には意外なことに、それは怯えている目だった。

まるで得体のしれない者を見ているかのような恐怖を映した瞳。哲夫は、急速にさめる自分に驚く。


「冗談じゃない、お前は一度だって俺をちゃんと見たことがあったのかい?」

叩いたことを詫びる感情より先に、哲夫は怒りが抑えられない。

「俺のキャラがどうとか言っていたよな。そうだ、お前が知っている俺は、妹を大事にするよう言いつけられてきた俺だ。それが、お前が言っていた「俺のキャラ」だろ!言われたことをちゃんと守って生きてきた(いい子)の俺だった。そんな俺のキャラを壊すのは、お前じゃ無いか。お前自分のしたことの自覚あるのか?」

自分でもゾッとするような考えが頭をよぎる。弱った獲物を前に肉食獣が野生を呼び覚ますように、自分の意思では制御できない力に飲み込まれる。哲夫は、わざと呆れたような表情を作ると、萌花をもう一度、力いっぱいに叩いた。

一発、もう一発。

(自分を、自分自身を、自分の考えを受け入れて何が悪い。)

そのおぼろげな考えが言葉となって、今やかたちを成しつつあり、今度こそはっきりと意識化に受容される。

「俺は自分の表現方法を、今ようやく手に入れた。」


「ドゴッ」と言う振動音と争う声を聞きつけて、隣の部屋にいた母がリビングに出てきた。

目に飛び込んできたのは、呻き倒れこむ萌花と傍らにぼうっと立って俯いる兄の哲夫だ。

ショックで立ち上がれない萌花。哲夫の頭も、ひどく混乱していた。

(叩いてしまった。どうしよう。でも、俺は手加減した。ちゃんと加減ができたはず。俺はちゃんと…)


萌花は訴えるように母親を見つめ、哲夫の目は焦点があっていない。顔はなぜか笑っているようにも見える。

母は腰を抜かして、足に力が入らずに立っているのが精一杯だった。

母を見た萌花が演技がかった高い声で叫ぶ

「お母さん救急車呼んでよ、救急車。違うわ!警察を呼んで!」

母親はただボーッとしているように見えた。まるで何も見ていないかのように。萌花の声は聞こえないのだろうか? 

母は驚愕の目すら見せていなかった。


なぜだろう。

彼女は、萌花の心配をしていなかった。

ふと母の頭によぎるのは、過去に自分に投げかけられてきた有形無形の心ない言葉の数々だった。

誰も彼も、彼女に好き勝手なことを言う。

誰も母親である自分を気遣ってはくれない。


「学校に行かないのが本人の意思なら、無理させるべきではない。」

そんな周りの意見は頭ではわかっている。いや、わかっているフリをしている。

そんなはずはない。息子が引きこもっている状態が良いはずない。

「私は頑張っているんだ。哲夫、お前もがんばらなきゃ」

心のうちで叫んでいる。なのに哲夫の歩みは、止まっているように遅い。


「哲夫を自由にしない」と非難する連中は、最後に問題が起きた時には「母親のせいだ」と責任の所在を押し付けるだろう。

夫は動いてくれない。同じ親なのに。

家庭を取り仕切ってきたのは私だ。

哲夫の引きこもりを許したのも私。

フリースクールを辞めると言った時に教室に電話したのも私。そういえば、中学校との話し合いをしたのも私一人だった。


夫はすでに部外者の立ち位置にいて、今さら頼れない。

自分が頼りにしていたのは小さい頃からちいママだった萌花だ。 彼女は本当にしっかりしていて頼りになる。よく気がつくし、行動力があって頼もしい。叔母である妹達にだって萌花はお気に入りだ。


今朝、ついさっき、妹に兄のことを愚痴ったのは確かに私だった。

(お兄ちゃんはいつになったら学校に行ってくれるのだろう。)

(中学校を出ていないようじゃ就職だって困る。今は昔とは違うのよ)

(昨夜もリビングに降りてきて何やらゲームをしていたようだけど。)

(このままではいけないわ。)

萌花が自分の代わりに兄を注意したのは想定内のことだった。その結果が今の状況なのだろうか?

でもこの状況は、萌花が倒れて哲夫が狂人になったこんな状態は、自分が望んでたものではない。


「警察、警察!」

萌花の声に押されるように、受話器をとった母親はそのまま110番を押してしまう。


電話の主が聞いてきた。

「こちらは警察です。どうしましたか?」

母親は返事をしない。

(次は、なんと言ったらいい?)


萌花の悲鳴を聞いた父親も自分の部屋から出てきた。

リビングには受話器を持ったまま佇む母親。それと、倒れ込んで叫んでいる萌花と肩で息をする哲夫の姿がある。

兄妹喧嘩の仲直りできる臨界点は、超えていた。


(エライことになってしまった。)

やがて、サイレンの音が近づいてくるのが聞こえた。

サイレンは家の前で止まると、パトカーから出てきた警察官が玄関の扉を叩いた。

哲夫も母親もボーッとしていて反応がない。萌花は倒れている。

対応に出たのは、父親だった。


哲夫はちょっと冷静になって、「自分がこれから少年院に行くのだろうか。」とか、「もう卒業したのだから刑務所に入るのだろうか。」などと考える。

ようやく混乱から覚めて、落ち着きを取り戻した哲夫は、冷静に受け答えができるようになった。


警察官は先ず萌花に状況を聞いた。

「ああ、ひどい傷ですね。どうされたんですか?」

「そうですね。とにかく手当てをされてください。」

優しく言うと、その場を離れた。


哲夫はリビングから離れた玄関前まで呼ばれて、状況を聞かれた。

「無理やり掴まれてどうしても離さなかったから、思い切り振り払っただけです。そしたら、倒れて…」

警察は、倒れた後に更に叩いたことを、すかさずついてきた。

「しつこく煽ってきたのは妹の方です。なんでも限度ってものがあるでしょう?手のひらで叩いただけだ。傷はあいつが自分で倒れたときのものです。」

自分は余計なことを言った。

警察官にはこってり絞られた。だが、逮捕はされずに事情だけ聞いて警察官は帰っていった。


萌花は当然、納得いかない。興奮して「病院、病院。」と言い続けるので、父親が車を出して近所で評判の総合病院に向かうことになった。



病院はとても混んでいた。

受付に事情を話して食い下がったが、救急扱いにはならなかった。一般外来の予約なしと言うことで2時間は待つらしい。


診察を待つ間、看護婦が萌花を気遣ってくれた。話を聞く限り、どうも頭は打っていなさそうだ。

ことが派手な兄弟喧嘩とわかると、看護師は一瞬笑ってから。

「診療記録は残した方がいいですね。」と言ってくれた。

1時間ばかり舞ったところで、父親は「もう帰る」と言い出した。

「自分で撮った写真も、何かあった時の証拠になります。」

と看護婦に言われ、萌花はようやく納得した。

診察を受けずに、家で絆創膏を貼って手当てすることにした。

傷は表からは大きく見えたが、浅く軽症だった。

むしろ、萌花には心がうけたショックが大きかった。


哲夫と2人残された母親は、嵐が過ぎ去るのを待つようにただボーッとしていた。

母の中には、オセロの駒が目の前でひっくり返されるのをなす術もなく見つめる自分がいた。

この状況から自分や家族を守るものは何も残っていないように感じる。

卒業したのだから中学校からのサポートはない。フリースクールは辞めてしまった。

哲夫の暴力はこの先も続くのだろうか?もう腕力で相手にできる年齢ではない。

萌花はもうこの先、哲夫のことでは頼れないかもしれない。


今までは少なくとも家にいた夫だが、実はこの秋からの海外への長期出張が決まったところだった。

これから自分たち家族を置いて家を出て、単身赴任をする予定だ。

もしまた哲夫が暴れて、家族以外の誰かに助けを求めたなら、世間はなんと答えるだろう。

「ほら見たことか。受動的に生きてきたお前が行き着く先の人生さ。」


リビングですることがなくなった哲夫は、2階の部屋に戻った。

ぼんやりと辺りを見回したが、何も感じない。疲れているのだろうか?動きまわったわけでもないのに。

この部屋はいつで静かだ。哲夫の生命活動に伴って物が触れ合う以外には、部屋から音が生まない。哲夫が引きこもり始めたあの日からは、特にずっと。

照明の点いていない部屋は、傾き始めた夕日の鈍いオレンジ色の光に支配されつつあった。淡く橙色に光る壁紙を見ていると、ふと、濃く染まった斑のようなものが目に止まった。

何だろうと思い近づくと、それは影ではなく壁についた汚れだとわかった。引きこもるきっかけとなったあの日に、自分が壁を殴ってつけた跡だと気づくのに数秒かかる。当時はこの跡を身近に感じていたのに、心なしか今の自分よりも壁の拳の跡の方が小さい気がした。

気のせいではない。自分の拳の方が大きい。

哲夫の手が成長したのだ。手だけではない。 哲夫の心の中の時間は止まったまま、手も身長も体重も嵩を増した。


あの日も穏やかな秋晴れだった。去年でもない、一昨年前のこと。

つまり引きこもってから2年の歳月が流れている。自分はもう16歳だ。

哲夫はそれ以上の回想を停止しさせ、反射的に電灯のスイッチの紐を引いく。

蛍光灯の色がオレンジ色の揺ぎに上書きされ、途端に時間と空間は朝の騒動のその時まで引き戻された。


哲夫は次の日の朝、リビングに降りていった。

ダイニングに座る萌花と哲夫の目が会う。気まずい空気が流れる。

額には大きな絆創膏を貼っていた。哲夫が謝ろうとすると、萌花は自分の部屋に引っ込んでしまった。

萌花には、兄の「ごめん。」が届かなかった。


ダイニング机の上に、哲夫宛ての厚い封筒が置かれている。

通信制の高校への秋入学が認められたと言う通知だった。

それは、針のむしろになることを予想していた哲夫には、予想外の展開だ。


「おめでとう。」父親が笑っている。母も安堵したような嬉しそうな表情だ。

つまりは、この秋から哲夫は、晴れて高校生になるわけだ。

さっきまで自分が少年院にでも行くのかと心配していたのに、風向きが急に変わった。これで一方的に責められる心配が、一つなくなったのだ。

哲夫は、ただゲームをして遊んでいるだけではなかった。萌花が先に高校に入学するのが嫌だったので、実際には必死になって勉強もしていた。妹より先に高校生になるために、夏に入学試験を受けていた。兄が先という順番は哲夫にはとても大事だったから。


家族の会話は、隣の部屋にいる萌花に筒抜けだった。

自分を殴った兄が両親から祝福の言葉をかけれれるのを、正直イライラして聞いている。

自分にはプライベートな部屋が必要だ。家族の話し声が耳に入らない部屋が。


「どころで」

父親は、自分が秋から長期海外出張に行く話をしてきた。少なくとも3年、あるいはそれ以上の期間、単身赴任すると言う。母に海外についてくるか聞いたところ、学生である哲夫や萌花を置いてはいけないから日本に残るそうだ。

ここには自分の仕事もある。日本に残る理由のたくさんあることに、母親は安堵していた。

変化は好まない。夫と二人海外で暮らす生活は想像できない。

父は自分の部屋を哲夫が使わないかと聞いてきた。代わりに、今の哲夫の部屋を萌花の部屋にすると言う。


父の部屋は、母屋から独立した「はなれ」にある。哲夫たちが小さい頃は、部屋は倉庫として使われていた。家族が越してくるより更に前の住民は、このはなれを人に貸せるように作ったと言う。小さいながらも玄関があり、水道も通っていて生活ができる。


子供たちが大きくなって、哲夫と萌花の子供部屋が必要になった。そのためのスペースを確保するために倉庫は改装され、父の物がこの部屋に移動した。物持ちな父のガラクタ、もとい荷物は大量にある。いくつかの埃のかぶった段ボールは、どうやら前回の引っ越しから一度も封が切られていないらしい。


哲夫の引越しは、父の部屋だったはなれに自分の荷物を移動させるだけの予定だった。上手くすれば、自分の分の引っ越しは1日で片がつく。

そのあと、自分が空けた部屋を萌花が使う。この部屋には戻らない。拳の痕のついた壁紙ともサヨナラだ。

妹とはあの日以来、口を聞いていない。自分が謝るべき立場だと思うが、萌花は話しかけて来ない。周りも気を使っているけど、もう、そんなことどうでもいい。放っておかれる今の状況が心地いい。


哲夫は父について部屋に入る。はなれが父の部屋になってから入るのは初めてかもしれない。

父は電灯の紐を引いて電気をつけた。埃っぽい沢山の物が照らされ、父の匂いがした。

帰りが遅い時など仕事を持ち込んでそのままこの部屋で寝ていたらしい、古く綻びたソファーに、枕と毛布が置かれている。小さな玄関には履いた形跡の無い靴があり、厚くほこりをかぶっている。哲夫は自分の足場を探してバランスを崩しそうになった。

父には、これらの荷物を片付ける気はなさそうだった。とりあえず自分にとって必要なものが残されていないか見ているだけらしい。あちこちひっくり返していたが、すぐに作業をやめて両腰に手を当てた。

手持ち無沙汰な哲夫は、ソファーに座った。小さい頃かくれんぼをした時にこの部屋に入り、ソファーをトランポリン代わりにして怒られたことを思い出す。壁紙のダスマスク柄にも見覚えがある。


哲夫は引っ越しが想像していたよりはるかに大変なことを知った。この部屋には、どう考えても自分のものを置くスペースはない。例えば、自分が座るこの古びたソファーは、そもそもこの部屋には大きすぎる。

ノスタルジーに浸る時間は残されていない。「今日中の引っ越し」はお預けだろう。哲夫の引っ越しは延期して、この部屋を片付けるのが先だ。


「ここにある物は使うなり捨てるなりお前の好きにして良いからな。」

父はそう言ってそのままスーツケース一つで出て行って、戻ってこなさそうな勢いだった。

哲夫は半泣き状態でなんとか父を引き留め、ガラクタの選別と搬出を手伝うように説得をした。


父も母も物を捨てない。キッチンはいつ使うかわからない鍋やら食品ストックであふれ、母の服は自分のクローゼットに収まりきらない余った服が萌花の部屋に置かれている。

この家のリビングとダイニングがかろうじて整っているのは、結婚後に母が努力したのと萌花の功績による。

家の中には母親の物が多いと思っていたが、父の部屋を見る限り、物持ちは夫婦似たもの同士だったらしい。母のものは緩やかに他の部屋へ侵出し、父のものは縄張りの外へ出ない。


幸いなことに、古びたソファーを処分するという哲夫の案は受け入れられた。

「俺も昔この部屋を使うと決まった時、ソファーを捨てようと提案したんだが、その時は母さんに反対された。」

父は言う。つまり、ソファーの方が父より古い住人だったと言うことだ。

「この家に引っ越してすぐ、新しいソファーを買った。古いソファーが邪魔になってな。使えるのに捨てるのはもったいないと言って、その時とりあえずこの部屋に移動したんだ。」

新しいソファーとはリビングの古びたやつだろう。

それにしても、(とりあえず)と言う言葉の期間はそれくらいを指すのだろう?いろいろあった今回の家族内のゴタゴタも、部屋のスペースを作るきっかけくらいには役に立つ。

哲夫は父と協力してソファーを粗大ゴミの集積所に運んだ。


ソファーを運んだらあらかた片付けが終わるという哲夫の見通しは甘かったようだ。ソファーの裏からはCDやら本やらといった本来の父のガラクタが大量にあらわれる。

哲夫はゴミ袋を片手に奮闘する。裏口に置きっぱなしだった靴は不燃物の袋に入れて処分した。一度も封が解かれていなかった前回の引越しの時の荷物も、中身の確認くらいはした。

いつの間にか軍手とマスクが母か萌花によって差し入れられている。

「お父さんのコレクションの価値なんて僕らにはわからないんだから、残りの荷物を全部確認して。」

哲夫の願いを父ははぐらかす。父はすでに片付けへの興味を失いつつあり、そもそも、今まで選別できなかったコレクションが急に片付けられるものではない。それでも重い腰を上げ、片付けは父の長期出張の日の直前まで続いた。


父子の額には汗がにじむ。

一息ついておやつを食べながら残された父のコレクションについて考えていたら、意外な助け舟があった。

「業者を呼んで査定してもらったらいいんじゃない?値段がつかないものは引き取り費用を払うと処分してくれるらしいよ。」

萌花が口を開いた。

その話を聞きながら、「多分全部値段なんてつかないんだろうな。」と、思った。

でもいいアイデアだ。


結局引き取り業者は呼ばなかった。

協力してもらって、何とか書籍を半分まで減らした。カセット、VHS、CD、レコード類はいるものだけ残して、ダンボールにそのまましまった。部屋の外に段ボールをしまうスペースを確保し、ようやく引っ越しができるスペースができた。今度こそ、この部屋とはお別れだ。

哲夫の机と椅子とパイプベットを父と運び、制服の入っていた洋服ダンスは処分して、父の部屋にあったものを使うことにする。

梱包があらかた終わり、最後に先輩が残した段ボールがのこった。最後の段ボールを階段下まで運ぶと、ふとリビングのゲームが目にはいる。哲夫はゲーム一式も、そのダンボールの中に突っ込んだ。

(受験生の萌花には、要らないものだろう)。

哲夫の行動に口を出すものはもう誰もいなかった。


新しい哲夫の部屋は、まるで父という宿主のヤドカリの貝殻のようだ。あらかた片付いたとはいえ、至る所に若い頃の父の痕跡が残されている。古いカメラ、鉄道写真、画集、レコード、旅行のお土産品。父の思い出が残された、というか放棄された場所に哲夫が新たな主人となって住み着くようなものだ。

哲夫は運び込んだパイプベットを自分のスペースの頼りとして眠った。自分の部屋より天井が低く感じた。


次の日の朝早く、呼び鈴が鳴った。哲夫あての荷物だと言う。運送業者は事態が飲み込めない哲夫をよそに、巨大な段ボールを新しい部屋に運び込む。ようやく作ったスペースがその荷物に埋め尽くされた。それは新しいテレビで、哲夫のために父が買ったものだという。

父の主張はこうだ。萌花との喧嘩の原因が夜中のテレビにあるのであれば、哲夫の部屋に専用のモニターを持ち込めばいい。さらに萌花に哲夫の部屋を用意すれば、彼女の方も満足するだろうと。

受験生に配慮しろと哲夫に言うよりは、直接的な解決法だと父は考えたらしい。その解決法はシンプルだが、そんな安易な解決策に母親はきっと激怒する。やり方に母が文句を言う頃には父は飛行機の上にいる。

「せっかく時間をかけて空きスペースを作ったのに。」腹立ちと諦めと少しの嬉しさが入り混じった状態で梱包を解いた。段ボールを片付け終わる頃には哲夫は楽しくなってきていた。テレビはいいものだった。


スーツケースを片手に出発に臨む父の顔は清々している。新しい仕事への希望もあるのかもしれない。次に会えるのはいつだろう。

哲夫はいつも父を見ていた。口数は少ないが、それでも父は間違いなく哲夫の目指す大人のモデルだった。

もう出発の時間が迫っている。萌花とのこと、どうしたらいいだろう。母親とのこれからの毎日、この先どうしたらいいだろう。部屋を出ようとする父に相談してみた。

父は過去を掘り起こして責めることも、母親へのアドバイスも何も言わなかった。代わりに、少し面倒くさそうな表情をして

「自分で考えろ。」と、それだけ言うと踵を返して部屋を出た。

(「自分で考えろ」。自分で考える。今度こそ、自由になる。)


中学を不登校になり、フリースクールを辞め、部屋に引きこもってからと言うもの、リビングで家族とテレビドラマを見るのがすっかり辛くなっていた。特に学園ものは目に映った途端に消すか、家族が見ているならばリビングを離れる。CMも見たくない。

ドラマやテレビに写し出されるのは着飾った虚構の男女だけだ。それが現実の生活に似せて誰かが作っていると想像すると、ますます不気味さが増す。

男女が会話する姿など、作られたドラマであっても目にしたくはない。

リビングのテレビでドラマを見るのは、もっぱら母親と萌花だった。哲夫はドラマというものが気持ち悪い。夜ひっそりとリビングでひとりゲームをするときは、テレビの電源を入れたらすぐにモニターモードに切り替えていた。できるだけ早く。


そんな自分とおさらばできるだろうか。高校の進学が決まり、ようやくこの先が定まった。

父のプレゼントしてくれた新しいテレビをゲーム機専用にするのはもったいない。いいものだから使ってみるべきだ。部屋の見栄えも大事にしないと。人を誰か呼ぶかもしれないし。そう、先輩が僕を部屋に招待してくれたみたいに。


電源を入れると、テレビ画面には美しい風景が映し出された。

モニターの中の世界は、生き生きとしていた。二次元から、三次元、四次元へと、画面に写される映像はそこに流れる空気さえ感じさせる。自分とテレビの中の世界が近く、自分が画面の中に入っていくようにさえ感じる。

解像度の高い映像というものは、単なる平面の絵ではない。美しい映像にはパワーが、深度がある。その情報の重量は暴力的に部屋を圧迫する。

視覚情報は厚みを持ち、いま目の前にあるテレビはリビングで見たそれより、この空間を支配するのだった。


新しいテレビの登場は少しばかり哲夫の生活習慣を変えた。

映像なんて虚構の世界だと思っていた。なのに、新しいテレビに映る映像には上手に隠されていた「真実」が少しばかり混ざっているのに気づいたからだ。

哲夫はテレビを頻繁に見るようになった。自然、風景、動物、絶景、ドラマ、お笑い、ニュースにバラエティー。歴史物のドラマの大作も、凛とした空気を感じる美しい映像に酔いしれた。


例えば哲夫のドラマの見方は、人々のそれとはちょっと違ってひねくれてたかもしれない。彼は学校に通わない分余った時間を使い、テレビを通じて、他人の粗探しを楽しんだのだった。つまりは、テレビに映った人物の毛生え際のかつらの跡や下手な化粧を観察し、虚構を作るための過程をそこに垣間見て、役者たちの口の滑らかさ具合をランク付けしたりして時間をつぶした。

最近ハマっているのは歴史ドラマのチェックだ。

そこには飾らずも美しい少女「牧野結美」の姿があった。美しいというよりは素朴な少女。哲夫は彼女にすぐに夢中になった。


<アルバイト>

俺は哲夫、高校生。通信高校に通い始めて、いま4年目。あれ、5年目だったけ?

好きなことは何かって?

う〜ん、ゲームと。あとは何だろう…ちょっと思いつかないや。

俺が、どうゆう人間かって?

どうしてそんなこと聞くのさ。俺は、ちゃんとしていないと気が済まないんだ。そのぶんちょっと人より遅れちゃったりするけれど。もちろん、努力してきっちりやるよ。抜かりなく完璧にね。だから、誰にも後ろ指を刺させたりしない。

周りは俺のことを「まめ」とか「メモ魔」とか呼ぶ。中学校では、この性格はいじめの格好の口実だった。

「あいつは、いちいち細かい。マジメくさってて、きもち悪い。」

妹の萌花も、何でもいちいちメモを取る俺のことを馬鹿にする。

「手ばっかり動かして、人の話をちゃんと聞いているの?メモを取らないと覚えられない?学校に行かない日を正確に数えたところで、何になるの。馬鹿みたい。」

母親は、萌花の隣で鼻で笑うだけだ。

でも、以前通っていたフリースクールには、俺のこの性格を「素晴らしい」と褒めてくれた人がいた。太ってて、いつもニコニコしていた、アヒルのおばちゃんだ。

「哲夫くんのそう言うところ、とっても素晴らしいのよ。誰もができることじゃないわ。きっと何かの助けになるから、他人のことは気にせずその習慣を大事になさい。」

俺は一緒にスクールに通っていた先輩のことが大好きで尊敬していた。メモを取るのは、自分を守るためと、先輩との思い出を忘れない為に始めた習慣だった。アヒルのおばちゃんに褒めてもらってからは、メモをとる習慣に磨きがかかり、今では「メモ魔」としての自分に誇りをもっている。

嫌いなものは何かって?

俺の大嫌いなもの。それは、リアルの女。女という生き物が大嫌い!


俺が小さい頃は、大人たちに「将来の夢」についてよく聞かれた。

今の俺が描く「将来の夢」は何だろう?

と、言うか、彼らの想像する「夢」とは、どう言ったものを指すんだろう?

よくあるパターンは、ハーレムを作るってやつだ。大勢の美女に囲まれて過ごす生活が幸せの絶頂だという男たちの夢だ。

彼らは、残念ながら女の本質を理解していないと思う。女たちにとって男はただの上等な鴨肉にしかすぎない。どんなに上等であっても所詮は肉。食べられて消費されて残りカスは捨てられる。ただそれだけの存在に、俺は絶対になりたく無い。

男の人生に一番必要なのこと。それは、男を喰い物にする「メドゥサやドラゴンあるいはファウムファタルに魅入られない」そんな幸運だ。

勝利の女神のスペアを沢山用意したってしょうがないじゃない。寄ってくる女が多いということは、疫病神も呼び寄せていると言うことだ。男の名声が高ければ高いほど傾国の女も数多く寄ってくる。そんなリスクを回避したいのなら、名声や資産を手に入れる前に伴侶を見つければいい。

女は一人いればいい、できれば最高の女が。そんな女性に出会いたい。だが厄介なことに、女が見た目通りの天使とは限らない。


中学校で俺を散々いじめてきたA子。教師や他の大人たちはあいつのことを良い子とみなしていた。あいつは笑いながら、平気で背中から人を刺すやつだ。フェアじゃない。しかも、自分のしたことに罪悪感すら感じない。どころか、自分がどれだけ酷い事をしたかも忘れている。ヘラヘラ笑って腹黒い。大人の正しいって何を指しているんだ?

妹の萌花。みんなは萌花を可愛い可愛いという。親や親戚、俺の仲間や友達ですら、俺と萌花をいつも比べて、妹の方をもちあげる。「華がある。明るくてよく喋る」と、いつも妹の扱いが先になる。萌花なんて、あいつただうるさいだけじゃないか。キンキンと高くて耳につく声が、鬱陶しい。話す内容だって最後はいつも自分のことばかり。しかも、俺の心に土足で入って来る。妹と一緒にいる限り、俺の人生は永遠に絡めとられたままだ。一度腕力に訴えてから、だいぶ静かになった。俺は自分を取り戻した。皆は俺に反省しろとか仲直りしろと言うだろうが、俺は静かな今の方がいい。ひとり邪魔されずに、考える時間が欲しい。

同じクラスだったB美。あいつは何なんだ、このA子の腰巾着め。お前には自分の考えも正義もないのか?A子がどれほどのものだって言うんだ。もしこの先、お前みたいな嘘つき女が困っているのに出くわしたら、俺は絶対に助けたりはしない。モラルのない人間は助けるに値しない。


女なんて、もうたくさんだ。だから現実の女には興味がない。

昔の賢人はよく言った。

「賢い人は恋をしない。するべきではない。」

恋は判断力を誤らせるものということを、俺は自分なりの知識と経験から理解しているつもりだ。

ただ、俺も歳を取ったのかなぁ、いろいろ経験して。そう、最近この考え方を少し改めることにした。


最近、哲夫にはよく立ち寄るお気に入りの場所がある。

レンタルビデオと本屋が併設するその店は、ショッピングセンターの一階にある。

店は明るく快適で、道ゆく人は外の通りからもモール内の廊下側からも、つい呼び寄せられる。大きなガラスがはめ込まれた外壁は内と外とを視覚的に緩やかに隔てて、日中は外から店内に光を、夜間は人を内へと誘うようのにできているのだ。

哲夫の家から通える距離にある本屋は2店あるが、こちらの店に遠回りしてわざわざ寄る。店に来るたびに知り合いに見つからないようにと願うのだが、意外と会わずにすんでいた。店が大型で客層が多いのと、元同級生の活動時間帯が自分と異なるせいもあるだろう。

幸い、本屋にたむろする客は本しか見ていない。あるいは皆、思考が内側に向いていて外に対しては壁を作っている。

もし知り合いに見つかりそうになったら、向こうが気づく前にこちらが背を向ければいい。とにかく、理由を見つけては哲夫は店によく立ち寄る。ここには娯楽だって勉強に必要な参考書だって揃っている。


妹の萌花はこの春高校を卒業して大学に進学した。自分は未だ高校生をしているが、萌花に先を越されたことをそれほど焦ってはいない。高校を卒業するためには未だいくつか単位を取らなくてはいけない。提出していない課題がいくつか残っているが、「もう少し準備を重ねてよりいいものを提出したい」と思っている。言ったろう?僕は完璧主義なんだ。それに今の生活は、完璧ではないとしても心地よい。

通信高校の、ほとんど会ったことのない同級生が先に卒業したと聞いても実感は湧かなかった。萌花がどんどん先に進んでいくのだって、本人と顔を合わさなければさして気にはならない。


その日、いつものように哲夫はその店に立ち寄った。店には見覚えのある顔「牧野結美」の等身大のポスターが貼られていた。彼女を含むグループが売り出す歌のCDの宣伝用らしい。結美を最初にテレビで見かけたのは数年前の歴史ドラマだと思い出す。

彼女と認識した途端、哲夫は心拍数が上がり、顔がにやけた。ポスター相手なのに目が合わないようにといっとき視線を逸らして、周りの客に自分が見らていないか確認する。一呼吸おいて、今度はさりげなく遠くから彼女の顔を見つめる。哲夫の記憶の中にあった素朴な少女「結美」は、輝くばかりに成長していた。


歴史ドラマでの彼女の役は「若い宮使え」だった。演技の下手な彼女そのままに、どちらかと言えばどんくさい面影だった。白く塗った白粉、赤くひかれた唇の紅、描いたとわかる眉。はっきりいって、化粧はちぐはぐで全然似合っていなかった。髪だってカツラをかぶっているのが丸わかりだった。だからこそ、そんな彼女に友達のような親近感を覚えたのだけれど。

自分と同じ時間軸の世界を生きてきたのに、いつの間に彼女は垢抜けたんだろう。今や彼女はドラマやCMの仕事で忙しいようだ。グループを結成して歌も歌うらしい。

つまりそれって、人を見る俺の目が確かだった証拠だと思う。


数日後に再び本屋兼レンタルビデオ屋の店舗に寄った。「牧野結美」のポスターは、まだそのまま貼ってある。ポスターの隣にはここ店の「従業員募集」のチラシも貼ってあった。「高校生可」と書いてある。哲夫は突然、この店でアルバイトをしようと決心した。この数年間は自分の部屋にこもっていたのに、「今は1日でも早く稼ぎたい」そんな衝動が沸いていた。

哲夫は両日のうちに、履歴書の書き方、証明写真の取り方、面接の仕方を本やネットで調べて、はじめての履歴書を書き上げた。次の日には「従業員募集」のチラシの番号に電話していた。ポスターを見たのが火曜日、今日は木曜日。ほんの数日間の出来事だ。自分のどこにこんなパワーが眠っていたのか我ながら不思議である。

そして、明日はいよいよ面接の日だ。哲夫はクローゼットを開け、マシな外着を取り出すと、鏡の中の自分をチェックした。

「髭剃りの電池を新しいものに交換しなくては」


 アルバイトの面接に指定された場所は普段客が出入りするお店の中だった。朝の店内にはすでに電気がつけられ、いつでも客が入ってこられるように準備が整いつつある。締め切られたガラスの扉の向こうを何人か通り過ぎた。別の店舗に向かう客かそこで働く従業員だろう。金曜日の朝だから人はまだまばらだ。

哲夫の前に座る面接官はリラックスして深くソファーに腰掛けていた。店で一番良いものを店舗内の客用の椅子に使っているらしい。小柄で短髪な男は背もたれに体重をあずけて店の内部を隅々まで見渡してチェックする。ここはいくつも受け持つチェーン店の一つで、男の期待度上位の店だ。


「うちでアルバイトを希望するのは、どういった理由からですか?」男は背を起こし、哲夫に体を向けると、三つに折られた哲夫の履歴書のシワを伸ばしながら質問した。気になる箇所がいくつかあるのだろう。すでに赤線が所々にひかれている。哲夫にとってバイトの面接は初めての経験で緊張する。初めてであっても、答え方くらいはネットで調べて心得ているつもりだ。

「参考書を買うために本屋をよく利用させてもらっています。雰囲気の良い店だと思いました。ここの店は家から近く、通いやすいです。学費を稼いで親を助けたいんです。」

哲夫には気がかりがあった。親の同意書のサインは自分で書いたものだ。面接官は筆跡で気づくだろうか?

「君、高校生だよね。勤務希望日が(平日の昼間)および(深夜)なのは、どうして?」男の質問は単刀直入で歯切れ良い。

「その時間が都合がいいんです。週5日でも勤務できます。」初めてのバイトで気負い過ぎではないか、との自覚はない。平日昼間の勤務を希望したのは、元中学の同級生に会う可能性を減らすためだ。

「この高校って、どこにあるの?」質問しながら、面接官は腕時計をチラチラと確認しはじめた。男は、急いでいるらしい。

「通信制の高校です。課題をメールで提出して、単位を取得します。」

哲夫は高校の卒業が遅れていることを聞かれたときの答えを用意していた。他にも、中学校卒業から高校入学までの半年の空白期間を指摘されたらどうしようかと少し構える。

だが、この店は店舗を拡張したばかりで人手が足りていなかった。面接に割けられる時間も限られている。店はあと10分で開店する。

「長く働いてもらいたいんだよね。あと、なるべく月に2回は土曜日曜どちらか出勤してほしい。うちは高校生は深夜は働けないよ。」男はそう言いながら、頭の隅では開店前に済ませたい細かな用事を思いついて頭を掻いた。面接官の頭の中では最初の数分間で既に答えが出ていた。彼はたまにしか店に顔を出さない出向社員で、この店だけでなく近隣の市を含み多くの店舗を担当していることはだいぶ後になってから知った。

「それじゃあ。来週の月曜日に研修ですので9時半に来てください。就業は火曜日から。試用期間の3ヶ月間の時給はこれです。」

男はメモ書きに金額の数字をかいて哲夫に渡した。口で数字を言わないのは、店で働く他の人から時給を聞かれないための配慮だろうか。あるいは、言った言わないのトラブルにならないための予防策かもしれない。

というわけで、哲夫ははれて正式にこの店で働くことになった。「牧野結美」のポスターを見てからちょうど1週間が経っていた。


 アイドルとはもとは「偶像崇拝を」指す言葉だ。太古において神的シンボルであった「アイドル」が、そこら中のメディアの中に溢れるほどに存在している現代は、はたして幸運なのであろうか?

俺が通っていたフリースクールの先輩の「憧れの人」は歌のお姉さんだった。彼は妹と子供番組を見ていて、テレビの中で歌うお姉さんのことが好きになった。先輩は「彼女にふさわしい人になる」といってフリースクール を卒業し高校に合格した。彼は今でも、水彩画を描いているのだろうか?

先輩は俺のポートレイトだといって、カードに絵を描いて送ってくれた。誕生日の絵のお礼の返事がしたかった俺は、一生懸命に手紙で返事を書いたことがある。いい知らせがしたかったから、先輩が完成させなかったゲームをコンプリートし、中学校を卒業して少し遅れて通信制の高校にも入学した。先輩と同じ学校に通う夢は叶わなかったけど、手紙が出せて結構満足している。

先輩は周りから変わり者と言われていた。でも、俺は先輩のことを尊敬していて、今でも彼には敵わないと思っている。


俺にも憧れの人ができた。アイドルの牧野結美だ。この頃は、気づけば彼女ばかり見つめている。彼女と俺は実は歳が一つしか違わないらしい。自分が中学校をやめて家に引きこもり、家族と喧嘩している間に、彼女は働いて金を稼いでいた。女優として、最近では歌手としてもテレビやメディアで自分を表現してきた。彼女はとても活動的だ。自分の一年間のやったことと比べるとその差にクラクラする。

母親も叔母達も(アイドル)を評価しない。

「人前で自分をさらけだすのはみっともないこと」だと馬鹿にする。

いいじゃないか、少なくとも彼女に限っては。

俺は結美をもっとずっと見ていたいんだ。

でも、大衆の目に晒されるのが危険と隣り合わせの人生なのはその通りだと思う。メディアに出れば、会ったことのない人からモニター越しに称賛され、見つめられ、悪口を言われて下げずまされたりもするのだから。

彼女は、そんな危険だらけの青春を生きて幸せなのだろうか?

彼女にとっての幸せはなんだろう?

アイドルになる事は幸せなのだろうか?


先輩は歌のお姉さんを指してこういっていた。

「すべての人は自分を表現するべきなんだ。性別関係なく、年齢関係なく。」

俺には正直、それが本当に良いことなのかがわからない。

世界には人が溢れている。地球の隅々にまで人々の生活の跡がある。生きた証は日々更新され、上へ上へと積み重ねられる。崩れ落ちそうな程に、高く。

皆が皆、作品を作り、さらに時代を重ねて残していったら、地球は作品で溢れかえって生活スペースが無くなってしやしまいか。

でも、先輩が言うのなら正しいのかなとも思う。俺は先輩のように絵は描かない、結美のように歌わない。ふと、俺は自分の表現方法なんて何も持たないぞと思う。あるのは、せいぜい毎日つける手帳代わりのノートくらい。自分の細々としたことは何でも書き込んでいる。はじめてアルバイトの面接を受けたことも、部屋にテレビが届いた日のことも。


アルバイトが決まったことを、俺は家族に言わなかった。正確には、土曜日迄は黙っていた。

日曜日の朝にどうにも知らせたくてたまらなくなり、お昼ごはんを食べる時間にリビングに顔を出した。普段はわざと母や萌花と時間をずらして食事をとるのに。

萌花と母はラーメンの準備をしていた。俺の顔を見ると、俺の分も作ってくれた。

3人で黙ったままダイニングを囲い、ラーメンを啜る。テレビがいつものようについていて、バラエティー番組のコメンテイターがハイテンションで喋る声だけがリビングに響く。

哲夫は向かいに座る2人が自分に何か聞いてこないかと待っていたが、一向にその気配はない。

黙っていられなくなった哲夫は、自分から話をきり出した。

「俺バイトが決まったよ。」

二人はチラリとこちらをみてから左右にお互い目配せした。俺のバイトに対する反応は薄い。

「本屋だよ。あのショッピングモールの中の。」

「ふ〜ん。」

母はとりあえず返事をした。萌花は黙っている。

昔の萌花なら、「卒業が先でしょ」とか「何で相談しないで決めるの」とか言いそうなものだったのに。大学生生活が忙しいのかもしれないな。自分のテンションだけが高い。

(何だか、俺ってバカみたいだ。)


哲夫は食べ終わったどんぶりをキッチンに運び、そのまま自分の部屋に向かう。

足取りは軽かった。

(俺が部屋に帰ったら、あの二人は俺の見つけてきた仕事について何か言うかもしれない。ほとんどは俺やバイト内容の悪口だろう。でも、ひょっとしたらいい事だって話すかもしれない。)


次の月曜日、哲夫は9時半きっかりに本屋に着いた。俺の他に新人見習いがもう一人、先に来ていた。その人は母親より少し若いくらいのおばちゃん。彼女には娘が一人いると言う。

「あら、あなたうちの娘と年齢が一緒だわ。学生さん?学校に行っているの?」

「いや、ちょっと…」哲夫が言葉を濁すと、おばちゃんは察したのかすぐに話題をかえてきた。

「娘もあなたみたいにアルバイトしてくれたら助かるのに。余計なものばかり買ってお金を使うのよ。でも、学生生活は楽しまなきゃね。」

今日担当の教育係がやって来た。

彼女について店内のツアーが始まる。

客のいる表側の案内は簡単に、メインは店の奥の裏方だ。


ミラーガラスが貼られた観音扉を開け、店舗の裏に俺たちを案内する。店舗には良く寄るが、店の裏を見るのははじめてだった。廊下には梱包しかけの本やCDが並んでいた。

「こちらが新しく入荷されたもの。これから店に並びます。こちらは回収され返品されるもの。これで今日1日分です。」

入荷されるものと返品されるもの。どちらの山も等しく、新しくて綺麗だった。だが、新しく綺麗でもとっておくことはできない。売れ残り保管しておくための部屋はない。

新人のおばちゃんと二人で研修を受けて、ひと段落したところで書類を渡された。説明を受けながら署名と判子をひたすら押す。10枚はあったと思う。

「結構疲れたわね。」おばちゃんは呟く。哲夫はうなずいて返事をする。

いよいよ帰る時間となり、教育係とは別の指導員が顔を出す。

彼女は「最後に一言これだけは」と念を押してきた。

「大事なことだからもう一度言います。毎日お風呂に入り、髪を洗って髭を剃ってくること。爪の手入れも忘れないで。」

明日から本格的に仕事が始まる。哲夫は接客も担当することになった。今日は早めに休もう。

「私は早番のシフトだけなの。だから、もう会えないかもね。あなたもがんばるのよ。」

帰り際に新人のおばちゃんが哲夫に声をかけてきた。娘の同級生の心配でもしているような口ぶりだ。

哲夫はおばちゃんを見送るともう一度店の中を見た。ポスターの牧野結美は笑っていた。


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― 新着の感想 ―
[良い点] まずこれを読みはじめたときにいじめの話しなのか?と安易に思ったのと自分の昔を思いだし何か目を背けたくなる感じでした。ただA子にも理由があることそれに対しての主人公のとっていた行動の誤りが招…
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