四、 命 運
米国はB十七型爆撃機を使用していたが航続距離が短く、日本本土を爆撃するのに航空母艦を使わなければならなかった。
其の為か、本土爆撃回数は案外少なかった。
然し、米国の技術力は優秀で、B十七型より航続力の長いB二十九型を建造する事に成功した。
米国の反抗は凄まじく、サイパン島は陥落した。B二十九型はサイパン島から、日本本土を空襲し、帰還できる航続力を持つ爆撃機であった。
日本の都市に対する爆撃が多くなって来た。
絶えず空襲警報が発令される様になった。
部隊も何回か空襲を受けた。
其の度に、自動車、機材、武器弾薬等を疎開させねばならない。
慌ただしく、昭和二十年元旦を迎え、防空体制を調えねばならない。
祝事等している暇はなかった。
発電所の煙突の中間点の場所に何処から持って来たのか重機が据えられ、隊の兵がそれを使用し、敵機に攻撃をする小隊を作ったと情報が入った。
裕志はなまじ、攻撃すると部隊の存在を教えて仕舞うので、逆効果になるのではと恐れ、又、余程低空飛行していないと命中しないのではと、成果を危ぶんだ。
敵の爆撃は主に焼夷弾であった。
米国は日本の建物はウッドとペーパーだと知っていて、まるで付け火をする様に焼夷弾をばら撒いて行ったのである。
然し、中には粗悪品があるのか、地面が柔らかく地下に潜って仕舞い、爆発せず不発弾になって、残ってしまうものも沢山あった。
其の処理は我々特科の工兵である我が部隊が中心になって当たらなければならなかった。
各中隊に其の処理班が出来た。
裕志も其の一員に選ばれた。
焼夷弾は爆薬が少なく、破裂度はそれ程でもないが、焼夷火薬力は絶大なものであった。
爆撃された都市や街から報告を受け、落下した不発弾を引き取りに行き、東練兵場に於いて処理をするのである。
爆弾の先端はネジ止めになっている。
台の上に乗せ、本体をしっかり固定し、機材で爆弾の先端を取り外し、繋がっているリード線を断ち切る。そうすれば爆弾はもう爆発しない。
中から火薬を取り出す。爆弾は単なる鉄塊となる。
作業していて、突然爆発するのではと思い、あまり気持ちの良いものではないが、慣れてしまうと差程恐ろしいとも感じない。
先端部分の外れない不発弾はどうするか。
其の儘にして置く訳にもいかず、不発弾何発かを練兵場の何も障害の無い草原に集め、黒色火薬で誘発させるのである。
誘発させる地点から、約百米位離れた場所に退避壕を備え、不発弾処理地に焼夷弾何発かを積み、傍らに黒色火薬の箱を置き、導火線を装填し、約百米導火線を引き延ばし、そこへ作業兵が点火し、全速力で退避壕に飛び込むのである。
不発弾の爆発力は実に恐しい程強烈で、地上の土を飛ばし、大きな穴を作成してしまうのである。
土と鉄片が壕に居て観測している兵員に砂嵐の様に降って来る。
轟音と共に爆発する不発弾の状態を観測するのであるが、光と音でまともに観測が出来ない状態が、まま、起きてしまう。
裕志が、案外足が速かったので、導火線の火付け役を命ぜられてしまった。
そして、或る日、焼夷弾五発に黒色火薬をセットして、導火線を百米引き、作業を終え、皆、退避壕に入った。点火役には誰が選ばれるか、皆、戦々恐々としていた。
裕志が選ばれた。
裕志は何度か点火命令を受け成功しているので、差程、怖いとは思わなかった。
鉄帽を脱ぎ、ゆっくりと導火線の先端点へ行き、落ち着いてマッチを擦り、導火線に火を付けた。
導火線はシュルシュルと音を立て燃えていった。
裕志は後を振り向く暇も無く、一目散に駆け出し、塹壕の中に飛び込んだ。
暫くして轟音が聞こえるものと、皆、伏せて居るのに、何の音も聞こえない。
皆、顔を上げ、覗き見した処、導火線の火が途中で止まり、延焼してゆかず、黒色火薬を発火させずにいるのであった。
(どうしたものか)
短くなった導火線に火を付ける役目は危険が隣合わせになる。
誰も何も云い出せなくなっていた。
作業中止、撤去、皆、其の事を考えていた。
赤沢少尉と東林軍曹が僅かな時間であったが協議していた。
東林軍曹が全員を眺め、再度、裕志に頼むよう号令した。
裕志は仕方無しに、自分のやった作業なので引き受けた。
裕志は壕を出て、すたすたと導火線に近づいた。
すると、導火線の火が延焼点に裕志が到達しない内に燃え出したのである。
導火線の延焼点と裕志との距離は十米と離れていない。黒色火薬の箱や不発弾とは約五十米。
裕志は(ハッ)として、振り向きざまに一目散に駆け出した。
壕の中から突然、東林班長の大声がした。
「伏せろっ 」
裕志は声を耳にすると、反射的に地面に身を伏せた。
(ガオーン)
伏せて僅か数秒、轟音がして土砂が裕志の全身に覆いかぶさった。
裕志は、生きた心地がしなかった。
第二、第三、の連鎖爆発が起きるのではないかと肝を冷やしたのである。
裕志は初めて、此処で自分の命運を感じたのであった。
土砂を払い、壕に帰って来た。
東林班長、他戦友等は裕志の幸運を素直に喜んで呉れた。
赤沢少尉は早速、上申すると云って呉れた。
部隊に引き上げて来ると、二月に米軍が硫黄島に上陸、激戦中との情報が入って来ていた。
作井二十一部隊の連中はどうしているのか。い、隊から森川軍曹が唯一人、二十一中隊に属していたが無事なのか、又、沖縄も爆撃が続き、大変らしいとの情報も入って来ていた。
羨ましいと思っていたのに、戦場となってしまった硫黄島や沖縄、裕志と川名は安心した安堵感の様なものが心持の中に流れた。
それから間もなく、あの忌まわしい三月十日がやって来た。
B二十九約百機がグラマン戦闘機数十機に守られ、東京下町本所、浅草、深川、江戸川、葛飾、荒川、と無差別に爆撃して行ったのである。
三月十日の夜半、市川の部隊の高台の将校集会所附近から、江戸川越えの小岩町方面の空が赤く見え、焼煙の立つのが、手に取る様に判った。
部隊の上空を敵機が次々に通過して行く。
隊内に焼夷弾、爆弾が落ちなかったのは幸いであったが、何しろ武器は重機が一台軽機が一台しかない部隊である。
上空を悠々と飛行していく敵機に何も出来ず、唯、見送るのみであった。
防空体制は其のままに空襲警報のみ解除され、一息ついた処、東京下町全域が空爆の被害を受け、何万と云う人々が死んだと云い、下町全域が丸焼けになり、廃墟と化した状態であるとの情報が入った。然して、上層部、関東軍司令部からの命令は何も無かった。
小岩方面の真っ赤になった空、爆撃に依る家並の火災の噴煙は、延々と三日間続けて見えた。東京下町の空襲が有ってから一週間が経って初めて、関東軍司令部から命令が出た。
(東京下町の空襲跡地を整備せよ。)
中隊に与えられた仕事は空襲により、焼けた電柱、電線の整理であった。
赤沢少尉率いる第一小隊は亀戸、小名木川方面、第二小隊は両国、錦糸町方面、第三小隊は深川方面を割り当てられた。
裕志等第一小隊は国鉄亀戸駅を基地として、作業を始めた。
千葉街道の電柱、電線を整理、沿線の住宅引き込み線撤去等、仕事に手を付けたが、然し住宅附近には、未だ整理されない死体や動物の死骸が無惨にも捨てられ、横たわって居た。
別の工兵隊が死骸片付けをやって居た。
我々は此の作業を見過ごす事が出来ず、現地で小隊長同志が話し合いで、死体整理を手伝う事にした。
顔面焼けただれて、死んでいる人物、既に炭化している人物、まるで四谷怪談のお岩さんの幽霊の様な人物、あまりの無惨な死に方に眼を覆うばかりである。
然し、感傷には浸って居られない。
担架に乗せ・小名木川に架かる海門橋、扇橋、の橋上に運び、死体を並べ、シートを掛け、ベニヤ板の表示板を立て、(此の死体は、何月何日、何処で発見、被害者に心当たりの有る者は、亀戸、錦糸町、両国駅の事務室、部隊本部迄申し出るべし。)と、書いた張り紙を取り付け、二、三日は晒して置くのである。
其の間に申し出の無い者は、死体をトラックに積み、平井に造った臨時火葬場に於いて、荼毘にふすのである。
裕志等の小隊は一週間、他の工兵隊の死体整理を援助した。
小名木川の川上から、ぷかりと浮き沈みして流れて来る死骸、それを長柄の鳶口で衣服に引っ掛け引き寄せ、引き揚げるのである。水膨れになった死骸は何とも不気味、顔をそむけたくなる。
質屋の蔵の前で、主人らしい人物が倒れて居た。両手に百円札の束を握り、目をむいて、恐ろし気な形相で倒れて居た。掴んでいた百円札束は約二万円は有ったろう。
戦友の一人が指を広げ、掴んだ札束の手の指をこじあけ様としたが、人力では開けられず、帯剣を指の間に入れ、こじ開け様としたが、五本の指でしっかり掴んだ札束は死体の手から離れようとはしなかった。
裕志は戦友に声を掛けた。
「死人が、これ程金銭に執着しているのだから、無理に取ると後日、祟りがあるぞ。」
と、脅した。
我々兵は絶えず、死に直面している。利益より、やはり安堵感である。
悔しかったが、其の儘死体をトラックに乗せ火葬場に運んだ。
街にあった土砂に入口を塞がれた防空壕から次々に死体を掘り起こした。
何人かが窒息死していた。
若い二十代の娘が花柄のモンペに身を包み、土砂を被って死んで居た。まるで京人形の様な美しい顔立ちであった。なぜか、火葬するのが勿体ない気がした。
我々小隊の兵等も部隊に帰って来ても、余り好い気分にはなれなかった。
援助した部隊からの差し入れか、関東ぐん司令部の意向か知らぬが、毎晩酒が出た。又、呑まない者には菓子と煙草が出た。
東京下町の惨状を見て、連合国に対する見方が変化して来た。
少なくとも米英の国民、政府の要人等は常識が有り、規則が正しく、広い慈悲の心を持っていると信じ、日本の軍隊の様に不条理、無理解、私刑と、まるで権力を持ったやくざの世界の様な軍隊とは違っている、整備された軍だと、思っていた。
戦争であるから軍事基地を攻撃するのは仕方の無い事と思うが、何も知らない国民迄無差別に攻撃する等許せないと思った。
悲惨、無惨な被害者の哀れな死骸、一木一草も残さず焼き尽くした非情さ、アングロサクソン民族の冷酷圧政な、横暴感が顕わに出ていたのを眼にした裕志は、何か割り切れない思いがし、政府や軍部が鬼畜米英と云い出して居るのを肯定せざるを得なくなってしまった。
裕志の心の中は空虚になった。
(何を否定し、何を肯定して良いのか。)
唯、成行きに任せるより仕方ない、ニヒルな状態に落ち入った。
十日ばかり経って、死体の整理が終わり、小隊は本科の作業に掛かった。
千葉街道は両国から錦糸町、亀戸、平井、小岩と国鉄の沿線に添って、千葉市迄続いている道路で、沿道には鉄鋼関係の会社が多く、又、精工舎の大工場も有った。
市街は京葉工業地帯として繁栄し商店、食堂、居酒屋、又、裏通りには風俗店等もあった。道路の幅員も広く、約三十米はある。
歩車道もしっかり区分されて居て、車輛、人通りも少なくなかった。
幹線ケーブルは木柱ではあったが太く、約直径四十センチ、高さ五米は有って、所々に頭上にトランスが設備され、腕木が三本から五本取り付けてあった。
ケーブルは三百三十ボルトの高電圧のものと、トランスで落とした百ボルトの低電圧の物と、電話線が、腕木に取り付けられ、架線されていた。
此の度の空襲により、電柱、電線は焼け、トランスは落ち、通電不可能になっていた。
然し、此の辺は工業地帯であり、軍需工場の精工舎も有るので、早急に復旧せねば戦力に影響して来る。
それ故、我が部隊に出動命令が出たのであった。
垂れ下がったケーブルの撤去、電柱、腕木の新設、又は補強、我中隊の得意の分野である。
裕志等は昭和十九年四月に、初年兵が入隊したので、弐年兵になった。
一年三ヶ月の教育実習で、戦友等は電気技術者になり、経験者にもなっていた。
修理する架線距離は長く、複雑であり、班長クラスの指揮だけでは間に合わず、それぞれの編成された弐年兵の経験者が指揮を取った。
裕志も其の一人として、五名の初年兵の行動を指揮した。
其の日は亀戸の高架ホームに沿った千葉街道での整理の仕事であった。
電柱は焼け焦げ、電線にぶら下がっている状態で立っていて、電線はたるんで地上についている。全てが中途半端な状態であった。
裕志は左右に張られているケーブルを撤去する仕事にかかった。
三本の電柱に架線され、端末が落ちているケーブルを電柱から外し、収去する、これが今日の作業である。中央の電柱は焼け焦げて、やっと立っている状態だが、左右の電柱は黒くなった程度で、充分にしっかりしていた。中央の電柱は今にも折れそうになっている。
弐年兵として、初年兵には危険な作業を行わせる訳にはゆかない。
それで、焼け焦げた中央の電柱には裕志自身が登る事にした。
裕志はケーブルを腕木から外し、自分はケーブルにぶら下がるようにして飛び降りる計画とし、電柱は地上に倒すという作戦をたてた。右に北島、左に三浦という初年兵に良く言い聞かせ、自分が腕木からケーブルを取り外し地上に飛び降りる迄、しっかりとケーブルを抑えるように指示した。
電柱は何時折れるかも知れない。
裕志は案外身が軽く、軽快な運動神経の持ち主であったから、折れそうな電柱にうまく登り、腕木からケーブルを外し始めた。
留め金が残り一個になった時、突然、ケーブルが大きく揺れ、ケーブルが音を立てて、撓み落ちた。
裕志は電柱を抱えた儘、道路に叩きつけられた。
何処をどう打ったのか、裕志自身は気を失ってしまって判らなかった。
裕志はまるで夢を見て居る様であった。
自分が何処に居るのか判らない。中野の家の様でもあり、中隊の内務班でも有るようでもあり、父や母や兄弟の顔が浮かぶ。遠くで誰かが呼んでいる、かすかな声が聞こえて来る。
声が段々に大きくなり、気が付くと耳元で東林班長が大声で裕志のことを呼んでいた。
場所は亀戸駅の宿直室であった。
裕志は気絶して意識を三時間も失って居たのである。
「大丈夫か?」
東林班長の呼び掛けに眼を開いた裕志は立ち上がった。
「暫く、其の儘寝て居ろ。」
班長は安心した面持ちで、裕志の前を離れた。
裕志は亀戸駅の宿直室で横になっていたが、未だ、自分の現在の状態が良く呑み込めなかった。
(今、何時頃なのだろう。自分は何時間意識を失っていたのか。)
裕志は改めて考えて居た。
間もなく、東林班長が迎えに来て呉れた。
「歩けるか?」
裕志は立ち上がり、歩き出そうとして、ふと下を俯いた途端、鼻がむずむずして、真っ赤な鼻血がぽたぽたと胸元に流れた。班長は驚いて、
「暫く、上を向いて座って居ろ。」
と云い手拭を取り出し、胸元から鼻の下まで拭いて呉れた。
室外が暗くなって来ていた。
東林班長は宿直室を離れ、打ち合わせに行き、又、裕志の元へ帰って来た。
小隊の兵等が誰かに引率され、帰隊する様な気配がした。
裕志は東林班長に付き添われ、中隊に帰り、直ぐに部隊医務室のベッドの上に横になった。
班長の請求により、裕志は練兵休となった。
作業を終え、帰って来た三浦や北島が医務室に来て、裕志の前に頭をたれ、謝罪した。
裕志は何もわからず、其の時の事情を二人から聞いて見た。
裕志が折れかけた電柱に登り、腕木からケーブルの取り付け金具を外している時、二人も左右の電柱に登り、留め金を外していた。
然し、彼等は技術不足と云うのか、思うように取り外しが出来なかった。
時間がかかり、能率が悪く出来上がらなかった。
彼等は焦り、取り外しに夢中になり、裕志との打ち合わせ事項を忘れて仕舞った。
「やっと取り外せた。」
彼等は喜びと嬉しさに瞬間浸っている折に、留め金を外された重量のあるケーブルはたるんで地上に落ちるのは当然の成行きであった。
二人が「ハッ」と気付いた時にはケーブルは腕木から離れ、落下して行ったのである。
途中に裕志が足がかりにしている電柱と裕志の体重が加わり勢いづいて落下した。
「ウワアッ」
何とも言えない咆哮的な響き。
電柱を抱えていた裕志がケーブルと共に落下してゆき、頭を歩道のコンクリートブロックにぶっつける瞬間を二人は電柱の上から見て居たのであった。
東林班長も近くで見て居て、急ぎ裕志の傍に駆けつけ、彼の躰を揺り動かし、大声で呼び覚まそうとした。
裕志は気を失って、返事が出来なかった。
東林軍曹は部下に裕志を背負わせ、急ぎ本部のある亀戸駅に連れて行ったとの事であった。
二人は電柱を下りて、ケーブルを片付け、宿直室へ行ったが裕志には意識が無く、何の報告も、話も出来なかったと云うのであった。
二人は東林軍曹の命を受け、他の兵等と一緒に後片付けをして、車輛で中隊へ帰って来たと云うのであった。
裕志は話を聞いて、無性に腹が立った。
(間抜け野郎、俺を殺す気か。)
大声で怒鳴りつけたい気持ちになった。
然し、二人は意気消沈し、自分等の小さなミスが如何に大きな事故を起こし、人命にも係る事実だと知った表情であった。
裕志は強く怒りを抑え、黙って二人を返した。
現在、裕志自身は生き返って静養している。
彼は自分自身を反省し、仕方無かったと思った。
裕志自身も、入隊して古年次兵から、仕事の手順は教えられたものの、個々の技術は教えられず、見て覚えた。裕志は軍隊に於いては当たり前の事と、何も感じてはいなかった。
彼は、自分自身、手を取って、架線の敷き方、留め金の取り付け方を一回も初年兵に教えた記憶は無かった。
技術不足の素人的な初年兵を使い、高度な作業をさせようとした、己自身が悪い。初年兵の技術程度を知って、それに合致した作戦を考えなかったのは上級者の責任と言わざるを得ず、初年兵のミスを追及するのは、己の責任逃れだと思った。
然し、裕志自身、意識不明で覚えていないが少なくとも、架線ケーブルがパッキンとなり、落下速度がゆるみ、衝撃が少なかったのは、何より幸いと云わねばならない。
裕志はそう考え、己の命運を確保していた気になったのである。
暫くは、絶えず鼻血が出て止まらず、鼻に詰め物を絶やす事が出来なかった。
何かの拍子に顔を下に向けると、鼻血が出た。同僚や班内の上級者が特に心配して呉れた。
関兵長は、他の中隊の古年次兵に制裁を受けたのでは、と疑い、
「若し、そんな場合は自分が話を、つけてやる。」
とまで言いだして呉れた。
昭和二十年四月。
新たに、又召集され、人員が入隊してきた。
過去に兵役を勤め、後備役を過ぎた年齢の兵が、又、何かの事情で召集されなかった深い年齢の人々が入隊してきた。
男であれば、誰でも良いと云う、娑婆の人間を洗いざらい持って来たような気がした。
新たに、部隊内の人員を含めて、幡、一二三五部隊と云う、大隊編成がなされた。
東部八十五部隊、は隊の仕事で、国内の石油探査の任務が与えられた。
い、ろ、隊の古い戦友は殆んど残っていない。
其の中の僅かな人員も此の部隊に編入され編成された。
第一中隊、第二、第三中隊、機材小隊、指揮本部に別れ、裕志は第二中隊に属し、戦友は砂子坂昇、唯一人であった。
編成された部隊は、東部八十五部隊に居られずに、中山競馬場の厩舎に移転した。
兵等は「自分等は馬並みか。」と怒ったが、軍の命令では如何とも仕方がなかった。
そこで、着々準備が備えられたのである。
第一中隊は秋田県、第二中隊は山形県、第三中隊は新潟県とそれぞれ民間の油田の櫓の立って居る近郊を探査するのである。
既に準備が出来上がり、出発寸前に、新たに電線整備の仕事が入った。
中隊の内から経験者のみを引き抜いて、小隊を編成、作業に向かった。
場所は深川、小名木川を渡った海門橋付近であった。裕志も其の中に含まれた。
空襲を受けてから一ケ月、街は焦土と化していたが、案外綺麗に片付けられていた。
唯、街中にコンクリートの焼けた建物と倉庫、屋根の抜けた蔵などが、淋し気に立っていた。兵達が暇にまかせて、金庫の裏側をバールで破り、中身を調べたが、焼け焦げた書類ばかりで、金目の物は、何一つ無かった。
此の頃になると、絶えず空襲があった。
サイパン島が米軍の手に渡り、飛行場が設定され、B二十九はサイパン島から日本本土を爆撃出来る様になったのである。
又、米国は鹿島灘沖に空母を遊弋させ、サイパン島から富士山を目指して飛び、右旋回し東京、横浜を爆撃し、空母に着艦するルートを持った。
空襲警報は毎日の様に発令された。
B二十九は東京を始め、関東の都市を爆撃、余った焼夷弾を千葉地区に落として帰るのである。
国や軍からの情報は兵達には何も知らされていない。
戦線の状況はどうなっているのか。
日本国内の都市の爆撃を受けた一般の人々の状況はどうなって居るのか。
戦争そのものは勝っているのか、負けているのか、兵達には全く判っていなかった。
郵便物は検閲が厳しくなり、墨で塗りつぶされた手紙や葉書が兵隊達の手元へ舞い込んだ。
爆撃が烈しくなるにつれ、防空体制が取れる様に服装も装備も昼夜兼用とし、其の儘の姿で寝起きした。
競馬場の処々方々に蛸壺や車両の遮蔽壕が掘られ、空襲警報の鳴る度に、兵達は壕へ避難した。
夜間は勿論、昼間でも空襲警報が連続的に響き、機材の整備も、出発準備も遅々として進まなくなった。何しろ工兵隊である。小銃と機関銃二台では、B二十九を含めた米軍爆撃隊に立ち向かうと、云う事は馬鹿げて居た。
裕志等は蛸壺から空をみあげ、飛行している米軍爆撃隊に口惜しさで一杯であったが、焼夷弾や爆弾を落として来ない事を願った。
編隊は三機五機と悠々と空を飛行し、裕志はまるで飛行ショーでも見た様な気がした。
其の日、昼間の食事時間に空襲警報が鳴った。
飯を食いそこなって、腹立たしく蛸壺に避難した。
B二十九の編隊が通り過ぎる。裕志等は空襲慣れをしてしまっている。
第一の編隊が通り過ぎ、第二の編隊が来る迄少し時間が有った。
裕志は地上の変化を見るので、頭を出した。
裕志の蛸壺より、約五十米位離れた処に軍の遮蔽壕が有り、広さも大分広い。
戦友の砂子坂が首を出し、
「こちらの壕にこないかっ。」
と、大声で誘われた。裕志はそれを聞き、足や手も自由に伸ばせない蛸壺に居るよりも、と、咄嗟に考え蛸壺から這い上がり、悠々と歩いて遮蔽壕に向かった。
歩いた距離は三十米あったろうか、何処かから大声がかかった。
「危ないっ、機銃掃射だっ。伏せろっ。」
裕志は誰かが叫んだのを聞いた。
彼は反射的に倒れ、伏せた。
不発弾処理の経験がものを云い、躰が危険を知り平蜘蛛の様に地上に伏せた。
彼の躰の中心から左側五十センチの処をダダダダダッと音を立て機銃掃射の弾の音と地上へブスブスと突き刺さる音が同時に裕志の耳に入って来た。
砂煙が一直線上に足から、腕、顔、頭と裕志の躰の部分を覆った。
裕志は生きた心地がしなかった。
暫く伏せて居る間にB二十九飛行部隊が去った気配がした。
多分、低空機銃掃射したのは米軍戦闘機グラマンではないかと思われた。
裕志はゆっくりと起き上がり歩き出した。裕志の躰半分は土砂を被り、真っ白になってしまっていた。此の日の空襲で馬が何匹か、やられたのだ。縛り付けられ、逃げる事も出来ずに撃たれた馬が哀れでならなかった。
裕志は、又も中山競馬場で、自分の命運を掴み取ったのであった。
空襲を受けながらも準備を進めていた、部隊の姿勢が備わった。
第一中隊は秋田へ、第二中隊は山形へ、第三中隊は新潟へ派遣され、本部と機材小隊は秋田市に置かれた。
裕志の所属している第二中隊は山形県酒田市の郊外、帝国石油の櫓の立っている、東平田村と隣村、南平田、中平田の三村を探査して回る事であった。
中隊本部と第一小隊は東平田村の役場と小学校を使用する事になった。
第二小隊は国鉄砂越駅から十分程の最上川の河川敷に建っていた日輪兵舎を宿営地として使用する事になった。日輪兵舎は満州農業開拓団が教習の為に建てたものであった。
山形県平田村での生活は、実に楽なものであった。
空襲は、全く無い。田圃には青々とした稲が整然として植えられ、畦の中にはドジョウが楽しそうに住んで居た。広々とした田んぼの向こうに森や神社や農家が見え、平和な農村風景が絵の様に表れている。
作業は、商工省鉱山局からの技官と、陸地測量部の技官が派遣され、其の軍属の指示により指定された路線を測量し、作井場所を特定された処を作井車で掘削するのである。
然し、出て来たのは、塩水ばかりであった。
此の辺は米作地帯で、野菜は自家用だけで、軍から配給は全くなかった。
炊事は仕方がないので、芹、なずな、蕗のとう等の山菜がいくらでも採れるので、山菜を使用した。魚は酒田港から、北海道産の鱈やホッケが支給された。
其の外、現地で食べられている干し草、スカンポ等の野草も豊富に有り、タニシや芹は小学校の生徒が勤労奉仕で、毎日採って来て呉れた。お蔭で、炊事は食材に事欠かず、案外旨いものが喰えた。
それに、此の辺の農家は米が潤沢に有るので、内緒でドブロクを作っていた。
酒好きの兵隊等は、夜ひそかに抜け出し、知り合いになった農家にドブロクを馳走になりに行った。
此処では、戦争と云う緊迫感が失われ、工事会社の出張作業の様相を呈して居た。
部隊からの情報は全然入らない。
時々、小隊長の上原少尉が東平田の中隊本部、秋田市の大隊本部へ連絡に行くのであるが、特別な話は何も無い。
休日には、最上川河川敷で野兎や、栗鼠を追いかけたり、山に野鳥を取りに行ったりして楽しんでいた。
(毎日こんなに、のんびりして過ごして良いのだろうか。)
裕志は不安になって来た。
六月に入って、新たな情報が入って来た。
東京の山の手地域が空襲を受け、殆んど焦土と化したと云うニュースであった。
各隊には、東京から召集を受けた兵等が大分居た。
中隊内の兵等は自宅の安否、家族の消息を心配し、動揺した。
中隊では動揺を抑えるため、東京、横浜で召集を受けた者は、現況調査と云う名目で一時帰郷を許した。
七月の始めに、裕志と谷下田、それに横浜に住居を持ち家族の居る鈴木、もう一人名前は知らぬが第一小隊の衛生召集兵の四人が一時帰郷を許され、東京に向かった。
酒田駅から、羽越線に乗り、余目、鶴岡、新発田と日本海に沿って南へ走る。
大きな荷物を持ったモンペ姿のおばさん連中が絶えず乗降して話しかけてきた。
新津に着いた時、弁当売りが珍しく大声で叫び、売りに来た。
外食券は、要らないと云うので、皆で一つずつ買った。
我々には、帰郷中の外食券が支給されていた。
街では、外食券がないと、米飯は売って貰えないと云う、食料統制が引かれていたのだ。
大豆の入った米飯と沢庵であったが、弁当は素晴らしく旨かった。
長岡で乗り換え、上野駅に到着、一路、我が家に向かった。
我が家は、焼けて失われ、同時に焼けトタン造りのバラックが建っていた。
内には、中年の婦人が居た。
父親の、友人の奥さんであった。
六畳程の狭い部屋で、父の友人、遠藤夫妻と父が住んで居た。
勤務先の、電話局から帰って来た父に、家族の安否、現在までの事情を聞いた。
裕志は、平田村で土産にもらったアラレを半分置いて、母の実家の有る大井桜新町の家を訪ねた。然し、其の辺りも焼け、叔父夫婦は近くの寺の一室を借りて住んで居た。
裕志は、泊る処が無く困って居ると、末の叔母がやって来た。
叔母は離婚し、一人身で大森駅の近くに、アパートを借りていた。
裕志は叔母のアパートに泊まり、色々な民間からの情報を集めて中隊に帰って来た。
昭和二十年二月、米軍が硫黄島に上陸。同四月、全員玉砕したとの情報を知った。
又、沖縄に於いても、三月二十三日、米軍の艦砲射撃が開始され、四月一日、米軍、沖縄本島に上陸、三ヶ月の激戦の末、米軍に占領されたとのニュースも入って来た。
然し、裕志等内地の部隊には何の命令も無く、単なる情報として部隊幹部が知り得たのみで有ったと云う。
恐らく、幹部達は本土敵前上陸、内地での戦いの、近いのを感じているのではないかと、裕志は思った。
(この先、どうなるのか。)
兵隊達は、闇夜を歩く様に、先頭について行くより仕方なく、案外無関心となっていた。
裕志が中隊に帰ってから、一ケ月、部隊に作戦命令が出た。
第一中隊は福岡へ、第二中隊は名古屋へ、第三中隊は大阪へ、現地師団に所属し、地域整備を命ぜられた。
機材小隊は原隊復帰、東部八十五部隊に入る。本部は解散の命令であった。
裕志は第二中隊に属していたが、機材小隊に編入され原隊に帰る事になった。
平田村での軍隊生活は実に楽しかった。
村の人々は好意的で、色々便宜を計って呉れたし、兵隊との交誼も村人と図られ、恋愛話まで出て来る始末であった。
第二中隊が軍用列車で出発する折、村人の多数が見送って呉れて、戦友の砂子坂の作った、平田村の歌を兵隊と一緒に合唱し、別れを惜しんだ。
南平田は花吹雪、
散る散る桜の花ビラに、
野良の乙女は手を止めて、
君の勲を又祈る。
合唱は列車が出る迄続けられ、物哀しさが列車内に漂った。
各中隊が現地に赴任、裕志も原隊に入った。
部隊内務班には、顔の知らない召集兵ばかりで、機材小隊で一緒だった同年兵の谷下田と高野と三人で第三班に入った。
偶然に関兵長が伍長に、東林軍曹が少尉になって居たのを知った。
幡一二三一五部隊は解散したが、八十五部隊に帰ると直ぐに、東林少尉を小隊長に、関伍長を先任下士官とし、川崎への出動命令が出た。
八月の始めであった。
川崎での作業は、日本鋼管㈱の工場が爆撃を受け、作業不能になったので、其の復旧の為の出動命令であった。
裕志も小隊に組み込まれ川崎に出動した。
小隊は、鋼管工場近くの小学校講堂を宿舎とし、工場に通った。
風呂が無いので、近所の民間の家庭の風呂を貰う事にした。
作業が終わり、夕食が済むと二、三人で風呂に入りに、三日に一回市民の家庭へ風呂を貰いに行った。
部隊内では何の情報も得られず、つんぼ桟敷に置かれた裕志等で有ったが、風呂を貰いに行き街の情報から、戦局の状態を知る事が出来た。
八月六日に広島、同九日に長崎と、大型で強力爆弾が投下され、街が一瞬にして壊滅したとのニュースが入って来た。
戦争は、負け戦だと感じたが一般的なニュースなので驚きも悲しみもなく、空虚な、うつろな気分で毎日を過ごしていた。
(戦争に負けたら、どうなる。米国が本土上陸したら、僅かな武器で戦い、戦死するのか、考えても仕方ない。成行きにまかせよう。)
そして、八月十四日、民間の風呂場で、明日、天皇から国民に話が放送される、と云うニュースが入った。
(どうせ、一生懸命に励め。)
と云う言葉であろうと、別に期待も緊張もしていなかった。
八月十五日、学校の校庭に、各部隊が集合、正午、天皇の録音放送を聞くよう命ぜられた。
其の日、正午迄に各々部隊が整列し、マイクからの放送を待った。
正午の時報と同時に、小さなかすれた高音の声が聞こえて来た。
昭和天皇の声だと思うのであったが、何を云っているのか、少しも聞き取れなかった。
或る部隊は部隊長が勝手に解釈し、天皇が励めと云っていると演説し、引き揚げて行った。
東林少尉は小隊を留どめ、続いてJOAKのアナウンサーの解説を聞いた。
それで、日本が敗戦し、降伏したのを知ったのである。
小隊の兵等は動揺した。
東林少尉は取敢えず、作業を打ち切り、原隊に復帰するよう命令を出し、幹部会社員、関係者にも連絡、即日、部隊に引き上げて来てしまった。
部隊から個々に出動していた小隊、分隊が原隊の東部八十五部隊へ、続々引き揚げて来た。
長野県松代に壕堀に行った小隊が引き揚げて来た。
川名正夫が其の小隊に居た。
お互いに生存を喜んだ。
部隊の将校連中は本部で連日の会議であった。
米軍が日本本土に進駐して来る。
(父母や兄弟、女房、子供、日本人はどうされるのか。)
兵隊達は自分の郷里や家族の事を思い、不安でならなかった。
一部の将校の中には戦闘を主張する人物もいて、中隊長の権限を行使して、弾薬庫から、散弾を取り出し、四十発の小銃弾を兵隊等に配った。
兵隊等は驚き、騒ぎが大きくなってしまって、各中隊で収拾がつかなくなって仕舞った。
本部の幹部将校は之を収拾する目的で、整備兵の一部を残し、兵隊等を召集解除し、帰郷させる事にした。
東林少尉が裕志に整備兵として残留する様に要請されたが、裕志は断った。
自由を束縛されるのは、沢山だと思ったからだ。
谷下田、高野の戦友と三人で、清々しい気分で営門を出た。
部隊から市川駅へ行く途中でトラックを止め、東京迄の乗車を依頼、各人の家の近くで落として貰えるよう、お願いした。
車輛は品川駅近く迄行くのであった。
品川駅で戦友等と別れ、中野の家へ向かうべく山手線で新宿に向かった。
背嚢を担ぎ、雑嚢を肩にかけ、敗残兵の様な姿で新宿駅に着いた。
駅から浄水場の高台まで歩き、西方を眺めた。中野、杉並、世田谷が一望出来て、全部が焦土と化していた。
裕志は高台に立って、街を眺め放心した気分になり、暫く眺めて居る内に、何故か、熱い涙が頬を伝わって流れた。
戦争は終わった。
解放された。
(これからさき、日本は、東京は、我が家は、自分は、どうなるのか。)
然し、生きて行かねばならない。
苦しい、戦後の生活を、裕志は家に向かって、第一歩を踏み出した。




