三、出張演習
昭和十八年当時、地区によって、未だ電気の敷設していない処は多くあった。
特に開発の後れている東北地方に多くあった。
部隊で裕志等が最初に行った場所は栃木県芦野町であった。
芦野町は旧奥州街道に面し、境を福島県白河市と接している小さな町であった。
同町伊王野に変電所を電力会社で造ったものの、戦時下に入り、工事は停止状態になった。
恐らく町から電力会社に要望があったのであろう。然し、技術者不足、材料不足で電力会社は工事を続ける事が出来ず、そこで町や電力会社の政治的配慮が働いて部隊が出動する様になったと、裕志は後日、東林少尉から聞いたのであった。
工事は部隊の組織的な力で順調に進んだ。
裕志等初年兵は電柱の穴掘り、電線の運搬、電柱立ての手元、全て下積みの作業ばかりであった。
古年次兵は、重要路線の架線、住宅引き込み、室内配線、メーター取り付け、点灯等、町民の望んでいた部分の作業をした。
各戸の町民は非常に喜び作業兵に馳走、土産迄持たせた。お蔭で我々初年兵迄余禄がありぼた餅やら赤飯の差し入れがあった。工事は一週間で終わり帰隊した。
町の住民の話では未だに開発の遅れの為、茨城、福島、群馬、各県の県境に近い山中の村や部落には、電気、水道、道路の文化設備に恵まれる事なく、一時代前の生活をしているとの話で、文明文化に恵まれ、それを当たり前の事の様に思っている裕志には驚きであった。又、帰隊するに当たり、先頭車両の運転者が道を間違え、意外に時間がかかかってしまった。と、云うエピソードもあった。
七月、九十九里浜片貝へ出張演習に行った時の事である。
これは本来の目的の演習で、海岸の浜辺に、鉄杭を立て、頭に碍子を取り付け、ピアノ線を張り、其の鉄条網に三千ボルトの電流を通し敵の上陸を防ぐ演習であった。
然し、それは無理であった。
鉄杭を指定された間隔に打ち込んでゆく、或る程度の深さ迄打ち込めば、鉄杭は立っているけれど、地面は砂地である。其処に上げ潮、引き潮の波がやって来る。一晩たつと、杭元が波に洗われ、其の殆んどが倒れている。何回か試みたが無駄であった。
(将校幹部の考えは、こんなもんだ)
裕志は腹の中で笑った。
其の内、誰が考えたのか知らぬが、岸辺に近い海に木製巨馬を浮かべ、それを等間隔に置き、電線を二段に張り、通電するとの指示があった。
裕志と川名は四個の巨馬の間の架線を命ぜられた。
二人は別々にそれぞれの木製巨馬に泳ぎ付き電線を其の間に繋ぎ荒波の中の作業を終え岸辺に帰って来た。作業は午前中に終えた。疲労する度合いを考えて、作業時間は一日とし、作業が終了後は自由とすると云う命令であった。浜辺で昼食をとり、暑い日差しを受けながらゆっくり休憩した。
他の兵達は松林の中に駐車させてある発電車に巨馬への通電作業をしたり、沖に船を出し、部隊長以下幹部将校が乗り、海からテストを見守っていた。テストは無事に済んだ。
休憩中の二人は置いてけぼりを喰った様に、誰からも連絡も命令も無く、之から何をしてよいのか判らなかった。川名が云い出した。
「沖の船に東林班長がいる。聞きに行こう。」
裕志も之に賛成した。
終わったら自由時間であると云われているが、まさか宿に帰る事も出来まい。
二人は泳いで、沖の船へ行って見ようと、遊泳をかねて、命令受領の遠泳を試みる事にした。二人は船をめがけて泳ぎ出した。波は相当荒かった。
沖の船まで大分ある。泳ぎは出来るが遠泳は初めてで、裕志には自信がなく、不安な気持ちで泳ぎ続けた。
暫く泳ぎ続けると、沖の船から将校を乗せた小舟が、裸体の兵が手漕ぎして、浜辺に向かって来た。二人は既に船と浜辺の中間点迄泳いで来ていた。小舟は二人を発見、船を二人の傍ら迄寄せて来て、漕ぎ手の兵が大声を掛けてきた。
「お前等、何をしておるか?」
「はっ。作業を終えたので、沖の船舶に居る東林班長へ命令受領に行くのであります。」
「判った。が、船に行く必要は無い。岸へ戻れ。」
漕ぎ手はろ隊の庶務係り曹長の大久保曹長であり小舟にのって居たのは部隊長の内田少佐であった。
内田少佐は軍服姿で、船底にゆったりと腰を下ろし、軍刀を肩にかけて座っていた。
裕志は、疲れていたが何も云わなかった。
川名が泳ぎながら返答した。
「はっ。判りました。然し、我々は岸から泳いで来たので疲れて居ります。舟に掴まりたいのです。良いで有りますか。」
大久保曹長は考える様に少し間を置き、部隊長に視線を向けた。
部隊長はかすかに頷いた様であった。
「よしっ。」
曹長は答え、舟を動かし始めた。
裕志と川名は舟縁に掴まり泳ぎ出した。舟は岸に向かい海の上を滑る様に走る。
二人はしっかりと舟縁に掴まり浮いてさえいれば良かった。
足を水中で動かし、海面から眺める海の景色も、又、面白いと思い水泳を楽しんで岸に向かった。
すると、眼の前に大波が見えた。
大きな波は後方より、覆いかぶさる様に舟を襲った。
舟は其の衝撃により見事にひっくり返り腹を見せた。
裕志と川名は咄嗟に手を放し、海中に押し込まれ放り出された。
一瞬、波が引き、二人は並んで顔を出した。
ひっくり返った舟底に部隊長と大久保曹長が掴まっている。
「大丈夫でありますか?」
川名が声を掛けた。
「舟を起こせ。」
大久保曹長の声が走った。
舟には水が一杯入ってしまって居た。
大久保曹長が舟に乗り、水をかい出し、二人が舟を支え、部隊長も舟に乗り、軍服を脱ぎ装具を外し、舟に置き、大久保曹長と二人で泳いで岸辺に向かった。
「舟を引いて来い。」
それが裕志と川名への命令であった。
櫓も櫂も流されて無い。二人は舟を押して、徐々に岸辺に向かい、舟を砂浜に着けた。
一休みして、舟から部隊長の軍服、軍刀、装具を下ろし、木陰で発電車と東林軍曹他、将校幹部と、一部の兵達が休んでいる場所へ持って行った。
部隊長も大久保曹長も其処に居た。
二人は舟を岸辺に着けた事を報告、軍服、軍刀を大久保曹長に渡した。
「御苦労、旅館に帰って休め。」
東林軍曹からの命令であった。部隊長が褌一つで木陰で休んでいた。
(兵も下士官も将校も非常事態が起きれば全てが同様で、それは本人の処理能力にかかり、命を全うするしかない。)と、被虐的な考え方で、裕志は部隊長を蔑視した。
部隊長が単なる弱い中年男にしか見えぬ態度をして居たからだ。
夏の九十九里の片貝からの出張演習は無事に終わったが、成果はなかった。
唯、一つ、この出張演習で、如何に農漁村が貧しいかを味わされた。
輸送の関係もあるであろうが、獲れた魚や野菜は現金化するのに時間がかかる。それに冷蔵設備は無く、みすみす収穫物を腐らせてしまう結果になって仕舞っている。
裕志は自分の思い過ごしではと思われる野卑な風俗、衣服も買えないと思っても仕方の無い漁師達、全裸で褌もせず、性器の先を藁で結び、海に入り作業をする男、腰巻一枚でふくよかな乳房を丸出しにして、海辺で働く女、腰巻の間から動くと太腿が見える仕草、裕志の家庭の様に、都会にも貧乏な人々が沢山住んでは居るが、こんな姿で仕事をしている人は見た事がなかったので驚いた。
軍隊は貧しい村落からの二、三男をまるで就職させる会社の様なつもりで人を集め、兵士として戦場に駆り出して居るのである。
九十九里片貝に出張して来た部隊は全て無関心で演習が終わると引き揚げて行った。
出張演習が終わり、帰るとすぐに勤務が待って居た。
裕志と川名は物品販売所の勤務を命ぜられた。
物品販売所は石鹸や歯磨きやちり紙等日用品を販売している所であった。
以前は菓子や、そば、うどん等も売っていたが、今は食料関係は全て配給制になってしまっていた。物品販売所の裏に小さな工場があり、民間の職人が来て菓子やパン等を造っていた。裕志等勤務員は其の手伝い迄させられた。造る物は饅頭と甘食パンであった。
ある程度造ると、販売所班長が本部の販売担当の石田中尉に報告、各中隊に配給するのである。
配給の個数を掌握し、箱に詰めて中隊迄運ぶ初年兵と二年兵が数人で配給を受けにやってくる。川名と裕志は員数を揃え渡してやる。倉庫は殆んど空になる。
或る日、配給を終え、一休みしている所へ真っ青な顔をした、ろ隊の二年兵が駆け込んで来た。饅頭が二個不足だと云うのである。
所長の森軍曹と副長の山田兵長、それに二人の民間職人が調査したが、個数納品は確実で間違いがなかった。其の二年兵は途中で食ってしまったのではないかと疑われ、販売所へ確かめに来たのである。
支給品を故意又は過失により失った場合は厳罰に処すと、陸軍刑法に定めてある。
以前に出動訓錬演習があった折、仮装支給品の缶詰が失われ、中隊全部が大騒動になった事を裕志は覚えていた。
出動訓練演習には部隊が出動するのと同じ状態にする訓練で、完全軍装全員、武器弾薬、衣料食料全て仮装支給、部隊長、幹部将校の検閲を受け、営門から東練兵場迄行軍するものである。演習が終わると、仮装支給品は全部返納するのである。
処が仮装支給品の内、缶詰一個が不足していたのである。
裕志の中隊、い隊の出来事で早速、調査委員会が設けられ、中隊長が委員長として調査が開始された。
其の結果、判った事は四班の古年次召集兵が初年兵の食料品を自分が返納する係りに任ぜられたと称し、缶詰を集め、一個を開いて食べてしまい、空き缶は便所に捨てたのであった。調査委員会は其の折、大きな罰を与えず後日、牡丹江独工二十七隊に転属を命じ、島流し的な罰を与えたのである。
販売所へ来た二年兵が悄然と帰るのを見て、裕志は二年兵が中隊に帰り、如何なる罰を受けるかを想像し哀れになって来た。
品物の饅頭は倉庫には無かったが工場には員数外が何個か有った。裕志や川名が余分に製造、それを中隊の親しい戦友に呉れていたのである。裕志は川名と相談し、工場から饅頭を二個紙に包み、ろ隊の二年兵を追いかけた。追いついたのは縫製工場近くであった。
裕志は事情を話し饅頭を渡した。二年兵は感激し、涙を流し、何回も何回も初年兵である裕志に頭を下げて、礼を云い安心して帰って行った。たった二個の饅頭がこれほど重みを持った物と、裕志は思わなかったが軍隊制度の矛盾を眼前で噛締めざるを得なかった。
毎日、毎日粉だらけになり,饅頭を作った。
こんな饅頭当番勤務を続けて居る内に、あの命運の別れ道の日が近付いて来ていた。
昭和十九年六月頃から、度々民間から召集により人員が多くなってきた。
それらの人員は宿舎が一杯なので講堂へ収容された。
人員が多くなれば食料も大変である。物品販売所もこれ等の人員に対処しなければならず、
饅頭や甘食パンの製造も量が多くなり忙しさが増してきた。
そんな時、中隊内で出動のニュースが囁かれていた。
部隊が新たに編成され、一部は硫黄島へ、一部は沖縄へ行くと云う事で、中隊内から何人かがこの編成部隊に加わるという噂がしきりであった。
誰と誰が何処へ、そんな話さえ真しやかに囁かれて居たのである。
そして、その編成されたのは、昭和十九年八月の事であった。
中隊編成は、い、ろ、は、三隊の中から約半数、作井二十中隊に編入され、中隊長は材料廠長の荒木中尉で召集兵も入れて百五名沖縄へ、作井二十一中隊も同様な編成で硫黄島へ、裕志のい隊からは五班の森川軍曹だけであった。
此の頃は米国は未だ本土攻撃が出来ず、我が軍は南方、ラバウル、北方アリューシャン列島、アッツ、キスカ島の外地、占領地で戦っていたのである。
それで硫黄島は太平洋南端とは云え、東京府の一部に属して居り、沖縄は歴史的に見て本土の一部であった。
其の二つの土地には、国内の過疎地のイメージはあったが、外地という観念はなかった。
(沖縄って、暖かいんだってさ)
(バナナやパイナップルが沢山採れるそうだ)
兵達は憶測で色々と話を広げていった。
(嬉しい事には戦地では上官達が非常におとなしくなり、部下を可愛がるそうだ。)
兵達は気楽な心持で、準備を進めていった。
沖縄戦線の進駐は、彼等にとって、出張演習へいく様な気持ちで出動するらしい事が判った。裕志と川名は心の中で、戦友に置いてけぼりを喰らったような気がして焦りを覚えた
二人は相談して、嘆願書を中隊本部へ提出しようと話をきめた。
文面は裕志が考え、川名が墨書し、わざわざ血書の嘆願書にし、中隊本部へ提出した。
間もなく、作井二十一中隊が硫黄島へ出発した。
裕志と川名は諦めて居た処、突然中隊本部から命令があり、作井二十中隊の機材小隊へ、編入される事になった。
それは出発の三日前であった。
裕志と川名は誰にも何処へも連絡出来ずに出発したのである。
出発の日、中隊全員が集合、出陣式が盛大に行われ、連隊長内田少佐の検閲を受け、万歳の声に送られて営門を出た。
裕志は何となく晴れがましい気分になり銃を担って行軍した。
松戸駅より乗車、軍用列車で一路門司へ向かった。
名古屋、大阪、広島の一時停車駅で愛国婦人会の人々より、湯茶の接待を受け、無事門司に到着した。門司は沖縄派遣の各部隊の集合により、戦場の様な騒ぎであった。
船団の都合により、1週間程中隊は待機する事になり、機材小隊は市内の小学校に宿営する事になった。
二、三日目に門司に空襲があった。
待機中、突然我が中隊にチブス患者が発生し、五名の兵が小倉陸軍病院に入院した。
勿論、機材、装具の全てが消毒され、中隊全員が検査を受けた。
入院中の召集二等兵、野村が病死した。
其の翌日、機材小隊長倉井少尉から、命令として裕志と川名は原隊復帰を命じられた。
二人は茫然としたが、命令なら仕方がない、悄然として原隊に復帰した。
其の理由は話して貰えなかったが、多分検査の結果チブス菌が体内から出たのではないかと推測された。
原隊復帰の日、この日が命運の別れ道になった事を、裕志は後日知ったのである。
部隊では相変わらず、雑用勤務であった。
九月の終わり頃、中隊に残った人員等と、一緒に金沢へ出張を命ぜられた。
大和紡績株式会社の金沢工場の配線工事で、車に機材を積んで金沢へ向かった。
宿営所は金沢の歩兵部隊であった。犀川の上流の高台に部隊は存在した。
工場は海岸近くの西金沢にあった。
出張人員は約三十名、指揮官は本部の北村少尉、い、ろ、隊の人員で構成されていた。
金沢の部隊宿営地には市川から持って来た機材その他、車輛は一台でその上に積み込んであった。
工場へは車輛で通勤する人員は限られていたので、残りはバスと鉄道で工場へ通勤した。
宿営してから、一週間が過ぎた頃、近くに兵舎のある金沢の中隊の雑嚢が何人分かが紛失したという事件が起こった。そして其の中隊では色々と探査し、問題になっていた。
それで、盗まれた同じ物が我中隊の者が持って居ると、誰が云い出したか判らないが、疑いを掛けられた。我隊の富沢軍曹が其の疑いを否定、抗議した。
我隊の持ち物は市川の原隊から持って来た物であると主張した。
裕志はもしかすると、或いは自分の中隊で工場に置き忘れ、紛失し、其の穴埋めに誰かが盗んだのではないかと、思わないでもなかった。
原隊、東部八十五部隊のい、ろ、は、三隊の物干し場で靴下、下着が度々紛失する事が有ったからだ。
其の後、金沢の部隊から色々な嫌がらせを受けた。
それが原因かどうか判らないが、北村小隊は金沢の歩兵部隊を撤退し、大和紡績工場近くの寺院に仮宿所を設定した。
大和紡績の仕事は順調に推移した。
唯一つ、事故があった。
戦友の田中美作が屋内配線を行っていた折、そばに三千三百ボルトを通す電線が有り、うっかり足で其の裸電線に触ってしまった。
高電圧は異物を反発する。
田中は見事に跳ね飛ばされ、足場から床へ叩きつけられた。
そばに居た雨宮二等兵が急を富沢班長に告げ、班長は直ぐに田中本人を金沢陸軍病院へ搬送した。
幸い、田中は背中と腰を打っただけで、他に異常は無かったので、皆は安心した。
大和紡績の仕事は九月に始まり約二か月かかった。
勿論、軍隊と云えども、内地では日曜日は休日である。
兵達は皆観光旅行と同じに町の有名な名所旧跡を見物に出て行った。裕志も川名や伊藤、高野等戦友と金沢の街を探訪して歩いた。金沢城、香林坊、兼六公園と見て回った。
一頻り見て回ると差程広くない金沢の街は散歩する場所もなくなってしまった。
たまたま、金沢駅前で湯涌温泉行のバスを認めた。
裕志と伊藤が金沢の周辺に温泉が有るとか無いとか話題にしていると、高野がやって来た。
高野は其の話題に入って来て、結果、温泉に行く事に決定してしまった。
バスで約三十分、湯涌温泉に着いた。
バス停の眼の前に大きな旅館が建っていた。旅館は其の一軒だけであった。
(白雲楼)と云う旅館の名である。百室もあろうか、木造三階建ての湖面に面しL字型に部屋のある立派な旅館であった。
裕志等は昼食を注文、休憩をお願いした。裕志等は窓から湯の湖、加賀の山々の見える見晴の良い部屋に通された。
温泉の風呂は黒曜石を貼った様な黒石の大きな浴槽に窓から庭園の見える広々とした浴場であった。
客は裕志等一組らしかった。
料理は山菜が多く使用され、魚は川魚でやまめの焼き物、川海老の甘煮、茸の吸い物、山菜の天麩羅等、案外豪華であった。但し酒と飯はつかなかった。
旅館の仲居に聞くと、米や酒は客に持ち込んで貰う場合につけるが、宿泊と料理だけで、配給統制で米飯、酒類は使えなくなったそうである。
裕志等は広い湯船に浸かり、ゆっくりと温泉を味わい、美味な料理に舌鼓をうった。何となくゆったりとした民間人になった気分で、最終バスが出る迄の時間を過ごした。
値段は思ったより高くはなかった。
宿所に帰り、夕食を食べたが、あまりにも味の違いに三人共驚いて仕舞った。
次の日曜日、裕志は父の実家のある山中温泉へ行く事にした。
山中温泉は全国的に有名な温泉である。
父の実家は山中市街から、四里も山奥の我谷と云う部落であった。
其のまだ奥に昔、加賀藩で焼いたとされる、古九谷焼の竈の跡がある九谷と云う部落があると云うのであった。
裕志は金沢から北陸線で、大聖寺駅迄行き、そこで加賀電鉄に乗り換え、山中駅に着いた。
街の交番で父の姉が嫁いでいる栢野と云う部落を聞いた。街から二里余りあった。
金沢を出て、西谷村栢野の父の姉の嫁ぎ先へ着いたのは昼ごろであった。
伯母の一家は喜んで迎えて呉れた。
伯父は娘四人の子持ちで、山中温泉旅館吉野屋の庭師をしている兼業農家であった。
娘の内、一人は福井へ、一人は部落内の澤出に嫁ぎ、家には三女のきみ子がいた。
四女の留子は裕志より一つ年上で、大聖寺の大和紡績の寮に入っていて、日曜日には実家に帰って来て居た。
馳走は無いものの、玄米の飯であったが、実に漬物が旨かった。
胡瓜、大根の味噌漬、沢庵等しっかり漬かり、裕志はそれを菜に茶漬けを何杯も食べた。
それから二カ月の間、日曜日の度に栢野の家を訪れた。
貧しくとも、心暖かい身内のもてなしに、裕志は心から感謝した。
大和紡の仕事が終わり、最後の日曜日に別れを云った処、伯父夫婦は淋しそうにして、列車の中で食べる様にと、茹栗を沢山持たせて呉れた。
此の栗を帰りの車中で戦友に配り、大変喜ばれた。大和紡の仕事が終わり、帰隊する前日に北村少尉は小隊全員を手取川上流の辰の口温泉へ慰安旅行をさせて呉れた。
小隊が無事部隊へ帰ったのは既に、十一月の始めになっていた。
そして二、三日部隊で休んで居る内に、又出張演習の声がかかった。
行先は栃木県宇都宮市郊外、雀の宮の農村地域であった。
裕志は演習中、電柱を積んだ台八車に不注意に足を嚙まれ、指は腫れ上がり、歩行できなくなった。それで、直ちに宇都宮陸軍病院へ搬送され、治療を受け、原隊復帰させられた。
班のテーブルの前で何もせずに、一日中居るという事は退屈なもので、早く練兵休から脱し、職務につきたいものだと思う自分に軍隊慣れというか、環境に順応と云うのか、裕志はそんな気持ちになっていた。
彼は以前、炊事当番勤務についていた時、炊事の班長が熊谷伍長であったことを思い出した。熊谷班長は国士館大学を出ているのに、どうした訳か将校になれず、下士官であった。
裕志は中隊が同じで、隣の第弐班の班付きをしていたのを見知っていて、炊事の休憩の時に度々、班長の部屋を訪ねた事があった。班長室には大学時代の色々な歴史の本があった。
裕志は前から歴史に興味を持っていたので、歴史関係の本を何冊か借りて、読んだ事があった。裕志は練兵休になって、其の事を思い出し、足を引き摺って、炊事班長室に行き、本を借りて退屈しのぎをした。
宇都宮の演習は一週間で終わったが、戦友等は又出張演習を命ぜられた。
何しろ、電力会社は手が不足で、部隊へ依頼して仕事をして貰うより仕方がなかったのである。それに、工事は全て国から命令で、絶対的なものばかりで、会社の利益事業と云うより、国策事業の勤労奉仕的性格が強かった。
小隊の今度の行先は伊東温泉であった。
然し、裕志は足の怪我が治癒したにも関わらず、置いてけぼりを喰った。
伊東での出張は大変に良かった様で、温泉にゆっくり入れたし、旨い魚は喰えたし、大名旅行だったと戦友から話を聞き、残念に思った。
時期を同じゅうして沖縄からも、班長宛に麿田文治上等兵から便りが来た。
沖縄は思ったより好い所で暑さも丁度良く、仕事は順調に進み、各戸にバナナの樹が植えてあり、ふさふさと、バナナの実が熟し、何時でも自由に取って食べられるとの事が、楽しみを表す様に書いてあった。裕志も川名も、間接的に話を聞いて、非常に残念に思った。
昭和二十年の春も近くなって来た。




