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命運  作者: 中西 裕
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一、水天宮参詣

老夫婦は手を合わせていた。


米国に居る息子夫婦に三人目の子供が生まれると云う知らせがあったからだ。

遠く離れ、言葉も習慣も違う異国での出産に何一つ、手伝う事も出来ないもどかしさ。

そんな心持で居た老夫婦は、わざわざ中野からこのお社にお参りにやって来たのである。


「無事に、出産出来ます様に」


老夫婦は心を込めて祈った。

息子の嫁が最初の子を産む時、老夫婦から贈られた、(東京水天宮さんの腹帯がとても具合が良かった)と、礼を云われたのを、夫婦は覚えていて早速、安産祈願の傍ら、腹帯を受けにやって来たのであった。又、そればかりではなく、東京下町生まれの老夫婦には江戸情緒の名残を留めているこの社周辺の匂い、家並の形に心を惹かれ懐かしさを感じ散策を兼ねてやって来たのである。


普通の日だというのに、結構御社への御参りが多く、御宮詣りの若夫婦と、赤子を抱いてそれに付き添う老夫婦が一組になって、昇殿する姿が派手やかに見えた。

受付所には幾人かの参詣人が列を作り、並んで御札を受けるのを待っている。

受付所の建物の内側では、緋の袴をひらひらさせて巫女さん達が忙し気に働いていた。

老夫婦は受付所から御札と腹帯を受け、各々神がみの社殿の御参りを済ませ、神社の石段を降り、道を神社の石垣に添って歩き出した。


「此の辺りも随分変わったわね。ビルばかりだわ。」

「都心で早くから区画整理が進んで近代的な街づくりをやったからだろう。」

「水天宮さんの境内も小さくなったわね。」

「道路に大分取られたんだろう。」

こんな他愛もない会話をしながら、夫婦は歩いていた。


僅かではあるが道路沿いに露店が出ていて、土産物の玩具などを売っていた。

其の露店に並んで戦闘帽に白衣を着た傷病兵姿の老人が、物乞いをしていた。

戦後六十余年、未だこの様な老人が居るのかと老夫婦は驚き、不思議そうに見守った。


(可笑しいぞ、俺は八十歳で昭和十八年兵だ。本来、現役の入隊は昭和十九年四月だ。それが臨時招集を喰らって、昭和十八年十二月一日、学徒動員と同じ日に、千葉の工兵隊に入隊させられてしまった。

恐らく、志願兵であったにしろ、あの白衣の兵は若すぎる。戦地へ行った大多数が俺より年上の人間の筈だ。多分、あの人間は偽の傷病兵だ。何もこんな姿で物乞いするとは。)


夫の方は、自分が傷付けられた様で、嫌な気がした。

水天宮の石垣を過ぎ、ビルを二つ三つやり過ごすと日本橋から浜町へ行く交差点に着いた。

道路の四つ角に、有名な人形焼の店があった。


「お土産に一箱買うわ。」

妻の方は店に並べてある小さめの箱を買い求めた。

「何処へ行くの?」 妻は夫に聞いた。

「浜町河岸でも行って見るか。」

夫は気のなさそうな返事をした。


二人は人形町の通りを右へ曲がり、浜町河岸の方向へ足を向けた。

「おい、良子 もう昼を過ぎたんじゃないか。何処かで飯でも喰わんか。」

夫は妻に声を掛けた。

「そうね。此の辺りは昔の名残があるので案外粋で美味しいものが有るかも知れないわね。」

妻はこんな言葉を口にした。


此の夫婦の名は、中西裕志八十才、良子七〇才、共に東京下町生まれで、三人の子持ちである。長女は地方公務員で未婚、いわゆるキャリアウーマンだ。長男は結婚し、子供が二人。今度三人目が生まれるのである。長男は或る有名自動車会社に勤務、現在米国オハイオ州の工場で働いている。次女は之も結婚し、二児の母であり、彼女の夫は日本美術院国宝修理所に於いて国宝並びに重文の品々の修理を手掛けている。


中西裕志自身は元、不動産業を営んでいたが高齢になったので従業員を解雇し廃業、現在は年金生活で楽隠居の身分なのである。永い人生も終わりに近づき、平和で全てが幸せになっている。

色々と苦しい事の連続であったが其の苦しさを乗り越え、どうやら平凡な時期が到来している今日此の頃を楽しんで居た。


大川は未だ遠い。

何となく川風を感じビルの街並みの中に、偶に黑板塀の粋な造りの日本建築の家が表れるのを、二人は楽しんで歩いている。

幾つかの路地を過ぎ、楽しみの散策をしている二人に(天麩羅天政)の文字が目に入った。


「天麩羅 どーお」 

良子が声を掛けてきた。

裕志は黙って頷いた。


板塀の粋な造りの店構えの家に二人は入って行った。椅子席ではあったが、回りの装飾は和風で特に窓に黒塗りの枠の化粧障子が入って居たのが江戸調らしく、裕志は気に入った。

その他、全てがゆったりとしていて、二人は満足した。


料理が運ばれてきた。塗桶にメインの天麩羅、からっと揚げられ軽やかに見えた。平鉢には玉子豆腐、小鉢には胡瓜の酢の物、お椀は三つ葉と桜海老のすまし、それに香の物、一応、和食膳のこしらえで、見た目も美しく盛り付けられていた。


飲物にビールを注文し、二人はグラスで乾杯、健康を祝し、料理に箸をつけた。

アルコールに弱い裕志は何時の間にか顔が赤らんできていた。海老、いか、野菜と口にして、旨いと思った。良子も美味しそうに食べていた。


ふと、先程見た傷病兵の白衣姿が裕志の頭の中をよぎった。

松葉杖をついている兵、片手が無く、懐手をしている様に見える兵、眼帯をかけ、手探りで歩いて居る兵。国府台陸軍病院で見た、戦場で闘い傷ついた兵達。白衣姿の傷病兵を嫌と云う程見せ付けられてきた裕志は己の中に暗い幻影を感じ、総毛たつ思いがした。


裕志の所属した中隊で、軍隊生活に耐えかね自殺した奴が居て、其の屍衛兵を命ぜられ陸軍病院の霊安室で、一晩中死体の傍らに立って居たのを連鎖的に思い出し、酔いが醒める気がした。


裕志は何時の間にか六十余年前の軍隊時代の生活を思い出していた。

片桐一雄、麿田文治、小林淳伯、野村達次は尺八の上手い男であった。皆、沖縄戦で戦死した。

其の他の戦死した戦友の名、面影が次々と浮かんで来た。


「お父さん、どうしたの。ぼんやりとして。」

良子に声を掛けられ、裕志は、はっと我に返った。彼は時折こんな状態が起きる事があった。

あまりにも衝撃的な特殊な社会に入った体験が頭脳を混乱せしめて仕舞うのである。


裕志は我に返り、料理を喰いはじめた。

「旨かった。」

料理を食べ終わり、つくづく舌の感触を満足させ茶をゆっくりとお呑みながら、彼は再び軍隊時代の続きを思い出して居た。


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