夢
「お前はさ、先生っぽくはないけど、なんか向いてそうだよな。」
心臓の音が今にも伝わってしまいそうなこの状況の中で、彼はふざけているのだろうか。
「俺はさ、うーん。まぁ、見た目はそこそこ先生っぽいだろ?笑。」
やはり、ふざけているに違いない。分かってはいたが、彼との間には明らかな温度差があるようだ。きっと彼からすれば、今日のことなんて、一晩の眠りにつけば、記憶から消えて無くなるようなものなのだろう。それに、こんなことを言っておきながら、私の表情を確かめるようなそぶりさえ、全く見せない。むしろ、その視線の先は、目の前の私ではなく、どこか遠くにあった。近くにいるのに、遠くに感じるとは、まさにこのことだ。そして、こんなにもまじまじと彼の横顔を見つめることはもうないだろう。これでもかというくらい見つめてみるが、私のほんの小さな望みが叶うことはなかった。彼の心はまるで読めない。やはり子どものままでは、まだまだ追いつけないのだ。しかし、思い付きで放ったかもしれないこの言葉を、私は真に受けてしまった。
あれから5年の月日が流れ、私は教壇に立ち、中学校で家庭科を教えている。冗談だったかもしれないあの言葉を、聞き流すことができなかったのだ。あの日から、私の夢は先生になっていた。そして、その夢を叶えた。いや、正確に言えば、叶えたとは言えないのかもしれない。
「川上先生、これ、来月のね。」
そういって、渡された出勤簿を眺め、ふと彼のことを思い出してしまっていた。私は、正規の職員ではない。授業がある時にのみ出勤するいわゆる非常勤講師だ。なぜこんなことになったかというと、採用試験でへまをしてしまったからだ。面接で極度の緊張状態に陥り、硬直してしまった私は、練習の成果を一ミリも出せず、結果は予想通りの不合格。肝心な時に実力が出せないのは、相変わらずといったところだ。そして、合格した暁には、あの人に会いに行くつもりでいた。いつの間にか、本気で先生になりたいと思うようになり、一心不乱に勉強をしてきたが、半分はあの人に会いに行く口実のためにやっていたのだと不合格通知を見て気づかされた自分がいた。だが、あの人はそもそも私をお呼びではなかったのかもしれない。まあ、私の挑戦は、来年に持ち越されたということだ。そして、そうこうしている間にまたすぐに次の授業の時間がやってくる。
「じゃあ、今日の授業はここまで。号令をお願いします。」
これで、今日の最後の授業が終わった。ぞろぞろと生徒たちは退室していき、教室にはただ一人取り残された足音が響きわたる、いつも通りならば。しかし、今日は違った。
「先生。」
私から少し距離をとり右手を強く握りしめ、いつもより力強いで私を呼んだ。
「あ、河合くん、どうしたの。もしかして、補講希望?」
なぜだかわからないが、彼と目を合わせて話すことができなかった。そして、いかにも不自然でその場の雰囲気を壊すかのように、私は明るく振舞った。
「補講希望です。」
「うーん、3年生で成績が不安なのは分かるけど、みんなより進んでるし、補講なんてしなくても大丈夫だよ。」
「俺、先生の前では物分かりよく見せているだけです。先生に、ダメな奴だと思われたくないし。でも、本当は僕不器用で容量悪くて。だから、もっと教えてほしいです。授業だけじゃ足りません。ダメですか?」
私は、気づいてしまった。彼は、5年前の私だ。先生に近づきたくて、見てほしくて、必死だったあの頃の私だ。
「それより河合くんさ、受験勉強しなしと。数学の先生が、補講しないとなって言ってたよ。」
彼から目をそらすことしかできない私は最低だ。彼は、こんな大人を嫌うだろう。都合が悪くなったら、現実から目をそらす。私は、ずるい大人になってしまった。
「先生は俺が勉強頑張ると嬉しいですか?」
「、、、うん。」
想定外の彼の反応に戸惑い、つい二つ返事をしてしまった。
「じゃあ、俺、勉強頑張ります。それで、先生が喜んでくれるならやります。俺、先生が喜ぶこと全部したいです。」
彼の言葉には、嘘はない。嘘がないから、言葉が心にすっと入ってくる。しかし、心が重い。受け止められない、いや、受け止めてはいけない。そう心が、彼の言葉を拒否しているのだ。
「授業、始まるよ。」
「、、、失礼します。」
そう言って走り去る彼の姿を見て昔の自分と重ね合わせていた。