第1話 入水自殺と愛の桃
寂れた片田舎の町で医師として働く彼は、今日も賃金の支払われない残業を終え、軋む身体に鞭打って、一人寂しくトボトボと家路についていた。
過疎化の進む地域医療は、数少ない医療従事者達に過酷な労働を強いていた。そしてまた、彼もその犠牲者の一人であった。
生きる気力を失っていた彼は、気付けば川岸の土手の上にいた。
この川は町内でも有名な花見スポットで、春になると美しい桜並木がその岸を埋めつくすことで知られていた。
しかし今はもう花見の時期を少し過ぎてしまったらしく、緑の方が目立つような有様であった。
彼は、今年もまた花見を楽しむ事は出来なかったのである。
わずかに残された数少ない花々も、今また吹き抜けた一陣の風によってヒラヒラと地面へと舞い、さらにその数を減らしていた。
舞い散る桜の花びらは、彼の脳裏に在りし日の妻の姿を呼び覚ました。
妻の微笑む口元。優しい声。
春になると、いつも妻と共にこの川岸に花見に訪れたものだ…。
激務に追われる毎日を過ごす中で、日を追うごとに妻を思い起こす機会も減ってしまって来たように思う。
妻に申し訳ない。
妻は…、今の私を、どう思うだろうか。
罪悪感が胸の中でみるみる内に広がり、黒雲のようにその心を覆っていった。
私は何の為に生きているのだろうか。
守る者も既に無く、人生の目標も生き甲斐も無い自分の人生に価値は有るのだろうか。
ふと気が付くと、彼は土手を降りていた。
すぐ目の前では水がサラサラと静かに流れていた。
もう、潮時だろう―
おもむろに川へと吸い込まれていく、彼の身体。
しかし、顔が水面に触れて視界が途切れる寸前。
少し上流に、それは見えた。
「…桃?」
今の一瞬に見えた光景に理解が追いつかず、彼は水面から顔を出した。
立ってみると川はそれ程深くはなく、彼の胸元程の深さしか無かった。
岸の近くなのだ。考えてみれば当然である。
彼は川底にしっかりと足をつけ、一瞬だけ見えた上流の『桃』をもう一度よく見る。
「な…!?」
彼は絶句した。
その『桃』はまぎれもなく。
人間のおしりであった―