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残酷描写にご注意ください。
森は赤々と燃えていた。
悲鳴と怒号が飛びかう中、森の陰に隠れるようにして、レニは母に手を引かれて走っている。がむしゃらに通り抜けるせいで、枝や草が肌に傷をつけ、服の端が切れた。
レニは十七という年齢のわりに小さい。初対面の者には必ず十四か十五だと間違われるほどだ。
灰色のワンピースの裾をからげ、革製の長靴を履いた足で必死に前へ進む。その時、枝に引っかかって、生成り色のフードが外れた。さらりと零れ落ちたのは、肩辺りの長さをした白髪だ。母はすぐにフードを被せなおし、また走り出す。
息が苦しい。だが、立ち止まるわけにはいかなかった。
藪を突っ切ったところで、母が立ち止まった。レニもつんのめるようにして止まる。
目の前には崖があった。対岸は遠く、星明かりだけでは底は見えないが、川の流れる音がゴウゴウと響いている。渓谷だ。
「レニ、翼を広げなさい。ここを飛ぶの」
「でもお母さん、私、上手く飛べない」
「それでも飛ぶの!」
母の鋭い声に、レニは首をすくめる。
怖い。怖い。怖くてたまらない。
足を震わせ、顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら、レニは必死に翼を広げる。マントの下で、みすぼらしい一対の白い翼が広がった。
「いたぞ、あっちだ!」
後ろのほうから声がした。
母はレニを強く抱きしめると、レニを両腕に抱え上げる。
「待って、お母さん。やだ、怖い。いやーっ」
「生きなさい!」
母はレニを渓谷へと放り投げる。叫んだ声には、レニを案じる響きがあった。
風をつかむこともできず、渓谷を吹く突風にもみくちゃにされながら、レニは背中から落ちていく。
その赤い目は、母の体に突き刺さるいくつかの矢を見た。
「お母さ――」
レニは母へ手を伸ばす。
あらがうこともできず、谷底へ落ちていく。そして、そのまま意識を失った。
ピチョンと雫が落ちてきて、レニの頬にぶつかった。
その刺激と冷たさに、レニはゆっくりと目蓋をもたげる。
暗い空の真ん中に、青空が細い線を引いていた。
ゆっくりと起き上がったレニは周りを見回す。どうやら崖の途中に岩が張り出していて、幸運にも、そこにレニは引っかかったみたいだ。
――幸運にも?
レニはひくりとしゃくりあげた。
うつむいて、静かに泣き始める。誰もいないけれど、自然と声を殺していた。
レニの暮らす村で、子どもはこう教えられる。――襲撃者が来たら、すぐに隠れて、静かにしていること。
レニはカラス族という鳥人だ。黒髪黒目、黒い翼をもつカラス族だが、時折アルビノが生まれる。アルビノとは、色素欠乏のために白化して生まれてきた動物のことだ。カラス族のアルビノは、白髪赤目、白い翼を持ち、体が小さく弱かった。それでも一族は爪弾きにすることもなく、村の仕事は分業にして、村の奥まった所に保護していた。
日光でやけどをする者がいるので、アルビノは夜に仕事をする。体が弱いので村を守る仕事はできなかったが、賢く魔法に長けた者が多かったので、昼の仕事で手が足りないところをよく補っていた。
「なんで……ひどいよ。アルビノだからって、どうしてこんな目にあうの?」
たった一晩で、村の奥にいたアルビノ達の居所は壊滅した。一族は守ろうとしてくれたが、大型の肉食系の獣人達にはとても及ばない。
この獣人や鳥人、魚人が住まう世界には、ある醜悪な逸話があった。
――アルビノを食べると、寿命が延びる。
色素欠乏した姿を神聖視した結果、そんな話が広まったのだ。
そのため、どの一族でも、アルビノは大事に保護されている。中には生まれた時点で食べてしまう者もいるらしいが、ほとんどは同族には寛容だ。
昨今では、肉食系の獣人が、他者を殺して食べるのは禁忌とされている。昔よりは減ったが、逸話を信仰している邪教徒の一団がいて、被害は後を絶たなかった。
「お母さん……っ」
父は普通のカラス族だったが、幼い頃に病死した。レニは親を亡くし、天涯孤独の身となった。
いっそあの時死んでいれば、そう思った時、母の最期の声が耳の奥に聞こえた。
――生きなさい!
レニは奇跡的に生き残った。母の願いが天に届いたのだ。
「……うん。分かった。私、がんばってみるね」
このまま何もせずに死ねば、天国に行った母を悲しませてしまう。どうせ死ぬならば、もう少しあがいてからにしよう。
レニは涙をぬぐうと、露台のようになっている岩の上に立ち上がった。
振り返ってみて驚く。
「洞窟……?」
暗い穴を覗き込む。奥へと道が続いているようだ。
あいにくと夜目はきかないが、明かりを持っていないので、このまま奥へ向かうしかない。
谷底は冷たい川がごうごうと流れていて、落ちればレニはあっという間に流されて溺死するだろう。かといって、虚弱ゆえに空を飛ぶこともままならないレニには、この崖の上まではとても行けない。
この道が上へと続いていることを祈るしかなかった。
壁を助けにして、じりじりと奥へ進んでいくと、広い場所に出た。壁に埋め込まれた灯火石が淡く輝き、部屋を照らし出している。
そう、ここはどう見ても部屋なのだ。
真ん中には大きな丸い石のテーブルと木製の椅子があり、左奥には台所のような場所もある。右のほうには衝立があって、大きなベッドが一つ。クローゼットや箪笥も置いてある。
人の気配がないことに安心したレニは、奥の小部屋も覗いてみた。本がぎっしり詰まった棚と、書類が詰まれた机があった。
台所の左側にも小部屋が二つあり、風呂場とトイレがある。どうやら椅子の下に引き出しがあって、汚物を捨てる形式のようだ。
「他に道がない……」
レニは青ざめた。
最初から詰んだ。これではどこにも行けず、レニは飢え死にしてしまう。慌てて台所をあさると、干し肉やハーブを見つけた。
どうやら湧水を使った水道があるようで、蛇口をひねれば水が出る。
しばらくは生き延びられるが、そう長くはもたない。
くうっとお腹が鳴り、レニはひとまず干し肉をかじることにした。こういう時、雑食のカラス族で良かったと思う。
部屋は薄らと埃かぶっているので、主の長い不在を告げている。
ひとまず上に行く手筈を見つけるまではお邪魔させてもらおうと決め、レニはベッドに寝転んだ。思った以上にふかふかしていて、疲れ切っていたレニはあっという間に眠りに落ちた。
「おい、起きろ」
怒りをはらんだ低い声での呼びかけに、レニの意識は急浮上した。パチッと目を開けると、うすぼんやりとした明かりの中で、麗しい容姿の男が不機嫌そうに立っていた。
腰まである長い髪は白銀で、一瞬、女かと思ったが、顔や体格は男のものだ。二十代後半くらいだろうか。背が高く、細身ながら引き締まった体躯をしているようなのが、黒衣の上からでも感じられる。くっきりした顔立ちは色白で整っているが、無表情なせいで精巧な人形のようだ。
――神経質そうな人。
レニの彼への第一印象はこうだった。
「私の留守中に家に忍び込むとは、いったい何が目的だ?」
鋭く問う男の目は、黒曜石の刃みたいだ。冷たく、温度が感じられないのに、なぜか目を惹かれる。
見とれたレニは、慌ててベッドから下りて、床で土下座をした。
「すみません! どうしようもない事情がありまして、泥棒じゃないんです。崖から落ちてしまったんですが、上に戻れなくて」
男はレニのすぐ前に立ち、くんとにおいをかぐ仕草をした。
「くさい」
「えっ」
「カラスくさい。立派な翼があるくせに、下手な言い訳を。食ってやろうか」
冷たい脅しに、レニは震えあがった。彼がどの獣人か分からないが、きっと肉食系だ。
「わ、わた、私……」
「なんだ?」
脅すくせに、話を聞いてくれるつもりはあるらしい。それでも気が変われば、レニは殺される。
「飛ぶのが下手なんです。こんな崖、とても飛べません。それに泳げないし、虚弱体質なので登れないんです」
震えながら話すと、男はおもむろにレニのマントのフードをひっぺがした。レニは身をすくめる。白髪と白い翼を見れば、レニの正体は一目瞭然だ。
「ふん、なるほどな。アルビノカラスか」
レニの目に涙が浮かんだ。
この男も邪教徒なのだろうか。レニは殺されて、この男に食べられるのだろうか。
男は眉間に皺を刻み、苛立たしげに舌打ちした。
「お前、料理はできるか?」
「え?」
「料理はできるのかと聞いている。のろまめ、ぐずぐずしてると食ってしまうぞ!」
「できます! 得意です! お掃除も洗濯も、畑のお世話も、糸紡ぎや織物もできます!」
よく分からないが、レニは必死に自分のできることを主張した。
「そうか。では料理と掃除、洗濯を頼もう」
男はそう言って、長椅子のほうに座った。レニは土下座の姿勢から恐る恐る顔を上げ、男に問う。
「ええと……どういうことです?」
「お前を弟子にしてやると言ってるんだ。雑用に励むならば、ここに置いてやる」
「は、はいっ。ありがとうございます!」
レニは急いで頭を下げて、恐る恐る立ち上がる。
遅れて、この男の使用人として雇われたのだと気付いた。
レニが迷い込んだ洞窟の主は、どうやらヘビ族の隠者のようだった。
どうやら……というのは、この男は質問と余計な会話を嫌うので、一ヶ月が過ぎた今でも、レニは男の名前すら知らないせいだ。
てっきり使用人にされたのだと思っていたが、魔法使いである彼の弟子にされたようだった。雑用を終えて暇をしていると、急に魔法の勉強の時間になったりもした。
レニは必死に働いた。ここを追い出されたら、行く当てがない。カラス族の村の仲間がどれだけ生き残っているか分からないし、彼らには弱いレニを守る余力はないかもしれない。お荷物になりたくないので、この男に追い出されるまでは、ここでがんばろうと決意したのだ。
それに、元々、綺麗好きだったので、埃かぶっている部屋には耐えられない。部屋を磨きあげ、台所は整理整頓し、男が持ち帰る食材を料理する。
どうやら男は魔法を使って出入りしているらしく、あの谷底の入口から出かけていき、またそこから戻ってくる。
たまたま遠出していたところ、レニが自分の家のベッドを占拠していたのだと、ぽつりとひとり言みたいに教えてくれた。
魔法使いとしては有能なようで、町で仕事を引き受けては、小部屋にこもって作業をしている。そして出かけて、引き換えにお金を得て、買い物をする。
(あんまりしゃべらないし、何か話すと私への悪態が多いけど、悪い人ではなさそう)
レニは男のことをそんなふうに見ていた。
いじめる真似はしないし、気が向けばレニに菓子を買ってくることもある。
ただ、魔法への物覚えが悪いと、舌打ちされるのだけは怖かったが、後で勉強するのに適した本をテーブルに置いてくれることを知り、感情表現が不器用なだけで、なんだかんだ優しいのではという気がしてきた。
(料理が好みだと、目を細めるくせがあるのよね)
よく観察しているうちに気付いたことだ。
最初は機嫌を損ねて追い出されるのが怖くて、顔色を伺っていただけなのに、今ではあの顔が見たいと思い始めている。
「師匠はどうして町に住まないんですか? 不便じゃありません?」
昼食をとっている時に、レニは思い切って訊いてみた。
「……町に住みたいのなら、送ってやる」
少しの沈黙の後、眉間に皺をくっきりきざんで男は言った。
「えっ、嫌です。私はここにいたいです。ただ、いつも町にお出かけになっていらっしゃるから、面倒ではないのかなって思って」
男の怒りに触れたことに慌て、レニはそう言い訳した。
「ここは静かでいい。それに……」
「なんです?」
「お前は物を知らなすぎるな。ヘビは嫌われているのだ」
苦虫をかみつぶしたみたいな声で、男は答えた。
「えっ、師匠はこんなに優しいのに?」
「私が居場所をやったから、勘違いしているだけだ。私は邪教徒どもは嫌いなのだ。お前、この渓谷の傍に住むカラス族の者だろう? ここに戻った日、壊滅した村を見た」
「皆……死んじゃったんですか?」
「何人かは生き残ったようだ。町に避難していた。だが、お前は身を隠していたほうが良かろう。邪教徒がどこにひそんでいるやら、分からないからな」
「やっぱり優しいです!」
レニは笑みを浮かべたが、男の眉間の皺は更に深くなった。何故だ。
「うるさい。静かに食べろ。ぐずぐずしてると、食べてしまうぞ!」
「ひゃっ、ひゃいっ。ごめんなさい!」
レニは首をすくめ、急いで食事の続きをした。
どうやらこの男が脅すのは、照れている時や面倒くさい時のようだと気付いたのは、それから随分経ってからである。