プロローグ
カタカタカタ……タン!
狭い部屋に軽快なタイピング音が響いた。
真っ暗な部屋に備え付けられた電灯は今は機能しておらず、この部屋の光源はただひとつ、男の視線の先にあるパソコンの画面だけだった。
男の周りには食べ終えたスナック菓子の袋や清涼飲料水の空ペットボトルが散乱しており、足の踏み場もない。
典型的なまでの汚部屋だが、その中にも一際整然とした一角があった。
ガラス張りの棚の中で愛らしく笑う少女達。
達、とは言ったが飾られているのは同じ少女のようで、様々な衣装を着て様々なポーズをとり、画面に夢中な男を一心に見つめている。
画面の前で何やら熱心にタイピングしていた男はようやく画面から目を離した。
「あ~……終わった。やはりマルチプレイは性に合わん。立ち回りに加えてチャットにも気を配らないといけないから面倒だ」
男が目を離した画面の中には勝利のポーズをとる美少女キャラクターと、その仲間達。
その近くには今しがた男が仲間と倒したのであろう巨大なドラゴンが横たわっていた。
何のことはない、オンラインゲームというやつだ。
男は大きく伸びをすると、再びタイピングを始めた。
「キリが良いので、落ちます。お疲れ様でしたっと」
男はゲームからログアウトすると、スマホやら携帯ゲーム機が転がるベッドへとダイブした。
肥満体の男がのしかかることで、ベッドのスプリングが大きく悲鳴を上げる。
男はバリバリと伸ばしっぱなしの黒髪を掻いた。
「……そろそろババアがくる時間かな」
男が呟くと、丁度その通りに男の母親が廊下から控え目に声をかけてきた。
「新人。ねぇ、今日凄く天気が良いのよ。散歩に行って来たらどう?きっと気持ちいいわよ?」
新人と呼ばれた男は顔を顰め、素っ気なく返事をした。
「行かない。忙しいから声かけないでくれ」
部屋の外でほんの少しの間母親の気配が残ったが、やがて諦めたようにパタパタと足音を立てて遠ざかっていったようだった。
新人は「はぁ」と小さな溜息をついた。
そして巨体をゆっくりと起き上がらせ、僅かな足の踏み場を通って少女の飾られた棚の前に立ち尽くした。
「ゆんたん……俺、こんなだけど良いよね?君はどんな俺に対してでも、笑ってくれるよね?」
新人がゆんたんと呼んで、大切に大切にしている美少女フィギュア達は、勿論新人の問いには答えない。
いつも通りに可愛らしい笑みを向けているだけだ。
「……なんだか眠いな。ゲーム、やり過ぎたかな」
新人は再びベッドに寝転がり目を瞑った。
様々なことが脳内をグルグルと回る。
ズラリと並ぶ就活の結果通知メール。
内容はいつも「誠に残念ですが」から始まる。
友達だと思ってた奴等は皆就職してから新人を相手にしなくなり、いつしか見下すようにすらなった。
それでも追い付きたくて、何度だって面接を受けた。
でも結果はいつも同じ。
それが数年続いて、あくる日の面接日、遂に新人は……。
声が出せなくなった。
大切な面接なのに、答えなくてはと思うのに、口は金魚のようにパクパクと動くだけで一向に音を発することはない。
面接官の「何をしに来たんだ」「やる気はあるのか」というような視線に押しつぶされそうだった。
帰り道も、周りから自分を責め立てるような声が聞こえた。
「働くことは国民の義務だ」「それができないなんて」「とんだゴミが歩いている」
そのような事、他人である新人に言う輩など居るハズはない。
幻聴だと、彼も理解はしていた。
しかし、そんな幻聴に苛まれ、更には面接では一向に出なかった声が面接会場を出た途端に出るようになったことが、彼を追い詰め、そして……。
その日を境に彼は部屋から出なくなった。
狂ったように食べ物を貪り、それをジュースで流し込み、現実では得られなかった自己承認を得るように寝る間も惜しんでゲームに没頭した。
(なんで……今更こんなこと思い出してるんだろ……もっと気持ちよく寝たいのに)
新人の意識は徐々に遠のいていく。
(ゲームではちゃんと職につけて、金も稼げて、沢山の人に必要とされるのに……な)
そこで新人の意識は完全に途絶えた。