プロローグ
人間の死体を見たのは生まれて初めてだった。
ましてや動く死体を見ることなんて一生ないと思ってた。ついこの間までは……。
「ぎひょあぶえええええ」
目の前で奇声を発しながら一人の女性が俺に向かって飛びかかってきた。くびれた腰に長い脚を持ったスレンダーな美女。そんな女性に飛びつかれたら男なら嬉しいものだが、俺は全く嬉しくなかった。
勘違いしないでほしいが、別に女に興味がないとかそういうことじゃない。だって彼女、片方の眼球は明後日の方向を向いてるし、もう片方なんて眼球ごと零れて視神経に引っ張られ鼻水みたいにぶら下げているんだから。
おまけに皮膚は全身の血管が破裂したみたいに斑の染みが浮かんで、右二の腕はべろんと皮が剥げ落ち赤い肉の層から白い骨が覗いているときてる。なにより異常なのは、それを彼女が全く気にしていないことだ。
気にしていないどころか、顎が外れそうになるくらい口を開き今まさに俺の喉笛を噛み千切ろうと襲い掛かってきているのだ。
俺は手に持った斧を振り上げると、彼女の脳天めがけて振り落とした。
「ぴぎょっ!」
斧の刃が彼女の黒髪を裂き、額まで深々と刺さった。同時に彼女のもう片方の眼球も飛び出し、裂け目から血がドロッと溢れた。
斧を引き抜くと、血が噴水のように昇った。彼女の頭部は左右にパックリ割れ、綺麗な黒髪が抜け落ちる。すると、断面から脳味噌がどんぶりをひっくり返したように零れ落ちた。ピンク色の脳味噌が地面に落ちると彼女はそれを踏み潰し、地面に倒れ込んだ。
「はあ、はあ」
俺は荒くなった息を整えながら、目の前の死体だったものを見た。今度は確実に死んだことを確認して、俺はやっと安堵の息をついた。
ふと俺は血だまりに映った自分の姿を見た。全身に返り血を浴びて手に斧を握り、美女の頭をカチ割った男がそこには映っていた。まるでそれが自分じゃないような、そんな気がした。
なんで俺はこんなことをしているのだろうか。
ついさっきまで、町には笑顔が溢れ祭りを楽しむ人々で賑わっていたのに、今では町に溢れているのは動く死体と血の海に浮かぶ贓物と鼻を突く糞の臭いだけだ。
「いやああああああああ!」
遠くで誰かの悲鳴が聞こえる。見ると、三軒先で一人の女性が襲われていた。相手は三体の動く死体だ。彼女は手に持ったホウキを彼らの頭に叩き付けていたが、彼らは全く意に介さず、彼女の手足を掴んでいく。
そして服を破き白い肌を露出させると、腹を空かせた野良犬が新鮮な肉にかぶりつくが如く彼女の柔肌を真っ赤に染めた。
「ぎいいいたたたああいィィ!」
絶叫が虚しく街路地に響く。彼らは彼女の皮を顎の力だけでを毟り取ると口の中で咀嚼して飲み込んだ。白い肌の下に隠されていた彼女の筋肉や血管が白日の下に晒される。彼らは休む暇なく次々に彼女の身体を貪った。
指を引き千切り、耳を引き千切り、眼球を抉り取り、口の中へ放り込む。最初は暴れていた彼女の足は次第に動かなくなり、僅かに痙攣したのを最後に動かなくなった。
その頃には、彼女は顔の皮膚ごと剥がされ両目があった場所は眼窩だけが広がっていた。雑巾のように引き裂かれた腹部からは小腸や肝臓といった贓物がデタラメに散らかっており、もはや彼女の面影はなくなっていた。
彼らは彼女の手足を骨ごと引き抜くとそれを咥えながらどこかへバラバラに去っていった。俺は物陰からそれをじっと見ていた。
しばらくすると、驚くべきことに彼女は起き上がった。といっても片足の欠けた彼女は素直に起き上がることができず、地面を這うようにして動き始めた。
「うへああ~ひひごほ~」
意味不明な快音を喉から発しながら彼女は町の中へ消えて行く。腸を引き摺りながら、ぽっかり空いた眼窩を覗かせ、彼女もまた彼らと同じように獲物を求めて動き出す。
俺はこんな光景をもう何度も見てきた。死者が生者を喰らい、そして歩く屍となって甦る。
これは悪夢なのだろうか。それともここが地獄なのか。
一体、この町で何が起こっているんだ。
思い起こせば、事の始まりはティオと祭りに行ったことだった。