アリーナの九号室
あれは暑い暑い夏のことだったでしょうか。
共働きの父と母、小学生の妹に中学生の弟、そして高校生の私。ものの見事にタイムテーブルの揃わない家族が珍しく平日にみんな揃ったんです。
せっかくみんな一緒なのだから、どこかに出かけようとなりました。なかなかこんなこと、ありませんからね。
というわけで、私が提案したんです。
カラオケに行かないかって。
家族はみんな、カラオケが好きです。私が小学生のときなんかは月一くらいで行っていましたね。
だから、誰も反対なんてしません。すぐさま、近くのカラオケ屋に行きました。まあ、近くといっても隣町ですが。ちょうど、私の通う高校もその町にありますね。
そこは平日の昼間なら千円そこそこと、とてもリーズナブルな価格でカラオケを楽しめるお店でした。一時間いくらとかではなく、特定の時間の間なら、何時間歌っても同じ金額なのです。
カラオケ屋にしては破格な値段であるため、地元の高校生などもよく部活の打ち上げなどで重宝していました。割り勘にしても手出しは一人三桁で済むんです。すごいでしょう? 私は部活で十人くらいで二部屋借りたんですが、そのとき割り勘で百二十円でしたもの。
お財布に優しいカラオケ屋の名前はアリーナと言い、地元の皆さま方にも親しまれております。今もありますよ。
家族でカラオケと言ったら、私たちもいつもそこでした。
みんな、久しぶりのカラオケなので、何を歌おうかなんて車の中で盛り上がっていました。私は一所懸命、どう曲選びをしたら家族と被らずに済むだろうか、なんて考えていました。アニソン好きなんですが、家族みんな同じアニメを見ているので、どうしても持ち歌が被っちゃうんですよね。
もう普段の鬱憤を晴らすがごとく歌う気満々でした。
さて、いい感じに気分が盛り上がったところで、アリーナに着きました。
店員に父が会員証を見せ、店員が空き部屋を確認しながらマイク二つと曲を入れるときの機械を二つ、かごに入れて準備しました。
そこまでは滑らかな動きだったのですが、空き部屋の番号札を取ろうとしたところで、ふと店員は動きを止めます。固まった、という方が的確でしょうか。
一瞬だったので、家族の誰も気にしませんでしたが。
「九号室になります」
店員はスマイル0円をちゃりんと言わせながら、かごを差し出しました。
「九号室だって」
「奥の部屋だね。入ったことないとこだ」
「ま、どこも同じ間取りだろうけど」
中学生のくせに冷めたことを言う弟はさておき、私は既に開いていた扉の中に入ります。
確かに弟の言うとおり、間取りは他の部屋と同じです。いち早く部屋に入っていきながら、私は他の部屋をちらりと見ました。どの部屋もお客さんが入っているようで、偶然この九号室が空いていたようです。
意外と混んでいるなぁ、運がよかったなぁ、と思いながら、私はかごをテーブルに置き、ソファに座ってみんなが揃うのを待ちました。いや、どんだけ浮かれていたんだよ、という話です。
みんなが揃ってから、私をトップバッターに順番に歌い始めました。
案の定、曲取り合戦になりました。母が「だってあたし、アニソン以外に最近の曲知らないんだもん」と私のレパートリーを侵蝕してきます。もちろん、弟も。
けれど、そんな程度で尽きるレパートリーではありません。家族内ですから、どれだけ古い曲を歌っても笑われませんし、笑われてもダメージは少ないのです。
妹は誰かれかまわず、自分の知っている曲が来たら"ずっと俺のターン!!"みたいにマイクを握っていました。私よりノリノリだったかもしれません。
さて、次は何にしようかな♪とだいぶ喉の調子が乗ってきた私は機械で曲検索をしていました。
私はカラオケの曲決めは複数人いるときは手早く回してしまいたいので、曲名検索をします。
歌おうと思っている曲の名前を思い出そうとなんとなく、弟が歌っている画面を見ました。すると不意に。
ぴぴっ
四曲目"赤い糸の伝説"
見たことのない曲の予約が入りました。
間違えて入れたのかしら? と私は手元に目を落としますが、画面はまだ一文字も入力されていない検索画面のままです。
もしかして、もう一つの機械の方かな、とそちらを見ましたが、もう一つの方はぽつんと机の端の方に置かれていました。
部屋の中に元々ある機械に直接入力するという方法もありますが、そんなことを誰かが歌っている最中にしていればわかります。誰も立ってはいませんでした。妹は歌ってもいないのにマイクを握って「あー、あー」などとマイクテストをして遊んでいますし、父も母も画面を食い入るように見つめています。今は弟のターンですから、弟はもちろん歌っています。
何だろうなぁ、と思いながら、私は自分の曲を入れました。きっともう一つの機械に一番近い母あたりが入れたのでしょう。なんだか母のこれまでの選曲とは雰囲気の違うタイトルでしたが、気持ちが盛り上がってきて昭和歌謡でも歌いたくなったのかもしれません。もしくは一番下の妹の悪戯かもしれないし。
そのときは演奏停止をすればいいだけ。
久しぶりに歌えてだいぶ気分が上がっていた私はほとんど気にせず、次の人に機械を回して安心しました。
"赤い糸の伝説"の不審さなんて、すっかり忘れてしまったんです。
……次の自分の曲が回ってくるまでは。
私の番の直前、やはり例の曲のイントロが流れ始めました。
誰もマイクを取ろうとはしません。
「誰が入れたの? 姉ちゃん?」
「まさか。私が昭和歌謡なんて知ってると思う」
「……言えてる」
「でしょ?」
そのイントロはベッタベタの歌謡曲でした。弟とそんな言葉を交わしながら父と母に目配せすると、二人ともきょとんと私を見つめ返してきました。
……あれ?
「あ、誰も入れてないのね。じゃ、演奏停止押すね」
みんなの反応を奇妙に思いながら、私は演奏停止を押しました。数十秒の間を置いて、私の選んだ次曲のイントロが流れます。
歌い出しに入り、Aメロ。
ぴぴっ
四曲目"赤い糸の伝説"
え。
と私は思いましたが、何も言わず歌い続けました。突っ込んではいけない気がしたのです。何故なら、部屋の空気が凍りついていたのですから。
サビ。
ぴぴっ
五曲目"赤い糸の伝説"
ぴぴっ
六曲目"赤い糸の伝説"
ビブラートを利かせた間奏部分。
ぴぴっ
七曲目"赤い糸の伝説"
二番、Bメロ。
ぴぴっ
八曲目"赤い糸の伝説"
さすがに、悪戯が過ぎると思い、後ろを振り返ります。
しかし、私は何も言いませんでした。
みんな唖然としていたのです。あんなに騒がしかった妹まで、マイクを置いて。
そういう感の鋭い父なんかは真っ青になっていました。
曲検索をしていたらしい弟はタッチペンを机に転がしたまま、食い入るように画面を見つめています。
母が唯一、動きました。
「お父さん寒い? エアコン止めようか」
「ああ、頼む」
二番の間奏が終わり、Cメロ、そして最後のサビ。
ぴぴっ
九曲目"赤い糸の伝説"
……まじですか、と私は嫌な汗を掻きながら、歌い終えた。
次の母にマイクを回し、私は誰も触れようとしない検索機に手を伸ばす。
誰も歌わないことが明白の"赤い糸の伝説"。誰かが誤って入れたのなら、予約履歴から取り消し処理をすればいいのです。それで解決すると、私は思っていました。元々カラオケベビーユーザー一家ですからね。妹以外はみんなわかっていたと思います。
だから、自分の番でもないのに機械に手を伸ばした私に誰も何も言いませんでした。
予約履歴。
ぴ、と押して、その機械から送信された履歴が出ます。
…………
…………
…………
嘘。
"赤い糸の伝説"の"あ"の字も見つからない。
まさかね。
私はもう一方の機械から送信されたのかもしれないともう一つも同様に調べる。
ぴ。
予約履歴。
……………………ない。
"赤い糸の伝説"がない。
絶句する私を嘲笑うかのように、ぴぴっと画面から音がしました。
九曲目"赤い糸の伝説"
冗談でしょう?
誰に投げたらいいかわからない思いを抱え、私は二つの機械を見下ろします。
当然、画面には"赤い糸の伝説"などという曲名はありませんでした。
なかなか恐ろしい現象に遭いながらも、"歌い意地"を張ったと言いますか。その後三時間歌ったんですよね。
やけくそというか、開き直ったというか。度々入ってくる"赤い糸の伝説"には淡々と演奏停止。そんな感じで乗り切ったんです。
合計で二十回……とまではいかないまでも十五回くらいは"赤い糸の伝説"に割り込まれました。
さすがに帰りに店員に報告しましたよ。
来たときと同じスマイル0円な店員が会計に出てきました。会計後、父が「予約していない曲が勝手に入ったんですが」と言うと、店員は小さな小さな声で。
「やっぱり……ですか」
そう呟きました。
どういうこと? と私は思いましたが、他四人は疑問を口にすることもなく、店を出て行きます。私も慌ててついていきました。
一度だけ振り返ると、スマイル0円の店員の顔は翳り、かごの中の"9"と書かれた番号札を見下ろしていました。
後日。
蒸し暑い学校の図書室で、納涼にと文芸部員で怖い話を繰り広げたときにその話をしました。
すると、その町に住む同級生が、「ああ、アリーナね」と納得したように頷きます。
「え、やっぱなんかあるの?」
オカルトにそれなりに通じているその部員の言葉に私は顔をひきつらせながら聞き返しました。
部員はさらりと告げます。
「ああ、あそこ、昔は墓地だったってさ」