臓器くじ
「はあ……。どうして、こんなことになっちゃったのかなあ」
最初はただの海外修学旅行だった。
だが、突如として事故が起こった。乗っていた船に塞ぎようのない穴が開いてしまったのだ。ぼくたちの班は急いで救命ボートに乗って船を脱出し、しばらくの間大海原をさまよった。だが、この救命ボートにはエンジンがついていなかったため、オールでひたすら漕ぐしかなかった。さまようこと三時間、幸いにもこの小島にたどり着いた。
島に漂着したぼくらはとりあえず何人かに分かれた。十人いるうちの四人が島の奥を調べ、五人がその森の外側を調べる。そして、残りの一人が救命ボートの留守番を務める。で、ぼくはその一人に選ばれて救命ボートの留守番をしている訳だが。
「暇だなあ」
いや、この人選に文句を言う気はない。
森を調べるのは四人の男子。
皆藤数多。
野球部のキャプテンを務めており、非常に活力あふれる人間だ。この十人のリーダー格でもあり、発言力が最も高い。しかも、人の言葉に耳を傾ける器量もあるので理想のリーダーに呼ぶにふさわしい人物。
永崎透。
無口。とにかく、無口。しかも能面のように全く表情が変化しない。成績は悪くないのだが、まともな会話が成り立たない。だから、彼が何を考えているのか誰にもわからない。
伯方導。
機械のようにストイックで普通の人には一種近づきがたい空気を醸し出している。といっても、会話自体は普通にできるし、彼のそんな性格に尊敬の念を禁じずにはおられない。感情を意思の力で完全に制御できる、珍しい人間だからだ。
夜刀浦渚。
彼を一言で表すのなら、その本質は『トリックスター』。周りの空気を善も悪も真も偽も関係なく引っ掻き回すお調子者でありながら、他とは全く違う新しい側面からものごとを見ることができる知恵者。彼なら良かれ悪しかれぼくらの思いつかないことをやってのける。
(いささか性格に難があるものの彼らなら問題ないだろうな)
次に森の周りを調べるのは五人の女子。
指原奏音。
クラス一の美少女。と言えば聞こえはいいだろうがぼくに言わせれば女狐だ。人を化かす女狐だ。意図して可憐に装い、計算づくで周りへ影響を与える。用紙の良さは認めるが、性格は最悪だ。
小鳥遊真姫。
おっとりとした天然。指原が嘘で模られた紛い物だとするなら、こちらは敢然な自然物。ただし、天然であるが故に自分の行動が周りに対して及ぼす影響に対して無自覚だ。長所と短所は表裏一体。ままならないものだ。
薪木香雅里。
ヒステリックで神経質。被害妄想も強く、コミュニケーションは成立するもののかなり面倒くさい人物だ。彼女の逆鱗に触れたら最後、ストレスが発散されるまで烈火のごとく怒り続けるのだ。
埒見甘楽。
性格は薪木とよく似ているが、一つだけ決定的かつ圧倒的に違うところがある。ヒステリーを爆発させると薪木は直情的に怒るが、埒見はねちねちとしつこくいびるのだ。
若草椿。
精神病を抱える少女。非常に脆い精神をしており、すぐに自分を責める。さびしがり屋でありながら人と触れ合うのが怖いという矛盾した性格だが、彼女はぼくにだけよく懐く。彼女曰くぼくは『無意味な干渉や無理解な忠告をしない、そこにいるだけの存在』らしい。
そして救命ボートの留守番に一人。
このぼく、青木ヶ原巧だ。
「暇だなあ……」
こんなときには、本を読むのが一番だ。
そう言えば、この本にはこんな単語があった。
『臓器くじ』。
『臓器くじ』とは『人を殺してそれ以上の人を助けるのはよいことなのか?』という思考実験。
公平なくじで健康な人をランダムに選んでその一人を一人を殺し、その臓器を全て取り出して臓器移植が必要な人に配る。このくじによって、一人は死ぬがその代わりに臓器移植を受けた数人は助かる。
以下、その考察。
事故に遭って死ぬことより積極的に殺す方が罪は重いのではないか。いや、臓器が必要な人をそのまま死なせるのは見殺しと同じことであって、移植しようがしまいが殺す結果となってしまうのではないか。
いつ臓器を奪われるのか分からない状況に怯えることになる。いや、多数の人から無作為に選ばれるのなら、病気や事故に遭って死ぬ確率がほんの少し増えるのと変わらない。それを受け入れるのであれば臓器の移植を受け入れない理由はないのではないだろうか。
生死は天命が決めるものであって人が決めるものではない。いや、臓器を移植せずに死なせることも同じように誰が死ぬべきを決めることではないか。
こうした社会制度の下では、臓器を提供する側から除外されるような人々が競って不健康になろうとする、モラルハザードが起こるのではないか。いや、不健康になれば自分が病死する可能性も高まる。また、臓器を提供できる人間の基準が引き下げられるだろうから、長期的に見れば自身の健康をあえて損なうことの価値自体が薄れるのではないだろうか。
臓器提供はやりたい人がやればいいのであって、九時だからと言って臓器を提供したくもない人が強制されるのは人権侵害ではないのか。いや、死ぬ人数が少ない人の方が多くの人権を保護することになるのではないか。
社会全体としては、臓器移植が必要な数人の重病人の生存よりも健康な一人の人間の生存の方が有益なのではないか。いや、健康な一人の人間が社会全体に与える損益は、その個人の生命活動そのものとは無関係なのではないか。また、移植を受ければ健康状態は格段に改善するのではないか。
臓器くじに超一流の芸術家やスポーツマンが当たった場合どうするのか。いや、臓器をもらう側も超一流の芸術家やスポーツマンである場合もあり得るし、提供する側が凶悪な犯罪者である場合もあり得るのではないのか。
どちらとも言い切れない。
証明はできない。
答えなんてない。
「おーい」
みんなが戻ってきた。
(しかし、早いな)
時計を確認すると午後五時過ぎ。この島に着いたのがだいたい午後五時だから一時間近くで戻ってきたことになる。
「よし、みんな集まったな。では、捜索で得た情報を公開してくれ。まず男子からだ。伯方、頼む」
「わかりました。とりあえず森の中ではウサギなどの小動物を発見。察するに、彼らには天敵となる大きな動物も病気も存在しないようです。また、植物に関して言うと私の背丈より少し高いくらいでした。だいたい二メートルといったところですか。食料としてキノコがあったし、飲み水を得るための泉もありました。言うまでもなく、海水ではなくちゃんと飲める淡水でしたよ。報告は以上です」
「報告ありがとう。誰か補足説明をするやつはいるかな?」
「はい」
「おお、渚」
「キノコの毒の有無は永崎くんが教えてくれるらしいぜ」
「じゃあ女子から」
「はい」
「じゃあ指原」
「私たちがこの島の外周を一回りしたところ、およそ一時間で一周できたわ。ということは、この島はそこまで大きくないのよ。あと、一周してわかったけれど、この島の形はほぼ丸ね。途中、まっすぐなところもあったけれど、楕円に近い。浅瀬もあまり広くなかったし、魚が泳いでいる様子もなかった。だから、潮干狩りとか魚とりとかはたぶん無理ね」
「わかった。じゃあしばらくの間は森で小動物や植物をとって生活することになるかな。今日に関して言えば、我慢してくれ。えっと、食料についてはこのくらいにして他の議題は?」
「どこで寝るの? あと、トイレは?」
「あ、そうだな。小鳥遊。寝る場所は個人の好きな場所で。ただし森の外。あと、トイレは男子一同が男女二つの穴を掘るってどうだろう」
「賛成」
「賛成」
「賛成」
「……」
「賛成」
「賛成」
「賛成」
「賛成」
「賛成」
「よし、ならこれで問題な! 解散! もう日が沈むから男子は急いで穴を掘ること!」
皆藤の指示に従って男子が後に続く。と思ったらさっそく夜刀浦が逃げたようだ。そして永崎くんは暗手のニートスタイル。座っているだけが動こうとしない。
「……しかたない。三人でやりますか」
「まあここまでは予想済みだな」
「別に私は構いませんが」
「じゃあどこに穴を掘るのかを決めようか」
「わかりやすい場所にあるけれどプライバシーが保障されないとだめだよね」
「うーん」
「なら、あれなんかどうですか?」
伯方が指差したのは森の中で特に大きな木。なるほど、確かにあれなら誰でも迷わずにたどり着けるだろう。それに森の中だからそう簡単に見えないだろうし、まさに最適な場所だ。
「よーし、そこで決定でいいな」
「賛成」
「賛成」
「じゃあ行くか」
皆藤の一言でぼくらの足は動き出す。
「ところでさ、もし仮に極限状態になったらどうすると思う? 例えば、倫理の『臓器くじ』みたいなことが起こったら」
さりげなく聞いてみた。だが、明確に納得できる答えは存在していない。百人いれば百通りだろう。あくまでも参考までにしかならない。
「『臓器くじ』かあ。俺だったら……」
「俺だったら?」
「俺だったらまず自分を差し出すな」
「自分を差し出す、かあ」
皆藤の答えは『自己犠牲』。皆藤らしい答えだ。確かに合意の下による死であればくじによって選ばれて殺されるよりましのように思える。だが、それは偽善であり、欺瞞でしかない。少なくとも社会全体が清く正しく美しい道を歩んでいる訳ではない。むしろ、清く正しく美しい道を歩んでいる人間が選ばれて殺され、濁って歪んで醜い道を歩んでいる人間が助かる可能性の方が大きいかもしれない。
「皆藤らしい綺麗な道ですね」
「いや、俺はそんなに正しい人間じゃないさ。ただ、正しくありたいだけの理想主義者だ」
確かに皆藤は理想主義者だ。だが誰かにその理想を押し付けるようなおこがましい真似はしないし、その理想が現実とは程遠いことを知ってなお理想に準じようとする人物だ。ただの夢追い人とはそこが違う。
「お前はどう思う? 伯方」
「そうですね。私だったら有能な人間を臓器くじの対象から除外しますね」
『有能な人間が除外される』とは『それ以外の人間から選ぶ』ということだ。なるほど、利には適っている。しかし道からは外れている。全ての人間を平等として扱わずに一部の人間を特別扱いするということはそういうことだ。
「お前らしいな、その冷めた考え」
「合理的なだけです」
伯方は皆藤の対極ともいえる現実主義者だ。そして、全体のためには個人を犠牲にできる。時には、自分そのものうらも犠牲の対象だ。
だが、二人には共通点がある。
皆藤は自分を犠牲にした。すなわち、自分よりも他人の方が優先度は高いということだ。つまり、優先順位が低い自分を切り捨てている。
対して、伯方は能力値が高い人間を優遇してそれ以外の人間を切り捨てている。
誰かを切り捨てなければならないという点で両者は共通している。
「結局、誰かを犠牲にしなければ誰も救えない、ってことか」
誰もが平等に幸福を得ることはできない。『臓器くじ』とは理想と現実の相違そのものなのだ。
「着いたぞ」
皆藤のその一言で現実へと立ち返る。サテ、問題は掘る手段だが、スコップの類は持参していない。
「とすると、手で掘るのか」
「そうだな」
「そうですね」
誰が始めたのかはわからないが、ぼくたちは特に合図もなしに地面を掘り始めた。誰も文句や冗談を言わずにただ黙々と犬のように掘った。
十分ほど経っただろうか。やっとある程度の大きさの穴が二つ出来上がった。すると、伯方がポケットからナイフを取り出した。
「おい、どうしたんだ。そのナイフ」
さすがにいつも冷静な皆藤でも突然現れたナイフに驚きを隠せない。しかし伯方はいつも通り抑揚のない声で「ああ、これは土産屋で買ったんだ」と言った。ぼくも買ったけどね。そして、木に『男子用』『女子用』と印をつけ、すぐにポケットの中にナイフを戻した。
「これで完成でしょ?」
「ああ、そうだな。よし、解散!」
皆藤の一言でようやく作業から解放されて、ぼくは背伸びしながらゆっくり森から出る。
「やれやれ、やっと終わったか」
やっと一人きりになれると思った次の瞬間
「青木ヶ原くん!」
若草に抱きつかれた。
こいつは二人きりになると突然大胆になる。前もバレンタインデーで割と手の込んだデコレーションチョコケーキを渡してきたし、毎日弁当まで作ってきてくれていた。で、その作ってきてくれた弁当を二人で食べることもあった。そう考えるとこいつは二人きりでなくともかなり大胆なのか。
「あの……あのね、一緒に寝ない?」
「いや、それは大丈夫なの?」
「大丈夫だよ、『好きなところで寝ていい』ってルールなんだから」
まあ、言われてみればその通りだ。ルールには何も抵触していない。常識からは外れているが。
(それに、こいつはぼくがいないと自傷行為をしてしまいかねないからな。ぼくとしてもそれは嫌なのでここは素直に従ってやると)
「そうだな」
「やった!」
若草が飛び上がりそうなほど喜ぶ。本当にこいつは単純だ。ぼくの前ではまるで赤ん坊のように素直になってくれる。
「どこで寝る?」
「ここでいいかな」
ぼくは、そのまま砂浜に座り込み、横になる。来ていた学生服を一度脱いで布団のように体に掛けた。若草もぼくに倣って砂浜に腰かける。横になるとすぐに眠くなってしまった。やはり心労が積み重なっていたのだろうか、隣を見ると若草はもう眠っていた。こいつの場合はもとから過敏な心なのだ。こんな異常な環境の中に置かれたストレスはぼくの何倍か計り知れない。
「……寝るか」
こして漂着の一日目が終わった。
朝、目が覚めると隣に若草がいなかった。
「若草?」
返事はない。
あるのは孤独な静寂のみ。
あいつはここにいない。
あいつの温もりは、ここにない。
ぼくは嫌な予感が湧きだすのを感じてその場から立ち上り、森の中へと走り出す。
「若草!」
鬱蒼とした森の中は植物が生い茂っており、道標となるべき光は木々の隙間からわずかに漏れ出ているだけだ。その中を訳も分からずぼくは走る。木々の枝がぼくの行く手を阻むように絡みつく。ぼくは鋭い痛みを覚えるが、ぼくの足を止めることはできない。走って走って走り続けて、足が棒になるような感覚に襲われながらもまだ走る。
地面のちょっとしたぬかるみに足を取られてそのまま体の重心を崩して転んでしまい、湿気を含んだ泥が学生服にまみれてしまう。
立ち上がるとそこには。
「若草……」
若草がいた。
三メートル以上ある一際大きい木。その木の枝に縄で吊るされていた。顔は重力に従って生気を失った目で地面を見つめていた。顔色は土気色へと変容し、まるで人形のように力なく、開いた口からは舌がだらしなく漏れ出ていた。
いわゆる首つり死体。
どこからどうみても確実に死んでいる。
誰がどうやっても絶対に生き返らない。
「若草!?」
背後から声が上がる。ふりむいて見ればそこには皆藤がいた。動揺を隠せない皆藤はぼくに近付きながら言った。
「状況が、つかめないが」
「ぼくにもわからないよ」
「そうか」
「とりあえず下ろしてあげようよ」
「そうだな」
ぼくたちは協力して、皆藤が木に登って若草の首にかかる縄をほどいた。そして、落ちてきた若草をぼくが抱き止めた。
(意外と、軽いな。いや、軽く『なった』のか)
人間は死ぬと軽くなるらしい。重さの減ったそれが何によるものかはわからないが、ぼくには思い出の重さのように思えた。
それから、手頃な場所に死体を埋めた。
「さあ、みんなのところへ行こうか」
「……ああ、そうだな」
だが、ぼくは見逃さなかった。
若草の首の傷。それは明らかに縄によるものではなかった。
これが指し示すことは、若草の死は自殺ではなく他殺であるということだ。
だが。
(わからない)
誰が?
ぼく以外であることは明白だ。それに、あいつの死は自殺じゃないから若草自身が犯人である可能性も除外される。だが、この十人の中に人殺しがいるとは到底思えない。
それに、どうやって?
首の傷痕から察するに誰かに首を絞められたのだろうか。しかし、理解に苦しむ。あいつはぼくの隣で寝ていた。それをどうやってぼくに気づかれずに殺してあの本の場所まで動かしたのか。
そして、どうして?
どうして、若草であった必要があったのか? わざわざあいつを狙う必要はどこにもないはずだ。
何もかもわからないままだ。ただ一つ分かっているのことはぼく以外の全員が怪しいという身もふたもない事実だけ。
そうこうしている間に森を抜けた。
「あ、皆藤。どこに行っていたの?」
と猫なで声を出しながら指原が皆藤に声をかける。
「ああ、その、なんだ。みんなを集めてくれ」
真剣な様子が伝わったのか、指原はすぐにみんなを集めてきた。
「私たちを集めてどうするんでしょうか? 皆藤は」
伯方は事務的な口調を変えない。
「きっ、きっと、また何か命令、するのよ」
埒見は神経質に言う。
「…………」
永崎くんはいつも通り口を動かさなかった。
「真姫は、お腹すいたなー」
小鳥遊は空気を読まず相変わらず場違いな発言をしていた。
「なんでもいいから、さっさと終わらせてほしいものね!」
薪木はヒステリックに喚き散らす。
「まあ、香雅里。ここは我慢してくれよ」
夜刀浦は香雅里をなだめている。
「みんな、とりあえず聞いてくれ」
皆藤の一言でみんなの視線が皆藤に集中する。全員、ただならぬ雰囲気を直に感じて場の空気が自然と引き締まる。
「……若草の死体を見つけた」
みんながざわつき始める。半分の人が信じられないという顔をしていた。残り半分はパニックで何が何だかわからなくなっていた。
「それは、ほ、本当に死んでいたの?」
「俺と青木ヶ原が確かめた」
「死体はどうしたの?」
「既に埋めた。掘り返さないでやってくれ。その……安らかに眠ってほしいからな」
いつもは明るくみんなを引っ張っていく皆藤の重苦しい表情に場を包んでいる空気もまた重たく苦しいものへと変わる。
だが、薪木の発言がその沈黙を破る。
「要は、この中に人殺しがいるかもしれないってことでしょ!?」
「いや、若草が他殺という訳では……」
「でも、可能性があるんでしょ!?」
「それは……」
「そもそも、おかしいと思わないの!? みんな、この島に来て一度もこの島から脱出したいって言わなかった!」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「だったら、私はもうこんなところにいられない! 個人行動を取るわ!」
勢いを失った皆藤ではスイッチが入ってしまった薪木を止められない。
(無理もない)
生の首つり死体を見てしまったのだ。普通の人間なら卒倒してもおかしくないだろうに、まともな会話が成立するだけ皆藤は強いのだろう。
「わりーが、香雅里を一人にはできねーからな。行かせてもらうぞ」
夜刀浦が珍しく真剣な表情で言った後、薪木の後を追った。薪木の離反と夜刀浦の暴走。この二つの事実に残ったぼくらはただ呆然とするしかなかった。
森から集めた草木で作った寝床に入ると心が沈み込む。
若草は死んだ。
それは事実。
そして、いまだにあいつを殺した犯人は誰だかわからない。
「皆藤か?」
いや、あいつはみんなをまとめようとしている。そんなやつがわざわざ混乱を好んで行うだろうか。
(けど、真面目な人間ほど何を考えているのかわからない)
「指原か?」
あれほどの女狐なら、計画的に殺すことも不可能ではないだろう。それに、やつとぼくはお互いに蛇蝎の如く嫌い合っていた。
(けれど、人を殺める理由がそんなものなのか?)
「小鳥遊か?」
あのおっとりした小鳥遊に潜む一面。
(ゴシップ誌としては上出来だけど、信憑性はかなり低い)
「永崎か?」
いや。その可能性はなさそうだ。
彼はいかなる時でも理に適うことしかしない。感情に支配されることはない。殺すなんて非合理なことはしないだろう。
(もっとも、他人を完全に理解することもできないから、否定しきれないけど)
「薪木か?」
あの怒り。だが、人を殺すにはまだまだ足りない。
「夜刀浦か?」
あいつの考えだけは全く理解できない。納得もできない。だが、面白半分で人を殺すほど破綻した人間でもない。犯人の確率は半々といったところか。
「埒見か?」
あのヒステリックな態度。衝動的な殺人を犯してもおかしくはない。
(だけど、動機としては弱い)
「若草か?」
いや、それだけはありえない。
それだけはない、と願いたい。
「結局、全員怪しい」
だが、誰が犯人であろうとぼくは若草を殺した犯人をきっと見つける。
その決意を強くした。
朝が来た。
「眠い」
寝起き特有のだるさで頭がうまく働かない。何か夢を見ていたような気がするし、そうでなかったような気もする。どうも頭がうまく働かない。
「散歩でもするか」
とりあえず島の外周を一回りする。そう思ってぼくは歩き出した。ふらついたその足取りは重く、まるで十字架を背負う罪人のようだった。恐らくまだ若草の死がぼくの心にのしかかっているのだろう。
「ん」
突然足に触れる奇妙な感触がぼくを現実に引き戻した。
「なんだ?」
人がいた。
うつ伏せになっていて顔が見えないが、体格からして男性だということだけは分かった。不審に思って男を動かす。
すると。
「夜刀浦、渚……」
男は夜刀浦渚だった。
砂浜に打ち上げられた魚のようにぐったりしていて生気がない。腕に触れてみると完全に硬直していてもはや生物と言えなかった。
普通なら、ここで悲鳴を上げるべきなんだろう。そうでなければ、死の恐怖のあまりに吐くとかが妥当な選択か。
(……だけど)
何故か、そんな気はしなかった。もっとも、決して事実を受け入れられないほど精神が麻痺していた訳ではない。友人の死という事実は受け入れられても『悲しい』という感情は湧き出なかった。不思議と、同情も憐憫も何もない。
(いや、何も不思議じゃないか」
これがぼく。
青木ヶ原巧の在り方だ。
「ところで、なんで夜刀浦がこんなところで死んでいるのかな」
いくつかの可能性が浮かび上がる。
一つ目は、夜刀浦自身が夜刀浦を殺した可能性。つまり、自殺だ。
だが、夜刀浦はそんなやつだったろうか。恐怖に負けてしまうというのとは最も縁遠そうな人間だ。かといって、こいつが事故で死んだというのも考えづらい話である。
二つ目は、薪木に殺された可能性。
一つ目に比べたら現実味があるが、あまり可能性は高くない。
そして最後。
そのどちらかでもない第三者に殺されたという可能性。
確かにこんな環境なら寝込みを襲われても抵抗できない。つまり、誰でも簡単に殺せる。そういう意味では、誰もが同じくアドバンテージを所有している。
(だが、確証がない)
「あれ?」
死体をよく観察すると、あることに気付く。
傷。
歪な傷が、背中にあった。
それも枝にひっかかってできたようなものではなかった。もっと鋭いもの。刃物によるものだ。
つまり、背中に刺し傷があるということは自殺の線はなくなる。
「そうなると、他殺か……。ん?」
そこからさらに何歩かあるところにもう一つ死体があった。
「これは、薪木か」
薪木の死体も夜刀浦と同じだった。どうやらお暗示手段で殺されたらしい。
二人とも死んでいるが夜刀浦の背中の傷より同士討ちではないことがわかる。とすると、二人以外の第三者による犯行か。
(だが、それ以上考えても無駄だ)
そう考えて再び歩き出すと。
「あれ、どうしたの?」
声をかけると伯方と埒見が一斉にぼくを見る。
伯方はいつも通り、機械のような無表情を保ったままだった。
埒見はヒステリックな顔をさらに歪ませ、ひきつった笑顔を浮かべた。
(いや、ちょっと待て。おかしい、二人?)
「え、エエ、ある意味その通りね」
埒見はひきつった顔で皮肉に笑う。それは、気の利いた冗談というよりもただただ人を不愉快にさせるブラックジョークに近い印象を与えた。全く要領を飲み込めていないぼくに伯方が極めて事務的かつ論理的に補足説明する。
「皆藤さんと指原さんが殺されていました」
「…………」
ぼくらの足元にある死体は確かに皆藤と指原だった。どちらも頭には陥没痕があり、頭部への衝撃が死因であることは明白であった。また、死因から考えて自殺はありえないだろう。
しかし。
ここにきてもぼうには二人の死に何か感情を持つことができない。確かに生きている時の皆藤とは友達だったし、指原とは互いに嫌い合っていてもそこその距離を保っていた。だが、二人の死体が今目の前にあっても全く動揺しない。
と、そこで違和感に気付く。
「そうだ、他の人たちは?」
「あいつら、は、ゆ、ゆ、ゆ、行方不明、よ。あいつらが、二人を殺したのよ」
「……そう」
ぼくは手元から懐に潜ませていたナイフを取り出し、近くの埒見の喉笛を切り裂いた。
埒見は何が起こったのか理解できずに倒れ込み、声も出せずに悶え苦しんだ。
だが、伯方は眉一つ動かさない。まるで虫を潰したような、そんな反応だった。
「邪魔な埒見には消えてもらった。さてこれでふたりきりだ」
彼にぼくは声高々に宣戦布告する。
「伯方。いや、真犯人」
「なんのことです?」
怪訝な顔をする伯方。だが、ぼくは確信する。ぼくの証明が正しいことを。
「とぼけるなよ、伯方。君があいつらを殺したんだろう?」
「証拠は?」
「証拠ねえ? 強いてあげるなら死体の状態かな」
「……」
「こんな島でなら、寝込みを襲えば誰でも簡単に殺せる。ここでね、君は一つミスをした。たった一つのミスだけどとても致命的だった」
「……」
「それに凶器。死体には背後からの刺し傷があった。君は一度だけナイフをぼくと皆藤に見せてくれたよね? そこから考えれば君が犯人であることは自明の理だろう」
もちろん、嘘だ。ブラフだ。だが、まんまと引っかかってくれた。
「……そうか。そんなミスを……。けれど、ぼくには理解できないことが一つだけあります」
「なあに?」
「確かに私は若草を殺し、薪木と夜刀浦も殺しました。小鳥遊や永崎も。ですが、皆藤と指原については私ではありません。まさか、あなたがあの二人を殺したのですか?」
「まあね」
「なるほど、これで納得しました」
ここで、一つ疑問を投げかけてみる。
ずっと気になっていた、一つの疑問を。
「……そもそも、君はなんで人殺しなんてことをしたんだ?」
「動機ですか?」
彼のその行動に何の意味があり、何の動機があったのか。ぼくには、それが理解できない。
「アナタハン島の女王事件を知っていますか」
そう言って彼は語り出した。
三十二人の日本人は当初、全員でアナタハン島において共同生活を送っていた。しかし、そのうち全員が一人の女性を巡って争うようになり、一九四五年八月の停戦までに行方不明者が二人出た。米軍は拡声器で島の住人達に日本の敗戦を知らせたが、アナタハン島に住む日本人は誰も信じなかった。
一九四六年八月、彼らはB‐29の残骸を発見し、残骸の中から発見された四丁の拳銃を組み変え、二丁の拳銃が作られた。これ以降、銃の存在が権力の象徴となり、以来女性を巡って、男性達の間で公然と殺し合いが行われるようになった。
この後、米国船の救出によって女性が脱出し、翌年には生き残った男性十九人も救出された。この事件で死亡した男性は行方不明を含め十三人にのぼった。
「よくそんなことを知っていたね」
「賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ。それだけのことですよ」
「で、何が言いたい」
「人間という生き物は弱いんです。倫理も道徳も法律もない閉鎖空間に閉じ込められれば理性は簡単に消し飛んでしまう。つまりはそういうことです。だから、私は……」
「だから?」
「人数を間引いて死の恐怖を与え、安定を与えようと考えたのです。もっとも、この計画で最も重要な位置を占めていた皆藤と指原をあなたが殺した時点で計画は破綻していたんですけど」
「そいつはどうも」
「もう一つ疑問です。あなたはどうして殺したんですか?」
「動機、ね。ただの復讐さ」
「復讐?」
「そう。若草を殺したの、君だよね?」
「ええ、そうですが……。解せませんね。あなたは復讐とは最も縁遠い人間だと思っていました」
「……」
「むしろ目障りな人間が消えてせいせいするかと」
「…………………………………………………………」
長い沈黙の後、ぼくは口を開く。決して言わなかったぼくという存在の在り方を。
「ぼくは、幼い頃から人間というやつがわからなかった。なぜ、他人を救う? 他人がいる? なぜ、愛を求める? なぜ憎む? ぼくにはわからない。ぼくにとって他人とは全て平等に価値がない有象無象であり、ぼくの世界にはぼくしか存在しない。だから、誰かに何をされても構わなかったし、他人に愛されても何とも思わなかった」
「ならば、若草が死んでもよかったのではないでしょうか?」
「そうだね。いつものぼくなら、そうしただろう。ただし、若草は格別にして別格だった」
「あなたの本質はわかりました。ですが、だからこそ理解できない」
(ああ、そうさ。このぼく自身が、自分が人並みのことを考えていることに驚いているんだから)
確かに伯方の言う通り、この怨嗟はぼくの歪んだ人生観からも逸脱している。
(だけど)
だけど、この気持ちを譲る気はない。
「アレは……」
強く。
強く主張する。
(人でなしの理論でも構わない。ぼくの気持ちは本物なんだ)
「アレは、ぼくの所有物だ。それを、君程度の人間に奪われてしまうというのは、ぼくにとってとても嫌なんだよ」
伯方は溜息をつきながら懐から凶器のナイフを取り出す。ぼくもそれに応じて凶器を取り出す。
戦いの火蓋は切って落とされる。
それから。
左耳は切り落とされた。右目は抉られた。右腕の関節は砕かれ、鳩尾にも刺されている。それだけの傷を得ながらも辛うじて生き残ったぼくは、花を摘んだ。
(そう言えば、あいつは自分の名前と同じ椿が好きだって言っていたっけ。でも、椿って花が丸ごと落ちてまるで首を斬り落としたみたいで不吉なんだよね)
「ったく、縁起が悪いじゃねーか」
ぼくは椿の花を集め、花束にする。送る相手はもうこの世にいないのに。
(なんだろう。この気持ち)
「ああそうだ」
意識が朦朧としながらもぼくは言った。これだけは言わないと死ねないと思った。
「お前になら……お前に奈良、臓器を、くれてやってもよかったなあ……」
ああ、もうだめだ。口から言葉を出すことすらできない。意識も限界だ。
(ああ、そっか)
これが『好き』ってやつか。
「はは……ははは……」
意識は朦朧。身体もずたぼろ。とても声は出せない。けれど、ぼくは高らかに笑う。
高らかに。
朗らかに。
もう未練はない。
「はは……ははは……」
ぼくの意識が遠のく。だが悔いはない。
(人でなしのぼくとしては、幸せな、最期、か)
「ははははは……」