誕生日
「にーに、きょう、さむいね」
「そういえば今夜は雪が降るって天気予報のお姉さんが言ってたな」
目の前の横断歩道の信号機は赤だ。今年六歳になる妹の凛は先程すれ違ったゴールデンレトリーバーを興味津々の様子で目で追いかけている。そんな凛の顔を横目に軽くしか繋いでいなかった手を握り直した。再び信号機に目をやる。まだ赤だ。此処の信号は変わるのが遅かったっけ。前の交差点の横断歩道を渡っておけば良かった。
何気なくポケットから取り出した携帯端末がメールの受信を告げる色のランプを点滅させていた。何度か画面をタップし、メールアプリを開く。
帰りついでに牛乳と凛のおやつを買ってきて。
母からだった。
「凛、母さんがお使いしてほしいって。スーパー、一緒に行こっか」
「いく!なにかうの?」
「凛が朝に全部飲んじゃった牛乳と、昨日全部食べちゃったおやつ」
「りんのおやつ!」
大好きなおもちゃを目の前にした犬のように飛び跳ね、繋いでいた手を離して走り出した凛を捕まえて手を繋ぎ直した。
ありがとうございましたー、という挨拶を背に、頼まれた牛乳と、凛のおやつが入ったレジ袋をぶら下げてスーパーを出る。母にお使い任務完了、とメールの返信を済ませた。ご苦労、といった返事がくるかと携帯端末を手に持ったままだったが、返事は来なかった。
「にーに、かえったらケーキあるかな?」
「今年はね、母さんの手作りだって。チョコレートクリームのケーキだって言ってたよ」
「チョコ、りんだいすき!」
「イチゴもたくさん乗ってるやつだといいね」
「イチゴもすき!」
凛の話す、今日幼稚園で起こった出来事などを聞きながら交差点の横断歩道を渡り、散歩中の犬に出会すことなく家路を辿った。
自分が通う高校から徒歩二十分の場所にある、父が二十五年ローンで買った一軒家。それが僕の家だった。
家に辿り着くと、ガレージにはいつも帰りが遅い父の車が停められていた。今日が、僕の十六歳の誕生日だからだろうか。父は、家族の誕生日にはどれだけ仕事が大変でも、終わらせて早く帰ってくる人だった。インターホンを鳴らした。母が「遅かったね」なんて言いながら鍵を開けて出てきてくれる。僕が「母さんのお使いのせいだよ」なんて軽口を叩きながら家に入って、風呂から上がった父に「お帰り、誕生日おめでとう」と笑いかけられるのだ。
しかし、何度インターホンを鳴らしても、母はいつもの笑顔で自分たちを迎えてはくれなかった。
「手が離せないほど忙しいのかな」
「ママいそがしいの?」
ドアノブに手をかけると、簡単に開いた。鍵はかかっていなかった。
「母さーん?鍵かかってなかったからかけとくよ――」
鼻で感じた異変。靴を悪戦苦闘しながら脱ぐ凛を玄関に残し、スニーカーを脱ぎ捨てリビングに走った。リビングに続くドアを開ける前から鼓動が体育のマラソンの後のように急に早くなる。生え際辺りがずくずくと疼く。ドアノブに手をかける。早くドア開けて、両親のドッキリ大成功、と笑う顔が見たい。でも、この臭いは何だ。
思い切り開け放ちたい衝動を抑え、目を閉じて、変な汗をかいた手でドアノブを回した。途端、幼い頃、雨の日に逆上がりをした後、しばらく手にこびりついて離れなかったあの鉄臭さを何十倍にも濃くした中に腐った何かを混ぜたような臭いを感じた。薄く開けた目に飛び込んできたのは、赤。アイボリー色だったはずのラグは、さも最初から赤でしたよ、とでも言うように綺麗に染められている。その中心に、二人は手を繋いで横たわっていた。
「うそ、だろ」
疼いていた頭痛は益々酷くなり、耐えられず床に膝をつく。跳ねた二人の血液で身体が濡れた。朝のニュースがフラッシュバックする。キャスターのお姉さん、家の近く、殺人、犯行手口、遺体の状況。そして、容疑者は『餓鬼憑き』と呼ばれる異能者。
どれくらい、膝をついたまま固まっていたのだろうか。知らず知らずの内に、手についたそれを舐めとっていた。口の中に広がる鉄の香り。鉄臭さが良い匂いに感じたのは初めてだった。頭ではそのような行動をする自分を気持ち悪いと感じるのに、舌は意識を無視して美味しいと訴えかけてくる。血が美味しい。肉も、喰らいたい、と。
「にーに、どうしたの?どこか痛い?」
凛の声が聞こえて、我に返った。同時に自分が得体の知れないモノに成ってしまったことを悟った。これではまるで『餓鬼憑き』のようではないか。
「凛、こっちに来ちゃダメだ!」
「にーに、ママとパパは?」
「こっちに来るな!」
泣き叫ぶような声が出た。自分は泣いているのか。
凛はこの臭いをなんとも思わないのだろうか。僕の膝の上にちょこんと座り、自分の部屋から持ってきたのであろう絵本をひろげて見せた。
「今日はにーにの誕生日だから凛がご本を読んであげる。にーに、頭の毛が真っ白よ。おめめは真っ赤。きれいね」
この子みたい。挿し絵を指差し、僕の方を振り返ってにこりと笑う凛の姿もまた、白髪に赤い瞳に小さい角の生えた『餓鬼憑き』だった。