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京都にての物語

伏見稲荷大社~女神の微笑み~

作者: 不動 啓人

 幼き頃の記憶。

 私は祖母に手を引かれていた。確か、私は母に叱られて泣いていた。

 連れて行かれたのは近所の神社。朱い鳥居が何本も並んで、お社の左右には白い狐が並んでいて――

「いいかい、お稲荷様は優しい神様なんだよ。ちゃんと謝れば、きっとお許し下される。そしたら、きっとお母さんも許してくれるわよ。だから、もう泣くのはお止め――」

 懐かしい、祖母の声。


「美咲、久し振り!」

 植草結衣うえくさゆいは待ち合わせ場所に見付けた旧友に手を振り、笑顔を浮かべ小走りで近付いた。

「久し振り。元気だった?」

 渡辺美咲わたなべみさきも笑顔で応じ、軽い会話の後に二人は並んで歩き、JR京都駅ビル内の飲食店で軽い昼食をとった。

 結衣は小さいながらもアパレル関連の会社を経営していた。一昨日から京都に入り、取引のある会社やお店を回っていた。結衣は京都にくれば美咲に連絡を入れて食事を共にすることを常としていたが、今回は随分と久し振りになってしまった。

「忙しそうね。会社の子は?」

「別行動。その方が向こうも気が楽でしょう。それに、今日は連れて行って貰わないとね」

「そう、それよ。どうしちゃったの、急に?」

「別に。美咲の影響じゃない?」

 二人は店を出ると、JR奈良線に乗って一路南下した。

 下車したのは稲荷駅。駅舎を出ると、すぐ目の前に伏見稲荷大社ふしみいなりたいしゃの大鳥居があり、その先に白石の参道が社殿へと続いていた。晩春の青空の元、鳥居の朱は鮮やかで、多くの観光客が早速の景色にカメラを構えていた。

 二人は撮影の邪魔にならないように足早に大鳥居を潜って参道を進んだ。その間に初めて訪れるという結衣に、美咲が軽く伏見稲荷大社についての説明をした。

 結衣と美咲は大学時代の同期生で、同じ経済学部に学んでいたが、美咲は突然考古学に目覚め大学を中退し、改めて別の大学に入り直した変り種で、現在は京都の施設で学芸員を勤めていた。

 一方の結衣は大学卒業後に商社に勤務しながら、夜間は服飾の専門学校に通ってデザインを学び、三十歳を前にして独立し、現在の会社を立ち上げた。起業から五年が経つが、経営は順調で堅実に成長を続けていた。

 二の鳥居を潜り、豊臣秀吉造営と伝わる巨大な楼門を潜り、本殿前へと出る。二人は並んで立ち、お賽銭を入れ形式に従って祈願した。美咲が早々と最後の一礼をした後も、結衣はまだ両手を胸元で合わせて目を瞑り一心に何事かを願っていた。やがて目を開き、本殿を仰ぎ見たが、その表情に祈願者としての充実感を美咲には感じることはできなかった。

「どうしたの?会社、上手くいってない?」

 本殿を離れ、社務所に向かいながら美咲が尋ねる。

「ううん、違うの」

 結衣は努めた笑顔を浮かべ、折角訪れたからと社務所で商売繁昌札を購入した。

「ねぇ、千本鳥居ってどこにあるの?」

「行こうか」

 美咲は結衣を促し、本殿裏手へと続く道を歩き、やがて巨大な鳥居が並ぶ参道へと出た。色褪せた鳥居と、真新しい鳥居が混在する中を進むと、その先で二股に道が分かれていた。

「ここからが千本鳥居と呼ばれるところ」

 千本鳥居を形成する鳥居は、そこに至るまでに潜ってきた鳥居のトンネルとは違って、大きさはやや小ぶりのものとなり、中背の男性でも手を伸ばせばぬきに手が届きそうなぐらいで、根本の一部を黒く塗り、それ以上を鮮やかな朱で染めている。地面には規則正しく敷き詰められた石廊に、左右には玉砂利が敷き詰められ、そこに同じ形状の鳥居が整然と隙間なく並ぶことによって朱の壁面を持った華やかなるトンネルを形成していた。

 視界を覆う木々の中、映える千本鳥居は二つの入り口を備え、それぞれに潜れば異空間へ誘われるような『神秘的な風情』とでも呼べる景観を備えていた。

「どっち行く?」

「じゃあ、左」

 結衣の先導で二人は左の道を辿った。


――連なる鳥居の光景が、結衣の幼き頃の記憶を甦らせる。


「昔ね、私のお婆ちゃんが、お稲荷様は謝れば許してくれる優しい神様、って言ってたことがあるんだけど、どういう意味だろう」

 結衣は後続がいないことを確認して、その場に足を止め美咲に尋ねた。

「……優しい神様?――ほう、なるほど。結衣のお婆ちゃんはそう解釈したか」

 結衣に合わせて足を止めた美咲は、最初悩むように眉を顰めたが、やがて何事かに思い至ったように唇を突きだすように丸めて、納得の表情を浮かべた。

「おそらく、お婆ちゃんは『山城国風土記逸文』に記された稲荷大社の縁起について言っているんだと思う。ざっくりと説明すると、富栄えたはた一族の棟梁が餅を的に弓を射たの。すると、その餅が白鳥になって飛び去ってしまった。餅の的を射るといのは農耕神への不敬な行為で、白鳥はつまり神様で、神が去った、神に見放された田畑は荒廃してしまったことを暗示しているの。けれど、その白鳥の降り立ったところには稲が生ったので、過ちを悔いた一族は白鳥の降り立った地に社を建てて祀ったの。それが、この稲荷山だと言われているんだけど、どうしてこの縁起がお婆ちゃんのような解釈になるかというと、一度過ちを犯したけれども、秦一族は社を建てて神を祀ることで、再び稲という富を神から与えられた、という風に解釈したんじゃないかな。つまり、社を建て祀った=謝罪することによって神に許された=神が許した、と」

 結衣は美咲の説明を理解しかねたが「ふーん」と曖昧な頷きをして、とりあえず祖母の言っていたことが嘘ではなかったのだとだけ理解した。

「で、その話と、今日の事は関係があるの?」

「うん――実は勝也がやり直せないか、って」

 結衣は静かに歩き出した。

 その名前に美咲はギョッ、とした。慌てて結衣を追い掛ける。

「あの、裏切り男?!」

 大藤勝也おおふじかつや。二人より三歳年下の、結衣の元ビジネスパートナーであり、恋人でもあった男だ。ところが今から三年前、結衣の会社が軌道に乗り出した頃に経営方針の違いから、結衣の元を去ったのだが、その際に、結衣が頼りにしていた社員を引き抜いて行くという裏切り行為に出たのだ。当時の結衣の絶望を美咲は良く覚えている。何度か京都から結衣の元に駆けつけることもあった。幸い、残った社員の頑張りもあって傾きかけた会社は持ち直し、今に至ることができたのである。

 一方、別会社を立ち上げた勝也だったが、事業を上手く軌道に乗せることができずに経営が追い込まれた結果、結衣に救済を求めてきたのだ。

「何を今更!どういう神経してるの?嘘でしょ、止めときなよ!」

 日頃クールビューティーを自称する美咲も、さすがに声を荒げてしまった。

「やっぱり、おかしいよね?」

 結衣は正面を見詰めたまま、無理に作った固い表情の笑顔を浮かべて首を傾げた。

「おかしいって!どんだけ泣かされたのよ!」

 美咲は益々ヒートアップしていった。それは結衣に同情してというよりも、大藤勝也という男に対しての大いなる不満。美咲の言葉は辛辣を極めた。

 だが――やがてそんな自分の言葉に同調しない結衣に気付き、美咲は嫌な予感がした。

 嫌な予感が美咲の口を噤ませ生まれた沈黙。その沈黙を埋めるように重々しく担ぎ出された結衣の呟き。

「どうして神様は、許すことができたんだろう」

 美咲は直感した。――ああ、この子は許す気だ。

 同時に、美咲は結衣の目的を理解した。つまり結衣は、自分の『許す』という行為を肯定する理屈が欲しかったのだ。それがたまたま祖母の記憶であり、この伏見稲荷大社であったのだ。

 結衣は可愛らしい容姿の割に意外と頑固者なので、これと決めたからには翻意は難しいだろう。それに、二人が上手くやっていた時には勝也が結衣を良く支えていたのも事実なので、もしあの頃のように戻れるなら……そんな僅かな期待が――美咲に大きな溜息を一つ吐かせた。一気に冷静になる自分を感じた。その上で、もし同じ過ちが繰り返されたならば、また自分が支えるしかないか。友人として、そんな諦めにも似た思いを抱いた。

「男を許す、っていうのは、女の性なのかな」

「えっ?」

「いやね。稲荷神と呼ばれる宇迦之御魂大神うかのみたまのかみは一説に女性と言われているの。結衣がここに答えを見付けに来たのも、縁だなぁと思って」

「そうなんだ」

 結衣は一時の間を置いた。二人は静かに千本鳥居を行く。

「……いいよね?」

「いいんじゃない、結衣がそう望むなら」

「私って……馬鹿だよね?」

「いいんじゃない、馬鹿で」

 美咲の言葉に、結衣はようやく本来の愛らしい微笑みを浮かべた。

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