第6話
かちゃん、と食器が音を立て、僕は我に返る。
「それにしても、しおちゃんが高校生かぁ。あんなに小さかったのに、感慨深いなぁ。私も歳とるわけよね」
「え、いや、ぜんぜん若いじゃないですか」
蝶々さんは、母の妹だ。歳はたしか、結構離れていたからまだ三十代半ばくらいだったはずだ。
正直、母と蝶々さんはぜんぜん似ていない。
僕の母は中肉中背でどこからどう見てもふつうの主婦だけれど、蝶々さんはモデルのようなスタイルにきれいな顔立ちをしている。おまけに元医師だから頭もいい。
僕は生まれてこのかた、こんなにも完璧なひとを見たことがない。それくらい、蝶々さんは完成したひとだ。
姉妹なのにどうしてこうも違うのだろう。母がもう少し蝶々さん寄りだったら、僕ももう少しいい顔に生まれたかもしれないのに。
小さな不満を抱きつつ、僕は味噌汁を啜る。
上品に動く口元だとか密やかな喉元を眺めながら、そういえば幼い頃は蝶々さんのことを人形だと思い込んでいた頃があったなと思い出す。
きれいにカールした長いまつ毛とか、白く透き通った白目だとかがあまりにも作り物めいていて、だから母が蝶々さんにご飯を出したときはとても慌てた。
それで、親戚中に僕が蝶々さんを人形だと思っていることが露見してしまったのだ。
当時、さんざん笑われた記憶がある。ちくりと刺すような痛みが胸に広がる。あまり思い出したくない、苦い思い出だ。
あのとき、蝶々さんも驚いた顔をしていた。けれど、笑いはしなかった。
そういうところが、ほかの大人と違うところだ。
蝶々さんはいつだって優しい。
子供であっても大人であっても、ぜったいに態度を変えない。からかうようなことも言わない。
僕の悩みを一晩中だって聞いてくれるし、僕の感じたことや意思をぜったいに否定したりしない。
今回、僕が栃木県の高校に通えることになったのも、蝶々さんが両親を説得してくれたおかげだ。
蝶々さんは、いつだって僕の味方になってくれた。だから僕は、蝶々さんにだけは素直になれた。みっともない感情でも吐き出せた。親に言えないことも、なぜだか言えてしまうのだ。
僕にとって蝶々さんは、なくてはならない、酸素のようなひとだ。
母がいやだというわけではないけれど、もしこのひとがじぶんの母親だったら、と思ったことは何度もある。
もう少し、生きやすかったのかもしれない、と。
ぼんやりとしていると、蝶々さんが顔を上げた。
「しおちゃん、今日はなにか予定あるの?」
蝶々さんは菜の花の胡麻和えを口へ運びながら、ひっそりと微笑んだ。
「もし予定がないなら、街を散策してみたらどうかな? こっち来てからほとんど外出てないでしょ?」
「……そうですね。そうします」
蝶々さんは、僕がひとと関わることを避けていることを知っている。だからあまり口うるさいことは言わない。それでもたまに、僕があまりに内側へ引きこもろうとすると、こうして気を遣ってくれる。
蝶々さんに言われたときは、さすがに言うことを聞く。これが母親だったら、ぜったいに無視するけど。
おそらく、蝶々さんは僕がそう思っていることも見抜いている。分かっていてわざと、母親にはぜったいになれない立ち位置から、僕に接してくれているのだと思う。
「そういえば、駅の近くにある紫之宮神社って、すごくきれいなところですよね。能舞台とか、大きな桜の木もあって」
僕の話に、蝶々さんは一度目を丸くしてから、
「あぁ、あの神社ね、紫之宮じゃなくて、紫之宮って読むのよ」
と、微笑んだ。
「えっ! そ、そうなんですか」
この歳になっての言い間違いに、恥ずかしさが込み上げる。
「縁結びの神様が有名なの」
「あぁ、だからユカリ……」
「私もよく行くけど、しおちゃんもお参り行ってきたらいいよ」
「え、いや、僕べつに縁結びとか、恋愛とか興味ないし」
慌てる僕に、蝶々さんは穏やかな口調で言う。
「あら。縁結びは恋愛に限った話じゃないわよ。ひととひとを繋ぐ縁には、ほかにもたくさんあるでしょ。友だちとの縁とか、より良い就職先とか」
「はぁ……」
「巡りあいって、良くも悪くもひとを変えるから」
「…………」
「しおちゃんのひとりでいたいっていう気持ちも分かるわ。ひと付き合いって煩わしいからね……他人は勝手に期待したり評価したり、失望する。大人の私だっていやになるときがある。でも、マイナスなことばかりでもないよ。しおちゃんはまだ、本当に好きなひとと出会ってないだけ」
陽だまりのように優しい声だった。
「……蝶々さんは、出会えたんですか? 本当に好きなひとに」
訊ねると、蝶々さんは少し曖昧に笑った。
ハッとする。受け取るひとによるが、今の発言は少し嫌味に聞こえる内容だ。特に、結婚していない蝶々さんにしていい質問ではない。聞いてしまってから後悔した。
「……すみません」
謝ると、蝶々さんは首を横に振った。
「謝る必要はないよ。私、もう出会えてるから」
「えっ、そうなんですか!? どんなひとですか?」
前のめりに訊ねる。
だって、蝶々さんに恋人がいたとは知らなかった。いったいどんなひとなのだろう。彼女のとなりに並ぶのならば、相当なイケメンなのだろうが。
「もうしばらく会っていないけど、彼女は今でもずっと、私の特別なひと」
一瞬、固まる。理解が遅れた。
「え……彼女って、もしかして女のひと?」
さらに前のめりになる僕に、蝶々さんはひっそりと笑う。
「巡りあいは、べつに恋に限られたものじゃないからね。いわゆる親友ってやつよ」
「あぁ……なるほど」
ホッと胸を撫で下ろし、ふと思う。
昔、母から聞いたことがある。
蝶々さんには、中学生の頃とても仲がいい親友がいたと。けれど、その子は中学三年の冬、突然失踪して行方が分からなくなってしまったらしい。
すぐに行方不明届が出されて、その子の家族も蝶々さんもさんざん探したけれど、とうとう見つからなかったとか。
彼女がどうして消えてしまったのかは、今でも分かっていないらしい。事件なのか事故なのか、それも詳しくは聞いていない。親もあまり話したい内容ではなかったのだろう。それ以上は教えてくれなかった。
おそらく、蝶々さんが語った『特別なひと』というのは、消えてしまったその親友のことなのだろう。
蝶々さんは今、『しばらく会っていない』と言った。まるで、そのうち会うつもりでいるような言い回しだ。
蝶々さんはきっとまだ、その親友が帰ってくるのを待っているのだ。今でも、諦められずに。
「しおちゃん、菜の花の胡麻和えは?」
蝶々さんがおもむろに小鉢を僕に出す。目が合い、我に返った。そういえば食事中だった。
「あ、もういいです。こっち、もらいます」
やんわり断り、代わりにそのとなりの卵焼きをとる。
実を言うと、菜の花は口の中に広がる独特の苦味が苦手なのだ。幼い頃に食べたきり、一度も食べていない。二度と食べないと決めている。
蝶々さんは、栃木の郷土料理や山菜料理をよく出してくれるが、神奈川出身の僕には食べ慣れていないものが多くて、ちょっと苦手だったりする。
僕は笑って誤魔化しながら残りのご飯をお箸で挟み、ひとくちで食べる。醤油とあさりの風味が広がった。最後に玉子焼きを食べ、箸を置く。
「ごちそうさまでした」




