第49話
「――おはようございます」
朝、いつものように顔を洗ってリビングへ行くと、蝶々さんが朝食を用意して待ってくれていた。
「わぁ、美味しそう」
食卓に並べられた和食にお腹を鳴らしながら、僕は蝶々さんの向かいに座る。
「さて、食べようか」
「はい」
手を合わせて、「いただきます」と言ってから、箸を掴む。
桜がいなくなって半月が過ぎ、夏がやってきた。さくらの森高校は一週間前から夏休みに入り、僕は今日から神奈川の実家に帰省することになっている。
桜が亡くなってしばらくは、正直なにをする気にもなれなくて、数日、学校も休んでしまった。
だけど、スマホも見ずに引きこもっていたら、突然うちに涼太がやってきたのだ。
連絡もせずに突然学校を休むものだから心配したと、玄関先にもかかわらずすごく怒られた。
だけどすぐ、僕のやつれた顔を見て、涼太は言った。
――なにがあった、と。
僕は、簡潔に彼女が亡くなったことを話した。
そうしたら涼太はいっしょに泣いて、悲しんでくれた。おかげでやっと薄れてきていた悲しみがぶり返したけれど、それでもいっしょに泣いてくれるひとがいるということの尊さに気付けた。そのあと志崎さんにも話して、三人でまた泣いた。
凪にも話して、以下略だ。
今でも、彼女の死から立ち直れている気はしない。
でも、それを蝶々さんに相談したら、いいんじゃない、と言われた。悲しみが尽きることなんてきっとないんだから、思う存分悲しめばいいよ、と。
その言葉で、僕の心はずいぶん楽になった。
悲しんでいい。悲しむことは悪いことではないのだと、じぶんの心を素直に受け入れることができた。
「……あの、蝶々さん」
茶碗を持ったまま、僕はおずおずと蝶々さんに声をかける。
「ん? なに?」
蝶々さんはだし巻き玉子を頬張りながら、僕を見た。
「あの……前、生意気なことを言ってすみませんでした」
「前?」
「病院で……桜のことで」
「あぁ」
以前、桜のことでひどいことを言ってしまったことを謝罪すると、蝶々さんはふふっと笑った。
「気にしなくていいよ。私は嬉しかったし」
「え……嬉しかったんですか?」
「うん」
「な……なんで?」
「だって、しおちゃんいつも私に遠慮して、本音を言わないから。たまにぶつかり合うのも、家族みたいでなんかいいなって」
「……そう……でしたか」
心当たりがなくもなく、
「すみませんでした」
謝ると、蝶々さんはやはり穏やかに笑う。
「謝ることないよ。他人に遠慮するのは当たり前。むしろ正しいことだしね」
「……はい。でも、蝶々さんは他人じゃないです」
蝶々さんは、まぎれもなく僕の家族だ。
そういうつもりで言うと、蝶々さんは絶妙な顔をした。なんというのだろう、たとえるなら、嬉しさを噛み締めるような、ちょっときゅっとした顔。
なんだか僕まで嬉しくなってしまう。
「ふふっ。それにしても、しおちゃんって案外一途なのね。恋愛には淡白なタイプかと思ってたけど、しおちゃんは好きになると周りが見えなくなるタイプなのかもねぇ」
涼しい顔でそんなことを言われ、顔中に熱が集まってくるのを感じる。
「そ、そんなこと……」
ない、とは言えず口を引き結ぶ。
「ほら、今日は神奈川に帰るんでしょ? 早く食べないと、電車に間に合わないよ」
蝶々さんはそう言って、やはり涼しい顔で箸を進めた。
「む……」
あぁ、もう。蝶々さんには敵わない。
もういいや。これ以上蝶々さんに文句を言うのはやめて、帰って凪に話を聞いてもらおう。
そんなことを思いながら、僕はだし巻き玉子に箸を突き刺した。
朝食を終え、荷支度を済ませてリビングへ降りる。蝶々さんに「そろそろ行きます」と告げ、玄関に向かう。
「しおちゃん、ちょっと待って。忘れもの」
「忘れもの?」
「これ」
蝶々さんが差し出してきたのは、文庫本だった。
「……それ」
表紙を見て、息を呑む。
それは、僕が桜に貸していた文庫本だった。桜の事情を知り、読みかけだったけれど先に彼女に貸したのだ。そういえば、貸したままになっていた。
「桜ちゃんから返しといてって言われてたの、忘れてた」
受け取らないまま、僕は文庫本を見つめる。帯には、『生きるということとは』というキャッチコピーが大きく載っている。
生きるということとは。僕は心のなかで自問した。
「……蝶々さん」
「ん?」
「僕……これからはちゃんと考えます」
この世界は、いろんな悲しみにあふれている。今この瞬間も、きっとどこかでだれかが泣いている。
善も悪も曖昧で、大人だって正解を知らないし、そもそも正解なんて存在しないのかもしれない。
不条理で、理不尽で、救いのない世界。そんな世界に、僕たちは生きている。
「倫理とか正しさとか、そういうことは高校生の僕には難しくてまだよく分からないけれど……だからこそ、ちゃんと学んで考えていきたい。だれにも流されないように」
考えて、考えて、僕は僕の答えを見つけていく。それが、生きるということだ。
「……そう」
蝶々さんはゆっくりと瞼を伏せ、そして開く。その瞳に宿る柔らかな光は、いつもよりわずかに滲んでいるように思えた。
「いってらっしゃい」
蝶々さんは静かな笑みをたたえて言うと、僕に本を持たせた。
「……行ってきます」
笑顔で僕は、家を出た。




