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レプリカは、まだ見ぬ春に恋を知る。  作者: 朱宮あめ


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第48話


 それから僕たちは、蝶々さんの車で海に向かった。僕らの街からいちばん近い海水浴場、茨城(いばらき)県の阿字ヶ浦(あじがうら)だ。

 僕は車のなかで必死に祈った。

 早く、早くつけよ……!

 信号待ちの時間が、こんなに長く感じたことはない。右折の邪魔をする対向車がこんなに煩わしいと思ったことはない。

 後部座席に座った桜は目を瞑ったままで、意識があるのかないのか分からない状態だった。

 チューブという命綱を失った桜の身体は、時を刻むごとに冷たくなっていく。僕はじぶんの体温を分けるように、必死に桜の手を握り続けながら、桜の胸が上下していることを数分毎に確認しては安堵の息を漏らした。

 二時間弱車を走らせ、夜の七時近くになって、ようやく目的地の阿字ヶ浦海水浴場へ到着する。

「桜、着いたよ」

 声をかけると、桜がわずかに反応を示した。

 今や瞼を開けることすら、力を振りしぼるようだった。

「う、み……」

「そうだよ。波の音、聴こえる?」

 蝶々さんが窓を開けると、ざざん。波の音が大きくなったような気がした。

「……ほんとだ……」

 桜が小さく笑う。笑いかたがいつもの彼女よりずいぶんと弱々しくて、それが切なく胸に染みる。

「もっと近くに行きたいなぁ……」

 たしかに、車のなかでは波音しか聴こえない。海を見るには、砂浜を歩いて波打ち際まで行くしかなかった。しかし、車椅子では、車輪が砂に埋まってしまって上手く進めず難しいだろう。

「分かった。僕が背負うから、いっしょに行こう」

「うん」

 桜を背中に乗せ、僕は一歩一歩、砂を踏み締めた。靴のままだと危ない気がして、靴は脱いで裸足になった。

「桜、大丈夫?」

 波打ち際へ歩きながらも、僕は不安のあまり何度も振り向いては桜の顔色を確認した。

「大丈夫だよ、もう汐風くんてば心配し過ぎだよ」

「ごめん、だって……」

 不安でたまらないのだ。

 すぐ耳元に桜の顔があるはずなのに、耳をすませていても、彼女の息遣いは簡単に波の音に掻き消されてしまう。

 背中から伝わる鼓動も、どんどん弱くなっているのが分かる。

 僕の首元に回された腕の力も、少しづつ弱まっていた。

「ねぇ、汐風くん」

 まるで、夜の闇から襲い来るような波音が響くなか、桜が話し始める。

「息を吸って」

「え?」

 戸惑いながらも言う通りにしてみせると、塩辛い空気が肺に飛び込んでくる。

「すごいね。これが、『しおかぜ』なんだね」

 ハッとした。

「……君が海に行きたかったのって、もしかして」

 汐風っていう言葉の意味を知りたかったから――?

「名は体を表すっていうでしょ。好きなひとの名前が汐風なのに、海に行ったことがないなんて、彼女失格だもん」

「……なんだよ、それ」

 聡明すぎる彼女の言葉に泣きたくなってくる。

「やっぱり、君は変わってる」

 僕の首に回した桜の腕に、わずかに力が籠る。その手は小さく震えていて、振り返らなくても彼女が泣いているのが分かった。

「汐風くん……私、死にたくないよ……死にたくない……」

「桜……」

 悲痛な叫びに、僕は堪らず桜を砂浜に下ろし、正面から強く抱き締めた。

 桜はずっと、笑っていた。

 じぶんの生い立ちも、運命すらも受け入れて。だって、そうするしかなかったから。

 桜にとって、じぶんのことを話せるひとはどれだけいただろう。桜が生まれた原因であるお姉さんや蝶々さんに、じぶんの生まれを嘆くことはできない。そんなことをすれば、ふたりが責任を感じてしまうからだ。

 だから桜はいつも無邪気なふりをして、なにも分からないふりをして、笑っているしかなかったのだ。

「汐風くんともっといたい。もっとずっとそばにいたいよ……」

 桜は僕の背中に腕を回し、縋り付くようにして泣き続ける。彼女の嘆きに呼応するように、僕の目からも涙がこぼれ落ちる。

「僕だって……君と離れたくなんかないよ……。これからもずっと……ずっといっしょにいたいのに!」

 情けない涙声で訴えると、桜はさらに泣き出した。

「汐風くん、汐風くん……」

 星空の下、桜は何度も僕の名前を呼ぶ。まるで、この先呼ぶはずだった回数を、足りないぶん埋めていくように。

 僕たちは大きな声を上げて泣いた。


 しばらく泣き続けた僕たちは、その後横並びに手を繋いで、海を眺めていた。

「ねぇ汐風くん。……私、幸せだった」

 静かに海を眺めていた桜が、ふと、言った。

「君に会えて、君を好きになれて幸せ」

 となりを見る。桜は笑っていた。

『幸せなんてこの世に存在しない』。

 そう言っていた彼女が、笑顔で幸せだと言っている。

 僕は繋いでいた手をぎゅっと握る。すると桜も応えるように僕の手を握り返してくれた。

 桜の手は、徐々に温度をなくしている。おそらく、この夜を越えることはできないだろう。それは車を降りたとき、蝶々さんにも耳打ちされたことだった。

 これが、僕たちにとって最初で最後の夜だ。

「ねぇ、汐風くん。生まれ変わりって知ってる?」

 桜を見ると、彼女は膝に両手を回し、僕を見ていた。

「この世界の魂はね、増えも減りもしてないんだって。だから私たちは、死んだらまた違う生命になってこの世界に生まれてくるんだよ」

 ――生まれ変わり。

 そういえば、前にもこんな話をした気がする。

「私もね、生まれ変わるよ。だから、今度は君が私を見つけて」

 僕はたまらず桜を抱き寄せた。

「……ぜったい見つけるよ」

「ほんと?」

「うん」

「私が、ぜんぜん違う姿になってても見つけてくれる?」

 大袈裟なくらい大きく頷く。

「君が女の子でも男の子でも、犬になってても猫になってても、花になっていても、ぜったい見つける」

 波音に掻き消されないように、大きな声でそう宣言してみせる。桜の手に力がこもるのを感じた。けれど、その手は震えている。力を振り絞っているのは明らかだった。

 終わりは、もうすぐそこまで迫っているのだと悟る。

「ありがとう……汐風くん」

「うん」

「大好き」

「僕も。大好きだよ」

 ふっと、桜の吐息がかすかに耳を掠めた。直後、桜の腕から力が抜けた。桜の全体重が僕に傾く。

 それは、僕と桜の終わりを示していた。


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