第4話
柔らかな雰囲気の彼女を見つめながら、なんというか、不思議な気分になる。
「あ、ねぇ、君、名前なんて言うの?」
パッと彼女が顔を上げ、僕を見た。至近距離で目が合い、心臓が跳ねる。
「えっ、僕?」
「うん。私はね、千鳥桜。桜って呼んでよ。君の名前は?」
「……僕は、錦野」
とりあえず苗字だけ答えると、彼女――千鳥さんは、なにかを待つように微笑んだ。彼女の意図に気付いていないわけではないけれど、それでも僕が黙りこくっていると、じわじわと千鳥さんの眉間に皺が寄っていく。
「え、もしかして下の名前は教えてくれないの? あ、もしかして、ニシキノって名前? ニシ、キノくん?」
「……いや、違うけど……」
「じゃあ下の名前、教えてよ!」
まっすぐな眼差しで見つめられ、ため息をつく。
「……汐風」
「しお……かぜ? ……君、汐風って名前なの?」
驚いた顔をして振り返る千鳥さんに、少し暗い気分になった。
いつか言われた言葉が蘇る。
『しおかぜって変な名前だよな』
奥歯に力が入った。
「……そうだよ。変な名前だろ」
「…………」
黙り込む少女のとなりで、僕は小さくため息を漏らす。
……だから言いたくなかったんだ。『汐風』なんて、変な名前だから。
『生ぐせー名前だよな!』
『ぴったりじゃん!』
昔、クラスメイトにからかわれたいやな記憶が飛び出して、胸の辺りがざわめいた。
無意識のうちに、手に力がこもっていたらしい。それまで僕の腕のなかで大人しくしていた黒猫が、ぴょんっと僕の手をすり抜けて逃げていく。
どうやら僕は、猫にまできらわれる体質らしい。まぁいいけど。
「……それじゃあ、僕はこれで」
猫にならって、逃げるように彼女に背を向ける……が。
「あ、ちょっと待ってよ!」
逃げる僕を引き止めるように服の袖を指先で掴まれ、足を止める。
振り返り、小さく「なに?」と答える。少しぶっきらぼうな言いかたになった。
僕の反応に、彼女は少しだけ戸惑うそぶりを見せてから、言った。
「いや、あのさ……もったいぶるからどんな名前かと思ったけど、汐風ってすごくきれいな名前じゃん」
「……え」
思っていた反応と違うものが返ってきて、僕は思わず足を止めた。
「君がなにを気にしてるのか知らないけど、汐風って、すごくいい名前だと思う。名前を付けてくれたひとの思いがすごく伝わってくる感じがする」
驚いた。
そんなことを言われるのは初めてだ。いつも、変だとバカにされてきたのに。
「……そう、かな」
「うん! そうだよ!」
屈託のない笑顔に、僕もうっかりつられそうになるが、かろうじて、
「べつに、そんなことないでしょ」
と返す。
なんだか落ち着かない。
「ねぇ、私、君のこと名前で呼びたい! 汐風くんって呼んでもいい?」
唐突過ぎて、反応ができなかった。
「ダメ?」
呆気にとられていると、彼女はずいっと顔を寄せて、もう一度確かめてくる。至近距離で目が合って、僕は思わず目を逸らした。
「……まぁ、好きにして」
「やった!」
喜ぶ彼女を、僕は不思議な気分で眺める。どうしてそんなに喜んでいるのか、分からない。
だって僕たちは、知り合いでもなんでもない。もう二度と会うこともないだろうし、名前を呼ばれることなんてまずないだろう。
……だけど、もし彼女と僕に次があるのなら。
彼女になら名前を呼ばれてもいいかもしれない、と思った。彼女の声は、なんだか耳に馴染むのだ。例えるならそう、海辺の町に響く波音とか、暑い夏の日に涼をくれる風鈴のように。
「さて! それじゃ私はそろそろ帰ろっかな! またね、汐風くん!」
彼女は笑顔で手を振り、神社を出ていく。
そのうしろ姿を見送りながら、僕は小さく苦笑する。
「……変なひと」
ぽつりと呟いたとき、ポケットの中のスマホが振動した。画面を見ると、蝶々さんだった。
「あっ」
そういえば、駅に着いたと報告してからしばらく経つ。心配して、電話をかけてきてくれたのだろう。
僕は慌てて神社をあとにした。




