第36話
桜の病室は、蝶々さんの研究室と同じ五階にあった。
眩しいほど白い廊下に、人気はない。病院独特の匂いもなく、どちらかというと薬品の匂いのほうが強かった。
僕たちは、お互い黙ったまま廊下を進んだ。
蝶々さんが、とある扉の前で足を止めた。扉の横には、『立ち入り厳禁』という文字。
蝶々さんは扉を開け、なかに進む。
蝶々さんに続き、僕もおそるおそるなかに足を踏み入れる。
扉の先には病室があるものだと思っていたが、違った。さらに廊下が続いていた。窓はなく、薄暗い。
僕は蝶々さんのあとに続く。
再び蝶々さんが足を止め、向きを変える。つられるように僕も足を止めた。
壁際にネームプレートがある。『001』という数字が書かれているだけで、桜の名前らしきものはないが、蝶々さんはそのネームプレートを見て、
「ここが桜ちゃんのお部屋よ」
と言った。
僕の目の前には、大きなはめ殺しの窓ガラスがあるだけだった。
向こう側にはカーテンが備え付けられているが、今は開け放たれていて、なかがよく見える。
窓の向こうには、さっぱりとした病室が広がっていた。テレビドラマでよく見る無機質な病室そのものだ。
ここが、彼女の部屋らしい。
彼女の部屋ならば、てっきりもっと騒がしい……というか、もっと彼女の好きなものであふれているものだとばかり思っていたのだが。
病室の中央には、白いベッドが見えた。
いやに清潔そうなその白色が視界に入った瞬間、どきん、と心臓が大きく跳ねた。
震えそうになる足をおそるおそる踏み出して、窓ガラスに近付く。
僕の目に飛び込んできたのは、青白い顔でベッドに横たわる桜だった。
「桜……!」
思わず窓に手を付き、名前を呼ぶ。
ベッドの上の桜は、苦しそうに顔を歪め、胸は大きく上下していた。
最後に会ったとき、彼女は歩くことすらままならぬように見えた。
「……あの、蝶々さん。今、桜と話すことはできますか」
蝶々さんは僕の覚悟を受け取るように頷くと、扉を開けてくれた。
「……ありがとうございます」
そして、僕は桜の病室に足を踏み入れた。ゆっくりとベッドに近づく。
「……桜」
枕元に寄り、そっと声をかけると、桜はゆっくり目を開けた。
「汐風くん……?」
桜は僕を見て、目を見開く。
「……なんで、君がここにいるの」
目を見開いたまま、桜は呟くように言う。
「えっと……ごめん、いきなり。桜ともう一度ちゃんと話がしたくて、蝶々さんに入れてもらったんだ。……あ、そうそう。君がいつも話してた先生ってさ、実は僕の叔母だったんだ。知ったときはびっくりしたよ」
黙り込んだままなんの反応もない桜に、僕はそのまま話し続けることができず、口を閉じる。僕たちのあいだに、重く深い沈黙が横たわる。
緊張で、じぶんの心音がどくどくと鳴っているのが分かった。
会話って、こんなに難しかったっけ。相槌がないと、話すのってこんなに緊張するものだったっけ。
そっか。桜との会話は、いつだって和やかで楽しかったから、忘れていた。
いつもの彼女といるときではぜったいに有り得ない沈黙が落ち、僕は唇を噛み締める。
「……聞いたの? 私のこと」
「……うん」
その瞬間、桜の顔が歪んだ。
「帰って!」
桜は僕を拒絶するように背を向ける。いつも明るい彼女が声を荒らげるのは、初めてだった。
「待って、桜」
思わず桜の肩に触れると、彼女は僕の手を振り払った。
「触らないで! 私のこと知ったんでしょ。私が……ひとじゃないって、聞いたんでしょ!」
息を呑んだ。かける言葉が見つからなかった。
「なんでそんな余計なことするの……? 私……君には知られたくなかった。君にはふつうの女の子だって思われたまま、いなくなりたかった。気持ち悪いって、思われたくなかったのに……」
そう言うと、桜は目から大粒の涙を落とし始める。
桜に弾かれた手は、まだ痺れていた。
痛い。でも、きっと桜はこれまでこの何倍もの痛みに耐えて続けてきたのだろう。
じぶんの出自に。勝手に背負わされた運命に。最愛のひとを守れなかった悲しみに。それでも生きているじぶん自身に。
こんな小さな身体ひとつで、耐えていたのだ。
僕は、ついさっき蝶々さんから聞いた話を思い出す。




