第34話
その後、僕は奈良さんに案内され、国立科学研究所――通称ラボと呼ばれる施設に入った。
桜が入院しているのは大学病院の病棟ではなく、研究所のほうらしい。
その施設はガラス張りの五階建てになっていて、僕はまるで近未来に迷い込んでしまったかのような錯覚を覚える。
僕はドキドキしながら奈良さんとエレベーターに乗り込んだ。奈良さんは慣れた手つきで五階のボタンを押す。
そうして僕たちがやって来たのは、『研究室1』というプレートがかけられた部屋だった。
奈良さんは扉を控えめにノックして、
「先生、いますか」
と、声をかける。すると、すぐに「どうぞ」という返事が返ってきた。どこか聞き覚えがあるように思えて、僕は小さく首を傾げる。
奈良さんは僕を一瞥してから、ドアノブを回し、なかへ入った。僕も続く。
「失礼します」
室内は広過ぎず、狭過ぎず。
扉の正面の奥の壁には、一面大きな楕円形の窓がはめこまれ、その先には見慣れた街の景色が広がっていた。向かって左手の壁は、一面本棚だった。難しそうな分厚い本がみっちりと詰め込まれている。
入口の扉近くには、応接用の三人がけのソファとテーブル。さらにその横には、大きめの観葉植物があった。
すんと鼻から空気を吸い込む。
入ったときに思ったが、ほんのりといい香りがする。
応接用ソファの脇に置かれた観葉植物を見る。あれだろうか。少し心が落ち着いた気がする。
そして、窓の手前にはデスクがひとつ。書類や医学書やらが雑多に積み上がっていて、その部分だけはとてもきれいとは言えない。
さらに視線を流すと、右手に『仮眠室』と書かれたプレートがかけられた扉があった。
灰色の扉を眺めていると、おもむろに扉が開いて、白衣姿の女性が顔を出した。
「美和子? どうしたの急に――」
仮眠室から出てきた女性は、僕を見るなり固まった。
果たして僕も、
「……え」
顔を出した女性を見た瞬間、声が漏れた。
扉から現れたのは、蝶々さんだった。
「……しおちゃん?」
蝶々さんは目を丸くして、僕の名前を呼ぶ。
僕のほうも戸惑いを隠せないまま、ただ蝶々さんを見つめる。頭のなかは、パニックになっていた。
どういうことだ? 奈良さんは、桜の担当医の場所へ僕を案内してくれたはず。ということはつまり――蝶々さんが、桜の担当医?
「あれ? もしかしてふたり、知り合い?」
僕たちの反応を見た奈良さんが首を傾げる。
「あぁ、うん。この子、私の甥っ子なの。それより美和子、どうしてしおちゃんとここに?」
蝶々さんは戸惑いつつ奈良さんに説明してから、訊ねた。
「実は、この子が夢ちゃんに会いたいって言うから、案内したのよ」
「夢ちゃんに?」
蝶々さんは奈良さんから僕へ視線を戻す。
「しおちゃん、もしかして……」
なにかを察したらしく、蝶々さんはこめかみを押さえたままため息をついた。
「……分かった。とりあえずそこ座って。美和子も。今、珈琲淹れるわ」
蝶々さんが応接用のソファを指す。
僕は放心しつつも、大人しくソファに座った。一方で奈良さんは、仕事中だからとお茶を断って仕事に戻っていった。
ふたりきりになると、僕は珈琲メーカーの前に立つ蝶々さんの背中に訊ねた。
「あの……蝶々さんは、千鳥夢さんっていう女の子のこと、知ってるんですか」
それまで珈琲を淹れていた蝶々さんの手が、ぴたりと止まる。
「……うん。私の患者さんだった子だからね」
蝶々さんは、振り向かないまま答えた。
「だった……?」
不穏な言い回しに眉を寄せる。
「あの子が行きたいって言った高校、しおちゃんと同じ学校だったからね、もしかしたら接点ができるかもとは思ってたんだけど……そっか。そうだったんだ」
蝶々さんは、ひとり納得したように頷き、僕のほうへ振り返った。
「しおちゃんはあの子のこと、どこまで知ってる?」
訊ねられ、僕は正直に知っていることを話した。
この病院に入院していること、半日だけ学校に来ることを許されていること、そして、なぜかは分からないけど、名前をふたつ持ってるということ。
「あと……じぶんはもうすぐいなくなるって、このあいだ言っていました。だから、僕の気持ちにはこたえられないって」
蝶々さんは動かしていた手を止め、息を吐く。
「……そっか」
蝶々さんは一度目を伏せてから、静かな声で話し始めた。
「……そうね。どこから話したらいいか分からないけど……とりあえず、しおちゃんはあの子のことを、どっちの名前で呼んでる?」
「……桜って呼んでます。彼女が、そう呼んでほしいって言ったから」
「……そっか。じゃあ、桜ちゃんじゃなくて、夢ちゃんの話からするね」
「夢ちゃんの、ほう……?」
ここでわざわざ呼びかたを分けたということは、実際に千鳥夢というひとがいるということなのだろう。
「夢ちゃんはね、今年の春に亡くなったの。臓器移植が間に合わずに」
僕は眉を寄せて、蝶々さんを見つめた。
「桜ちゃんはね、夢ちゃんのドナーだったのよ」
「桜が、ドナー……?」
臓器移植を待つ側だったのではなく、桜が、臓器を提供する側だった?
「で、でも、心臓のドナーって、脳死のひととかがなるものなんじゃ……」
「そうね。今の医療では、そう。でも、ここは研究所だからね。ふつうじゃない治療も行われる」
蝶々さんの顔に翳が落ちる。僕は息を呑んだ。
「ふつうじゃない治療って……まさか、生きているひとの心臓を移植しようとしてたんですか……? なんで? だってそんなことをしたら桜は死んじゃうし……」
というかそもそも、そんなことをしたら犯罪だ。
心臓移植とは基本的に、死んでしまったひとや脳死状態のひとから行うもの。腎臓移植などと違って、心臓はひとりの身体にひとつしかないからだ。その心臓をだれかにあげてしまったら、必然的にあげたほうは生きていられなくなる。
僕は弾かれたように立ち上がった。
「そんなの、ひと殺しといっしょじゃないですか! なんでそんなこと……!」
「落ち着いてしおちゃん。違うよ、ひとの生命を救うのが医療なんだから、健康なひとの臓器をだれかのために利用するなんてこと、ぜったいにない」
思わず詰め寄る僕を、蝶々さんは慌てて宥める。違う、というひとことに、僕は心からホッとした。
「……そう、ですよね」
全身から力が抜けていく。
そうだ。そんなの有り得ない。
そもそも彼女の家族が許すはずがない。桜の家族がどんなひとたちかは知らないけれど、桜はお姉さんのことをとても慕っているようだった。
少し考えれば分かることだった。
冷静になりたいのに、激しく鳴り続ける心臓は収まりそうにない。
「でも、じゃあなんで生きている桜がドナーになるんですか」
「……それは」
蝶々さんは苦しげに眉を寄せて、言葉を呑み込む。
「桜ちゃんは、特別な子だったから」
「特別な子……?」
どういう意味だろう。




