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レプリカは、まだ見ぬ春に恋を知る。  作者: 朱宮あめ


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第29話

「私はちょうどしおちゃんと同じくらいの歳のとき、その選択をして後悔してるから」

 彼女の口から発せられたたった二文字の言葉から、とてつもない重みを感じる。蝶々さんは、過去を思い出していた。

「それって、蝶々さんが中学生くらいのとき、失踪しちゃったっていう……?」

 恐る恐る訊ねると、蝶々さんは「そう」と小さく頷いた。

「今でも後悔してる。あのとき、ちゃんと彼女の悩みを聞いてあげなかったこと」

 蝶々さんはどこか遠くへ目を向けたまま、静かに語る。

「……そのひとは、なにかに悩んでたんですか?」

 蝶々さんは頷く。

「学校でね、クラスの子からいじめられてたみたいなんだ」

 聞いた瞬間、喉が締まるのを感じた。

「いじめ……」

 まるで気道を見えない糸で強く締めあげられているみたいに、呼吸がままならなくなる。

 顔も知らない蝶々さんの親友の姿が、白い煙のような得体の知れない姿となって、ゆっくりと僕の身体に染み込んでくるようだった。手や脇から思い出したように汗が噴き出し、鼓動が徐々に早まっていく。トラウマに呑み込まれそうになって、僕は強く目を瞑った。じぶん自身を労わるようにゆっくり息を吐きながら、目を開けて蝶々さんを見る。

「私、彼女がいじめられてたこと、ぜんぜん知らなくて。彼女がいなくなってから知ったの」

 いつも柔らかな光を映している彼女の瞳に、その光はなかった。

「彼女の失踪の原因は、いじめだったってこと?」

 違う、と否定してくれることを期待して、僕は蝶々さんに訊く。けれど、蝶々さんはなにも言わない。固く口を閉じたまま、頷きも、首を横に振りもしなかった。

 全身から、力が抜けていく。

〝自殺〟というワードが脳裏をかすめ、思わぬ内容に僕は奥歯を噛む。

「……で、でも、その友だちは、蝶々さんにいじめられてたことを黙ってたってことですよね?」

「そうね」と、蝶々さんがようやく頷く。

「それなら……っ」

 蝶々さんは悪くない。後悔する必要はないはずだ。彼女は、蝶々さんに助けを求めなかったのだから。心のなかで、そう励ます。

 だけどそれを、言葉にはできなかった。僕には、失踪してしまった彼女の気持ちが痛いほどよく分かったから。

 いじめの渦中にいた頃、僕も心のなかで毎日叫んでいた。

 助けて。助けて、だれか、助けて……!

 そう、叫んでいた。

 でも実際、言葉にはできなかった。家族にすら、言えなかった。

 蝶々さんは流し台についていた手を、まるでなにかを握るようにぎゅっと力を込めた。

「言いたくなかったのか、言えなかったのかは分からない。あの子はもういないから。でも、ただひとつ分かるのは、あのとき彼女を救えたのは私しかいなかった」

「……それは……」

 彼女はおそらく、いなくなるずっと前からサインを出してたんだと思う。私はそれに気付かなきゃいけなかったのに、気付けなかった。

 蝶々さんの呟きは、今にも消えてしまいそうなほどに小さい。伝わってくるのは、じくじくとした深い後悔。

「……でも、蝶々さんとそのひとは、違う学校だったんですよね?」

 母からは、そう聞いている。もしそれが事実なら、蝶々さんが彼女がいじめられている事実を知ることは不可能だ。彼女が言わない限りは。

「そうだとしても、私は気付くべきだった」

「……それは、そうかもしれないですけど……」

 救いがない、と思った。蝶々さんが抱えているものは、親友が蝶々さんに残したものは、あまりにも残酷だ。

 蝶々さんは数度瞬きを繰り返したあと、僕に向き直った。僕の目の前には、いつもの柔らかな光を宿した蝶々さんがいる。それが余計に悲しくて、僕は唇を引き結んだ。

「本当に追い詰められてるときほど、ひとは辛いって言えない。だから、だれかが気付いてあげなきゃいけない。だけど他人に踏み込むのは勇気がいるから、助けを差しのべるのも簡単じゃない。拒絶されるかもしれないし、踏み込んだ以上は責任も降り掛かってくる」

「……うん」

 そのとおりだ。現に僕は、彼女にこれ以上拒絶されるのが怖くて、その一歩が踏み出せないままでいる。

「……でもね、結局、結果なんだと思うよ。結果が良ければよかったって思うし、踏み込んだのに拒絶されたり、悪い結果になったらどのみち後悔する。どうするのがいいっていう模範はないよ。私は、親友のことがあって、もう二度と後悔したくなかった。だからあのとき、しおちゃんに踏み込んだ。その結果はもちろん後悔してないよ。だって私の前には今、こうしてしおちゃんがちゃんといてくれてるから」

 涙があふれ出そうになって、僕は唇を噛み締めることでなんとか堪える。

「しおちゃんは、しおちゃん自身がどうしたいかで決めるべきだと思う」

「僕が……決める」

 蝶々さんに問うというより、じぶんに言い聞かせるように呟く。

「うん。しおちゃんが考えて、決めるの」

 彼女がどうしてほしいかなんて、いくら考えたところで分かりっこない。分かるのは、僕がどうしたいかということだ。

 辛いときほど口に出せなかったという経験は、僕にもある。

 目を閉じてよみがえるのは、暗闇のなかにいた僕を救い出してくれた蝶々さんの姿だった。


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