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レプリカは、まだ見ぬ春に恋を知る。  作者: 朱宮あめ


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第26話

 ネコ太郎が駆けていった先、神社の参道のなかほどのところに、桜がいたのだ。桜は、一本の銀杏の木のそばに立って、どこかぼんやりと空を見上げている。

 風が吹き、顔にかかった髪を耳にかける仕草をしながら、彼女が不意にこちらを見た。

「あっ」

 桜が僕に気が付く。それまでなんの表情もなかった桜の顔に、みるみる笑顔の花が咲いていく。

「汐風くんだ!」

 僕は軽く手を上げ、スマホをポケットにしまいながら彼女のほうへ歩いていく。

 対照的に、桜は僕のもとへ軽やかに駆けてきた。

 次の瞬間、なにかにつまづいたのか、桜の身体が傾いた。

「わっ」

「危ないっ!」

 僕は慌てて手を伸ばし、彼女の傾いた身体を抱き止めた。

「大丈夫!?」

「あ、う、うん。ごめん……」

 桜は曖昧に笑いながら、体勢を立て直した。

「君……なんでこんなところにいるの。最近学校来てなかったから、心配したんだよ」

「あー……うん。ちょっと風邪気味で」

 桜はやはり曖昧に笑いながら言う。

「風邪気味のひとが散歩なんかして大丈夫なの?」

「大丈夫大丈夫! 私の先生過保護だからさ。私はぜーんぜん平気なのに、念のため学校は行っちゃダメって」

「そりゃそうだよ。患者になにかあったら医師は責任取らなきゃいけなくなるんだから」

 身内に医者がいるものだから、言葉につい熱がこもってしまう。

「分かってる。だから、学校は我慢するから神社に行かせてって頼んだの。学校より近いし」

 そういう問題ではない気がするのだが。

 いたずらっ子のように笑う彼女に、僕は苦笑する。

「……まったく、君はわがままなんだから」

「へへっ! 聞こえませーん」

 桜は両手で耳を塞ぎ、僕に背中を向けて歩き出す。

 どうやら神社のなかへ向かうつもりのようだ。

 のんびり歩く彼女の背中を、僕もゆっくりと追う。

 白いワンピースをまとった桜は、こうして見ると本当に天使みたいな女の子だと思う。軽やかで、しなやかで、そして同時にどこか儚げで。手を伸ばして、その存在をこの手で確かめてみたくなる。

「ねぇ、汐風くん」

 歩きながら、桜がくるりと振り向いた。

「汐風くんはなんでここに来たの?」

 彼女に見惚れていたことがバレてやしないか、一瞬頭のなかが真っ白になった。

「……ネコ太郎」

「ネコ太郎?」

 慌てて口をついた言い訳は、彼女と初めて会ったときと同じ『猫』だった。

「ネコ太郎を追いかけてきたら、君がいたから」

 答えると彼女は、なぁんだとつまらなそうに口を尖らせた。

「私を探してくれてたのかなって思ったのに違ったんだ。残念!」

 どきりとした。

「えっと……その」

 ネコ太郎を追いかけてきたのは本当だけれど、君に会いたかったのも事実だ。

 そう言ったら、彼女はどう思うだろう。

 ちらりと桜を見る。目が合うと、桜はぷっと小さく吹き出した。

「?」

「なーんて、冗談だよ!」

「え、じょ、冗談?」

「うん! 汐風くんったら、そんなに困った顔しないでよ」

 ふふふっと楽しそうに笑う桜に、僕は息を吐く。

「まったく君は……。でも、思ったより元気そうでよかった。突然休むから心配したんだよ」

 さりげなく話題を変えると、桜は特に不審がることなく笑った。

「ごめんね、心配かけて」

「来週は学校来られそう?」

「うーん、どうだろう。先生次第だからなぁ」

「……そっか」

 彼女の返答に、落胆する。

 彼女ならなんとなく、来週はもちろん行くよ! とか、そういう無責任だけど前向きなことを言ってくれる気がしたのだ。

「先生ってば、桜のこと大好きだからさー。桜をひとりじめしたいのかも」

 くすくすと笑う桜を見ると、彼女の頬にはうっすらと赤みが戻っていた。よかった。

「……あ、そういえば、昨日の虹見た?」

 桜がおもむろに空を見上げる。つられるように僕も顔を空へ向けた。

「え、虹? そんなの出てたっけ?」

「出てたよ~! 見なかったの? もったいないなぁ」

 思い返してみるけれど、ぜんぜん覚えていない。彼女に視線を戻し、訊ねる。

「何時頃?」

「午後の一時くらいかな。ほんの少しの時間だけね、雨上がり、すごく大きな虹が空に架かってたんだよ」

 そういえば、このところ虹なんてしばらく見ていない気がする。

 顔を上げていれば、ふつうに気付けたはずなのに。

 もう一度空を見上げる。

 今日は雲ひとつない晴天で、少し汗ばむくらいの陽気だ。

 そういえば、彼女といるときの空はいつも青々としている気がする。

「すごくきれいだったんだよ。私、生まれて初めてあんな大きな虹見たよ!」

「生まれて初めて……?」

「うん!」

 桜は元気よく頷き、石畳の上を跳ねるように歩いていく。その背中を、じっと見つめる。

『――私、猫見るの初めてなの!』

『――学校に通ってみたくなったから転校してきたの。見てみてこの制服! どう? 似合う?』

『――手作りお弁当、私、食べるの夢だったんだよね!』

 ――黒猫に、学校にお弁当。そして虹。

 彼女の言葉の節々には、いつも疑問を感じる。

 彼女はいったい、これまでどんな生活を送ってきたのだろう……。

 知りたいけど、知るのが怖い。

 僕のなかで、相反する感情がせめぎ合う。こんな気持ちになるのは、初めてのことだった。

 そのときふと、凪の声が頭に響いた。

『――お前、両想いって分かってなきゃ告白しないのかよ』

 だって、拒絶されたら怖い。凪は怖くなかったのだろうか。

『しおはさぁ、なんでもかんでも難しく考え過ぎなんだよ』

 そうなのだろうか。でも、簡単に考えるってどうしたらいいんだろう?

「汐風くん? どうかした?」

「あ……」

 気が付くと、桜が僕の顔を覗き込んでいた。

 蒼ざめた瞳には、僕が映っている。

 ふと、彼女と出会ったときのことを思い出した。

『初めて会ったときから、君はなにかに怯えてるみたい。君は、なにに怯えてるんだろう』

 そういえば、彼女は初めて会ったあのときから、まっすぐ僕を見てくれていた。

『私……名前がふたつあるんだ』

『名前がふたつあるなんてふつうじゃないから……その、こんなこと話したら、みんなにどう思われるかなって……ちょっと、怖くて』

 目の前の僕に向き合ってくれていたし、じぶんともちゃんと向き合っていた。

 名前の件を話してくれたあのとき、僕は嬉しかった。彼女が僕に心を見せてくれた気がして。

 だって、僕は彼女にとって、何者でもなかったはずだから。

 それに比べて、僕は。

 未だに彼女と向き合うことを恐れて、悩んで、立ち止まったまま。

「…………」

 奥歯を噛む。

 ここで勇気を出さなきゃ、僕はまた、彼女と出会う前のひとりぼっちのじぶんに戻ってしまう。

 この感情は、この先もきっと彼女にだけ抱くもの。もう確信していた。

 どくんと心臓が弾む。心臓が全身に血を巡らせるためのその一音は、まるで僕の背中を押すかのように強く響く。

「……あのさ」

「んー?」

「これ、あげる」

 僕は後ろ手に隠していた小さな包みを、彼女の前に突き出した。

「えっ、なになに?」

 僕が差し出した手のなかのものは、まだ袋に包まれている。それだというのに、桜はすでに瞳を煌めかせていた。

 まるで、ずっとほしかったおもちゃを初めて与えられた子どものようにはしゃぐ桜に、やっぱり買ってよかったと思う。

 包みからキーホルダーを取り出すと、桜は声を上げた。

「わぁっ黒猫! しかも桜だっ!!」

 開けていい? のひとこともなく中身を確認する彼女があまりにも彼女らしい。

「くれるの? いいの? 本当にいいの?」

 桜は大きな瞳を嬉しそうに瞬かせて、何度も僕に確認する。

「だから、あげるってば」

 そんなに喜ばれると逆にこちらが恥ずかしくなってくる。

 桜の笑顔は不思議だ。

 真冬にようやく差した春色の陽のような、優しいあたたかみがある。

 ずっと、この子のそばにいたい。

 本人を前に、あらためて桜のことが好きだと自覚する。

「ねぇ桜。あのさ、僕……ずっと君に言いたいことがあったんだ」

「言いたいこと? なに?」

 脈動が加速していく。

「…………」

 ふう、と一度息を吐き、意を決して彼女を見つめた。

「僕は、君のことが好きだよ」

 ようやく言えた。なにも飾っていない、ありのままの本心を、彼女に。

 彼女の秘密についてはほとんどが分からないまま。当然だ。

 僕たちはまだ出会ったばかりで、彼女だって、僕のほとんどを知らない。

 これから知っていく。それでいい。僕たちの時間はまだ始まったばかりなのだから。

「だから……」

 言葉を続けようと彼女の顔を見て、息を呑む。

 ――しかし、桜は思いがけない顔をしていた。

 まるで、きれいなガラスにヒビが入ったときのような。

 嬉しいというより、悲しさが滲んだ心もとない顔。

 とても言葉を続けられなかった。

「……ごめん」

 返ってきたのは、たった三文字。だけど、僕を絶望に突き落とすにはじゅうぶん過ぎる三文字だった。

「汐風くんの気持ちはすごく嬉しい。でも、そういうことならこれは受け取れない」

「え……どうして」

「私はね、もうすぐいなくなるから」

 頭が真っ白になる。

「どういうこと?」

「そのままの意味だよ。私はもうすぐいなくなるの。だから、私のことは忘れて」

「忘れるって……そんなの、できるわけ」

「ごめんね、これは返すね。ばいばい。汐風くん」

 桜は僕にキーホルダーを返すと、逃げるように神社を出ていってしまった。

 残された僕はひとり、その場で呆然と立ち尽くした。

 ――ばいばい。

 桜はそう言った。またね、ではなく。

 突き返されてしまったキーホルダーを見下ろして、僕は途方に暮れた。

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