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首なし校長 ~卒業式まで、あと一人~

作者: しおり 雫
掲載日:2025/10/24

私の転校してきた中学校は、時間の澱が溜まった水槽のような場所だった。


ひび割れたコンクリートの壁を蔦が覆い、窓ガラスはどれも微妙に歪んでいて、廊下から見える景色をほんの少しだけ揺らがせる。

校舎に足を踏み入れるたびに、古い木と埃と、それから微かなカビの匂いがした。


それは誰かの記憶が腐って発酵したような、甘く湿った匂いだった。


父の仕事の都合でこの海沿いの小さな町に越してきたのは、中学三年生の秋だった。

すでに出来上がったクラスの輪の中に、私の入る隙間はどこにもなかった。

私はいつも窓際の席から、校庭の隅で錆びついたまま放置されている朝礼台を眺めていた。

まるで自分みたいだ、と思った。誰からも忘れられ、雨に打たれ、ただそこに在るだけのもの。


昼休みの放送は、いつもノイズ混じりだった。

放送委員の声が、ざらついた砂嵐の向こうから聞こえてくるみたいに不明瞭で、リクエストされた流行りの曲も、ここでは何十年も前の古い歌のように色褪せて聞こえた。

床はワックスで黒く光っているけれど、歩くとみしり、みしりと年老いた獣のような呻き声をあげる。

この学校のすべてが、過去という名の薄い膜に覆われているようだった。


そんな日常の中で、私は一つの噂を耳にした。

それは、掃除の時間に、箒の先で床の染みを擦っていた女子生徒たちが、ひそひそと交わしていた会話だった。


「ねえ、知ってる? 卒業式の夜のこと」

「首なし校長?」

「そう。体育館の電気が全部消えた後、壇上にすっと現れるんだって。首のない、校長の身体が」


彼女たちの声は、恐怖よりもむしろ、伝統行事について語るような奇妙な親密さを帯びていた。

首なし校長は、卒業生を祝福するために現れるのだという。

そして、気に入った生徒を一人、次の年の卒業式まで一緒に学校に残してくれるのだ、と。

それは、永遠に卒業できない呪いだと、誰かが囁いた。


私は掃除の手を止め、彼女たちの会話に耳を澄ませた。

馬鹿げた都市伝説。子供じみた怪談。

そう思うのに、その話はこの古びた校舎の空気によく馴染んでいた。

まるで、壁の染みや床の傷と同じくらい、当たり前にここに存在しているもののように感じられた。


それから私は、校長先生の姿を意識して探すようになった。

全校集会で話す校長は、小柄で温厚そうな、白髪の混じった初老の男性だった。彼の話はいつも長くて退屈だったが、私は彼の首筋のあたりをじっと見つめていた。その首が、当たり前のように胴体と繋がっていることに、言いようのない違和感を覚えるようになっていた。




季節は冬に移り、卒業までの残り時間を告げる日めくりカレンダーの数字が、少しずつ小さくなっていく。

私の孤独は深まるでもなく、薄まるでもなく、ただ冷たい空気のようにそこにあり続けた。


ある日の放課後だった。

私は日直の仕事で、誰もいなくなった教室の窓を閉めて回っていた。

夕暮れの光が、埃の舞う教室に長い縞模様の影を落としている。

最後の窓を閉め、鍵をかけようとした時、窓枠の隅に何かが落ちているのに気がついた。


それは、一本の古びた鍵だった。


真鍮製だろうか、鈍い金色をしていて、持ち手の部分は簡素な円形になっている。

全体が赤茶けた錆に覆われ、長い間忘れ去られていたことを物語っていた。


私はそれを拾い上げた。

ひんやりとした金属の感触が、指先に伝わる。


こんな鍵が、なぜ教室の窓枠に?


職員室に届けるべきだろう。そう頭では分かっていた。

でも、私の足は動かなかった。


その鍵は、まるで私に拾われるのを待っていたかのように思えた。

この学校の、何か深い場所に繋がっているような、不思議な引力を感じた。


私は誰にも言わず、その鍵を制服のポケットにしまった。

心臓が少しだけ速く脈打っていた。


その日から、教師たちの視線が気になり始めた。


特に、教頭先生の視線は執拗だった。

彼は廊下ですれ違うたび、何かを探るような目で私を一瞥し、そして私の首のあたりで僅かに視線を止めるのだ。


ただの気のせいかもしれない。自意識過剰なだけだ。

そう自分に言い聞かせても、一度芽生えた疑念は消えなかった。


彼らは何かを知っていて、何かを隠している。

そして、私がその鍵を持っていることにも、気づいているのではないだろうか。


鍵は、私の孤独な放課後のお守りになった。

ポケットの中でその冷たい輪郭をなぞっていると、自分がこの学校の秘密に一歩だけ近づけたような気がした。


そして、ある時ふと、一つの考えが頭に浮かんだ。


この鍵は校長室の物ではないだろうか。


一階の突き当たりにあるその部屋は、いつも固く扉が閉ざされている。

在校生は立ち入り禁止で、現校長も普段は隣の応接室を使っていると聞いた。

あの扉の鍵穴に、この鍵は合うのではないだろうか。


衝動は、雪玉が坂を転がるように、日ごとに大きくなっていった。


三月の、風の冷たい放課後。

卒業式の練習が終わり、ほとんどの生徒が帰り支度を始めていた。

私は腹痛を装って保健室へ行き、頃合いを見計らって校舎へと戻った。

しん、と静まり返った廊下。

私の足音だけが、やけに大きく響く。


目的の場所は、一階の渡り廊下の先にある校長室だった。

分厚い木製の扉には、曇りガラスがはめ込まれ、『校長室』と旧字体で書かれたプレートが掲げられている。

私は周囲に誰もいないことを確かめ、ポケットからあの鍵を取り出した。

心臓が早鐘を打っている。


震える手で鍵を鍵穴に差し込むと、吸い込まれるように奥まで入った。

まるで、このために作られた鍵であるかのように。

ゆっくりと回す。

カチリ、と乾いた音がして、錠の外れる感触が伝わってきた。


扉をゆっくりと開ける。

隙間から、埃と古い紙の匂いが流れ出してきた。

中を覗くと、部屋は夕暮れの薄明かりの中に沈んでいた。

私は息を殺して中に滑り込み、そっと扉を閉めた。


その場所は不思議な空間で、まるでそこだけ時間が止まっているように見えた。


重厚な執務机、革のひび割れたソファ、天井まで届く本棚。

どれもが分厚い埃の層に覆われている。

壁にかけられた振り子時計の針は、四時十分を指したまま止まっていた。


そして、私はそれを見つけた。

部屋の壁一面に、歴代校長のものらしき肖像画がずらりと並んでいた。

しかし、そのどれもが異様だった。

額縁の中の人物は、きっちりとモーニングを着込んでいるのに、首から上が、ない。意図的に切り取られたのか、あるいは黒い絵の具で塗りつぶされたのか。


その顔があったはずの場所は、ただ深い、昏い闇が広がっているだけだった。

それは不在の証明というより、そこに「何もないこと」が在るという、奇妙な存在感を放っていた。


その不気味な光景に、私は息を呑んだ。

噂は、本当だったのだ。

この学校には、本当に「首なし校長」が存在するのだ。


机の上に、一冊の古い日誌が置かれているのが目に入った。

手に取ると、表紙の革は乾燥してぱりぱりと音を立てた。

埃を払い、ページをめくる。

そこには、震えるようなインクの文字で、この学校の秘密が綴られていた。


『……今年も、その日が近づいている。我々は、新しい“器”を選ばねばならない』


『この学校は、土地の古い“何か”の上に建てられている。その力を鎮め、生徒たちを守るには、人柱が必要なのだ。初代校長が自らを捧げて以来、それは我々の努めとなった』


『“校長”は、学校そのものになる。その魂は校舎に溶け込み、永劫の時をここで過ごす。卒業という解放を知ることなく、ただ見守り続ける存在として』


『選ばれるのは、この場所に強い思念を残す者。あるいは、誰からも惜しまれず、静かに消えることができる者。孤独な魂は、この校舎にとって極上の贄となる……』


日誌を読んでいくうちに、私の全身から血の気が引いていくのが分かった。

これは儀式なのだ。

卒業式の夜に行われる、新しい人柱を選ぶための、静かで厳かな儀式。

首なし校長とは、怪談などではない。

この学校の平穏を維持するための、悲しいシステムそのものだった。


そして、最後の一文に、私の目は釘付けになった。


『今年の候補者は、秋に都心から来た転校生だ。彼女の孤独の影は、この役目にふさわしいほどに濃い』


日誌が、手から滑り落ちた。

床に落ちたそれが立てた乾いた音が、止まった部屋の中に虚しく響いた。


この日誌に書かれているのは私のことだ。

最初から、すべて、決まっていたのだ。


私がこの町に来たことも、この学校に転校してきたことも、そして、あの鍵を拾ったことさえも。

すべては、私をこの場所へ導くための、仕組まれた筋書きだったのだろうか。



校長室を出た後、世界はそれまでと全く違って見えた。


廊下の壁の染みも、きしむ床の音も、窓の外で揺れる木の枝も、すべてが私を監視して嘲笑っているように感じられた。


生徒たちの何気ない会話も、教師たちの事務的な視線も、すべてが巨大な儀式の一部であり、私という主役を舞台に上げるための小道具のように思えた。


私は選ばれていたのだ。


恐怖よりも先に、奇妙な納得があった。

このどうしようもない孤独こそが、私がこの場所に来るためのたった一つの資格だったのだ。

誰からも必要とされず、誰の記憶にも深く刻まれることなく、静かに消えていくのに、私はあまりにも都合のいい存在だった。


卒業式までの数日間、私はまるで夢の中を歩いているようだった。

周囲の音は曇っていて遠く、景色は白んで見えた。


クラスメイトが卒業アルバムに寄せ書きをし合っているのを、私はただぼんやりと眺めていた。

誰も、私のアルバムにペンを走らせようとはしなかった。

それでいい、と思った。私の思い出は、ここに置いていくのだから。


教頭先生と廊下ですれ違った時、彼は初めて私に向かって微かに微笑みを向けた。

その目には、憐れみと、そしてどこか安堵のような色が浮かんでいた。

まるで、長年の気掛かりがようやく片付いたとでも言うように。


卒業式の前日、美術室の前を通りかかった。

扉が少しだけ開いていて、中から絵の具の匂いがした。

そっと覗くと、美術教師がイーゼルに向かっていた。

キャンバスに描かれていたのは、モーニングを着た人物の肖像画だった。

そして、その顔の部分は、まだ真っ白な空白のままだった。


それはきっと私の肖像画だ。

心臓が凍りつくような感覚。


でも、私は声を上げることも、逃げ出すこともしなかった。

ただ静かにその場を離れた。すべてを受け入れなければならない。

それが私の役目なのだから。


夜、自分の部屋のベッドで横になりながら、私はこれまでの短い人生を振り返っていた。

楽しかった思い出も、悲しかった思い出も、すべてが薄い膜の向こう側にある出来事のようだ。


私はもう、あちら側の人間ではない。

私はこれから、この学校と一つになり、その記憶そのものになるのだ。

不思議と、涙は出なかった。



卒業式の日、空はどこまでも高く、青く晴れ渡っていた。

体育館に響く『仰げば尊し』の合唱も、卒業証書を受け取る校長の手の温もりも、すべてが現実感を失っていた。

私はただ、決められた手順をこなす操り人形のように、式典が終わるのを待っていた。


最後のホームルームが終わり、クラスメイトたちが泣きながら、あるいは笑いながら教室を出ていく。

誰も私に声をかけなかった。私は自分の席に座ったまま、窓の外を眺めていた。

空には一番星が瞬き始めている。


誰もいなくなった校舎は、静寂に包まれていた。

私はゆっくりと立ち上がり、自分の教室に別れを告げた。

そして、吸い寄せられるように、一階の校長室へと向かった。


その扉には鍵がかかっていなかった。


中に入ると、部屋はあの日と同じように静まり返っていた。

ただ一つ違ったのは、壁の肖像画だ。


空白だった最後の額縁に、一枚の絵がはめ込まれていた。私の顔。

無表情で、どこか遠くを見つめている私の肖像画。


しかし、その首から上は、やはり深い闇で塗りつぶされていた。


その肖像画の前に、誰かが立っていた。

背の高い、黒いモーニング姿。

しかし、その首から上には、何もなかった。


首なし校長。

彼は恐ろしい怪物ではなかった。

ただ静かに、そこに佇んでいた。

その姿からは、恐怖よりも、永い時間を耐え抜いてきた者の、深い哀しみと疲労のようなものが感じられた。


彼はゆっくりと、私の方へ向き直った。

そして、白い手袋をはめた手を、そっと私に差し出した。

その手の中にあったのは、あの古びた、錆びついた鍵だった。


私は、それを受け取った。

鍵は、私の手のひらにしっくりと馴染んだ。


それと同時に、ふっと身体が軽くなるような、奇妙な感覚に襲われた。

私の意識が、この身体から離れて、校舎全体に溶けていくような。

壁の染みに、床の傷に、窓ガラスの歪みに、私の記憶が染み込んでいく。


首なし校長だったであろう影は、ゆっくりと薄れ、やがて闇の中に溶けて消えた。

まるで、役目を終えた役者が舞台から去るように。


私は一人、部屋に残された。


重厚な執務机の椅子に、ゆっくりと腰を下ろす。革の軋む音がした。

窓の外では、夜の闇が町を包み込んでいる。

校庭の桜の蕾が、月の光を浴びて白く浮かび上がっていた。


私の首は、まだここにあるのだろうか。

確かめようとして、手を伸ばす。でも、その感覚はどこか遠い。

自分の身体が、自分のものではなくなっていく。

私は、この学校そのものになったのだ。


これから私は、幾千の春と、幾千の卒業を、この窓から見送るのだろう。

新しい生徒たちがやってきて、そして去っていく。

彼らの笑い声も、ささやかな悩みも、淡い恋も、すべてを私は知っている。

でも、誰一人として、私の存在に気づくことはない。

今までも、これからも、ずっと。


それでいいのだ。


静かに、ただ、静かに。

私はここで、永遠に学校を見守り続ける。


新しい、首なし校長として。

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