首なし校長 ~卒業式まで、あと一人~
私の転校してきた中学校は、時間の澱が溜まった水槽のような場所だった。
ひび割れたコンクリートの壁を蔦が覆い、窓ガラスはどれも微妙に歪んでいて、廊下から見える景色をほんの少しだけ揺らがせる。
校舎に足を踏み入れるたびに、古い木と埃と、それから微かなカビの匂いがした。
それは誰かの記憶が腐って発酵したような、甘く湿った匂いだった。
父の仕事の都合でこの海沿いの小さな町に越してきたのは、中学三年生の秋だった。
すでに出来上がったクラスの輪の中に、私の入る隙間はどこにもなかった。
私はいつも窓際の席から、校庭の隅で錆びついたまま放置されている朝礼台を眺めていた。
まるで自分みたいだ、と思った。誰からも忘れられ、雨に打たれ、ただそこに在るだけのもの。
昼休みの放送は、いつもノイズ混じりだった。
放送委員の声が、ざらついた砂嵐の向こうから聞こえてくるみたいに不明瞭で、リクエストされた流行りの曲も、ここでは何十年も前の古い歌のように色褪せて聞こえた。
床はワックスで黒く光っているけれど、歩くとみしり、みしりと年老いた獣のような呻き声をあげる。
この学校のすべてが、過去という名の薄い膜に覆われているようだった。
そんな日常の中で、私は一つの噂を耳にした。
それは、掃除の時間に、箒の先で床の染みを擦っていた女子生徒たちが、ひそひそと交わしていた会話だった。
「ねえ、知ってる? 卒業式の夜のこと」
「首なし校長?」
「そう。体育館の電気が全部消えた後、壇上にすっと現れるんだって。首のない、校長の身体が」
彼女たちの声は、恐怖よりもむしろ、伝統行事について語るような奇妙な親密さを帯びていた。
首なし校長は、卒業生を祝福するために現れるのだという。
そして、気に入った生徒を一人、次の年の卒業式まで一緒に学校に残してくれるのだ、と。
それは、永遠に卒業できない呪いだと、誰かが囁いた。
私は掃除の手を止め、彼女たちの会話に耳を澄ませた。
馬鹿げた都市伝説。子供じみた怪談。
そう思うのに、その話はこの古びた校舎の空気によく馴染んでいた。
まるで、壁の染みや床の傷と同じくらい、当たり前にここに存在しているもののように感じられた。
それから私は、校長先生の姿を意識して探すようになった。
全校集会で話す校長は、小柄で温厚そうな、白髪の混じった初老の男性だった。彼の話はいつも長くて退屈だったが、私は彼の首筋のあたりをじっと見つめていた。その首が、当たり前のように胴体と繋がっていることに、言いようのない違和感を覚えるようになっていた。
季節は冬に移り、卒業までの残り時間を告げる日めくりカレンダーの数字が、少しずつ小さくなっていく。
私の孤独は深まるでもなく、薄まるでもなく、ただ冷たい空気のようにそこにあり続けた。
ある日の放課後だった。
私は日直の仕事で、誰もいなくなった教室の窓を閉めて回っていた。
夕暮れの光が、埃の舞う教室に長い縞模様の影を落としている。
最後の窓を閉め、鍵をかけようとした時、窓枠の隅に何かが落ちているのに気がついた。
それは、一本の古びた鍵だった。
真鍮製だろうか、鈍い金色をしていて、持ち手の部分は簡素な円形になっている。
全体が赤茶けた錆に覆われ、長い間忘れ去られていたことを物語っていた。
私はそれを拾い上げた。
ひんやりとした金属の感触が、指先に伝わる。
こんな鍵が、なぜ教室の窓枠に?
職員室に届けるべきだろう。そう頭では分かっていた。
でも、私の足は動かなかった。
その鍵は、まるで私に拾われるのを待っていたかのように思えた。
この学校の、何か深い場所に繋がっているような、不思議な引力を感じた。
私は誰にも言わず、その鍵を制服のポケットにしまった。
心臓が少しだけ速く脈打っていた。
その日から、教師たちの視線が気になり始めた。
特に、教頭先生の視線は執拗だった。
彼は廊下ですれ違うたび、何かを探るような目で私を一瞥し、そして私の首のあたりで僅かに視線を止めるのだ。
ただの気のせいかもしれない。自意識過剰なだけだ。
そう自分に言い聞かせても、一度芽生えた疑念は消えなかった。
彼らは何かを知っていて、何かを隠している。
そして、私がその鍵を持っていることにも、気づいているのではないだろうか。
鍵は、私の孤独な放課後のお守りになった。
ポケットの中でその冷たい輪郭をなぞっていると、自分がこの学校の秘密に一歩だけ近づけたような気がした。
そして、ある時ふと、一つの考えが頭に浮かんだ。
この鍵は校長室の物ではないだろうか。
一階の突き当たりにあるその部屋は、いつも固く扉が閉ざされている。
在校生は立ち入り禁止で、現校長も普段は隣の応接室を使っていると聞いた。
あの扉の鍵穴に、この鍵は合うのではないだろうか。
衝動は、雪玉が坂を転がるように、日ごとに大きくなっていった。
三月の、風の冷たい放課後。
卒業式の練習が終わり、ほとんどの生徒が帰り支度を始めていた。
私は腹痛を装って保健室へ行き、頃合いを見計らって校舎へと戻った。
しん、と静まり返った廊下。
私の足音だけが、やけに大きく響く。
目的の場所は、一階の渡り廊下の先にある校長室だった。
分厚い木製の扉には、曇りガラスがはめ込まれ、『校長室』と旧字体で書かれたプレートが掲げられている。
私は周囲に誰もいないことを確かめ、ポケットからあの鍵を取り出した。
心臓が早鐘を打っている。
震える手で鍵を鍵穴に差し込むと、吸い込まれるように奥まで入った。
まるで、このために作られた鍵であるかのように。
ゆっくりと回す。
カチリ、と乾いた音がして、錠の外れる感触が伝わってきた。
扉をゆっくりと開ける。
隙間から、埃と古い紙の匂いが流れ出してきた。
中を覗くと、部屋は夕暮れの薄明かりの中に沈んでいた。
私は息を殺して中に滑り込み、そっと扉を閉めた。
その場所は不思議な空間で、まるでそこだけ時間が止まっているように見えた。
重厚な執務机、革のひび割れたソファ、天井まで届く本棚。
どれもが分厚い埃の層に覆われている。
壁にかけられた振り子時計の針は、四時十分を指したまま止まっていた。
そして、私はそれを見つけた。
部屋の壁一面に、歴代校長のものらしき肖像画がずらりと並んでいた。
しかし、そのどれもが異様だった。
額縁の中の人物は、きっちりとモーニングを着込んでいるのに、首から上が、ない。意図的に切り取られたのか、あるいは黒い絵の具で塗りつぶされたのか。
その顔があったはずの場所は、ただ深い、昏い闇が広がっているだけだった。
それは不在の証明というより、そこに「何もないこと」が在るという、奇妙な存在感を放っていた。
その不気味な光景に、私は息を呑んだ。
噂は、本当だったのだ。
この学校には、本当に「首なし校長」が存在するのだ。
机の上に、一冊の古い日誌が置かれているのが目に入った。
手に取ると、表紙の革は乾燥してぱりぱりと音を立てた。
埃を払い、ページをめくる。
そこには、震えるようなインクの文字で、この学校の秘密が綴られていた。
『……今年も、その日が近づいている。我々は、新しい“器”を選ばねばならない』
『この学校は、土地の古い“何か”の上に建てられている。その力を鎮め、生徒たちを守るには、人柱が必要なのだ。初代校長が自らを捧げて以来、それは我々の努めとなった』
『“校長”は、学校そのものになる。その魂は校舎に溶け込み、永劫の時をここで過ごす。卒業という解放を知ることなく、ただ見守り続ける存在として』
『選ばれるのは、この場所に強い思念を残す者。あるいは、誰からも惜しまれず、静かに消えることができる者。孤独な魂は、この校舎にとって極上の贄となる……』
日誌を読んでいくうちに、私の全身から血の気が引いていくのが分かった。
これは儀式なのだ。
卒業式の夜に行われる、新しい人柱を選ぶための、静かで厳かな儀式。
首なし校長とは、怪談などではない。
この学校の平穏を維持するための、悲しいシステムそのものだった。
そして、最後の一文に、私の目は釘付けになった。
『今年の候補者は、秋に都心から来た転校生だ。彼女の孤独の影は、この役目にふさわしいほどに濃い』
日誌が、手から滑り落ちた。
床に落ちたそれが立てた乾いた音が、止まった部屋の中に虚しく響いた。
この日誌に書かれているのは私のことだ。
最初から、すべて、決まっていたのだ。
私がこの町に来たことも、この学校に転校してきたことも、そして、あの鍵を拾ったことさえも。
すべては、私をこの場所へ導くための、仕組まれた筋書きだったのだろうか。
校長室を出た後、世界はそれまでと全く違って見えた。
廊下の壁の染みも、きしむ床の音も、窓の外で揺れる木の枝も、すべてが私を監視して嘲笑っているように感じられた。
生徒たちの何気ない会話も、教師たちの事務的な視線も、すべてが巨大な儀式の一部であり、私という主役を舞台に上げるための小道具のように思えた。
私は選ばれていたのだ。
恐怖よりも先に、奇妙な納得があった。
このどうしようもない孤独こそが、私がこの場所に来るためのたった一つの資格だったのだ。
誰からも必要とされず、誰の記憶にも深く刻まれることなく、静かに消えていくのに、私はあまりにも都合のいい存在だった。
卒業式までの数日間、私はまるで夢の中を歩いているようだった。
周囲の音は曇っていて遠く、景色は白んで見えた。
クラスメイトが卒業アルバムに寄せ書きをし合っているのを、私はただぼんやりと眺めていた。
誰も、私のアルバムにペンを走らせようとはしなかった。
それでいい、と思った。私の思い出は、ここに置いていくのだから。
教頭先生と廊下ですれ違った時、彼は初めて私に向かって微かに微笑みを向けた。
その目には、憐れみと、そしてどこか安堵のような色が浮かんでいた。
まるで、長年の気掛かりがようやく片付いたとでも言うように。
卒業式の前日、美術室の前を通りかかった。
扉が少しだけ開いていて、中から絵の具の匂いがした。
そっと覗くと、美術教師がイーゼルに向かっていた。
キャンバスに描かれていたのは、モーニングを着た人物の肖像画だった。
そして、その顔の部分は、まだ真っ白な空白のままだった。
それはきっと私の肖像画だ。
心臓が凍りつくような感覚。
でも、私は声を上げることも、逃げ出すこともしなかった。
ただ静かにその場を離れた。すべてを受け入れなければならない。
それが私の役目なのだから。
夜、自分の部屋のベッドで横になりながら、私はこれまでの短い人生を振り返っていた。
楽しかった思い出も、悲しかった思い出も、すべてが薄い膜の向こう側にある出来事のようだ。
私はもう、あちら側の人間ではない。
私はこれから、この学校と一つになり、その記憶そのものになるのだ。
不思議と、涙は出なかった。
卒業式の日、空はどこまでも高く、青く晴れ渡っていた。
体育館に響く『仰げば尊し』の合唱も、卒業証書を受け取る校長の手の温もりも、すべてが現実感を失っていた。
私はただ、決められた手順をこなす操り人形のように、式典が終わるのを待っていた。
最後のホームルームが終わり、クラスメイトたちが泣きながら、あるいは笑いながら教室を出ていく。
誰も私に声をかけなかった。私は自分の席に座ったまま、窓の外を眺めていた。
空には一番星が瞬き始めている。
誰もいなくなった校舎は、静寂に包まれていた。
私はゆっくりと立ち上がり、自分の教室に別れを告げた。
そして、吸い寄せられるように、一階の校長室へと向かった。
その扉には鍵がかかっていなかった。
中に入ると、部屋はあの日と同じように静まり返っていた。
ただ一つ違ったのは、壁の肖像画だ。
空白だった最後の額縁に、一枚の絵がはめ込まれていた。私の顔。
無表情で、どこか遠くを見つめている私の肖像画。
しかし、その首から上は、やはり深い闇で塗りつぶされていた。
その肖像画の前に、誰かが立っていた。
背の高い、黒いモーニング姿。
しかし、その首から上には、何もなかった。
首なし校長。
彼は恐ろしい怪物ではなかった。
ただ静かに、そこに佇んでいた。
その姿からは、恐怖よりも、永い時間を耐え抜いてきた者の、深い哀しみと疲労のようなものが感じられた。
彼はゆっくりと、私の方へ向き直った。
そして、白い手袋をはめた手を、そっと私に差し出した。
その手の中にあったのは、あの古びた、錆びついた鍵だった。
私は、それを受け取った。
鍵は、私の手のひらにしっくりと馴染んだ。
それと同時に、ふっと身体が軽くなるような、奇妙な感覚に襲われた。
私の意識が、この身体から離れて、校舎全体に溶けていくような。
壁の染みに、床の傷に、窓ガラスの歪みに、私の記憶が染み込んでいく。
首なし校長だったであろう影は、ゆっくりと薄れ、やがて闇の中に溶けて消えた。
まるで、役目を終えた役者が舞台から去るように。
私は一人、部屋に残された。
重厚な執務机の椅子に、ゆっくりと腰を下ろす。革の軋む音がした。
窓の外では、夜の闇が町を包み込んでいる。
校庭の桜の蕾が、月の光を浴びて白く浮かび上がっていた。
私の首は、まだここにあるのだろうか。
確かめようとして、手を伸ばす。でも、その感覚はどこか遠い。
自分の身体が、自分のものではなくなっていく。
私は、この学校そのものになったのだ。
これから私は、幾千の春と、幾千の卒業を、この窓から見送るのだろう。
新しい生徒たちがやってきて、そして去っていく。
彼らの笑い声も、ささやかな悩みも、淡い恋も、すべてを私は知っている。
でも、誰一人として、私の存在に気づくことはない。
今までも、これからも、ずっと。
それでいいのだ。
静かに、ただ、静かに。
私はここで、永遠に学校を見守り続ける。
新しい、首なし校長として。




