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銀の貝殻 by akuma

作者: akuma

~銀の貝殻~


 その女性の様子がおかしいと思ったのは三ノ宮を出てすぐだった。

 僕は始発駅から乗っているので、長椅子の端に座り、いつものように本を開いていると、その女性のからだが、端の手摺りを越えて僕の肩口に被さったように押してきた。朝の通勤ラッシュとは言え、それほどの混雑ではない。見上げると、ドア側の袖壁に背中を付けたまま、ずるずると座り込もうとしていた。

 周りがざわざわとなり、「大丈夫?」とか声が出ていた。 僕は本をふせ、立ち上がり、周りの人に手伝ってもらい、僕の座っていた席に座らせた。


 何も言えずに、ただ手すりに持たれて、小さくそして小刻みに息をしている彼女の顔は、血の気がなく、真っ白に見えた。西宮北口に着く頃、ようやく居ずまいを正して座り、僕に


「ありがとうございました」


と小さい声で言い、彼女は電車を降りて行った。


 朝の電車ではときおり見る光景、若い女性には良くあることだ。

彼女が降りた後はいつもの通勤電車の風景にに戻り、僕も座席に座りなおし本に目落とした。


 

 梅田に着こうと言う頃、背もたれに背を付け座りなおすと、尻の下に何か異物を感じて手を伸ばした。


 手に触れた物を引張り出すと、小さなピアスが出てきた。銀色に輝く貝殻。多分、先ほどの貧血でしゃがみ込んだ彼女の物なんだろう。誰に預ける事も出来ないので、上着のポケットに入れ、後で届けるつもりでいた。そして、そのピアスのことはそのまま忘れてしまった。



 数日後、その日はいつもより遅い電車に乗ったため空いた席がなく、片手に本を持ち、片手はつり革を握り、揺れる電車に身を任せていた。

 三ノ宮の駅に到着し、ドア際の人が降りて行き、新しい乗客をなにげなく見ていると、先日の彼女が乗り込んで来た。

 髪の毛は肩口までのセミロング、艶やかな髪の毛と、キリッとした顔立ち、年は三十代前半というところだろうか、明るいキャメル色のロングコートを着ていた。また前回の時のように、ドア際の袖壁に凭れ、ちょうど僕の正面を向いていた。向こうは僕のことには気が付いていないようで、女性誌の吊り広告をぼんやりと眺めていた。


 僕は、はっ、と思い出し上着のポケットに手を突っ込むと、その小さな金属片を取り出していた。


「これは貴女のものではありませんか?」


 最初、自分に問われている事に気がつかない彼女は、相変わらず吊り広告に目が行っていたが、僕の差し出した手に視線を落とし、目を丸くして驚いたような表情になった。


「これは、私の・・・・・・・」

「先日、具合が悪くなられて、その辺りの席に座った時、落として行かれたんではないですか」


とロングシートの端を指差しながら僕は言った。


「はい、どこで無くしたのかと思っていました」


 彼女は、そのピアスを受け取り、軽く会釈をしながら感謝の言葉を僕に言った。


「ありがとうございます。あの時席を譲ってくれたのはあなたですね」

「いえいえ、たまたますぐ横に座っていましたから・・・・」


僕は胸の前で手を左右に振りながら言った。


「今日は、大丈夫ですか?」

「はい、めったにああいう事はないのですが、仕事で徹夜が続いていたものですから」

「それは大変でしたね。失礼ですが何のお仕事を?」


少し間があり、彼女は一言だけ


「グラフィックデザイナーです」


と彼女は言った。


しかし、その後の言葉は続かなかった。



北口に到着しても彼女は電車を降りなかった。


「今日は西宮北口ではないんですね」

「ええ、本当は梅田まで行くのですが、あの時はベンチで少し休んでいたんです」

「なるほど、車内は空気が悪いですからね」


僕はもう少し話していたかったのだが、後の言葉が続かない。

彼女も


「読書のお邪魔してすみません」


と言ったので、また脇に挟んでいた本を手に取り読み始めた。

しかし、実際には彼女のことが気になり、字面を追っているばかりで、内容はちっとも入ってはいなかった。



 その日から、朝の車内で彼女を見つけるのが、僕の密やかな楽しみになった。ほぼ毎日、同じ電車に乗っているので、かなりの確立で彼女を見つけることができた。

 朝、出会ってもただ挨拶を交わす程度で、それからの進展は願うべくもなかったが、ただ、近く、遠く彼女を見ていられるだけでも嬉しかった。季節が進むにつれて変わっていく彼女の装い、そして、朝の挨拶の時に向けられる、その笑顔が楽しみだった。


 春になり、真新しいスーツを着込んだフレッシュマン・フレッシュウーマンが朝の電車にも乗り込んで来るようになった。その中にあると、彼女はとても落ち着いた大人の女に見える。


 いつものように笑顔で


「おはようございます」


と笑顔で乗り込んで来ると、珍しく向こうから話かけてきた。


「新人さんが多いですね」

「そうですね。まだ初々しいばかりだ」

「私も十何年前はこんなだったんだろうなぁー」

「それは是非見てみたかったですねー」

「こんなおばちゃんじゃダメですか?」

「いえいえ、今もお若いし、綺麗ですよ」

「まぁ、お上手」

「いや、本当に」

「アラフォーの女にはお世辞は通用しませんよ」

「えっ、そんな年にはとても見えませんよ」

「また~」


と言いながら、少しはにかんだように笑っていた。


 確かに、同じような黒っぽいスーツを着ている彼女は、堂々として、とても新人には見えない。 今日はパンツスーツで、いつもの如く筒状の図面入れを肩に掛けている。それだけでも新人のフレッシュウーマン達には格好良く見えるだろう。

 実際には、僕に近い年齢だとわかり、少し嬉しくなった。


 その日の帰り、少し帰りが遅くなり、梅田で電車に乗り込んだのは、9時を回った頃だった。

週末のこの時期のこの時間、車内には酒の匂いが充満している。同僚というべき者が居ない僕は、飲むとしても地元まで帰ってからにしていた。自分では判らないが、他人の酒臭さは如何ともしがたいものがある。


 発車を知らせる電子音が響き、今まさにドアが閉まろうとする時に、彼女が飛び込んできた。少し息を切らしている。

 すぐに僕に気が付き、


「こんばんは」


と彼女は僕の方に、ニッコリと笑みを浮かべ近づいてきた。


「こんばんは、今日はよく会いますね」

「ええ、何となく今日は帰りにも会える気がしていました」

「どうして?」

「なんとなくです」


 ドアが閉まり、電車が動き出すと、ドアを背にして彼女は立っていた。

僕は吊り革を持ち、彼女の前に立っていた。

流れていく車窓に浮かぶ夜景をバックに彼女のシルエットが浮かんでいるように見えた。


「今日は少し早めなんですよ、これでも」

「そうなんですか、僕はいつもより少し遅めです。良く働きますね」

「いえ、今の部署には人が少なくて、あ、でも新しい人が入ってきたから少し楽になるかも」


と彼女は嬉しそうに言った。

 今年の春から、新人さんが自分の部下に付いていると言う。まだ、海のものやら山のものやら分からないが、雑用に煩わされる事はなくなり、少し仕事がはかどるようになった事、四十にしてやっと役付きになったことなど、いつになく饒舌に語ってくれた。

 西宮北口では反対側のドアが開いたので、二人とも三ノ宮が近づくまで気が付かないくらい話に夢中だった。 三ノ宮に着き、


「じゃあ」


と降りる彼女と一緒に電車を降りた。


「どうしたんですか、今日は。お家はもっと先では?」

「明日は休みだから、ちょっと飲んで帰ろうかと思ってたんですよ」

「いいですね。私、ご一緒しても良いかしら、お邪魔でなければ」

「それは全然構わないですが、僕の行くところなんて、ちっともお洒落じゃないし、女性があんまり行くようなところではないですよ」

「ううん、そんなところの方が行ってみたいです。ちゃんと自分の分は払いますから」

「いえ、それならご馳走しますよ。そんな金の掛かるところではないですから」

「誰かと待ち合わせ、とかじゃなかったんですか」

「大丈夫、今日は」

「今日は、というと、大丈夫じゃない時があるんだ」

「そんな、揚げ足を取るような事を」


と苦笑いをすると、彼女も悪戯っぽく笑っていた。



高架下のその店にはイスがない。所謂立ち飲み、というスタイルだ。

と言っても今流行のお洒落な店ではなく、L字のカウンターを囲むように客が暖簾の中に頭を突っ込んでいるだけの、屋台と大差のない店だ。


「オヤジさん、生」

「私も」


 今年70になると言う親父さんは『あいよ』と軽く応えて、すぐにサーバーからビールを注ぎ、僕たちの前に置いた。軽くジョッキを合わせ、小さく『乾杯』と言って泡の中に口を付けた。 車内が暑かったせいで、喉が渇いていた。 一気に半分ほど飲み干して、グラスを置くと、彼女はまだグラスに口を付けていて、僕と同じく半分近くを飲み干してから、


「美味し~い」


と大きな声を出し、ジョッキを置いた。

その大きな声に、離れたところからも『うまいやろ~』と反応するサラリーマンの親父がいた。この店では、女性の客が珍しいのだ。


「ホントに良い飲みっぷりですね」

「喉がカラカラだったから・・・・・」

「僕もです。」


一息ついて、彼女はキョロキョロと周りを見渡していた。


「ここは何か食べるものがあるんですか?」

「ありますよ」

「お品書きみたいな物があるのかと思ったんだけど」

「そんなものはないですよ、目の前に並んでいる物がお品書きの代わりです」


 カウンターの奥には、おでんのステンレスの箱や土手焼き、煮物、焼き物などの鉢が並んでいる。


「おやじさんに言えば、他のも出してくれるけど、何かご要望は?」

「じゃあ、そのアジフライ」

「オヤジさん、アジフライ、二つ。温めて」


『あいよ』とオヤジさんはバットに盛られたアジのフライを二尾、皿に乗せて電子レンジの中に入れた。

数十秒で僕たちの前に湯気の立つアジフライの皿が置かれた。


「ここではね、全然火を使わないんです」

「なぜ?」

「狭いからね。調理は全部、家で奥さんがしているらしいよ」

「そうなんだ」

「でも美味しいでしょ」

「ええ、温めなおしても美味しいフライなんて、きっと揚げたてはもっと美味しいんでしょうね」

「5時きっかりに来たら、揚げたてにありつけるよ」

「そうね、来てみようかしら」



 それから何品かの鉢物を注文し、ジョッキの杯数を重ねた。店の客も減り、店も片付けの時間になったようだった。


「あっ、もうこんな時間か、JRで帰らないといけないな」

「ごめんなさい、気が付かなくて。自分が歩いても帰れるものだから、すっかり落ち着いちゃった」

「いいえ、気に入って貰えて良かった」

「じゃあ、帰りましょうか」

「はい、えっ、とお名前、聞いてなかったですよね」

「そうですよね。私はキョウコ、アンズの子と書いて杏子です」

「僕はシンイチ、真正面の真に漢数字の一」

「名前も知らずに飲みに来てたなんて、可笑しいですよね、フフフっ」

「まあ、そんな事もあってもいいじゃないですか」

「ええ」


と言って、はははっ、と彼女はお腹を押さえて笑っていた。笑い上戸らしい。


 勘定を済ませ、僕たちは、まだ明るく賑やかしい街に出た。

僕は何気なく


「杏子さん」


と声を掛けた。


先に歩いていた彼女が振り返った時、銀色の貝殻が彼女の耳に光っていた。


by 真一



~杏子の場合~


 静岡から東京の専門学校へ進み、彼と出合った。

 その頃は何にも考えずに彼の実家のある神戸に移り住み、職を探し、結婚した。バブルの最中、転職を繰り返し、自らが希望する仕事にも恵まれたが、逆に私生活では惨憺たるものだった。2度の流産を繰り返し、彼の実家からは『仕事にばかり・・・・』と陰口を言われ、最終的には彼の心変わり、浮気が発端となり、離婚する決心をした。


 彼と別れた後も神戸という地に根を張り、いつのまにか20年が経とうとしていた。この街は、自分にとって第二の故郷と言っていいと思っていた。

 不況になり、収入は一時の事を思うと激減していたが、女独り食べていくには十分だったし、長いローンを組みマンションも購入した。これで定年まで働かざるを得ない事にもなったが、仕事には不満もなく、それなりに充実した日々を送っていた、と言えるだろう。


 20代で離婚、30代になっても言い寄る男は数あったが、もともと男に生まれたら良かったのに、と言われるくらい仕事に打ち込んでいたせいもあり、数人の男性と付き合ったこともあったが長続きしなかった。

 自分でも男運がないなぁー、と半ば諦め、40を過ぎた頃には、全くその気もなくなってしまった。たまに、男性に食事に誘われても、それ以上もそれ以下もなかった。



 正月気分が抜けきらない街とは反対に、私は締切期限に迫られていた。

 正月休みの間に殆ど出来上がっていたプレゼンテーション資料も、インフルエンザで休んだ同僚のおかげで、期限に間に合わないかも知れなかった。でも、すべての責任は自分にある。

 一週間近く殆ど寝ない日々が続いた。プレゼンの前日、会社に向かう電車の中で、急に目の前が真っ暗になった。 気が付いたら座席に座っていたが、気分がすぐれないまま、途中下車してベンチに横になり休んでいた。

会社には少し遅れるとだけ連絡を入れ、 一時間近く遅刻して出社した。


「大丈夫ですか?」


と事務のエッちゃんに心配されたが、もう1日、頑張らざるを得ない。

 その日の深夜近く、すべての準備を終えて、会社近くのビジネスホテルに泊まり、朝まで爆酔した。


 当日のプレゼンは、何とか上手く進み、契約の運びになった。


 一仕事終えて気分も楽になると、自分の身なりが酷い物だと気が付いた。髪もぼさぼさ、いつの間にかお気に入りのピアスも片方なくしてしまい、少し落ち込んでいた。気分を一新、休みに美容院にも行き、その帰り、海岸通りの大丸で新しくコートも衝動買いしてしまった。まあ、自分へのご褒美、と言う事で、自分に言い訳していた。


 週の初め、いつもより少し遅めの出勤になったが、相変わらず電車は混んでいた。電車の壁に凭れて、吊り広告を見ていると、目の前に手が差し出されていた。良く見ると、その手の中に、自分のなくした銀のピアスがあった。差し出した手は、メガネを掛けた中年の男性に繋がっていた。


「先日、具合が悪くなられて、その辺りの席に座った時、落として行かれたんではないですか」


と彼は小さな、良く響く声で言った。


「はい、どこで無くしたのかと思っていました。ありがとうございます。あの時席を譲ってくれたのはあなたですね」

「いえいえ、たまたますぐ横に座っていましたから・・・・」

「今日は、大丈夫ですか?」

「はい、めったにああいう事はないのですが、仕事で徹夜が続いていたものですから」


と言うと


「それは大変でしたね。失礼ですが何のお仕事を?」


と聞いてきたが、あんまり係わり合いになりたくないので、


「グラフィックデザイナーです」


と答え、


「読書のお邪魔してすみません」


と話を切るようにした。その中年の男性は、持っていた本を読みだした。


 その中年の(自分も傍から見ると十分に中年なのだが)男性とは朝の電車でよく顔を合わすことになった。

 一言、挨拶を交わすぐらいだったが、それ以上の話はしなかった。彼は毎日のように違う本を携えていた。

時どきメガネを持ち上げ、驚くほどのスピードでページを捲っていた。


 春になり、私の勤める小さな会社にも数人の新人が入社してきた。

私はそのセクションの長として役付けとなり、直属の部下として、この春にデザイン科を卒業した女の子が入ってきた。よく気が付き、少しは役に立ちそうな感じだった。

 それまで何人もの新人が入って来ては


「杏子さんのようになりたいです」


と言いながら一年も持たずに辞めていった文句ばかりの新人につくづく嫌気が差していたが、今度は少し期待が持てそうだった。だが、学校を卒業したばかりの子に、画が書けたからと言ってお金を稼げるのとは別問題だとは、なかなか理解できないようだった。



 その日も、少し心の余裕が出来たのか、自分でも不思議なくらい気分が良かった。いつも朝の通勤に会う中年の男性にも、自分から話しかけていた。


「新人さんが多いですね」

「そうですね。まだ初々しいばかりだ」

「私も十何年前はこんなだったんだろうなぁー」

「それは是非見てみたかったですねー」

「こんなおばちゃんじゃダメですか?」

「いえいえ、今もお若いし、綺麗ですよ」

「まぁ、お上手」

「いや、本当に」

「アラフォーの女にはお世辞は通用しませんよ」

「えっ、そんな年にはとても見えませんよ」

「また~」


 褒められるのは何にしても嬉しいものである。まして、実際の年齢よりも若く思われているというのは嘘でも嬉しい。実際にはその中年男性とさほど変わらない年齢だという事を言うと、本当かどうか分からないが、随分と驚いていた。それまでにも何度も会っているのに、その日に限って終着駅までずっと喋り続けていた。



その日の帰り、部長の


「杏子君、君も一杯付き合わへんか」


と言う言葉を振り切り、早めに退社した。

 ご馳走して貰えるのは嬉しいが、あの舐めるような目つきは未だに背筋が凍るものがある。


「お先に」


と言って飛び出し、駅まで早足に歩き、慌しくベルの鳴る電車に飛び込んだ

目の前に、朝あった姿を見つけた。なんとなく朝の続きが出来そうな気がした。 三ノ宮に着くまで、喋り通しだった。


「じゃあ」


と言って電車を降りると、彼も続いて電車を降りてきた。


「どうしたんですか、今日は。お家はもっと先では?」

「明日は休みだから、ちょっと飲んで帰ろうかと思ってたんですよ」


いつもは、どんなに遅くなっても家で自炊していたが、その日は自分もどこかで食事して帰ろうと思っていたので、


「いいですね。私、ご一緒しても良いかしら、お邪魔でなければ」


と思わず言ってしまった。もっと話していたい、と思っていた自分にも吃驚していた。


「それは全然構わないですが、僕の行くところなんて、ちっともお洒落じゃないし、女性があんまり行くようなところではないですよ」

「ううん、そんなところの方が行ってみたいです。ちゃんと自分の分は払いますから」

「いえ、それならご馳走しますよ。そんな金の掛かるところではないですから」


ちょっと気を利かして


「誰かと待ち合わせ、とかじゃなかったんですか」


と言うと


「大丈夫、今日は」


と引っかかる言い方が帰ってきたので、意地悪して


「今日は、というと、大丈夫じゃない時があるんだ」


と言ってみた。


「そんな、揚げ足を取るような事を」


と、彼は頭を掻きながら笑っていた。その表情は年の割りに可愛いものだった。

 一方でニコニコと笑顔を振りまいている自分に、自分自身が驚いていた。


by 杏子




~はじっこ~


「パンの耳は残さないわよ」

「そうでしょう。あそこがいちばん旨いと思うんや」

「フランスパンも端っこが好き」

「僕も。巻きずしも具のはみ出た端が好きやな」

「私も」

「でもな、長男はそんなとこ食べたらあかん、て子供の頃怒られたよ」

「そうなの?真一さんは長男さんなんだ~、だからおっとりしているのね」

「そうかなぁ~、おっとりしてる?」

「う~ん、しゃかしゃかしてない、て感じかなぁ」

「杏子さんは長女?」

「いいえ、3人姉妹の真ん中」

「えっ、娘3人」

「そうですよ。だから一番しっかりしてる、て言われてる」

「確かに、寄らば切る、ていう感じがあるもんなぁ」

「なぁにそれ」

「褒めてるんですって。黙って立ってると、近寄りがたい美しさがあるなぁ、て思ってさ」

「まぁ~た。上手ねー」

「本当だってー」

「まあいいです、それは」

「でお姉ちゃんとは幾つ違うの?」

「上も下も3才ずつ離れてるの、だから私が高校に入る時、姉は大学、妹は中学。両親は大変だったと思うわ、今となると」

「そうやねー。女三人かー」

「そう、父は無口な人だったけど、時どき、うるさ~いテレビが聞こえん、て私達四人に怒鳴ってた。」

「お母さんもかー」

「そう、母も喋りだしたら止まらない人なの」

「あー、想像が付くわ」

「もう、4人が揃う事なんて、法事の時ぐらいだけど、父の三回忌の時は、久しぶりに夜中まで喋ってた。きっと仏壇越しに、うるさ~い、て怒鳴ってたかもね」

「はははっ、お父さん、亡くなってからも君たちのお喋りに悩まされてるのかー」

「お母さんは今どこにいるの?」

「静岡。妹が結婚して、旦那と一緒に実家で暮らしてるの。旦那も地元の人だから」

「姉さんは?」

「東京。都内にマンションを買っちゃったから動けないのよね」

「杏子さんは静岡に帰らないの?」

「う~ん、関西に知り合いも多いし、住めば都、って本当よね」

「デザインの仕事、て言えば東京じゃないの」

「昔はそうだったけれど、今はパソコンで何でも送れるし、特に私の仕事はどこででも出来るといえば出来るんです。月に一度位は東京に出張するけれど、それは単に本社に顔つなぎ、てぐらいのもの。別に顔をつき合わせてやるほどのものではないわ。東京の空気を吸いに行く、て感じかな・・・・」

「そうやね、必要なのはデータだけだもんね、でも東京転勤、てこともあるでしょう」

「私のクライアントは殆ど関西だから、で、東京へ行け、て言われたら、そく辞めます、て社長に言ってるの、だからそれはない、と思うわ」

「強いね~、さすがだ」

「違うのよ、今の社長は私と同期、前社長、今の会長の息子なのよ。年は彼の方が上だけど、最初は大阪にいたのよ」

「そっかー、きっと社長も君には頭上がらないんやね」

「そうかも知れない。でも、最近、名古屋にはよく行くんだけど、名古屋なら行っても良いかな、て思うけど・・・」

「名古屋、てそんなに良い?」

「何か、のんびりしてるの。それでいて懐が深いような感じ」

「そっかー、僕は沖縄か北海道。夏は北で暮らし、冬に南下する、てのが理想ですね」

「それイイかも。私も行きたい」

「ただ行くだけじゃなくて、そこに住むんだよ」

「うん、それがいい」


「なんか、端っこが好きな二人だなぁー」

「そうよ、端っこが一番おいしいの」


電車は、終着の梅田に到着し、人の波が二人をホームに押し出した。

僕は本のページに指を挟んだまま歩き出した。


by 真一




~プロポーズ~


 いつものように電車に乗り込んで来た杏子さんが、珍しく僕が読んでいる本を覗いて聞いてきた。


「今日はどんな本を読んでいたの」

「サクリファイス。自転車乗りの話」

「自転車乗り?」

「正確に言うと、ロードレースを題材にした小説」

「競輪とは違うの?」

「違うよー。杏子さん、ツールドフランス、て聞いたことない?」

「あるわ。何日も自転車で走るんだよね」

「そう、日本ではそんなに長いレースはないけど、ヨーロッパでは自転車競技が盛んなんだ。国技、て呼べるくらい」

「そうなんだー。自転車で旅行してたって言うから、真一さんもロードレースしてたの?」

「少しだけね。あんまり速くはなかったけど」


そう言ってから、僕は栞紐を挟んで本をとじた。


「読まないの?」


と聞くので


「杏子さんと喋りたいから」


と正直に言ったつもりだが


「遠慮しなくていいのよ」


と言うので、真顔で


「遠慮なんかしてません」


と言うと、


「だったら聞いて貰おうかな」


とニッコリと笑った。


「なんなりと」


と僕は、手を前に出し、わざと大仰に答えた。


「実はね、プロポーズされたの」

「ええーっ」


僕は動揺を押さえつつ、冷静なフリをして聞いた。


「いつ?」

「きのうの夜」

「日曜日に?」

「そう、クライアントの人から電話が掛かってきたの、朝。」


 彼女は自分の方へと僕の上着の袖を引っ張った。あまり周りには聞こえないようにしたかったのだろう。

 彼女が言うには、少し前に仕事をした先の社長さんからの電話だったらしい。


 ただ、『夕食を一緒にしませんか?』

と言う誘いだったので、また新しい企画があるのかなと思い、以前にも、仕事終わりに何度かご馳走になったこともあるので、彼女は何の気負いもなくいつものように出かけた。

 指定されたレストランは大阪の街が一望できる場所にあり、かなり高級そうだったと。

スカートこそ履いていたものの、いつものように黒っぽいスーツを着て出かけたので、

『もっとお洒落すれば良かった』『女の性よね』と自嘲気味に笑い、それからは真剣な眼差しになった。

 前回の仕事の話、他愛無い普通のお喋りをしながら、フルコースのディナーは進んでいった。

彼女は『美味しい物頂けるんだったら、どこへでも行くわよ』って人だから、嬉々として料理を口に運んでいたそうな。

そして、デザートが出た後に、相手が急に真顔になって『結婚してください』と言って、小さな箱に入った指輪を差し出した。


「で、どうしたの?貰ったの」

「まさか、急にそんなこと言われても」


 結局、ちょっと考えさせてくれと、その場しのぎの返事をして帰ってきたのだという。

その社長さん、アパレル関係の仕事をしていて、『お洒落だし、いい男』なんだそうだが、それまでは仕事ということもあって、男性として全然考えていなかったと言う事らしい。


「ねえねえ、どうしたらいいと思う」


『やめとき』と言いたいのをこらえて


「僕に聞かれてもなぁー、自分のことやろ」


と言うと、


「冷たいのねー、話しにくいのを話したのに」

「言いたくてしょうがなかったんじゃないの、ちょっと自慢入ってない?」


僕はちょっと余計な事まで言ってしまった。


「もういいわ、話して損した」


彼女は横を向いて、それ以上は何も話してくれなかった。どうしようもなく、僕は再び本に目を落とした。




その日、会社を出る時に、彼女にメールを送った。


『帰りに一杯どう?』


断わられるかも知れないとは思ったが、このままでは彼女が僕の前から消えてしまいそうな気がした。


『いいわよ、何時?』


と予想外にあっさりとOKの返信が返ってきた。



 時間通り、駅のホームで待っていると彼女が電車から降りてきた。朝の不機嫌は持ち越していなかったようで、にこやかに 、


「お・ま・た・せ」


と言って僕の横に並び歩き出した。



 二人が行くのは殆ど立ち飲みか、それに近いような居酒屋。

周りに何の気兼ねなく、大きな声で喋り、大笑い出来るところばかりだ。僕が連れて行ったお店を気に入って、一人でも時どき顔を覗かせているようで、僕の知らない常連さんから『よっ』と声が掛かったりする。

 なので、最近は


「おじさん、生二つ」


と彼女の方が先に注文をする。

 しばらく他愛のない話で盛り上がり、杯を重ねて少し落ち着いたところで、真顔になり、彼女は言った。


「ごめんなさい」

「何が?」

「今朝のことよ」

「ああ、プロポーズのこと」

「そう、勝手に怒ってた、私」

「べつに気にしてないよ」


嘘だった。


「で、どうするの?」

「自分の事だから、自分で考える」

「その人の事、好きなの」

「さあ、とうなんだろう。気になる?」

「まあ、気になる」


本当はとっても気になる。


「そう、気にしてはくれるんだ」

「そりゃあ気にするよ」


好きな人の事は、という続きは言葉にしなかった。


by 真一





 私だってまだまだ捨てたモンではない、と思う時もあれば、若い子が穿くお尻の見えそうなローライズのジーンズを見ると、私にはとても真似できない、やっぱりオバさんなんだと思ってしまうこともある。

 風呂上りに裸のまま、玄関にある姿見に自分の体を映し、少し弛んだお尻、横に向くとポッコリと出た下腹などを見ると、見なけりゃ良かったと後悔するのに、何かあると確認したくなる。

 これも独り暮らしの気楽さゆえだと思うと、嬉しくもあり悲しくもある。誰かと一緒に暮らしていれば、私の体の変化に言及してくれるだろう。いや、長年連れ添った相手だと、そんな事も気にしないのかも知れない、とも思う。


 会社は土日完全休日の体勢を取ってはいるが、現場の人間はそんな事を言っていられない。

いつもと違いガラ空きで、座って行ける事は良いのだが、いつもは見かける人が居ない通勤電車はすこし寂しい。誰に会うでもないのに、普段とは違いカラフルなワンピースを着てきたのは、気分だけでも休日としておきたかった、ささやかな抵抗だった。誰に抵抗するのかは分からないが・・・・・・


 コンビニで買ったオニギリを遅い昼にして、独りでお茶を淹れ、自分の席でインターネットニュースを眺めながら、時どきメールをチェックする。会社で受けるメールは自宅でも同じ物を受け取る事は出来るのだが、少しでも早く返事を返そうとしている。これも性分なのだ。

 ほぼ毎日、真一からメールが来ている。

たいがい夜半を廻ってから『外見て、今日は満月だ』『暑い、眠れない』などと一方的に書いては来るが、たいがい翌日の朝には電車で会うし、私がそのメールを見るのは朝になってからということが多いので、返信を期待しているわけでもないようだった。

 土曜日の今日は『おはよう、今日は会えないから』と朝の挨拶だけだった。

もう昼を廻っているので『遅よう、月曜日にまた』とだけ返し、他のメールをチェックしていると、広告メールに紛れて、クライアントからのメールがあった。久しぶりのメールだった。


『お久しぶりです。

明日の夕食をご一緒できませんか?』


と短く、用件だけが書かれていた。発信は午後12時10分。つい先ほどだ。

 アパレル関係のこの会社は、このメールを送ってきた若い社長の下、今伸び盛りで急成長をしていると聞いた。

実際、前回の仕事では思う存分やらせて貰えたので、自分としても満足していたし、相手方からも十分なフィーを頂けた。会社としても良いお客さんだった。

 新しいプロジェクトか何かの相談かも知れない、と思い、また、寂しい事に日曜日にそれを断わるだけの理由も用事もなかった。打ち合わせの後、何度か食事に誘われご馳走になったが、紳士的な彼には好感を持っていたので


『はい、喜んで』


早速返信した。

どこでメールを受けているのか分からないが、すぐさま返信が来た。


『それでは、場所は明日、連絡します。

時刻は午後6時で良いでしょうか?』


いつもは場所など会ってから決めるのに、少し不思議には思ったが、


『はい、ご連絡待っております』


と返信し、仕事に戻った。



 おりからの五月晴れ、今日を逃すとまた一週間洗濯物が溜まってしまう。朝早くからタンスを引っ張り出し、早めの衣替えもやるつもりだった。

 朝、メールが来て、待合せ場所は梅田近くだと分かった。

待合せの6時には、家を5時に出ても十分に間に合う。


 タンスの肥やしとなっている衣類を引っ張り出し、しばらく陰干しした後、結局奥の方へ仕舞った。慶事などが減り、着ていくことも稀になって新しく買うこともないが、減る事もない。

 お気に入りのイブニングドレスを服の上から着て、姿見の前に立ち、廻ってみた。

『まだまだ行ける』と呟き、すぐにため息をついて脱いだ。


 洗濯物をすべて畳み終え、クリーニングから戻って来た冬物をクローゼットの奥に仕舞い。

夏に向けての体制を整えると5時近くなっていた。

 遅刻はどんな事があっても絶対にしない。それは性分だった。いつものスーツを着て、戸締りを確認して急いで出かけた。15階だといっても油断はならない。上や下から賊が入ってくる事もあるとテレビで言っていた。



 休日、夕刻の街は、普段とは違いカラフルだった。

 待合せのレストランは、大阪の街を一望できる24階、とてもお洒落で高級そうな構えだった。黒っぽいスーツを着てきた事を少し後悔した。仕事相手とはいえ、休日に呼び出されたのだから、少しくらい羽目を外しても良かったのに・・・・・


 ドアボーイに名前を告げると、彼の待つテーブルへ案内された。

 ベージュ色の上着に薄いベージュのシャツ、ピンク系のネクタイはいつもと違い、随分と若い印象を与える。

『やっぱりワンピースを着てくれば良かった』 と後悔したが、いまさらしようがない。


「すみませんね、お休みのところ呼び出したりして」

「いいえ、家で退屈してましたから」

「そうですか、それは良かった。お久しぶりです」

「お久しぶりです。お変わりありませんでしたか?」

「はい、杏子さんもお元気そうで良かった」

「私はいつも元気ですよ」

「そうですね」


 たかが一月会わなかっただけだったが、相手に同調して愛想していた。にこやかに会食が始まった。


「料理は任せて貰っていいですか?何か嫌いな物ってありましたか?」

「いいえ、特に嫌いな物はないです。お皿は遠慮しますけど」

「分かりました」


と彼は言い、ウェイターと相談して、シェフの今夜のお勧めコースを選び、続いてソムリエを呼んで何か相談していた。奢って貰うのだから、何の文句もない。


 ソムリエがテーブルを離れると、


「彼は昔からの知り合いでね、元は僕の会社でデザイナーをしていたんですよ」

「そうなんですか」

「あまりのワイン好きが昂じてフランスに渡っちゃった。デザイナーとしてもなかなか優秀だったのに」

「料理もデザインもセンスが命、て言いますものね」

「そうです。貴女のセンスも十分に認めていますよ。いっそ、うちでデザイナーとしてやって貰いたいくらいです」

「そんな、上手ですね」

「いえ、本当に・・・・」


 グラスにシャンパンが注がれ、二人で乾杯した。


「再会を祝して」


と言う彼の言葉は大仰だったが、ご機嫌な彼の顔を見ると、そんな事も気にならなかった。


 料理はとても美味しかった。


オードブルに、フォアグラのソテー

ウニと帆立貝とのサラダ

それから、魚料理

オマール海老のクルジェット飾り

と言うものが運ばれ、

メインは

和牛フィレ肉のソテーシャルトルーズ仕立て

と言う物だった。


 デザートは タルト・ショコラ

『最高級バローナ社のチョコレートを使用』

というウェイターの説明があった。


 デザートが運ばれると、ずっと何かしら喋りっぱなしだった彼が無口になって真顔になった。

そして私の目の前に手を差し出した。


「杏子さん、結婚を前提に付き合っていただけませんか?」


と突然言った。手には指輪の入った箱が乗っていた。


『えっ、ええー何でこんな展開になるの?』

と思いながら、5ヵ月前にも似たような状況があったな、と思った。

差し出されたのは、貝殻のピアス、それも元々自分の物だったが・・・・


「貴女に会った時から思っていたんです。あなたが独身だとは思っていなかった。それと、仕事にかこつけて告白するのも嫌だったから、すべて終わってから、と思っていたんです」

「はあ、はい」

「僕の方が年下ですが、年下は嫌ですか?」

「いえ」


詰問に近い問いに、思わず答えてしまった。


「あのー、突然でどう考えていいか正直分からないんです。」

「すみません、そうですよね。突然すぎましたね。」


 見た目もそれなりに良くてお金持ち、なのに女の扱いには慣れていないのか不思議な感じがした。

『もっと若くて良い娘が居るだろうに』

と思ってしまった。


 それまで何を食べていたのか忘れてしまうようなショックで、いつなにをどうしたか分からないまま帰宅した。

 鏡台に向かって座り、

『こんなオバサンに何で?』

と目じりの皺を伸ばしながら呟いていた。



 月曜日、朝いつもの電車に乗り込むと、いつもの彼が居た。

私の姿を認めると、左手に開いていた本を閉じ、にこやかに低く響く声で


「おはよう、今日も元気そうやね」


と言った。何か心の奥でほっとして、聞きたくもないのに


「今日はどんな本を読んでいたの」


と言った。彼はまじめに


「サクリファイス。自転車乗りの話。正確に言うと、ロードレースを題材にした小説


と説明し始めた。


「競輪とは違うの?」

「違うよー。杏子さん、ツールドフランス、て聞いたことない?」

「あるわ。何日も自転車で走るんだよね」

「そう、日本ではそんなに長いレースはないけど、ヨーロッパでは自転車競技が盛んなんだ。」


『私が話したいのはこんな事じゃあないのに、何にも知らないで』

と何故か腹が立ってきた。


「読まないの?」


とわざと聞いてみた。私と一緒の時はいつも本を閉じていることが分かっていながら。

彼は本を閉じ、


「杏子さんと喋りたいから」


と言った。私は少し意地悪に


「遠慮しなくていいのよ」


と言うと、真顔で


「遠慮なんかしてません」


と言ってきた。私の中で、ますますと小悪魔が表に出てきて、


「だったら聞いて貰おうかな」


と言っていた。彼は知ってか知らずか、大げさに手を出して


「なんなりと」


と言った。



 昨日の顛末を話している間、彼は淡々と話を聞いていた。時どき相槌を入れたり、言葉を挟みこんだが、殆ど私が一方的に昨夜の出来事を順を追って話した。そして、彼の顔を覗き込むように


「ねえねえ、どうしたらいいと思う」


と聞いた。彼が


「僕に聞かれてもなぁー、自分のことやろ」


と他人事のように答えたので、無性に腹が立った。

そんなつもりはなかったのに


「言いたくてしょうがなかったんじゃないの、ちょっと自慢入ってない?」


と言われて、ついに私は切れた 。


「もういいわ、話して損した」


と言って、横を向き、二度と話さなかった。彼はしばらくポカン、としていたが、しようがないように本を読み出していた。



 後ろも振り向かず電車を降り、会社に向かう途中、『私、何で怒ってるんだろう』と気が付いた。

彼にとっては確かに『他人事』なのだ。

彼に問うて、いったいどんな答えが聞きたかったのか?

『おめでとう』って言って貰いたかったのか、それとも『やめろ』って言って貰いたかったのか。

どっちにしても、私は嬉しくなかったかも知れない。


 エレベータに乗る頃には、後悔の念が持ち上がってきて

『ちょっと勝手過ぎたかな』と呟いた。


by 杏子





~サクリファイス~


 個人的な事を会社に報告する義務はないのだけれど、相手はお客さんである事、これからも仕事でお付き合いが続くであろう事が予測されたので、プロポーズされたことを、一応、上司に報告することにした。いつもなにかしら私に声を掛けてくる部長には言いたくなかったので、支店長にお昼を狙って、


「支店長、お昼まだでしたらご一緒しませんか?」


とそれとなく声を掛けた。支店長は


「おお、飯田さんからお誘いがあるとは珍しいなぁー、雨が降るのか?」


と言いながらも、何かあるなと分かったようで、ノートパソコンを閉じ、


「何か美味しいものでも見つけたのか」


と言ってニコニコしながら席を立った。


 これまでにも、仕事の事で他の誰にも言えない事を何度か相談していたので、すぐに察して貰えたようだった。支店長は、今はもう還暦近い定年前だが、三年前に転勤で東京からやってきた。同じ静岡出身と言う事もあり、普段から気安く話が出来る人だ。脂ぎった部長とは違い、どこかの大学の教授かなんかにいそうな飄々とした風貌だが、仕事には厳しく、大阪の海千山千の商売人達と渡り合える押しの強さも持ち合わせていた。私もそれに何度か助けられた事がある。肝心なところで逃げを打つ部長とは大違いだった。

 二人あるお子さんは、とっくに独立していて、ご夫婦共々大阪の街へ引っ越して来た。一度、転勤して来られてすぐに、引越しの片付けの手伝いを兼ねてお宅に招待されたが、奥さんも快活な人で、とても話しやすい人だった。


「大阪に来るのがとっても楽しみだったのよ、だから単身赴任なんてさせられなかったわ」


と言う奥さんを2度ほど神戸見物に誘ったが、そのバイタリティーには感服するものがあった。

 普段、物静かな支店長とは正反対で、口から先に生まれてきたのかと思うのは、大阪のオバちゃんにも引けは取らない。ニ三ヶ月もすると大阪で友達を作って、あちこちに出かけているらしく、私にお呼びがかかることも殆どなくなった。恐るべし東京マダム、と言うところだ。



「それは飯田くんの思うようにしたらいい、会社としては何にも言えないよ。もし、それが原因で相手方との関係が良くない方向に行ったとしても、会社の犠牲になる必要は露ほどもない。」


個室の畳間で十割蕎麦をすすりながら、思っていた通りの答えが、支店長から返ってきたことが嬉しかった。


「ただ、個人的には良い話ではないかとも思う。飯田くんがこの会社から去ることは会社としても大いに痛手になると思うが、人の幸せに会社がとやかくは言えないからね。」

「私、結婚しても仕事は辞めませんよ」

「それはそうだろうけれど、社員がクライアントと個人的に関係があるというのは、会社としてうどうなんだろうね。アンフェアな気がしないか?会社同士の話は商売だからいいが、それに夫婦の問題がからんでくるとなると、君が苦しい立場にならないかね」


 それはそうかも知れない、と思った。

 今の会社と取引が続く間は良いかも知れないが、何かトラブルがあったときには、自分にも火の粉が降りかかってくるかも知れないと考えられる。


「何より本人の気持ち、杏子さんがどうしたいのかが一番だね、実際、どうなの?」


 苗字ではなく名前で呼んだのは、個人的な意見を述べたと言うことだったのだろう。言われて改めて考えた。自分はどうしたいんだろうか?


「分からないんです。そんなに個人的に親しくしていた訳でもないし、突然だったから」


それが今の正直な気持ちだった。

 支店長はつゆに蕎麦湯を入れながら言った。


「君がその話を断わったとして、相手の会社が取引をやめたとして、何ら君には責任はないからね、そのことだけははっきりしている。」

「ありがとうございます。そういって頂ければ安心です。」



 私は自分の気持ちだけをはっきりしようと思った。

その時、時どきメガネを持ち上げながら本に目を走らせている横顔が浮かんだ。


「ああー、もう」


と口から漏れたのを、支店長が


「どうかしたか?」


と聞いてきたが、


「いえ、何でもありません」


と答えた。



 あのプロポーズの夜から以降、その夜遅くに一度メールが来てから、彼からの連絡は何もなかった。きっと、メールの返信が来るまで待つ積もりなんだろう。私はその返信をどう答えていいのか考えあぐねていた。


 翌朝、いつものように電車に乗り込むと、いつもの笑顔があった。本のページに人差し指を挟んで、肩に黒いビジネス鞄を掛け、吊り革に掴まって立っていた。ネクタイが少し曲がっているのもいつも通りだった。何度か曲がっているネクタイに手をかけて直したいという衝動に駆られたが、やめておいた。いつも同じように曲がっていると言う事は、彼なりの理由があるかも知れないのだから。


「おはよう」

「おはようございます」


 彼は何か言いたげなそぶりだったが、先に口を開いたのは私の方だった。


「今日はどんな本?」

「え、えっとね、薬屋のタバサ。読み始めたばかりだから内容はまだ良く分からない」

「良く分からない本をどうして選んだの?」

「う~ん、とくに理由はないけど、手にとって2・3ページ読んでみて頭に入るかどうか、かな」

「ふ~ん、実は何でもいいとか?」

「実際はそうかも知れない」


 本を選ぶのに確たる基準が無い。女性を見る目も同じかも知れないと思った。


 会社に着いて、メールを開いてすぐに、


『結婚をすぐには考えられませんが、お友達としてお付合いさせて頂ければ幸いです』


と短く返信した。

5分と経たないうちに


『ありがとう、よろしくお願いします』


と生真面目なメールが返ってきた。


by 杏子




~それぞれの事情~


 あの日から、朝の通勤電車の中、杏子さんと長々と話す事は少なくなった。

 ふと話が途切れ、僕が何かを言おうとすると、


「読書の邪魔だわね、どうぞ続きを読んでください」


と会話をシャットダウンするようなことを言う。僕も何も言わず、素直に本を開く事しかできなかった。

 しばらく本の字を追っているうちに、その世界へ入り込んで周りが見えなくなるので気持ちは落ち着くのだが、いつも胸につかえた骨が残っているような感じが続いていた。



 週一のペースで図書館に本を借りに行く。

一度に十冊まで、二週間の貸し出しが可能だが、一週間で7冊、1日一冊くらいのペースで読んでいるので、毎週のように図書館に出かける。買って後悔するより借りる方が気楽だし、このペースで本を買っていてはお金が幾らあっても足りない。

 僕がこんなに濫読になったのは、妻と別居してからだ。

 子供達が学校を卒業するまでは離婚はしないと言う事にはなったが、一つ屋根の下に暮らすことは出来なかった。僕は、妻と子供達が住むマンションからそう離れていないところにワンルームを借り、独り暮らしを始めた。独りで暮らしたことなどないので、最初は何をするにも面倒だったが、一つの生活パターンが出来上がると時間を持て余すようになった。

 帰ってまで仕事をする気にもなれず、ネットサーフィンやくだらないテレビにも飽き、学生時代のように本ばかり読むようになった。

 通勤は往復二時間半。この間に単行本の一冊くらいは読んでしまう。家に帰ってもコンビニの弁当を食べたら何もすることがなくて、本を手にすることになった。


 月に一回、家族(今は家族と呼べるのか分からないが)と夕御飯を共にする。外食する事もあれば、家に行き、懐かしい妻の手料理を食べる事もあったが、食事が済むと早々に引き上げてきた。子供達はその間にあった出来事を賑やかに喋ってくれるが、妻とは一言二言、言葉を交わすだけだ。

 帰ってきた僕は、また本を手にし、ベッドに横になり、夜更けまで架空の世界に浸っていた。


 そんな生活を杏子さんが変えた。

 四十も半ばを過ぎ、もうすぐ半世紀を迎えようという年齢で、恋、などと言うのも恥ずかしい気持ちになるとは思っていなかった。仕事中も本を読んでいる時も、ふと、杏子さんの笑った顔が浮かんでくる。まるで中学生のころ思いを寄せていた女の子に『おはよう』と声を掛けられた時のように、胸が高鳴った。

 

 しかし、彼女から、プロポーズされた時の話を聞いてから『やっぱりな、あんな魅力的な彼女を世間が放って置くはずはない、中年の何も取り得のないふつ~のサラリーマン、まして、一応戸籍上は妻帯者である僕が何が出来る』、と諦めのような気持ちが持ち上がってきた。


by 真一




 19歳の時、祐介と出合った。彼は大学3年生、21だった。

 専門学校で同じクラスの由美に誘われ、彼の通う大学の学園祭に遊びに行った時、声を掛けられた。

背が高く、いかにも持てそうな風体で、口も軽やかに私達二人を自分が所属するサークルに誘いこんだ。

 落語研究会。所謂、落研のサークルだった。連れて行かれた教室で、派手な和服を着た学生の落語ややたらに裏拳で『なんでやねん』とつっこみを入れる漫才だの、どれをとっても面白くはなかったが、祐介ともう一人の漫才になると、前の席に座っていた女の子達がキャーキャーと騒いでいた。彼は結構人気があった。そのルックスは舞台に上がった誰よりも良かったが、どちらにしても漫才は面白くなかった。

 

 何故か私達部外者二人が落研の打ち上げに参加させられていた。一緒に行っていた由美が祐介を気に入って付いて廻ったところ、二人して参加するはめになったのだ。由美はなれないお酒にべろべろに正体をなくし、祐介と二人で家に届ける事になった。私は家系か、お酒には強かった。


「どうする、もう電車なくなったんじゃないの?」


と私が聞くと、


「君んちに泊めてくれる?」


とあっさりと言う。


「だめ、姉と暮らしているの」

「そっか、それやったらしゃあないね、歩いて帰るわ」


 その時、歩いて帰れるんなら最初からそうすればいいのに、と思ったが、彼の下宿は全く正反対の方向で、大学からはかなり離れたところに住んでいたのだった。後で知ったのだが、それを聞いて、少し悪い気がした。


 彼の部屋に訪れたのは大学が休みに入ろうとする七月の頃だった。意外に整理された六畳一間の部屋は川の傍にあり、翌朝分かったのだが、日当たりも良かった。それから何度となくその部屋を訪れ、姉にはバレばれだったが、姉の方もちゃっかり男を連れ込んでいたので、暗黙の了解が出来ていた。


 祐介は関西に戻って就職すると言った。一人息子で、両親もそれを望んでいるのだと言った。

私も東京ではなく、大阪に仕事先を求めた。『本気でやるなら東京の方がいいよ』と言う教務課の人の話もあったが、その時の私は、とても祐介と離れて暮らすなどとは考えられなかった。

 学校を卒業すると同時に、神戸にある祐介の実家に移り、三月に結婚した。私の両親は、


「何も教え込んでいません、ふつつかな娘で申し訳ありませんが、よろしくお願いします」


と初めて会う祐介の両親に頭を下げていた。『ふつつか』ってことは無いだろう、と思ったが、娘を出す親のそういう決まり文句なのらしい。


 最初に身ごもった時、祐介の母親、私にとって姑は、とても喜んで、


「杏子さん、いつまでも働いてないで、早く辞めて子育てに専念してね」


と言っていたが、二人目を流産してからは、


「仕事ばかりで家事もろくにしないで、子供が産めないんじゃね・・・・」


と影で言っているのを聞いた。それでも仕事は辞めたくなかった。


 祐介から、


「子供が出来た」


と言われたときには、目の前が真っ暗になったが、子孫を残せなかった自分が負けたような気がした。

 その日のうちに離婚届けを貰いに行った。



 祐介とその浮気相手の祐介の会社の女の子は結婚し、一男一女をもうけて、あの姑と暮らしているのだと聞いた。

 誰に聞いたかは忘れてしまったが、腹も立たなかったし、嬉しくもなかった。


 あれだけ好きだった彼なのに、何の感慨も感傷も湧いてこなかったのは、自分でも驚いた。


by 杏子





~狂言~


 落語などと言うと、随分年寄り趣味などと思われるかも知れないが、私は学生の頃から好きだった。

 上方落語の重鎮、桂米朝さんのテープを持っていたくらいだ。

古典芸能に趣味があるのかと言われるとそうでもない。お能を見る機会があったが、それに詳しい人も近くに居なかったし、何を言わんとしているか全く掴めなかった。歌舞伎は古典なのかどうか良く分からないが、そこそこ面白いと思った。だから、狂言を見に行きませんか、とデートの誘いを受けた時も、好奇心が先に立って、


「はい、是非観てみたいです」


と二つ返事をして、私にプロポーズしてきた彼を喜ばせた。


 彼の実家は、江戸時代より代々続く旧家で、呉服を扱う商社のような商いをしていたらしい。

今でこそ、心斎橋にこじんまりとした店舗を構えるだけだが、住まいは今でも蔵が二つもあり、庭の手入れの為に年に数回、庭師がやってくるのだと言う。そういう旧家の生まれだからそんな古典芸能に馴染みがあるのかと思ったら、そうでもないらしい。私が落語が好きだと言ったのを古典芸能好きだと思ったらしい。

 本人はいたって今風の趣味で、自分自身も初めてだと、電話で白状して笑っていた。



 大阪にも能舞台はあるのだが、せっかくだから京都まで足を伸ばそうと言う事になり、彼の車で出かけることとなった。大阪まで出ますから、と言うのに、京都とは反対方向の神戸までわざわざ迎えに来てくれた。その事は彼の優しさと取っていいのだろう。だが、彼がマンションの正面玄関に乗り付けてきたイタリア車のオープンカー(それも真っ赤な)を見て、恥ずかしくなって隠れたい気持ちになった。 こんな車で来るなら、もっと目立たない場所にして欲しかった。マンションの住人の誰が見ているか分からないのだから・・・・・・

 そんな事はお構い無しに、彼は


「お待たせしました、阪神高速が渋滞で混んでて・・・・」


とたかが五分遅れただけの言い訳に、深々と頭を下げて、助手席のドアを開けてくれた。その行為はありがたいけれど、気恥ずかしさと、誰かに見られているのではという警戒心で、そそくさと乗り込み、少し不機嫌な感じで、


「早く行きましょう」


と言った。

 彼は、遅れたことで機嫌が悪いのだと勘違いしたのか、すみません、と何度も言った。

社員300人を抱えて、バリバリと仕事をする普段の彼とは思えないような感じだった。



 幸いにも天気が良く、京都までのドライブはまずまずだった。隣に並んだ車や、信号の度にこちらに目を向けられることを除いては・・・・・

 到着する頃に合わせて、お昼の予約がされていた。丸山公園の近くで車を降り、しばらく歩く、京都らしい佇まいのお店に案内された。


「ここはね、祖父の代から贔屓にしているお店なんです。子供の頃は分からなかったけれど、年を喰うとこんなと

ころの良さが分かってきたような気がする」


と、坊ちゃんぶりをのぞかせて言った。私は


「そうですね、やっぱり和食の方が良くなってきました。私も」


と合わせたが、年喰って、と言うところは余計だ。『悪かったね、私の方が五つも上なのだから、もっと年喰ってるだよ』と言いたかった。でも、出てきたお料理はとても上品な味で、とても満足の出来るものだった。だてに老舗の坊ちゃんをしていないというところか。


 能と狂言は、もともとセットになっていたものらしい。今は狂言を単独で楽しめる事ができるが、能の合間に笑いを取るために演じられた物だから、軽く肩肘張らずに楽しめる物だと言う。私は、独特な節回しの台詞も気にならず、声を出して笑っていた。『あー、これはコントなんだ、音楽付きの』と思うと、ちょっと斬新な気がした。

 シンプルな中に、形式美を追求した能楽堂も美しかった。『あの人も好きかも知れない』と、隣にはいない人を思い出した。


 ぼーっとしていた私に、気が付いたのか


「どうでした、初めての狂言は?」

「ええ、とても楽しかった。仕草にそれぞれ意味があるのね。それがもっと分かればもっと楽しいかも知れない。」

「良かった。僕は何が何だか分からないところがあったなぁー」


 坊ちゃんには向かなかったようだった。


 能楽堂を出て、少し遠回りをして加茂川沿いに歩いた。川の流れに沿って吹く風が心地よかった。

女としては背が高い私より、頭一つほど背が高い彼には麻の上下がとても似合っていた。若い頃の自分なら、友達に見せびらかすように歩きたかっただろう、きっと。普段は若い女の子に囲まれているんだろうなぁ、と他人事のように感じていた。


「杏子さんは本当に楽しそうに笑っていましたね」

「だって本当に可笑しかったんだもの」


笑った顔も素敵です、と小さな声が聞こえた。


「なぜ、私なんですか、もっと若くて綺麗な女の子が居るでしょう、あなたの周りには」


と聞いてみた。しばらく考えたあと、彼は言った。


「今日、はっきり分かった事があります。僕は杏子さんの笑った顔がとても好きなんです。とても癒されるんです。」

「いつも笑ってる訳ではないですよ」

「貴女がいつも笑っていられるよう、貴女を幸せにしたい」

「いまでも結構幸せですよ、私は」

「もっともっとです。その笑顔をいつも見ていたい」


 まるで駄々っ子のようだ、と思った。欲しい物はどうしても欲しい、と訴える子供のように。

『やっぱり坊ちゃんだ』と思った。小さい頃から、何でも買って貰えたんだろうな。


「あなたにとって、私はちょっと珍しいだけの女ですよ。そのうち飽きてしまうんじゃありませんか」


と意地悪く言ってみた。


「そんな事は絶対にありませんよ」


彼は、ちょっと怒ったように反論した。なんだか駄々をこねる子供をあやしているような気持ちになった。

ひょっとしたら、彼は私に母親のようなものを感じているのではないかと思った。それは勘弁願いたい。マザコンのようには思えなかったが、彼が私に求めるものは女そのものではないような気がした。それか、ちょっと手に入りにくい玩具のようなものか。彼を肯定的に見られない自分が少し嫌らしく思えた。



 夕食も一緒に、というのを『明日までにやらないといけない仕事が残っている』と言って、自宅まで送って貰った。名残惜しげな彼の、その派手な車が見えなくなるまで、表で見送った。せめてもの礼儀のような気がした。

 家に帰ると、どっと疲れたような気がした。

『なぜなんだろう』決して悪い人でもない、むしろ世間的には申し分ない男なのに・・・・・、とても疲れた。


 久しぶりに、真一にメールをしてみた。


『何してますか?』


自分の方からメールをするのは、多分初めてだ。しばらくして、


『家で本読んでる』


と返してきた。日曜日の夜に独り本を読んでいるなんて、寂しい男だと思った。なのに


『一緒に晩御飯しませんか?』

『どこで?』

『三ノ宮辺り』

『すぐ行く』


 化粧はまだ落としていなかったが、ワンピースを脱ぎ、ジーンズとTシャツに着替えた。


by 杏子




 日曜日だといっても、何の予定もなく、朝から洗濯をして、掃除をしたが、狭いワンルームの部屋ではすぐに終わってしまう。

 あれだけ荷物が溢れていた家から、僕の荷物だけを持ってきたら、この狭い部屋でも十分に収まってしまった。妻や子供達の荷物がどれだけスペースを占領していたのか良く分かった。三つあるクローゼットも殆どは女物のコートやシャツで埋まっていたし、靴箱からはみ出していたのは様々な形のヒールの付いた靴ばかりだった。山靴を入れても僕の靴はたった5足しかなかった。


 遅い朝食を近くの喫茶店のモーニングで済ませ、返却しないといけない本を持って図書館に出かけた。

 日曜日の図書館には様々な年代の人が来ている。僕と似たような年代の男もいれば、小さな子供達も母親か父親に連れられてやってくる。娘達が幼い頃、自分もそういう風に、ここに来た。小さな手が、一抱えもある絵本のページを捲っている様を見て、懐かしく思う。

 僕は図書館の一番奥の席に自分の場所を確保して、机の上に何冊も本を積み上げて、少し読んでは、続けて読みたい本と、もういいや、と思う本を仕分けていく。出だしのページから面白くてそのまま一冊読み終えてしまうこともあるが、大抵はその日借りて帰る本を吟味してから本格的に読み始める。


 お昼を挟んで図書館の席を占領してきたが、午後1時を過ぎると来館者も増えてくるので、3時をめどにして、帰り支度をし、本の貸し出しカウンターに行った。

 この図書館に通いだしてから、もう十五年にもなる。その頃からこの図書館に勤めていたさっちゃんと言う子は、結婚し、2児のの母親となっていた。上の子は六年生だと言う。細くて小さかった彼女も、かなり立派な体格になって、母親の貫禄さえ感じさせる。


「最近、毎週ですね。昔みたいに」


とさっちゃんは言った。確かに、震災の直後、この図書館が開館してすぐの頃、子供達を連れて毎週のようにやってきていた。子供達が自分達だけで来るようになり、僕自身はあまり図書館には来なくなった時期がある。


「最近ヒマだからね。休みの日は」

「娘さん、幾つになられました?」

「上は18、下は15になったよ」

「こんなに小さかったのに、早いものですね」


と感慨深げに言った。ここにも人々の歴史があるのだ。



 図書館の前の公園で、今借りて来た本の中で気になっていた一冊を取り出して続きを読む。五月晴れの空の下、陽の光が明るく本のページを照らし、そよぐ風が心地よい。本を閉じ、ベンチに横になる。横になると、また、あの笑顔、杏子さんの顔が浮かんできたが、『今さら』と呟いて、そのまま睡魔の虜になった。


 目が覚めると、陽は陰り、西の空が赤くなり始めていた。思ったよりも長く眠ってしまったようだった。冷えた体を摩りながら、自宅に戻った。

 朝干した洗濯物を取り込み、また本を取り出して読み始めたら、携帯がメールの着信を知らせた。

『杏子さんからのメール』

 僕が送ったメールに対して返信はあったが、僕がメールしなくなったのでそれもなくなっていた。最初に向こうからメールが来たのは初めてだった。

表題には何も書いていなかったので、急いで開けてみる。


『何してますか』


とだけ書かれていた。すぐに


『家で本読んでる』


と返した。もっとマシなことを書いたら良かったと後悔したが、すぐに返信が来た。


『一緒に晩御飯しませんか?』

『どこで?』

『三ノ宮辺り』

『すぐ行く』


 表題にReが続くメールが並び、その数が増すほど僕の顔がほころんで来るのが、自分でも分かった。彼女の方から誘いが有ったのは初めてではなかったが、あの一件から、彼女が遠ざかって行くのは目に見えていた。何にも期待できる事はないと分かってていても、嬉しい気分は変えようがない。

 僕は薄手のジャケットだけ羽織り、財布の中身をちらっと確かめて、靴を履いた。読みかけの本を持ってくるのを忘れた。



 細身のジーンズにTシャツ、粗い目のサマーセーターのようなものを羽織った彼女が、駅のコンコースに立っていた。会社の行き帰りに会うばかりだったので、そんな彼女の姿は初めてだった。年のわりに、(と言っては失礼だが)、そのスタイルは、遠めには、まだ二十代のようにも見えた。僕が近眼で目が悪いことを差し引いても。


「お待たせしました」

「いいえ、私が急に呼び出したから。悪かったかしら」

「とんでもない」


 彼女の笑顔が心に染みていくようだった。


「どこへ行きますか?今日は日曜だから、いつも行く店は休みですよ」

「まだ時間が早いから、ぶらぶらしてどこかいい所探しましょうよ」

「そうですね、それも面白い」


出会った頃のように、丁寧な言葉で喋っていた。


 日曜と言えども、繁華街を歩く人の出は平日とさして変わらない。ただ、スーツ姿の男どもが減り、若いカップルが目立つ、ということが違っていた。並んで歩く僕たちは、どう見えるのだろう、と少し気になった。中年のオッサンと、一見若い女の子。実は年は二つしか離れていないのだが・・・・・・・


 僕は、彼女のウインドウショッピングに付き合い、アーケードのかかる商店街を右に左に寄り道しながら歩いた。少し気になる物を見つけると、寄って行って手に取らないと気が済まないのは、女の子の特性だと思う。僕が買い物に出かけても、寄り道と言えば本屋ぐらいしかないが、女の子の興味の対象はあちらこちらに分布していて、なかなか進まない。でも、彼女の楽しそうな笑顔を見られるこの時間が、ずっとこのまま続けばいいとさえ思っていた。


 結局、少し歩きつかれた僕たちは、チェーン展開している安い居酒屋に入ることにした。

 若い男女が思い思いの格好で集う店内は、騒々しく、落ち着いた雰囲気ではなかったが、かえって周りのことを気にせず、二人の距離を詰めて話せるのは良かった。


「みんな元気よねー、若い人たち」

「僕たちだってまだ若いよ」

「真一さんはそうかも知れないけど、私、自分がオバサンになったなあー、てつくづく思うの最近は」


いつのまにか、普段どおりの口調が戻ってきていた。


「そんな事はないよ。駅で見つけたとき、お嬢さん、て声掛けたくなった」

「またー」


と言って、彼女の手が僕の腕を掴んで離れた。


「徹夜で仕事上げるのなんてしょっちゅうだったのに、最近はセーブしてるの。その分要領よくなってるから、仕事は早く終わるようになったけれど」

「そうやねー、何も分からなかった時は、無駄な事ばかりしていたような気がする、僕も。でもまだまだやれる、って気持ちはあるよ」

「私だってそうよ、まだまだ仕事はこれからって気分でやっているわ。でも」


と言って、しばらく間があり、彼女がその日の出来事を話し出した。


 今日、彼女は例のクライアントの社長と京都に行ったのだと言う。京料理を食べ、狂言を観覧し、街を歩いて帰ってきたのだと。


「それだけよ」


 言い訳するように彼女は言った。酒が入り、少し勢いのついた僕は、


「で、どうなの」


聞いてみた。


 ちょっと小首を傾げ、しばらく何か考えた様子で言葉を選ぶように、彼女は言った。


「いい人そうなんだけれど、年下は向いていないみたい、私には」

「お金持ちらしいじゃないか、何が不満なん?」

「そういう問題じゃないの、彼が求めてるものが私には苦痛になりそうな気がするの」

「よく分からないけど、杏子さんが嫌なら仕方ないねー」


僕はちょっとほっとして余裕を持って話す事が出来そうだった。


「真一さん、狂言好き?」

「う~ん、テレビでしか見たことないけど、面白いと思うよ。わりと単純な話が多いから。吉本新喜劇のシンプルバージョン、て感じかな」

「そうだと思った」


そう言って、杏子さんは、うんうんと頷きながら、三本目のつくねを口に運んだ。


by 真一



 やっぱり、私の思った通りだ。

 真一さん、笑いのつぼが私と似ているんだと思った。関西人にも二通りあるみたいで、笑うことが好きな人と、あまり得意でない人が居るようだ。テレビでは、関西人はすべてお笑いの素養を持っているようなことを言うが、私はそれには懐疑的だった。全ての関西人が、ボケ・つっこみを出来る訳でもない。仕事の付き合いでも、笑いのエッセンスを持って、話を和やかに持って行こうとする人があると思えば、常識や規則を盾に杓子定規に物事を考える人がいる。どっちかと言えば、私は前者の方が好きだし、自分もそうしていきたいと思っている。

 真一は、芸人のように大仰な言い方とかはしないが、そこはかとなく面白いことを時どき言う。その話に、つい反応して自分も何か面白い返しが出来ないかと、そればかり考えている事があった。彼は意識してそんな話をしているのではなく、もともとそういう人なんだと、後でわかり、無理にその話を膨らませようなどとは考えなくなったが、通勤電車の中で、退屈しなかったのは事実だ。この人といると、私は何も構えなくてもいい。そう思えた。


 串に刺したつくねを皿にばらして、真一に言った。


「食べる?」

「貰う。ここのつくねも不味くはないけど、こんど本当に美味しいつくねを食べさせてくれるお店に行かない?」

「そんなに美味しいの?」

「僕も人から聞いて行ったんだけど、本当に美味しいよ」

「そう、どこにあるの?」

「僕の地元」

「じゃあ、今度連れてってくれる」

「もちろん。あっ、でも、綺麗な格好して行ったらダメやで」

「なぜ?」

「鳥を焼く煙がもうもうとしてるから、服に匂いが付く」

「美味しいもの食べるんだから、それぐらいの犠牲は仕方ないわね。今日みたいな格好だったら?」

「いいんじゃない。全部、家で洗濯出来る物ばかりでしょ」

「そうね、ジーンズやTシャツをクリーニングには出さないわ」


 焼鳥ばかりでなく、居酒屋独特のメニューの数々と、ビールに焼酎、私はお昼に食べた京料理よりも満足していた。



 その週は、プレゼンを終えて本格的に取り掛かった仕事で、打合せの為にあちこちに出かけていて、ゆっくりと机に座る暇もなく、パソコンに届くメールを開いたのは夕方になってからだった。一つは、例の坊ちゃんから、もう一つは真一さんからのものだった。

 

『先日は遠い所まで引っ張って申し訳ありませんでした。翌日仕事だと分かっていたのに失礼しました。

今週の土曜日、時間があれば、ご一緒して頂ければ幸いです。

杏子さんは、オペラはお嫌いですか?』


と、坊ちゃんからのメール。


『いつもいっぱいの店だから、予約しといたよ、土曜日。

5時から開いてるから、一番に行って、いいネタ独占してしまおう(^0^)/』


と、真一さんから、そのお店までの地図が添付されたメールが来ていた。


 オペラだったらドレスを着て行かないといけないのかな、と思った。


by 杏子




~さくら~


 昼前にさくらから、携帯に電話があった。さくらは、高校の同級生、結婚してから転勤族の旦那に付いて、5年前から大阪に住んでいる。高校時代はそんなに親しくはなかったが、同窓会名簿を見て、近くに住んでいることを知って連絡してきた。それから、年に一度か二度ぐらいの割合で会うようになった。もう子供達も大きくなり、手が掛からなくなったので、自由な時間を持て余しているようだった。


「杏子、お昼時間ある」


と、いつも唐突に電話してくるのは常の事で、ちょっと梅田に出たから、という理由だけで呼び出してくる。気兼ねなく話せる相手なので、構わないのだが、専業主婦の彼女にすれば、夜よりも昼間の方が自由な時間があるのだろう。


 待ち合わせたお店に、先に到着した彼女は、


「ランチ、注文しておいたから」


とこちらの都合もあったものではない。


「どう、仕事の方は」


とさして関心があるわけではないのに、社交辞令のように彼女は聞いてきた。


「相変わらずよ」


と私もおざなりの返事をする。それからは、地元の話で盛り上がり、誰がどうしたこうしたと、私の知らない情報をどこで仕入れてくるのか提供してくれる。


「で、杏子は何か変わったことないの?」


と聞かれて、プロポーズしてきた坊ちゃんの話をした。ふんふんと相槌を打ちながら聞いていたさくらは、


「杏子は乙女だねー、そんな条件のいい男、離しちゃ駄目ジャン。私なら、ソッコーでものにするけどね」

「そんなものにするとかの話じゃないのよ。いい人だけど、何か私に求めているものが違ってるような気がするのよ」

「そんなの実際結婚してみなけりゃ分からないわよ、本当のところは」

「そうかしら」

「そうよ、もっと大人になりなさいよ。このまま一生独りでいる気?」

「そんなつもりはないけど」


と言いながら、もう1人の気になる男の顔が浮かんだが、その話はさくらにはしなかった。


 一時間あまり喋り通し、店を出ると、さくらは、『これから西宮にできた新しいショッピングモールに出かけるのよ』と言って、阪急の方へ嵐のように去っていった。



 私は欲張りで食いしん坊だ。オペラも見たいし、美味しいつくねも食べたい。私の価値観の中では、オペラ鑑賞と美味しいつくねはほぼ等価の値打ちがある。それは二人の男の可否に係わらず。

 翌朝、真一に言った。

 

「土曜日じゃなくて、日曜日じゃ駄目?」

「別にいいよ。土曜日は仕事?」

「仕事じゃないんだけど、夕方から出かけることになったのよ。オペラを見に行かないか、って誘われてるの。ミュージカルの舞台は何回か見たことがあるけど、オペラって初めてなのよね、私」

「そっかー、オペラか。僕もテレビでしか見たことがないなぁー。例の社長と?」

「うん」


 それから言葉が途切れて、私と彼の間に空気の塊のようなものが出来たように感じた。


by 杏子




~オペラとつくね~


 『どんな格好で行けばいいの?』と聞いたが、『杏子さんは、どんな服着てても似合うよ』とちぐはぐな答えしか返ってこなかったので、思いっきり自分で楽しむことにして、クローゼットの奥から沢山の箱を引っ張り出し、過去に着ていった服、結局一度も着たことのない服を次から次に並べてみた。

 これはアンちゃんの結婚式に着ていった服、これはさなえの時、と誰かの結婚式の度にドレスを新調していた。人の結婚式にかこつけて、自分が着飾り、誰かに見て貰いたいがために精一杯お洒落をして行った。

 30代になると周りの友人達はほとんど売れてしまい、たまに披露宴に呼ばれるのは仕事関係ぐらいになり、おとなし目のスーツばかりを着て行くようになった。

 その箱の一つには、純白のウェデングドレスがあった。考えてみると、周りで一番に結婚したのは私だった。×一になったのも一番だったが・・・・・・


 深夜まで1人でファッションショーを続け、一度も着たことのないドレスを選んだ。それはとても露出度の高いスパンコールで黒とエンジ色のど派手なデザインだった。これを作った時には、あまりに派手なデザインで、まるでブルース歌手の舞台衣装か水商売の女性が着ているようで、とても着ていく気がしなかったのだが『まあ、たまには冒険もいいかな』と20年近く前の服を始めて陽の目を浴びさせる事にした。、この20年の間、殆ど体型が変わっていないことと、物持ちが良いと言うことは、ちょっと人に自慢できるような気がした。

 冬場だったら、上からロングコートを着て、中を隠す事が出来るが、夏場にそんな格好はできない。坊ちゃんは、また迎えに来てくれるのだろうか、と思いメールをしてみた。あの真っ赤な車(アルファロメオスパイダーという名前を聞いた)で来るのかと思うとちょっと引くが、今回は東京だからそれはないだろうと思った。


「カボチャの馬車は用意してくれるのかしら?」


とメールすると、しばらくして、


「迎えに黒い馬車を用意しています。お酒が入るかも知れないので・・・・・・」


との返事、案外慣れているのだろう、なかなか用意がいいと感心した。

今回は黒のカボチャの馬車らしい。



 土曜日の昼に新幹線に乗り、彼が予約をしてくれていたホテルに着いたのは3時をちょっと過ぎた頃だった。シングルの部屋だと聞いていたが、東京への出張に使うビジネスホテルとでは雲泥の差で、窓の外からは皇居の御堀が見えた。しばらくその窓からの眺めを楽しんでから、着替えようと荷物を解いた。丁度その時、携帯が鳴り、


「済みません、まだ仕事が終わらないので、先に車をそちらに行かせますから」


と彼は心から申し訳なさそうに言った。私は、またしばらくの間、窓の外の景色を眺めてから着替えた。


 夕刻、まだ陽が高いホテルのエントランスに降りると、黒塗りの車が前に止まっているのが見えた。随分と長い車だった。所謂、リムジンとかいう車だった。私がホテルの玄関先に出ると、運転手らしい帽子を被った年配の男性が近寄ってきた。


「飯田杏子さまですね。どうぞ」


と、その黒塗りの長い車のドアを開けてくれた。車内は広く、コの字の座席には誰もいなかった。冷房が効いていて、寒いくらいだった。

 すこし冷房を緩めてください、と言うと、分かりました、と運転手の男性が答えた。


「ヤナイさんは?」


と聞くと、途中で乗ってこられます、と言う事だった。自分1人で、このままこの贅沢な空間を占領するのかと思うと憂鬱だったが、彼が一緒なら、と少しだけ安心した。居心地の悪さはなかなか抜けなかったが、走り出した車内はとても静かだった。


「音楽でも掛けましょうか」


という運転手さんに


「いいえ、静かなままでいいです」


と答えた。「分かりました」と答えた後、彼はずっと無言だった。 スモークガラスの外には夕焼けに染まった東京の町並みが見えた。出張で来た時に見る景色とは随分と違って見えるように思えた。


 車は、その長い図体で、器用に都内の道路を抜け、別のホテルの前に止まった。そこには黒い燕尾服を着た彼が立っていた。結婚式で親戚の叔父さんが着ていると、ペンギンのように見える燕尾服も、長身の彼が着ると様になっていた。運転手さんが外に出てドアを開けようとするのを手で制して、彼は自分でドアを開け、乗り込んできた。私をしばらく見つめて、


「今晩は」

 

と言い、「独りにさせ申し訳ありません、どうしても人に会わなければならない用事が出来たもので」と言った。彼も普段は社員300人を抱える会社の長として働くビジネスマンなのだと、あらためて思い出した。


「今晩は。いいえ、独りでカボチャの馬車に乗ったシンデレラの気分が味わえました。ガラスの靴は忘れてきたけど」


と私は笑って答えた。


「そうだ、今度、杏子さんに靴をプレゼントしたいな」


と、私が催促したように勘違いをして、彼は言った。私は、ううん、と少しだけ横に首を振った。


「もう、あんまり時間がないから、すぐに行きます」


と私に言い、運転手に「少し急いでください」と彼は言った。「はい、分かりました」と運転手さんは答えたが、車のスピードはさほど変わっていないように思えた。


「こんな大きな車で迎えが来るなんて思っていませんでした」

「すみません。時どき会社のパーティやレセプションの送迎に、大事なお客さんを迎えにいく時に使っているもので」


と少し言い訳がましく言った後で、「杏子さんは一番大事なお客さんだし」、と彼は付け加えた。そして、


「着くまで、何か飲みますか?」


と聞いてきた。


 カクテルでも何でも出来ますよ、と言うのを断わって、「じゃあ、お水を」と私は言った。彼は、カクテル用の長細い2つのコップにクラッシュアイスとミネラルウォーターを注いで、一方を私に手渡した。私と同時に一口そのコップに口を付け、まじまじと私の方を見て、


「今日の杏子さん、とてもエキセントリックで素敵です」


と言った。そう言われると、冒険した甲斐があるというものだ。


「ありがとう、オバさんがちょっと無理してみました」

「オバさんだなんてとんでもない、とても綺麗です。本当に」


 女は、『綺麗だ』と言われる毎に綺麗になっていくものだと、誰かが言っていた。私も少しは綺麗になっていくのだろうか今からでも、と目じりの皺を人差し指で引っ張ってみた。



 到着して彼が先に降り、私が車から出るのを片手を添えて助けてくれた。そんな仕草を外国のテレビの中で見たような気がする。彼は、前にも、乗り込む時も降りる時も、車のドアを開けて待っていてくれたりしていた。普段からそういうことには慣れている、と思った。そういうことをする日本人の男はあまり居ない。

 私が歩道に立つと、


「いや、本当に綺麗だ」


と彼はあらためて私を下から上へ眺め上げて言った。女って不思議、褒め言葉は何度言われても、嫌みったらしく聞こえない。それを「嫌だー」とか言わないのは、私が大人になったからなのか、今日の服装がそうさせるのか、私はその言葉をあたりまえのように聞き入れていた。



 開演時間が近づいていたので、ロビーにはあまり沢山の人は居なかった。彼がチケットを見せると、係りの人が2階の右手、一番前の席に案内してくれた。よく映画で見るような、2階のテラスのような席ではなかったが、その列には二つだけ座席があり、一つ一つの席がゆったりとしていて、映画館のように肩が触れ合うような感じではなかった。

 

 オペラは想像していた以上に、私を感動させた。『トリスタンとイゾルデ』と言う演目は、私には馴染のない題名だったし、イタリア語で言葉は分からなかったが、字幕があり、何を歌っているのか良く分かったし、その声歌、音楽そのものが素晴らしかった。ミュージカルは何度か見ていたが、派手な踊りなどないが、ずっしりと響く声、透き通るようなソプラノ、やはり生で聞くと迫力があった。

 私は随分と前に見た『月の輝く夜に』と言う映画を思い出していた。主人公、未亡人の中年女性が、白髪交じりの頭を染め、ドレスを着て、ニコラス・ケイジ扮する片腕のパン職人とオペラに出かけるのだ。そして、そのパン職人が言う『オペラを見た人は二つに分けられる、二度と観たくないと思うか、感動に涙するか』。そしてその夜、二人は結ばれるのだ。私は後者の方だった。 

 

 その夜の月は満月だったかどうか見ていないが、私は、ちょっと押されたら、隣の男ともそういう関係になってしまいそうだ、と思った。彼にしてやられた気分だった。


by 杏子




 僕は鳥よしのカウンターに座り、キャベツを摘みながらビールを飲んで、彼女の到着を待っていた。「駅で待っていようか」、と言うのを、「今日は暑いからお店でビールでも飲んで待ってて」と言われ、その通りにしていた。「心配ないわ、地図通り行けば行けるから」と言う言葉どおり、彼女が言った時刻に店の引き戸が開いた。


「おまたせー」

「全然待ってないよ、時間通り来れたね」

「駅からはすぐだったもの。それに真一さんが送ってくれた地図があったから」


 杏子さんは、前に会った時と同じく、ジーンズにTシャツ、目の粗いボレロを羽織って、暖簾をくぐってきた。彼女は「今日はホントに暑いわねー」と言い、少し額に掻いていた汗をハンカチで拭っていた。

 僕は自分が座っていた席を一つ譲り、ガラスで仕切られた焼き場の正面の席に彼女を導いた。焼鳥は目でも楽しめるし、香ばしい香りが食欲をそそる。


「ビールでいいよね」

「ええ。それ一杯目」

「そうですよ」


 一口だけ口を付けたジョッキと、彼女の前に置かれた真新しい、まだ凍ったままのジョッキをカチンと合わせた。


「何に乾杯?」

「杏子さんの初鳥よし来店に乾杯」

「じゃあ乾杯」


と言いながら、もう一度ジョッキを鳴らした。


「僕が適当に注文するけど、いい?」

「お願いするわ」


 僕は、お目当てのつくね、かわ、せぎも、はつとネギマをオヤジさんに注文し、奥のおかみさんに、山芋の短冊を頼んだ。


「はつ、てなぁに」


と好奇心旺盛な彼女が、早速聞いてきた。前に立つオヤジさんが、「心臓」と一言言うと、「せぎも」は、「ネック」は、と次々に質問する彼女に、いちいち丁寧にオヤジさんは答え、最後に、


「真ちゃん久しぶりに来たかと思ったら、えらい元気な別嬪さん連れて来たなぁー」と言った。言われた彼女の方も、一応お義理のように「ええーっ」とはにかんだように言い、「正直なオヤジさん」と付け加えて、あははっ、と笑い、それにつられて、オヤジさんも僕も笑っていた。まずは、彼女がこの店を気に入ってくれたようで、嬉しかった。

 

 つくねがそれぞれの皿に置かれた。


「これが噂のつくねねー」

「そう。僕は山椒を振って食べるけど、最初はそのまんま食べてご覧」


 彼女は串に刺した団子になったつくねをひとつ口に運び、


「美味し~い」


と大きな声を出した。ガラスの向こうで、オヤジさんがにんまりと笑っていた。


「これ、どうやって作るの?」

「それはね、企業秘密らしい。僕が聞いても全然教えてくれないんだ」

「私が聞いてもダメかしら」

「じゃあ聞いてご覧」


 彼女は顔を上げ、ガラス越しに訴えるような目線をして、「オヤジさん」と言ったが、オヤジさんは人差し指を口の前に立てて、ただ笑っているだけだった。


「ダメかー。私の魅力もここまで、て言うことね」


と両手を目の上にあてがい、泣きまねをしてガラスの向こうの頑固者の笑いを誘った。



 しばらくの間、食べる事に夢中で、焼鳥の話、炭の話で盛り上がり、ジョッキの杯を重ね、串刺しに沢山の串が並んだ。

 日曜の家族連れが入り、いつの間にか店内は大入り満員となっていた。オヤジさんは焼き場に掛かりっきりになり、僕たちの相手はしていられなくなっていた。

 僕が焼酎に切り替えて、もう一度つくねを注文したところで、前日の話になった。


「で、オペラどうだった?」

「うん、とっても良かった。久しぶりに感動した、て感じ」

「そうかー、やっぱり生は違う?」

「そうねー、想像してた以上に迫力があったわ。初めてオペラ見た人は涙を流す人もいるって言うけど、涙こそ出なかったけど、しばらくボーっとしてて、立ち上がれなかったの」

「う~ん、僕もそれは一度体験してみたいなぁー」


 僕は、その後の彼女と招待してくれた人のことが気になっていたが、彼女自身が話すまで、一切聞かないでおこう、と思っていた。彼女もオペラの話は饒舌に語ってくれたが、その彼の話は一言も口にしなかった。


 二時間あまりの間、飲み食べ、お腹も一杯になったので、おあいそを済ませ、店を出た。今回は僕のご招待、と言う事で、財布を出そうとする彼女の手を押さえた。オペラに一泊2日で行くよりは随分と安いものだ、と思った。


by 真一



 真一さんの言っていたつくねは本当に美味しかった。

 少し強めの塩味で、ニラや鳥ミンチは分かったが、他に何が入っているのかは皆目見当が付かなかったが、ビールにはとても合う味だった。私は店を出るまで、オヤジさんにラブコールして、作り方を教えて貰おうとしたが、オヤジさんは黙って笑っているだけだった。

 ほかのどの焼鳥も美味しくて、何本もお代わりをし、ビールをたくさん飲んだ。何倍飲んだのだろう、覚えていなかった。

 少しフラフラとしながら駅に向かおうとすると、


「真っ直ぐに歩けてないよ、ちょっと心配だから送っていくよ」


と言って、真一さんは私の腰に手を廻し、私は彼の肩に手を廻した。


「細いね、案外」


と腰に廻した手で、彼が私の胴回りを測っているので、私は「案外は余計」と言って、肩に廻した手で、ピタンと彼の頬を軽く叩いた。彼は「ごめんごめん」と言い、腰に廻した手に力を加えて、自分の方へ引っ付けた。



 オペラを観た後、その建物の中にあるイタリアンレストランで夕食を食べた。もちろん、招待してくれた彼が予約していたのだが、私は当たり前のように、その白いテーブルクロスの前に座っていた。まだ、オペラの余韻に浸り、頭の中で、オーケストラのフィナーレの部分の旋律が流れていた。


「お気に召したようですね、オペラ」


と彼が言ったのを遠くで聞いたように、少し遅れて


「ええ、とっても」


と答えていた。そのイタリア料理も、とても美味しかったのだけれど、何を食べたか、よく覚えていない。彼がこのオペラについて、いろいろと解説し、話をしてくれていたのだか、その受け答えも曖昧な記憶しか残っていない。ワインもどれだけ飲んだのか、食事が終わった頃には顔が熱くなっていた。


 帰りも、あの長くて黒い馬車が迎えに来ていた。ホテルに到着するまでには午前0時を過ぎていたが、黒い馬車はカボチャにはならずに、私を届けてくれた。


 車寄せに止まると、彼が先に外へ出て、いつもの如く、私が降りるのを手を添えて助けてくれた。


「今夜はとても楽しかった。杏子さんがこんなにオペラを気に入ってくれたのが、とても嬉しいです」


と彼は言い、私を抱きしめて、私の頬っぺたに口を付けた。耳元で「おやすみなさい」と言い、彼は車の前に立っていた。『このまま私を置いて行くの』と、私は少し拍子抜けした気分だったが、胸の前で、小さく手を振って、ロビーの中に入って行った。振り返ると、彼も胸の辺りで手を振って笑いかけていた。私は、もう一度同じように手を振り、奥に入って行った。


 翌朝、「東京駅まで送って行きたかったのですが、所用で行けなくなりました。申し訳ありません」と携帯にメールが入っていた。

 昨夜、彼がそのまま私の部屋へ送ってくれ、そしてその想いをぶつけてきていたら、私は拒む事は出来なかっただろう。彼がそこまで紳士的に振舞うとは、私は思っていなかった。たとえ一夜の事としても、彼を拒む理由が見つからないほど、彼のエスコートは完璧だった。もう、彼を坊ちゃんなどと呼ぶのはやめようと思う。

 私は独り、一夜の夢の後のような気分で、東京から新幹線に乗った。



 タクシーの中で、私は眠っていたようだった。真一さんに「着いたよ、ここでいいんでしょ」と言われ、窓の外を見ると、確かに見覚えのあるマンションの玄関前だった。『しようがないなぁ』と彼がつぶやくのを彼の背中で聞いた。そこから私の記憶はなくなっている。

 気が付くと、出かけたままの格好で、ベッドの上に居た。無性に喉が渇いていて、フラフラとしながらキッチンに行き、ペットボトルのお茶をそのまま口に付け、ごくごくと飲んだ。壁に掛けている時計の文字盤を蛍光塗料の塗られた針が、4時を差していた。頭がガンガン痛かったが、汗をかいた体が気持ち悪かったので、浴室に行き、服を脱ぎかけたが、ふと気が付き、玄関のカギを確かめに行った。鍵は掛かっていた。床に畳んだ紙切れがあった。取り上げてみると、電話の横に置いてあるメモ帳の紙だった。広げると、中から鍵が出てきて、何か書いていた。


『よく寝ているので、このまま帰ります。かわいい寝顔が見られて、とても満足です(^_^)\真一』

と書かれていた。


by 杏子




~中年の恋~


 この年齢になって、恋、などとこっぱずかしくて人には言えないが、これはまごうことなく恋だと思う。

 いいなぁーと思う娘がいても、能動的に何をする訳でもないし、それはやってはいけない事、だとずっと思ってきた。若い頃はともかく、今はそんなにドンファンではなくなってきている。相手のことを思うと簡単には前へ進めないのだ。けれど、今は違う、誰が何と言っても、杏子さんが好きだと言うことを内に秘めつつそのままで終わらせることは出来なかった。


「おはようございます」

「おはよう、今日は調子いい」

「お蔭様で。ちょっと二日酔い気味ですけど」

「あはは、誰かを負ぶったのは久しぶりでした」

「すみません、ご迷惑をおかけしました」

「とんでもない、それだけ楽しんで貰えたのは嬉しいですよ」

「ええ、とっても楽しかったです。また、鳥よしに行きたい、あのオヤジさんを何とか落としたいですね」

「ははは、それはどうかなぁー」


 いつものようにその週の初めの朝が始まった。


by 真一




 明らかに完全な二日酔いだった。

 食欲はなかったが、冷蔵庫にストックしていた野菜ジュースを一缶飲んで家を出てきた。電車に乗ると、いつもの顔があった。


「おはようございます」

「おはよう、今日は調子いい」

「お蔭様で。ちょっと二日酔い気味ですけど」


本当はちょっとどころではない。


「あはは、誰かを負ぶったのは久しぶりでした」

「すみません、ご迷惑をおかけしました」


本当に申し訳ない。


「とんでもない、それだけ楽しんで貰えたのは嬉しいですよ」

「ええ、とっても楽しかったです。また、鳥よしに行きたい、あのオヤジさんを何とか落としたいですね」

「ははは、それはどうかなぁー」


 私が記憶をなくすほど酔うなんて久しぶりの事だった。それだけ楽しくて、心許してしまったと言う事だろうか?何にしても、一緒に飲んでいた人が真一さんで良かった、と思う反面、恥ずかしい姿を見せてしまったのだと、後悔と反省がセットでやってきた。こんな私を見て、呆れていないかと思った。


「私重くなかったですか?」

「いいえ、身長の割りに軽くてビックリしました」


ああー、と声が漏れてしまった。やっぱりオンブされてたんだー。でも、お父さんに負ぶされたように全てを委ねて心地よく部屋まで運ばれたような気がする。真一さんになら、私の醜態も見せても構わないような気がしていた。


by 杏子




~帰省~


 毎年のことだが、このお盆の混み具合は堪らない。新幹線の普通車両は朝の通勤ラッシュを超えているような気がする。指定席グリーンのチケットを買えば良いのだが、たかだか二時間足らずのために何千円と払うのは許せない節約家の私が居る。朝早く乗ればそれもまだマシなのだろうけれど、休日となると、ぐずぐずと支度をして、家を出たのはお昼ちょっと前になってしまった。

 お盆に、故郷の静岡に戻るのは、母親に言わすと、私の義務であり、務めだと言う事になる。好き勝手に家を出て、結婚生活を続けていればいざ知らず、そのまま遠く離れたところに住み続けているのは、自分に対して愛情がないからだと嘆く。その点、美香は、地元に居て、優しい旦那と一緒に暮らしてくれる親孝行な娘、と言う事だ。「お姉ちゃんはどうなのよ」と言っても、「あの子はしょうがないよ」の一言で終わってしまう。確かに、姉の幸恵は、何でも自分で先々決めて、親には殆ど事後報告。結婚すると言う事も、父親には最後まで話していなかった。


 静岡の駅までは、美香が車で迎えに来てくれていた。久しぶりに見る我が妹も、中年のオバサンになりつつあり、腰の辺りのボリュームが増し、かなり貫禄が付いてきたように思う。


「美香ちゃん、ちょっと太ったー?」

「そうなのよ、最近ストレスか何か、食べてばっかり居るからねー。杏子姉は相変わらず細いね」


 独身の私には、さもストレスがないと言わんばかりだ。確かに、そのストレスを溜める前に、夫婦生活にピリョウドを打ったのだけれど、仕事をしていてもそれはある。単に妹が食いしん坊なだけだとは思ったが、口には出さなかった。


「敦さん、元気?」

「元気元気。お盆の間は休めないけど、晩には帰ってくるわ」


 夏場、洋菓子店は売上げが落ちると聞いていたが、最近はそうでもないらしい、他所が締めるのなら、うちは休まず営業して、お盆の特需を獲得しようという話だった。


「おかげでこっちは大忙し。家のことになると全然役に立たないんだから」


 愚痴を聞くのも久しぶりなので、素直に聞いてあげた。私はやさしいお姉ちゃんだ。



 実家に到着し、まずは客間の仏壇に行き、父の位牌の前で手を合わせた。早くに結婚して、数年足らずでまた独りになった私を「不憫だ」といって母親に漏らしていた父も、亡くなる前年に母親と一緒に私の家に来て、真新しいマンションから神戸の夜景を見て、「これならここに住みたい、ってのもわかるな」と言い、うんうんと頷いていた。

 少なくとも、好きな仕事をし、堅実に生きていると思ってくれたようだ。それだけでも無理をして家を買った値打ちがあると思った。


「杏子はいつまで居られるの?」


久しぶりにあったばかりなのに、母親の第一声は娘の滞在予定を聞くことだった。


「明日の夜の新幹線で帰るわ」

「なんだ、もっとゆっくりしていけばいいのに」

「私もいろいろと忙しいのよ」

「忙しいってね、仕事じゃないでしょ。いい人でも出来たの?」

「そんなんじゃないわよ」


 さすがに母親は鋭い。明後日の日に、例の坊ちゃん、もとい、矢内さんと会うことになっていたのだ。今夜、我が家に四人の女が揃ったら、必ず追求され、このことは絶対話題になるだろう。いつものことだから、私もその事は覚悟している。特に妹の美香は、専業主婦で子育てに追われている身、そんな姉の恋愛話に「いいなぁーー、独身は」と言いながら、ねちこく聞いてくる。人を昼メロの主人公か何かと勘違いしているのかと思う。そんなに面白い話は、そうそう転がってはいない。けれど、今年は少し違う。

 

 その日の遅くに、姉だけが独りで実家に帰ってきた。また、旦那さんの真治さんとひと悶着あったのか、彼は明日の朝一番でやってくるという。子供のいない姉夫婦は、未だに恋人同士のようにくだらない事で喧嘩し、真治さんのが一方的に悪者にされ、すぐに仲直りをする。まあ、仲が良いってことだろう、と私は思っている。


 自分の作ったロールケーキをワンポーション抱えて、妹の旦那さんが帰ってきた。待ちかねていた子供達は早くに夕食を済ませていたが、私達は、今やこの家の主である彼を待ち、夕食を始めた。


「ご苦労様でした」


と、姉が妹の旦那にビールを注ぎ、労を労う。「いや、義姉さん、すみません」と小さく頭を下げ、恐縮している。普段はどうなのかはよく分からないが、今、飯田家の女に囲まれ、婿養子のような体である。実際には、妹は高田姓を名乗っているので、戸籍上はそういう訳ではないのだが、軽いマスオさん状態、というところだ。

 夕食が始まり、まいどのように父の昔話に花が咲き、「お父さんもねー、もうちょっと長生きしてくれてたらねー」と湿っぽくなったところで、美香が「もうあっちに行った人の話はお終い、杏子姉、噂の彼氏ってどんな人」と興味深々で聞いてくる。母親に私が明日帰るというのを聞いて、早速何かあると睨んでいるのだ。こういう話が始まると、敦さんは席を離れ、テレビの前に居る子供達のところへ移動する。比較的寡黙な彼は、この4人の賑やかな話にはとても付いていけないのだろう。


「で、どうなのよー」


待ちきれないように、私の口が開くのを急かす。母親と姉も、ひそひそ話しをするように顔を近づけてくる。決して声は小さくないのだが・・・・・


「明後日、大文字焼きに誘われてるの」

「だから、誰によ」


もったいぶるな、と言わんばかりに妹が急かす。


「クライアントの会社の人」

「取引先かー。で宣伝部部長さん、とか?まさか不倫?」


妹の話は、先先へ飛ぶ。


「違うわよ、その会社の社長さん、もちろん独身よ」

「えー、社長さんなの?えっ、×一?杏子姉と同じだから、いいじゃない」


随分失礼な妹だ。


「彼に×はないわ、五つも年下だし」

「いやん、玉の輿じゃん。杏子姉、若く見えるし、十分いけるよ。で、もう、ものにしたの」

「あんたねー、そんなに簡単じゃないのよ。」


相変わらず、ストレートな妹だ。


「プロポーズされたけど。二人で会ったのは、まだ二回だけよ」

「プロポーズされたんなら、それじゃあ決まりジャン。何か不満な事でもあるの?顔がとってもぶちゃいく、だとか、お腹が出てるとか」

「ううん、背も高いし、顔もまあまあ、かな」


いや、結構イケメンの部類に入るだろう、と思っていた。


「じゃあ、何が?マザコン、だとか?」

「まだ、会ったことなんかないわよ、ご両親とは」

「そっかー、逆に杏子姉に母性を求めてるとか、なのかなぁー。杏子姉、姉御肌だしさ」


さすが妹、私の感じていることを鋭く突いてくる。

 横で、ふんふんと相槌を打っていた母も、


「お父さんと一緒。嫁に何を期待してるのかって、時どき思うわ」


と亡き父の愚痴をこぼす。私のどこに母性を感じるのか。決して子供は嫌いではないし、かといって、年下の男性を嫌う理由もないが・・・


「もう1人はね」


と話し始めると、「ええーっ、もう1人居るの?杏子姉、春が来たねー」と茶化す。

私は、少し間を置いて、深呼吸してから、真一さんの話を始めた。


「ひょんなことから知り合いになったのよ。最初は、なんだこのオヤジ、て思ってたんだけど・・・・」


と今までの経緯を、順を追って話した。


「なんだ、ふつ~のサラリーマンか」


通常の価値観ではそう取られるだろうし、会社経営、青年実業家に軍配があげるだろう、妹なら間違いなく。


 それまで黙っていた、姉の幸恵が言った。


「それで、杏子はどう思っているの?」


 姉はある意味冷静だ。自分のこととなると、見境なく取り乱すくせに、人の恋愛話には、わりと適切なアドバイスをしてくれる。これまでにも、何度が相談した事がある。そういう点、女姉妹でよかったと思う。


by 杏子





~送り火~


 さすがに車で行く事は出来ないので、お盆の渋滞を避けて、新大阪で待ち合わせ、京都まで新幹線に乗って行く行く事になった。私はJRの新快速に乗り、新大阪に向かった。


 矢内氏が、「五山の送り火」を見に行かないか、と誘ってきたのは7月の初め、まだ、梅雨明け宣言も出ていない頃だった。随分と気の早い事だが、床を予約する都合があるとかで、私の予定を聞いてきた。実家に帰る予定はあったが、15日の晩には帰ることが出来る。関西に居ても、毎年実家に戻っていたので、そういうお盆の風物詩も見たことがなかったので、「是非見てみたい」と即答で返事をした。

 

 彼が指定したとおり、私は浴衣姿でホームに降り立った。午前中に美容院に行き、髪をアップにして貰い、ついでに浴衣の着付けもして貰った。私は着物はもちろん、浴衣も自分ではマトモに着られないのだ。成人式もスーツだったし、習い事をしていた事もないので、着物着る機会がほとんどなかった。旅先の旅館で備え付けの浴衣に袖を通すぐらいが関の山、帯の結び方なんて全然知らない。が、浴衣の一張りくらい持っていないのもなんだか寂しいと思い新調した。子供の浴衣と違い、大人のそれもそこそこ年配向けの浴衣となると結構な出費となった。


「奥様でしたらどんなお色もお似合いになるかと思いますが、このお色なんか如何でしょう」

奥様、というのは気にはなったが、敢えて訂正はしなかった。浴衣を優雅に着こなした年配の(多分私より十歳くらい上の)デパートの販売員は、鮮やかな水色、洋風に言えばターコイズブルーの浴衣を、私の前に広げて見せた。「一度合わせて見られたら如何ですか」と言われ、やけに広い更衣室に入ると、帯はこんな感じで、と彼女が一緒に入ってきた。言われるままに、その浴衣に袖を通すと、帯を巻き、鏡の前に立たされた。

「まあお綺麗、思ったとおり大変お似合いです」

 確かに、自分で言うのもなんだけれど、『この和装は誰』と思うくらい楚々として艶やか、私が私ではないような感じだ。もっぱら浴衣のおかげだけれど。「ほかもご覧になられますか?」と言う言葉を遮って、それを貰う事にした。マンションのローンと合わせると、夏のボーナスのほとんどが消えたが、それも仕方がない。矢内氏は「浴衣、プレゼントしたいんですが」とも言っていたが、そこまで甘える事はできない。


 指定された乗り場に向かうエスカレーターを降りると、ホームには沢山の帰省客で混雑していた。この日にこの場所での浴衣は浮いている。浴衣が派手なせいなのか、並んでいる人々がちらちらと視線を向ける。私はいつもにもまして、背筋を伸ばして小股で歩いた。

 彼がどこに居るのか分からないので、巾着袋から携帯を出し、彼に電話した。


「はい、矢内です」


彼はほとんどコールを待たずに電話に出た。


「新大阪に着きました。どこに行けばいいんでしょう?」

「5番の入り口に来てくださいますか?今どこですか?」

「ええーと、7番と書いてます」

「ああ、見えてます、ここから。水色の浴衣ですね」

「はい」


向こうの方で、手を振る濃紺の浴衣を着た彼の姿が見えた。


「いやー、美しい。とても艶やかで、杏子さんにぴったりだ」

「ありがとうございます。浴衣のおかげですけどね」

「そんな事はないです。杏子さんあっての浴衣です」

「廻ってみて」、彼は少し私から離れて私の浴衣姿の私を眺め、オジサンのようにうんうん、と頷いていた。


 夕暮れの京都駅前にはタクシーがたくさん並んでいたが、街は車でごった返している。地下鉄で、という私の言葉に、彼も納得し、地下鉄に乗って四条まで行き、阪急で河原町まで移動する。最初から、阪急に乗っていれば、時間はかかるが、乗り換え無しに来られたのでは、と思った。帰りは阪急で、と提案した。普段、地下鉄なんか乗らないのかと思ったが、大阪の街中では、地下鉄が断然早いので、1人の時はよく地下鉄で移動する、ということだった。


「東京は未だに良く分からないから、タクシーを利用することが多いのですが」


さすがにリムジンに独りで乗ることはないそうだ。


 西の山に日が沈み、墨をまいたように黒くなった路地に、カランコロンと下駄の音が鳴る。二人の足音が一瞬リンクし、しばらくタイミングが外れて響くようになり、また、同時に響く。私より頭半分ほど背が高く、ひょろっとした彼は、浴衣が時代劇の遊び人が着る着流しのような雰囲気だ。がっちりとした真一さんの浴衣姿を想像してしまった。胴回りがあるから、きっと似合うだろう。


 「坊ちゃん、ようおこしやす、」


 彼は何度もこの料亭に来ているらしい。迎えに出た女将も昔馴染みらしく、いい年をして子供みたいな呼ばれ方をしている。やっぱり、坊ちゃんである事は間違いない。2階の座敷から、鴨川に張り出した床に出ると、川沿いのあちこちの料亭から床が出ているのが見える。鴨川は暗く沈んでいるが、この一角だけは煌々と照らし出され、送り火を待つ人々の声が聞こえる。盆地を囲む山々は、すでにシルエットだけになり、どこに山があるのか良く分からない。

 鱧や賀茂なすなど、京都らしい料理が並び、ビンのビールが運ばれてきた。私は気を利かして、先に彼のグラスについであげた。

「ありがとう、杏子さんにお酌して貰うなんて光栄だな」

と今度は彼が三分の一ほど減ったビール瓶を私から奪い取り、今度は私のグラスにビールを注いだ。彼は「乾杯」と言い、自分のグラスを私のグラスにカチンと合わせた。

 歩いている時は、まだ昼間の熱気が残っており、蒸し暑かった。浴衣は案外涼しくもなく、肌着が汗ばんでいたが、床の上は、川風が気持ちいい。


「もうすぐ火が着きますよ」

「どこに?」

彼は北東の方を指差し言った

「まずは大文字。それから妙法、舟形、左大文字と続きます、最後に鳥居形、ここからは見えないですけどね」

「一度に着くのかと思ってた」

「五分間隔くらいで点火されます」


 しばらくして、おおーっ、と言う歓声が上がった。「大」と言う字が暗い山肌に浮かび上がった。それから、順に

妙法、舟形、左大文字と街を囲むように暗かった山の中腹に浮かび上がり、そのたびに小さな歓声が上がる。

「死者を送る行事なんでしょう」

「そうです。お精霊さん、死者の霊をあちらの世界へ送るための行事だと言われています」

「そう聞くと、なんか物悲しい感じですね」

「そうかも知れません」

「うちは父が七年前に亡くなりました」

「そうですか。うちは最近ありませんけどね。祖父母も健在ですし」

「うちは母方の祖母は元気ですが、他はずっと前に・・・・」

私は次女だし、彼よりも五歳年上なのだ。家族の年齢も自ずと違ってくる。

 

 静かに送り火の光が途絶え、また暗い山陰だけが街を囲む。周りの喧騒の中、私は1人、山に囲まれているような気になった。


「杏子さん、どうかしましたか?」

「ああ、すみません。何でもありません」

「何か、心ここに在らず、て感じでしたよ」

「・・・・ちょっと父のことを思い出していたの」

「そうですか。どんなお父上でしたか?」

「う~ん、優しかった。とても無口な人だった。その分母親がお喋りですけどね。二人合わせて丁度良かったのね」

「杏子さんはどっちに似たんですか?」

「さ~あ、どっちでしょうね」


 私は寡黙でもなく、お喋りでもない、と自分では思っているが、他人からはどう見えているのかは分からない。


「ヤナイさんはどっち?」

「僕は普通だと思いますが」

「普通、って?」

「必要な時は饒舌になりますが、不必要な時は寡黙になります」

「私もそうよ」


 必要な時、それ以外にも饒舌になる時があることを思い出した。不必要な時、仕事でもなんでもない、ただのお喋りがこんなに楽しいと思ったのは、あの時からだ。


by 杏子 




~私を海に連れてって~


 いつもの朝が始まった。

 お盆明けの車内は、普段より空いていた。連休の疲れか、欠伸をかみ殺す人が多い。十分に休息を取っていた筈だが、つられて欠伸をかみ殺す。


 僕は墓参りにも行かず、一日中部屋の中に居た。不健康だとは思ったが、どこかへ行こうという気も起こらないし、暑い外を避け、エアコンの効いた部屋で本を読み、過していた。夜になって、涼しくなると近くの居酒屋へ行って晩飯を取り、少し酔って部屋に戻る。四日間の休みをそんな自堕落な生活で費やした。仕事がある方が良い。いつからこんな無趣味になったんだろうか、と不思議に思う。


 三ノ宮で、杏子さんが電車に乗り込んできた。

 この暑さなのに、相変わらず黒のスーツの上着を手に、「おはよう」といつもの笑顔で朝の挨拶をしてきた。

「いいお休みでしたか?」

「ええ、久しぶりに実家へ戻って来ました」

「ああ、静岡に行ってたんですね」

「昨日は五山の送り火を見てきました」

「休みの間も、結構アクティブですね」

「そうですね、年中ばたばたしてるかも知れないですね、真一さんは?」

「僕はずっとエアコンのお守をしてました」

「ずっと?」

「ええ、ずっと」

「海に行ったり、自転車に乗ったりはしないのですか、今は」

「そうですね、ちょっと気力がないですね、今は。涼しくなったら、少し始めようか、とは思いますが・・・」

「以前、言ってたでしょ。ヨットレースの話」

「ええ、それは昔の話ですけど、乗ってましたよ」

「私、ヨットって乗ったことがないので、一度乗ってみたいなぁー、て思ったんです」

「僕がやってたのは、せいぜい四人位しか乗れない小さな舟ですよ」

「そういうの。海面がすぐ近くに感じられるんでしょ。前に言ってたじゃないですか」

「そんな事言ったかな、たぶん」

「そう、風の強い日は、体を精一杯舟の外に出して、バランスを取るんでしょ。それで、腹筋がひくひくなって、翌日は筋肉痛になることがあるって」

「ああ、そうですね。ひっくり返って、頭からびしょびしょになるとか」

「そうそう、そんなのを想像して、やってみたいなぁー、て思ったんです」

「そうですね。一度行ってみますか、休みの日に。今は舟を持っていないので、芦屋浜かどこかでレンタルして」

「レンタルも出来るんですね。じゃあ、乗ってみたい。お願いします」

「分かりました」



 僕たちが学生時代手に入れたヨットは、砂浜などから出艇するために船底の真平らなスコウタイプ゜というディンギーだった。本来、レジャー用に開発された舟で、競技の時ように、上り角度がどうのとかは関係なく、とにかく海面を跳ねるようなスピードが持ち味だった。4人で共同購入した舟だったが、4人が揃うことも少なく、やがてその舟を売って、仲間は解散した。

 僕は、1人で運べ、1人でどこへでも行けるウインドサーフィンを始めたが、孤独なサーファーは性分に合わず、また、1人乗りのヨットを1人で買い、沢山の仲間とレースを楽しむようになった。ヨットを購入するまで、芦屋浜にあった海洋体育館でヨットを借り、1人で乗っていた。あれから20年が経つ。果たして今でもレンタルヨットがあるのか、と思ったが今でもスクールもしているし、レンタルヨットも数多くあるということだった。


 十数年振りに、県立の海洋体育館に連絡をしてみた。運良く二枚帆の小型艇を借りることが出来た。

 早速、彼女の携帯にメールをしてみた。

『今度の土曜日、ヨットを予約します。予定は大丈夫?』

しばらくして、返事が返ってきた。

『はい、大丈夫です。お願いします』


 もし、外にハイクアウトしないといけないような強い風が吹いたら、この弛んだお腹ではもたないだろうな、と少し心配にはなった。でも、何で彼女は急にそんなことを言い出したのか、不思議だった。


by 真一




 いつものように通勤電車に乗り込むと、あの笑顔がいつものように私を迎えた。

「おはよう、良い休みでしたか?」

と彼は私に聞いた。

「ええ、実家に行ったり、京都にいったり、結局じっとはしていなかったですけど」

 五山の送り火、に行った話もしたが、誰と行ったとかは聞いてこなかった。少し残念。少しはやきもちを焼くのだろうか、と思ったけれど。


 彼は一日中ゴロゴロとしていたという。元々は結構スポーツマンで、自転車であちこちに行っていたり、ヨットやウインドサーフィンなどを若い頃はしていたという。今は見る影もない位太ってしまったが、昔は腹筋が割れているような体をしていた、という話だ。「ホント~?」と疑うと、翌日、若い頃の写真を何枚か見せてくれた。確かにかなりスリムで、筋肉質の体だったが、メガネを掛けた顔つきは今も面影がある。結婚してから、ほとんど1人で外へ出かけることはなくなってしまい、家族と出かけるか、家でごろごろするようになったのだという。

 もったいない。まだ、そんなに老け込む年でもないのに、まるで隠居爺だ。

 私は彼を表に引っ張り出したい、と思った。話していても分かるが、彼は本来、もっとアクティブな性格なはずだ。そんな彼を見たいと思った。

 まずは、彼の得意な分野で、と思い、ヨットの話を切り出したら、少しその気になったので、「乗ってみたい」、と私には似合わない媚を売ってみた。彼は、少し困ったような様子だったが、「ちょっと調べてみる」と言って承諾した。

 会社に着くとすぐに、「土曜日、予約した」、とメールがあった。きっと、彼も久しぶりに体を動かしたい、と思ったのだろう。


by 杏子




~ハイクアウト~


 夏場だから、水着姿で乗るのだろう、と思ったが、「下に水着着て、Tシャツに短パンくらいがいいよ」という言葉に安心した。海なんかに行く事もなく、水着と言えば、一時通っていたスポーツクラブで買った競泳用の水着くらいしか持っていなかった。若い頃に着ていた露出度の高いハイレグ水着やビキニは、もう着る事がないだろうと思い、とうの昔に処分していた。

 白いワンピースに麦わら帽子、籐の手提げ鞄というどこかの避暑地に行くお嬢様のような格好をして出かけた。いつもは阪急に乗るのだが、その海洋体育館と言うところは海岸沿いなので、阪神の三ノ宮で待ち合わせた。籐の手提げ鞄には水着や着替え以外に、朝早くから拵えたお弁当と凍らしたお茶を入れているので、結構重い。自分以外の人のために弁当を作ったのは何年ぶりだろう。


 私を見つけ、遠くから手を上げて彼が近づいてきた。

「おはよう、お嬢さん」

年に似合わない私の格好を、おどけて冷やかしているようだ。彼はニコニコしながら、私を見ていた。

 彼は、穿きこんだジーンズにボタンダウンの生成り色の半そでシャツ、胸元には白いTシャツが見える。今の若い子のようにシャツを表に出さず、ジーンズの中に裾を入れていた。肩にはディパック。そんなラフな格好をすると、案外、見た目は太っていないように見える。裸足にデッキシューズと言うのが私と同じだった。


「今日はかなり天気が良いそうや。焼けると思うよ」

「大丈夫、日焼け止め持ってきたわ」


 受付でライフジャケットを貰い、着替えを済ませて表へ出た。沢山のヨットが並んでいた。ここの施設が所有している物もあれば、個人で持ち込み置いているものもあるのだという。真一さんも以前はここに置いていたらしい。

 彼がヨットの備品を担いできた。アルミ色のマストにセールを取り付け、マストの前にももう一枚、小さめのセールが取り付けられた。何がどうなっているのか私には分からないが、彼の言うとおり、「その紐をそこに通して」と言われるがまま、ロープを通していった。舵を取り付け、「出来たよ」と彼は言った。そよ風にセールがはためいていた。

 台車を二人で押して、海に続くスロープから舟を下ろし、浮かべた。「先に乗ってて」と彼は言い、台車をスロープの上に戻しに行った。訳も判らず、揺れる舟の上にただ座っていると、自然と沖の方へ流されて行く。

「どうしたらいいの?」

私の不安そうな声を無視して、彼は笑っていた。しばらくして

「何にもしなくていい、すぐそっちに行くよ」と言い、海に入って、こちらに泳いできた。舟の縁を掴み、勢い良く乗り込んでくると、大きく舟が傾き、私は転げそうになった。

「大丈夫?」と彼は言ったが、悪戯っ子のような顔で笑っていた。


「わざとね」

「いや、どうするかな~、て思って」

「も~う」

と、拳を作って彼に近づこうとすると、また、舟が傾いて、私は小さく「きゃ」と声を出してしまった。彼はまた、笑いながら

「可愛いね~」

と言いながら、舵に取り付けられた長い棒を片手で持ち、もう一方の手でロープを持った。

「杏子さんはそのロープを持って、真ん中辺に居てくれる」

彼はそう言って、真ん中に突き出ていた翼のような板を舟の下に押し込んだ。

「じゃ、ぼちぼち行きますか」と言い、彼がロープを引くと、大きな方のセールが風をはらみ、キレイな曲線を描いた。すると、ちゃぽちゃぽと音を立ててヨットが進みだした。

「そのロープも引っ張ってくれる?」言われるままにロープを引っ張ると、小さな方の帆もカーブを描き風を掴んだように見え、スピードが増した。少し傾いたヨットの縁に彼が座ると、水平に戻る。二人を乗せたヨットは海面を静かに進んでいく。向こうの方にあった堤防が、目の前に近づいてきた。彼は

「タックするよ。頭、気を付けて。あっ、タッキングって、方向転換のことね」

と言い、舵を切る。ヨットがクルっと向きを変え、頭の上をアルミのバーが横切った。彼は反対側の縁に体を向けて、座った。また舟のスピードが上がる。

 何回かのタッキングとやらを繰り返して、阪神高速の下をくぐり、入り江を出て、広い大阪湾に出た。風が少し強くなり、波も出てきたが、舟は小波を突っ切り、あまり揺れなかった。

 「もう少しスピードを上げるから、僕みたいに足をベルトに入れて、杏子さんもここに座ってくれる?」

言われるがまま、私は中腰になって、縁に座った。彼がぐいっとロープを引くと、船体が傾いた。

「こうやってね、体を外に出すんや」

と彼は言い、腰から上を船体の外に出した。舟が水平になって、ますますスピードが上がり、顔に吹き付ける風が強く、心地よかった。


 どんどんと沖へ進むと周りには何にもなくなって、海の上にぽつんと浮かんでいるような感じになった。後ろを振り向くと、出発地のヨットハーバーが小さくなっていた。彼は楽しそうだった。心から楽しんでいるのが顔を見ただけで分かる。

「タック用意、タック」

彼の掛け声で、体の向きを変える。頭の上をアルミのバーが横切る。私は大分要領が良くなった。最初は、舟が傾く度に、小さく「キャ」と言っていたが、そんな物だと分かると、ちっとも怖くなくなった。エンジンも何もなくて、ただ風の力だけでこんなにスピードが出るなんて驚きだった。

「早いねー、ヨットって」

「まだ序の口。風が強くなると、こんなもんじゃないよ」

「そうなの?私はこれくらいでいいかも」

「はは、昼からはもっと風が出るはずだから、もっと面白いよ」

彼の余裕の言葉と裏腹に、私はちょっと不安になった。舟の縁に座り、体を反らす姿勢は、まるっきり腹筋運動だったので、結構堪えたのだった。


「戻ろうか、もう一時間近く走ってる」

「ええ」

「帰りはもっと早いと思うよ」

と言いながら、彼が舵を切ると、舟は180度向きを変えながらスピードを上げていく。波頭を切り裂き、飛沫が飛んで来る。

「すごい、気持ちいい~」

「気持ちいいねー、最高だねー」

彼はいよいよ顔をほころばせ、私に言った。

「ありがとう。杏子さんに言われなかったら、この気持ちよさを忘れるとこだった」

彼は舵棒とロープを一つの手に持ち、空いた腕を私の体に廻し、引き寄せた。彼は腰に廻した手にロープを持ち変え、私を片腕に抱いたまま、舟を走らせた。ヨットは一直線に出発地に向かった。


by 杏子




 夏場、西宮辺りの海岸では午後から強い海風が入る。狭い平地で十分に熱せられた空気は、六甲連山の斜面を駆け上がり、海からの風を呼ぶ。逆に冬場は山からの冷たい空気が吹き下ろす。これが六甲おろしと呼ばれている。


 杏子さんが作ってきた可愛らしいお弁当を、海岸の傍にある公園のベンチで並んで食べた。松の林が適度に陽を遮ってくれ、徐々に強くなる海風が心地良かった。

「これ、朝から作ってたの?」

「そうよ、6時起き、いつもより早いくらい」

「そっかー、心して頂きます」

 タッパーウェアーの中には、色とりどりにフリカケをまぶされたり、海苔を巻いた小ぶりなオニギリが並んでいた。別の入れ物には、玉子焼き、ウインナーなど、ごくフツ~のおかずが並び、僕の好きなキュウリの漬物もあった。僕は海苔を巻いたのを一つ取り、半分ばかり齧った。鮭のほぐし身が入っており、適度な塩味が美味かった。

「お茶、ここに置くね」

「うん、ありがとう」

「どう。お口に合うかしら?」

「うん、美味いなぁー」

「あんまり手の込んだことは出来なかったけど、お米はササニシキよ」

「そうかー、この漬物は?」

「定期的に静岡から送ってくるのよ、母親が」

「よく浸かってるけど、美味いなぁー。漬物の上手な奥さん、っていいよなぁー」

「じゃあ、今度言っとくわ、お母さんをお嫁に欲しいって人がいるわよ、て」

「そんなー、意地悪だなぁー」

「だってー、私、漬物は漬けられないもの」

と言いながら、彼女は笑っていた。

 母親が漬物上手なら、それを習えばいいだけじゃないか、と思ったが、それは口にしなかった。確かに杏子さんがヌカ床をかき回している姿はちょっと想像できなかった。

 

 午後からの風は、初心者にはちょっとキツイくらいに吹き始め、波も出てきた。僕たちは沖へは出ず、湾内を行ったり来たりするだけで、時々浜に上がってみたりして、のんびりと過し、3時頃には舟を陸に上げた。

 

 更衣室で服を脱ぎ、シャワーを浴びると、背中が少しひりひりした。着替えて出てきた彼女の顔も、少し赤らんで見えた。

「ひりひりしない?」

「ちょっと」

「日差し強かったからね」

「日焼け止めも、あんまり効かなかったかしら」

「そうだね、Tシャツの上からも焼けたようだ」

二人とも、普段はあんまり外へは出ないので、白い肌が、赤くなっている。

「涼しいところへ行こうか」

「どこ?」

「この近くには酒蔵がたくさんあって、そこで出来立てのお酒も飲めるんだな」

「いいわね、それ」


 僕たちは、蔵元が経営しているお店に向かった。


by 真一




~酒蔵~


 午後からは、私もティラー(舵を操作する棒)とメインシート(大きな方のセールを操るロープ)を握り、ヨットの操船をさせて貰った。午後からの強い風で、何度もひっくり返りそうになったが、メインシートに掛かる力が、そのまま舟のスピードに繋がっているようで、とても面白かった。「ヨットは体で覚えないと」と言って、彼はあんまりあーだこーだとは言わず、体を移動して、舟の姿勢を保つようにだけしてくれた。

 タッキングは上手く出来るようになったが、風下の方向で向きを変えるジャイブは怖かった。突然、メインセールのバーが反対側に移動するので、うかうかすると頭に直撃する。あれか当たると相当痛いだろうと予想できた。疲れたら、海岸に乗りつけ、しばらくゴロゴロとしたりしていた。彼は終始笑顔のまんまだった。無理に引っ張り出したようなものだったが、良かったと思った。


 私の腹筋がもたなくなって、「もう、無理」と言ったのを合図に、舟を上げる事になった。シャワーを浴びても、何だか全身がだるい感じだった。普段使わない筋肉を酷使したのだろう。熱いシャワーが当たるとあちこちがヒリヒリした。鏡を見ると少し顔が赤らんでいた。私は化粧を直すの諦め顔を洗い、保湿クリームだけを塗ってほぼスッピンのままで表へ出た。


 「酒蔵に行こう」と言う彼の提案で、近くにある日本酒のメーカーが経営するお店に向かう。

 酒蔵は少し離れたところにあったが、強い風のせいで、それほど暑くもなく、昔、ヨットを車に乗せてあちこちに行った話や、自転車の旅の話などを聞きながら歩いた。彼は日本国中を旅していて、方々の海や湖でヨットにも乗っていた。その話を聞くだけでも十分に楽しかった。


 酒蔵が経営するレストランは、漆喰の白い壁が綺麗なお洒落な和風の建物だった。1階のお酒やおみやげ物も売っている所には、団体で来ている人達がいて、まるで観光地のようだ。私達は2階のレストランに上がり、団体客の札が置いてある席を避け、奥の方の静かな席に案内してもらった。


「まずはビールかな」

「えっ、ビールもあるの?日本酒のメーカーなのに」

「もちろんあるさ。地ビールも作ってるよ」

「そうなんだ」

「ついでに、米ぬか化粧品なんてのもあります」

「ははっ、そうね、米ぬかってお肌に良いって聞くものね」

 私達はグラスのビールを注文し、地ビールの入った琥珀色のグラスを合わせ乾杯した。乾いた喉に、甘い地ビールは染み込むようだった。お腹はあんまり空いていなかったので、軽い突き出しのような物を注文したが、

 「もう、新酒の時期じゃあないけど、蔵出しのお酒は美味いらしいよ」

と言う言葉に誘われ、冷のお酒を頂く事にした。


「僕はね、40を過ぎるまで日本酒が嫌いだったんや」

「なぜ?」

「学生時代、先輩から燗冷めの不味い日本酒を散々飲まされ、痛い目に会ったから、あの匂いが蘇ってきてダメだた。最近になって旨い冷のお酒を勧められて、初めて日本酒は美味いんだと再確認した。今でも燗は少し苦手だけれど・・・・」

「そう。私は燗したお酒も好きよ。寒いときは温まるし」

そう言いながら私は、透明なガラスのぐい飲みに入った冷のお酒をぐいっと飲んだ。冷たい喉越しの後に芳醇な香りが広がる。やっぱり夏は冷が良いかな、と思った。


 透明な二合徳利が何本か並んで、私はふわーっとした気分になってきた。外に見える清酒工場の白い外壁が赤く染まり、向かいに座った彼の頬を赤く照らしていた。彼の顔色は分からなかったが、言葉はしっかりしていて、全然酔っていないようだった。そう思うと、安心して、またグラスを口に運んだ。


 彼は、「大丈夫、駅まで歩く」と言う私の言葉を遮って、レジでタクシーを呼んで貰った。ほどなくやって来たタクシーに乗り込み、彼が行き先を告げた。

「眠たかったら、寝ててもいいよ」

「大丈夫」

と言いつつ、私は昼間の疲れからか、目を瞑ってしまい。そのまま寝入ってしまったようだった。気が付くと回りは完全に暮れていて、どこを走っているのか分からなかった。私は真一さんの太ももの辺りに頭を預け、横になっていた。顔を起こし、

「今、どこ?」

と聞くと、

「目が覚めた?摩耶辺りかな。渋滞してるから時間が掛かってる」

と彼は言った。彼の指示で、タクシーは裏道を走り、ほどなく私のマンションに着いた。自分で歩ける、と私は言ったが、支払いを済ませた彼は、私の腰を抱いて部屋まで送ってくれた。毎回のように酔っ払った私を送ってくれる彼をそのまま帰すのは忍びない、何となくそう思った。

「今何時?」

「7時半位かな」

「コーヒー入れるから、飲んでって」

「いいよ、しんどいやろ」

「大丈夫、だいぶ冷めてきたから」

「じゃあ、頂いていきます」

「エアコン付けてくれる。それにテレビでも見てて」

 私はコーヒー豆をミルで挽き、ドリッパーにセットした。しばらくすると、コーヒーの香ばしい香りが部屋中に広がってきた。私は淹れたてのコーヒーを二つのマグカップに注ぎ、リビングのソファーに持って行き、並んでテレビの前に座った。二人とも、ブラックでいいので、その点は楽だった。


「今日はありがとう。とっても楽しかった」

「こちらこそ、久しぶりに爽快な気分になった。また、時どき乗りに行きたいと思ったよ」

「そう、良かった」


 こちらを向いた彼は、真顔になり、口に付けていたカップを置き、私の肩に手を掛けてきた。私もカップをテーブルに置いた。彼の体が斜めになって私の方へ近づいてきたので、私は目を瞑った。彼の唇が私の唇を捉え、私は抱きしめられた。それに応えるように、彼の背中に両腕廻した。

「好きや」

合わせていた唇を離し、耳元で彼が言った。私も目を開け、

「私もよ」

と言った。彼が再び唇を合わせてきて、激しく舌を絡めるような口付けをしてきた。私は彼の背中を強く抱いた。


 その夜、彼は家には帰らなかった。


by 杏子





~煮抜きとサラダと出石そば~


 目覚めると、外は明るいものの、まだ6時前だった。緩く掛けているエアコンのおかげでそう暑くもないが、シーツは汗でべっとりとしていた。睡眠を挟み、朝方近くまで、何度も彼女を愛した。寝ている彼女を起こすのも可哀想だったので、彼女の上を跨ぎ、静かにベッドを離れた。静かに横たわっている彼女の体が、薄いタオルケットを通して感じられた。太くもなく細くもない足から、しっかりとした腰の山があり、急な渓谷のように腰のくびれに山端が下がる。剥きだしになった腕と手に余る程よい大きさの乳房が谷間を作っている。

 また下半身から、沸き起こる衝動を抑え、僕はもう一度ベッドに近づき、彼女の頭に口付けをした。


 シャワーを浴び、彼女の家のバスタオルを借りて体を乾かした。窓を開け、ベランダに出てみたが、もうすでに外の気温は高く、すぐに部屋の中に戻った。彼女はまだ小さな寝息を立てていた。僕は冷蔵庫を開け、ペットボトルに入ったお茶をグラスに注ぎ、冷蔵庫の中身を探索してみた。冷凍食品が結構ストックされており、生野菜も小分けに保存されていた。ラップにくるまれた半分のニンジン、レタス半個、玉ねぎを1個出し、卵を2個、水を張ったミルクパンに入れ、火を点けた。

 まな板は、樹脂製の物だったが、綺麗に洗っていて、黒ずみもなかった。僕は文化包丁で、ニンジンを細切りにし、玉ねぎを薄くスライスして、レタスを千切った。中くらいのビニル袋に切った野菜を放り込み、冷蔵庫にあったマヨネーズと塩と胡椒を振り、その袋をぐちゃぐちゃと揉み解した。

 卵を入れたミルクパンが沸騰していたが、火を小さくして、そのまま十分ほど置き、火を止めた。


 奥で物音がし、振り返るとタオルケットを体に巻いた彼女が立っていた。

「何してるの?」

「朝ごはん。冷蔵庫のもの少し使ったよ」

「それはいいけど、まだ寝ていたらイイのに」

「目が冴えちゃって。それに君の傍に居ると、また悪さしたくなっちゃうから」

彼女はキッ、と眉を寄せ「スケベ」と言ったが、顔は笑っていた。


「シャワー浴びといでよ」

「うん」

彼女は、寝室に戻り、着替えを持って風呂場に向かった。


「誰かに朝ごはん作ってもらうのって、実家以外では久しぶりだわ」

と、彼女は嬉しそうに言った。

「じゃあ、作ってもらったことあるんだ」

「姑にね」

「あっ、そうか」

「男の人は始めて、たぶん。あっ、キャンプに行った時はあったかな」

「外へ出たら、男の仕事、みたいなところがあるからね」

「このサラダ、美味しいわ。どうやって作ったの?」

「それは企業秘密」

「なんだ、ケチねー」

「そんなたいそうな事じゃないんや、材料とマヨネーズと混ぜるだけ」

「そう?それだけ?浅漬けみたいに味が染みてるわ」

「分かる?」

と僕がにっ、と笑うと、「やっぱり何か秘密があるのね、白状しなさい」

と言って、ゆで卵を僕の頭にぶつけようとしていたが、思いとどまって、机の端でコンコンと叩いた。

「卵はハードボイルドなのね」

「そう、僕は煮抜きが好きなんだ」

「煮抜き?」

「あれ、関西では固ゆでの卵のことを煮抜き、て言うよ」

「そうなの。長い事関西に居るようでも、知らない言葉があるのね」

「今の若い子は言わないかも知れないけどね。僕は温泉卵が許せないんだ」

「何で?」

「だって、黄身だけがドロドロだと、パンに挟めないから」

「挟まなくてもいいじゃない」

「挟みたい」

僕は、こんがり焼いたトーストにサラダや卵を挟んで巻いて食べていた。

「美味しい?」

彼女は、僕の真似をして、サラダとゆで卵を半分トーストに挟んで頬張った。

「どう?」

「うん、確かに美味しい。でも、外でこんなに大口開けてたら、あんまり上品じゃないわね」

「はははっ、そりゃあ、家でしか出来ないけどね」

彼女も笑っていた。


by 真一




 目が覚めると、横にいるはずの真一さんが居ないのに気付いて、少し不安になった。体全体が熱くて、気だるさが残っていた。昨日の昼間の疲れなのか、夜の激しい営みのせいなのか分からなかったが、起き上がろうとした時に感じた腹筋の痛みだけは、間違いなく昨日のヨットのせいだと分かった。

 台所の方からコトコトと音がするので、裸のまま、タオルケットだけを体に巻き、恐る恐る覗いた。

 彼が流しの前に立ち、何かを作っていた。声を掛けると、朝ごはんを作っているのだという。私は涙が出そうになったが、彼に言われるままシャワーを浴びに、浴室へ向かった。

 昨日ほど、ヒリヒリとする感覚はなかったが、体のあちこちに、彼の跡が判子のようにクッキリと出ていた。それは、胸元から体の中心を経て、太ももにまで及んでいた。分かってしているのか、服の外に出る腕や足先には無かった。彼は年を経た男の優しさと、20代の若者のような激しさを私に見せた。まるで二人の男に同時に愛されているような感じだった。彼を誘った訳でもないし、酔っていたという訳でもない。ただ、私はそう望んでいたのだと、今は思える。柔らかく包み込むような彼を、私は心の底で望んでいたのだと分かった。


 着替えてキッチンに繋がったダイニングに行くと、香ばしいコーヒーの香りと、トーストの焼けた匂いがした。二つの皿にサラダと卵が乗り、別の皿に、私が買っておいた薄切りのトーストが一枚ずつ焼かれていた。彼は、イスを引いて私を座らせ、コーヒーの入ったマグカップを私の目の前に置き、もう一つを向かい側の自分の席としたテーブルに端に置いた。一度お盆を台所へ持っていった彼が座り、「戴きます」と言って軽く手を合わせた。私も手を合わせ、「頂きます」と言った。全身になにかしら暖かいものが充満してきたような気がした。


 彼が作ってくれたサラダはとても美味しかった。ニンジンもレタスもしんなりとしていて、その水気の中に味が染みていた。「企業秘密」と言って教えてくれなかったが、後で絶対聞きだしてやろうと思った。次は同じ物を、いやもっと美味しいものを彼に食べさせてやりたかった。そう思った自分にも驚いた。一夜を共にしただけで、彼のことがとても愛しい存在に変わっていた。

 固茹での卵とサラダ、ただそれだけだったが、とても充実したこれまでに食べた事のない朝食に思える。


「今日の予定は?」

とコーヒーを飲みながら、彼が聞いてきた。

「真一さんは?」

「僕はこれと言って用事はないけど、図書館に本を返して、新しい本を借りる。それくらいかな」

「私もそんなに急ぎの仕事は無いから、メールをチェックして、何かあれば、連絡をするだけ。私も図書館に付いて行ってもいい?」

「いいけど、何か読みたい本があるの?」

「ううん、真一さんがどんなところに住んでるか、どんなところで本を選んでいるのか見てみたくなったのよ」

「他人にはあんまり面白いとは思えないけ。いいよ」

 彼の口から出た、「他人」という言葉に私は少し傷つけられたような気がした。確かに今でも、これからも他人である事は間違いないのだが、自分が彼の一部になれない、なっていないことが私を寂しくさせた。『ビックリだわ』、自分の心の在り様に驚いている私がいた。


 別に今日でなくていいのに、と言う私の言葉を振り切って、彼はドアや流しの扉の不調を直してくれた。「ドライバー一本で直るよ」と言い、私がリビングの机に向かっている間、あちこちを調べ、次々に直していった。本社や支社からの問い合わせに返信をし、仕事を済ませ、パソコンの電源を落とした頃には、家の扉という扉は音もなく快調に開くようになっていた。

 彼は昨日と同じ格好だったので、私もジーンズにタンガリーシャツというラフなスタイルにした。お昼はどこかのファーストフードで済ますことにして、私達は家を出た。


 昨日とは違い、空は今にも泣き出しそうになっていた。

「傘、持ってこなかったね」

「降っても知れてるだろ、大丈夫。家に行けば、傘ぐらいあるから」

 日曜の静かなオフィス街を抜け、駅へと向かった。昼前の電車は空いていた。長いロングシートの真ん中に二人並んで座った。自然と彼の腕を取り、手を握っていた。引っ付いた肩から彼の体温が感じられるのが何故か嬉しかった。

「お昼さあ、そば食べない?」

彼は突然思い出したようにそう言った。

「お蕎麦?」

「うん、家の近くに出石そばを出しているところがあるんだ」

「出石そば?」

「そう、山芋を練りこんだソバだけど、もっちりとした食感が美味しいよ」

「そう言えば、食べた事があるわ。いいわよ」

「じゃそれで決まり」

彼はニコニコしてそう言った。食いしん坊が災いしてこのお腹が出てきたのだと思って、絡めた腕の肘で彼のお腹をつついた。何?と言う顔をしていた彼に私は「何でもない」と笑って答えた。


by 杏子



 ぷつぷつと降りだした雨の中、彼女と僕は小走りに僕の部屋に向かった。そんなに強く降るとは思えなかったが、彼女が「どっち?」と言いながら僕の手を引っ張り駆け出したので付いて行った。マンションの階段の下に付き、息を弾ませながら階段を上がり、部屋の鍵を開けた。むっとする熱気が部屋に溜まっていた。

「ちょっと待ってて、今窓を開けるから」と言って彼女を表に立たせたまま、僕は部屋を横切り、1つしかない窓を全開にした。彼女は「お邪魔しま~す」と小さい声を出し、おそるおそる入ってきた。

「案外片付いているのね」

と彼女は言い、物珍しそうに部屋のあちこちを眺めていた。僕は読みかけの本とすでに読んだ本を合わせて10冊、トートーバッグに放り混み、「行こうか」と言った。彼女は僕の言葉が聞こえないかのように、クローゼットを開けたり、ベッドに座ったり、なかなか出かけようとしない。

「何か気になることでもあるの?」

「ううん。この部屋で真一さんが毎日を過してるんだなぁ、て思ってただけ」

 僕は彼女の横に座り、肩を抱いた。彼女はそれを待っていたかのように、僕の背中に腕を廻し、目を閉じていた。彼女に口付けをした。唇を離すと、彼女は「ここでして」、と小さく言った。僕は再び窓を閉め、エアコンのスイッチを入れた。


by 真一




 彼の部屋は、案外に片付いていた。逆に、物が何にも無いとも言えるかも知れない。必要最小限の物だけをを入れた、箱のようなものだった。私は彼の部屋を観察して、いつの間にか何かを探している自分に気が付いた。それは、女の影が見当たらないか、何か不審な物が無いかという杞憂によるものだ。彼の「彼女なんていないよ」と言う言葉は信じてはいたが、過去の経験から、男の言葉は100%ではない、といつの間にか思うようになっていた。決して彼を束縛しようなどとは端から思ってはいなかったが、他の誰かの匂いが無いかと、探偵のように探ってしまった。

「何か気になることでもあるの?」

と言う彼の言葉で、私は我に返り。冷静さを取り戻したが、私の横に座り、彼が唇を合わせてきた時、ここに自分の痕跡を残したいと強く思っていた。

 私は彼の匂いのする、彼のテリトリーの中で抱かれた。


by 杏子





~御堂筋~


 あれから週末の度、時間を待ち合わせ、夕食を共にし、私の家に帰るようになった。金曜日が忙しく、どちらかが遅くまで掛かる時は、土曜の昼頃から買い物に行ったり、街を散歩したりした後、二人で夕食を作り、片づけをし、レンタルで借りた映画をみたり、週末の2日間をずっと共にしていた。彼は家事も苦にならないらしく、掃除でも洗濯でも自分からやってくれた。何が不満で離婚しようとしているのか、現在も戸籍上の配偶者である彼の妻に聞いてみたかった。彼に理由を聞いても、

「僕がわがままなだけだ」

としか言わず、詳しく具体的な事は話さない。「そのうち君にもわかるよ」とも言った。

「浮気するとか?」

と冗談半分で私が言うと

「いや、僕はそんなに器用じゃない」

と彼は真顔で言った。

確かにそんな心配はなさそうだった、少なくとも今は。


 私ははっきりと告げなくてはいけなかった。たとえ、仕事上で不利に働くかもしれない、会社に迷惑が掛かるかも知れないが、あの坊ちゃんに、自分の今の気持ちを正直に言おうと思っていた。


『土曜日、時間があれば、お付き合い頂けますか』

とヤナイ氏に携帯からメールを打った。

5分と経たない内に、

『喜んで。杏子さんからのお誘いなら、いつでもOKですよ』

と返ってきた。その文面を見て、少し憂鬱になった。


「僕も一緒に行こうか?」

真一さんは、そう言ってくれたが、これは私自身の問題です、と言って断わった。それでも、何を心配しているのか、梅田まで付いてきて、近くで待っていると言う。私の気持ちは十分に分かっているはずなのに。


 土曜の御堂筋は車も普段より少なく、人通りもあまり無い。私の会社から十分ほど南に下ると、路上にはみ出すようにテーブルを並べたカフェがあった。午後の3時にヤナイ氏と待ち合わせをした。彼の大阪事務所からも近いところだった。真一さんには梅田の本屋や古本屋を廻っててくれるように言った。彼は本さえあれば、立ち読みでも何時間でも時間を潰せる便利な人だった。


 ヤナイ氏は5分ばかり遅れて現れた。いつもの如く、ウイークエンドの着こなしはお洒落だった。ピンクの綿シャツにスカーフなど、普通の人がしていたらキザで仕方がないが、彼には嫌味なく似合っていた。


「お待たせしました」

「いいえ、私も今来たところですから」

「注文は?」

「いえ、まだです」

近くにいたウェイターに、彼はアイスコーヒーを私はアイスティを注文した。

 注文の品が運ばれるまで、今日の暑さや、最近の仕事のことやら、たわいの無い世間話をしていたが、私は居ずまいを正して、彼を真っ直ぐに見据えて言った。

「実は私、好きな人がいるんです」

「えっ、」

「友達としてお付き合いします、と言いましたが、それは今でも変わりませんが、今、付き合っている人がいます」

 少しため息をついた後、しばらく間をおいて彼は言った。

「結婚するんですか?」

「いえ、結婚とかいうことは、今は考えていません。けれど、ヤナイさんには言っておかないといけないと思って・・・・」

「そうですか。僕には一塁の望みも無い訳ですか、男として」

「そんな風に言われると困ってしまいます」

「でも、僕と結婚する、ということは無いんですね」

「はっきり言うと、そうです」

「分かりました」

そう言うと、彼は大袈裟に見えるほど頭を下げ肩を落とした。悪い事したかと思ったが、このまま黙っている方がもっと誠実でないと思っていた。

 彼は、しばらく目を瞑っていたが、私の方に向き直り、

「でも、今まで通り、僕の会社とも付き合ってくださいね」

と言った。

「それは喜んで、そうさせていただきます」

と私は明るく言った。彼は本当にいい人だ、少し勿体無い気がした。自分の打算的な心が卑しく思えた。


 『どこにいるの』と真一さんんにメールをすると、『後ろ』とすぐにメールが返ってきた。後ろを振り返ると御堂筋の反対側に彼が立っていた。信号が変わり、車の流れが切れると、彼は車道を横断し私の元に駆けてきた。

「もーう、待っててって言ったでしょ」

「うーん、でも心配やったんや、逆上して何かされたらかなわんやろ」

「そんな心配は全然無いわよ、彼は紳士よ」

「僕ならそんな簡単には引き下がれへんなぁー」

「それは私をそれだけ愛してるってこと?」

「そうとも言える。後悔してない?僕みたいな貧乏人に比べたら、ずっとお金持ちで、きっと贅沢な暮らしも出来たのに」

「本当に怒るわよ」

「ごめんごめん、もう言わない」

彼は私の肩を抱いて、強く引き寄せた。

 銀杏の木が色を変え始めた御堂筋の歩道の真ん中で、中年の男と女が口付けを交わした。


by 杏子




 僕は彼女が出てくるのを、御堂筋の向かい側で待ち続けた。何かあったら店に飛び込もう、と思っていた。


 何事も無かったように、男と彼女は店から出てきて、左右に別れた。


『どこにいるの』

『後ろ』


 僕は広い御堂筋の車道を渡り、彼女の元に走りついた。彼女があれこれ言うのを押し留め、唇を合わせた。


 この女は俺のものだ、と世間に認めさせるような気持ちだった。


by 真一





~うち来れば?~


 「うちに来れば」


 最初に真一さんが家に泊まった日から私は、この人なら一緒に住んでもいいと思っていた。彼は私の助けこそなれ、仕事の足を引っ張ったり、一緒に暮らしていてストレスが溜まるような人ではなかったからだ。程よい緊張感を残して安らぐことの出来る、私にとって得がたい存在なのだと思った。むしろ、私が彼に寄り掛かり気味で、彼には迷惑かもしれない、とは思ったが・・・・


「ずっと一緒にいると、嫌にならないか?」

「真一さんなら大丈夫。嫌になったらなったでその時考えれば?」

「それもそうだ」


 彼は正式には離婚していないので、結婚はできなかったが、パートナーとしては申し分ない。内縁の妻、という事になるのだろう。

 十月の3連休の最初の日、彼は軽トラック一台分の荷物と共に、私のマンションにやって来た。納戸がわりに使っていた和室が、一時彼の荷物部屋となった。荷物の整理が終わっても、細かなところで、二つに増えたもの、少し数が増えたものがあったぐらいで、私の家がそう変化したようには見えなかった。

 洗面所の歯ブラシ(これは以前から置いていた)、男性用化粧品、髭剃り、下駄箱の中には黒い靴が3足、衣類はクローゼットの中と彼が唯一持ってきた家具、整理ダンスに納まっていたので、リビングやキッチンはほとんど変わっていなかった。


「よろしくお願いします」

「こちらこそ」

彼と私は、和室の床に座り正座して一応の挨拶をした。そして、二人が共同生活をする上でのルールを話し合った。


「今のベッド狭いからダブルベッドにしようと思うんだけど」

「うん、でもどちらかが病気になった時を考えると、二つあったほうがええと思うよ、今のが無駄にならないし」

「それもそうね。前の部屋にあったベッドはどうしたの?」

「もう、マットがガタガタだからほってきた」

「そうねー、ぎしぎしいってたものねー」

一度だけ、彼の部屋で抱かれた時のことを思い出した。

「明日、ベッド見に行く?」

「そうやな」

「普段の日、真一さんは晩御飯どうする?」

「今までほとんど外食か、コンビニ弁当で済ましてたからなぁー」

「じゃあ、晩御飯は私が作る。朝はお願いしてもいい?」

「いいよ、朝早いのは平気だから」

「どちらかが休みの時は、買い物もする」

「二人とも休みの時は?」

「もちろん二人で買い物に行くのよ」

それまでにも、休日の日は、スーパーにも二人手を繋いで出かけたりしていた。若い新婚さんのように・・・・


「後はその都度、話しましょう」

「OK、分かった。今なにか僕に望む事はない?」

「あるわ」

「何?」

「ちょっとだけ痩せて。このままじゃ病気になるわよ」

「わかった、努力する」

「それと、浮気はしないで」

「しないよ」

「もっと私を愛して」

「それはもちろん」

と彼は言い、彼は私に蔽いかぶさってきた。

「今じゃなくても・・・」と私は言ったが、彼は私を畳の上に横にし、私を抱いた。彼を受け入れながら、私は幸せを全身で感じていた。


by 杏子




 僕にとって家とはほとんど眠るためだけの物だった。

 炊事もしないし、洗濯もコインランドリー。家にいてもテレビを見るか、本を読んでいるだけ。いっそ会社の近くに引っ越そうかと思ったが、子供達のそばをあまり離れたくはなかった。それに長年住み慣れた町は何かと便利な面もある。


「うちに引っ越して来ない?」


杏子さんがそう言った時、正直なところどうしようかと真剣に迷った。家賃が浮く分、経済的な面はだいぶ助かる。それにいつも好きな人の傍に居られることは何ものにも代えがたい。

「嫌になったら、その時考えればイイじゃない」

と言われ、「それもそうだと」と考えを変えた。僅かな荷物を持って、僕は居候の身になった。


 杏子さんは、キレイ好きではあったが、それほど細かい事まで言うタイプではなく、どちらかと言うと僕の方が細かいところに気が行くようなので、それはそれで巧くかみ合った。朝は僕が用意し、晩御飯は彼女が用意することになった、朝は平気な僕と、朝、ギリギリまで寝ていたい彼女の組み合わせは理想的と言えるだろう。

 ひとつだけ困ったのは、外へ出かける時、必ず手を繋ごうとすることだった。出勤の時、買い物にスーパーに行く時、散歩している時、並んで歩いている時は、彼女の手が、自然に僕の手を取った。嫌ではないのだが、こんな中年のカップルが新婚のように振舞うのは、少し恥ずかしかったのだ。でも、それを振り払うほど嫌でもない。僕はされるがままだった。

 ほぼ同じ時刻頃に帰宅していたが、たまに彼女の帰りが遅くなる。その時は、彼女が用意をしていた材料を使って晩御飯の下ごしらえをして、彼女からの連絡を待っていた。彼女の帰宅に合わせて、温かいものは温かく、冷たい物は冷たく出すようにしていた。週末以外の日は、必ず家で、というのが彼女の流儀だったし、二人いれば、自炊も無駄がない。僕には何の異存もなかった。


 月に一度、元の家族の元へ僕は行く。それは子供達の顔を見るということと、生活費を渡すためだった。振込みという手もあったが、それだけはしたくなかった。子供達にとっては、今も優しい父親でいたかった。妻もそれには反対しなかった。僕が杏子さんの家から、元の家族に会いに出かける時、彼女は笑顔で「いってらっしゃい」と言ってくれたが、その心中は分からなかった。そんな日、彼女は自宅で1人だけの夕食を取っていた。「前はずっとこうだったから」と言うが、僕は気にならない訳がないと思っていた。これは何年も続くかもしれないのだ。


 ある土曜日、彼女は久しぶりに会う友達と「ご飯に行く」と夕刻から出かけていった。「ゆっくりしておいで」と言って送り出したが、宵の内に「今から帰ります」と電話があった。積もる話もあるだろうに、と思ったが、帰ってくるなり「ただいま~、やっぱり家がいい」と言って、僕の首に腕を廻して抱きついてきた。強く酒の匂いがして、かなり酔っているようだった。

「何食べたの?」

「焼きそば」

「いいわねー」

「まだ材料があるから、作ろうか?」

「うん、食べたい」

リビングのソファにどっかと座った彼女はあくびをして、上着を脱いだ。着替えもせず、そのままソファにもたれ掛かるように座る彼女を置いて、僕は焼きそばを焼く。ほどなく出来上がったソースの香りが香ばしい焼きそばを持っていくと、彼女は目を閉じて半分眠っているようだった。

「出来たよ、焼きそば」

「う~ん、いい匂い。食べさせて」

「ええーっ、困った奴だなぁ~」

と言いつつ、僕は苦笑いしながら、箸で摘んだ焼きそばを彼女の口に運ぶ。

「ふうーふうーしないと熱いよ」

「じゃあ、ふうーふうーして」

僕が冷ましたソバを食べ、「美味しい」と言って、彼女はそのまま横になってしまい、しばらくすると、寝息をかき、眠ってしまった。やれやれ、と独り言を言い、僕は彼女を寝室に運んで、着替えさせ、寝床に入れた。

今までは、こうしてとことん甘えられる相手がいなかったのだろう。

 僕の独り暮らしは、たかだか一年足らずだったが、彼女はそれを二十年近く続けていたわけだ。 


 僕は、そんな彼女をとてもいとおしく感じていた。


by 真一





~寂しがりや~


 「明日から出張で一週間いないよ」


 彼は急に告げるので私は当惑する。

「何で急に言うの。前から分かってる事でしょ。私が泊まりで出張の時は前もって言ってるでしょ」

と思わず愚痴が出てしまう。

「ごめんごめん、相手の都合があるから、こっちで前もって決められないんや」

「どこ行くの?」

「北海道と東北」

「もう寒いよ」

「うん、分かってる」

「用意は?」

「もう出来てる」

彼は何でも自分で決めて、何でも自分で用意して、何にも手が掛からないのだが、逆に何にも言ってくれない。すべて事が済んでから私が知る事になる。

「毎日連絡してよ」

「うん、分かった」

 翌日、彼は朝一番の飛行機で出張先に向かった。


 私はひとり、灯りの点いてない部屋に帰り、以前のように1人で夕食を作り一人で食べた。前はそれが当たり前で、何とも思わなかったのに、たった一月の間に私はどうしようもない淋しがりやになってしまった。彼からのメールが唯一の慰めだった。「今終わった」だとか「今から寝る」と、極めて短いメールは以前と変わりない。もう少し艶のある文章を送ってくれてもいいのに、声を聞かせてくれるだけでもいいのに、と三日目の夜には自分から電話してしまった。

「もしもし」

「あー、まだ仕事中だから、また後で」

そう言われると

「分かった」

と言って電話を切るしかない。だが、いくら経っても向こうから掛かってくる気配はなかった。 


 帰ってくるという予定の前日、「もう二日ほど帰るのが遅くなる」とだけメールが来た。

「どうしたの、仕事終わらないの?」

と言うメールに

「仕事は終わった、近くに来たのでトドワラが見たくなった」

と返事があった。

 何で、仕事が終わったんなら何で真っ直ぐに帰ってこないの、私は彼がわからなくなった。心配して連絡しても愛想のない返事、分かってるのかしら、待つ身の寂しさ。


 翌々日の晩、彼はカニを担いで帰ってきた。

「ただいまー、もう晩御飯食べた?カニがあるよ~」

 リビングに入ってきた彼が鞄を下ろし、にこにこと笑いながら言った。暢気な声に、それまで怒りに満ちていた胸が、しゅんと萎む音がした。いろいろと文句を言ってやろうと思っていた私は、彼に飛びつき、

「キスして」

とだけ言った。


by 杏子





~実家~


 暮れも押し迫った31日、杏子さんと僕は静岡に向かう新幹線に乗っていた。彼女の実家に挨拶をしに行くと共に正月の三が日を向こうの家族と過そうというものだった。普段の年、杏子さんも一泊二日ほどで帰ってくるそうだが、今年は僕と言う付属品もあるので、そうはいかないらしい。僕の方も、元の家族は妻の実家に行ったり、子供達もそれぞれで忙しいらしいので、僕の出る幕はないらしい。 

 僕にはもう両親は居ない。数年前に相次いで亡くなった。親戚といえば妹が1人居るが結婚して遠くに住んでいるのもあって、法事くらいに顔を合わす程度で、ほとんど会うこともない。他の親戚にしても同じような状態だ。なので、あまり人見知りをしない僕の方としても、1人で居るよりははるかに良い正月になると思えた。


「お姉さん達も帰ってくるの」

「うん、向こうへの挨拶が済んでからだから、2日の日になると思うわ」

「旦那さんも来るのかなぁ」

「さあ、来るとは思うけどすぐ帰っちゃうかも知れない。なんで?」

「いや、女ばっかりに囲まれると、ちょっと怖いかも、て思ってね」

「そんなことないわよ、心配しなくても」

 いや、そう言われても、女が4人寄ってるところに、妹の旦那1人では大変だろうなー、と心配になる。


 昼に新神戸を出たこだまは各駅停車なので、途中、名古屋に着いた頃、ようやく二人が座れる席を見つけることが出来た。

「ああー、疲れた。座れて良かったわー」

「もう、でも一時間もかからへんやろ」

「バッグが重たいから」

彼女はコロコロの付いた小ぶりのトランクケースを持ってきた。僕は出張にも使っている小さな旅行鞄ひとつなのに・・・・

「何でそんなに荷物があるのかなぁ~二泊や三泊で~」

「要るのよ、女は」


 座ったと思ったら、もう静岡だった。彼女の引っ張るトランクを後ろから押しながら改札に向かった。駅までは妹の美香さんの旦那、敦君が迎えに来てくれていた。

「始めまして、美香の夫の岩井敦です。義姉さんお疲れ様です」

「敦さん、ありがとう、忙しいのに」

「いえいえ、もう店は休んでますし、大掃除も昨日済ませましたから、僕は暇なんで」

「相変わらず美香にこき使われてんのねー。これが小峰真一さん」

杏子さんが僕の腕をとって妹の旦那に紹介した。

「始めまして、小峰です。迎えありがとうございます」

「いやー、とんでもない。姉さんがお世話になっております。お噂はかねがね聞いておりました。さあ、早速」

何の噂なのか気にはなったが、彼の横に停めてあったセダンのトランクルームを開け、僕たちの荷物を積み、早速出発した。


 駅周辺は高い建物で囲まれ、地方の中心都市という様相だったが、10分も走り、高い建物がなくなると潮の香りがしてきた。

「海が近いんだね」

「そうよ、家から五分ほどで海に出られるのよ」

「へえー。海の傍かー神戸に似てるね。泳げるの?」

「海岸はないから、バスで行くのよ。姉妹でいっつも海に泳ぎに行ってたわ」

車は国道一号を離れ、清水港と標された方向に曲がった。

「清水港に近いの?」

「ええ、そうよ。もうちょっと走ると清水港。もう家はそこだけど」

そこはゆったりとした敷地の並ぶ住宅地だった。北に見える駅前からはさほど遠くない閑静な場所だった。


 敦君は広い駐車スペースに慣れたハンドルさばきで車を停めて、「お疲れさんでした。義姉さん、荷物は僕が持っていくから、玄関へ廻ってください」と言った。僕たちは玄関に廻り、彼女が「ただいまー」と言うのにあわせて、僕は「こんにちはー」と声を掛けた。奥から、上品な年配のご婦人、たぶん杏子さんのお母さん、と杏子さんをひと回り大きくしたような女性、たぶん美香さん、が出てきて「いらっしゃーい」とニコニコしながら声を合わせて出迎えてくれた。

 杏子さんの母親は、三十年たったらこうなるのか、というくらい杏子さんに似ていた。


by 真一




 実家の玄関で、真一さんと母が始めて対面した時、二人は互いの品定めをするような目つきで、しばらく見合っていた。

そして、


「始めまして、小峰真一です」


とだけ言ったのを受け、母親は


「杏子の母のマチコです。遠いところを、お疲れになったでしょう、さあどうぞ」


と、二人ともにこやかな内に簡単な挨拶を済ませた。

 奥にいた妹の美香と子供たちも玄関に出てきて、始めてみる私の彼氏の姿を物珍しい物を見るようにしげしげと見て「いらっしゃい」と声を揃えるように賑やかしく挨拶した。温和な雰囲気の彼に対して、誰も拒絶するような感じにはとうていならないだろうとは思っていたが、妹に言わせると『玉の輿』を振ってまで一緒に居ようという男は一体どんなものだろうと思っていただろう。私とすれ違いざまに「やさしそうじゃない」と言ってニコッとしたのは、妹にとって精一杯のお世辞かもしれない。

 

 私達は奥の続きの間の和室に行き、父親の写真が置かれた仏壇の前に並んで座った。

 彼はお線香を1本取り、蝋燭の火で付けて、線香を上下に動かして炎を消した。線香を供えたあと、手を合わせ長い間、目を瞑って口をモゴモゴさせていた。何か父に伝えるように。私も「お父さん」と声を出し、後は黙って

手を合わせていた。

 私が目をあけて横を見ると、彼はまだ手を合わせていた。そして、ゆっくりと瞼を開き、私の方を向いて言った。

「一応、例のやつを言わないとね」

「例のやつ、って?」

「例の、てあれさ、『お父さん娘さんを下さい』てやつ」

「なんかそれって古いよねー考え方が・・・・・。私は物じゃないって」

「ま、それはそうなんだけど。男親にとっては、そういうものだと思うよ、娘を持っていかれる、て感じ」

「この年になったら、どうぞどうぞ、て熨斗つけてくれるんじゃない」

「そんなことはないと思うよ」

「で、お父さんは許してくれたかな?」

「さあ~、何も返事は聞こえなかったけど、反対する様子もなかったよ」

写真たての中の父は、はにかんだような笑顔のままだった。


 台所に続く食堂兼居間では少し手狭だったので、六畳二間続きの和室にコタツと座卓をくっつけて、正月の間の食堂としていた。父の関係の人たちは、もう年賀に来る様な事はなくなったが、近くに住む従姉妹や妹の旦那のご両親や旦那の経営する洋菓子店の従業員たちが毎年やってくるのだそうだ。

 さして広くもない家だったが、子供達それぞれの部屋と今で言うLDKを備え、父母が眠る続きの和室があった。そこに、母のたっての希望だった茶室を備えた離れが増築されて、短い廊下で繋がっていた。父がまだ元気で、美香が結婚して年子の子供が産んだあと、急遽建てられた母と父の憩いの場だったが、今はそこに母が1人で寝起きしていた。2階にある私達姉妹の部屋だったところをリフォームして、妹夫婦の寝室と将来に備えて後に二つに仕切ることの出来る子供部屋が出来ていた。この家は、もう完全に妹夫婦の物だという感じだった。姉も都心にマンションを買い、私も長いローンを組んで自分の棲家を手に入れていたので、それに対して何の不服もない。まして、今は元気だとは言え、1人になった母と暮らしているのは妹なのだから、ありがたいと思っていた。時どき、「私も1人暮らししてみたかったな」とこぼす妹の愚痴を聞くくらいはしてあげていいだろう。


 私が小さかった頃と同じく、子供達は早めの夕食を取り、一度仮眠を取らされていた。紅白歌合戦を見終わって除夜の鐘がなり終わる頃、私達一家は近くのお宮さんへ初詣に出かけるのが決まりのようになっていた。私が中学に上がる頃には、仮眠などせずとも遅くまで起きていられたが、小学生だった妹は、姉達と同じように夜更かしして、結局父親の背中に揺られて鳥居をくぐる事になったりした。

 我が家の年越しの夕食は比較的質素だった。お約束の温かい蕎麦とお節のあまり物で簡単に済ませ。重箱に入ったお節や、大皿に盛られた様々な料理の数々は翌日のお楽しみで、決してつまみ食いなどは許されなかった。それは今も守られているようで、普段と変わらない夕食が用意されていた。敦さんと真一さんは知り合いの業者さんから大量に送られてきたという数の子などをあてにして、ビンに入ったビールを注ぎ合い、親しげに仕事の話などをしていた。客商売である義弟と全く人見知りのない真一さんは随分前から知り合いだったように仲良くなっていた。「もう、それくらいにしてよ」とビールのお代わりを渋る妹に「義兄さんが飲み足りないって」と味方を得て強気になった敦さんは、とても嬉しそうだった。「敦さんは真一さんみたいに強くないから、それくらいにしないと初詣に行けなくなるわよ」と私が言わないと、このプチ宴会は終わりそうになかった。

 彼は「わかった」と言いつつも、義弟に勧められると、また、コップを空にする。それにつられてコップを空にしていた義弟は、9時を過ぎる頃には横になってしまい、妹の顰蹙を買っていた。私も妹の手前、「真一さんが見境なしに飲むからよ」と普段は言わない小言を、ほとんど素面と変わらない様子の真一さんに言わざるを得なかった。彼にとってはまだまだ序の口だったのに。彼はあっけなくつぶれてしまった義弟(彼にとってはまだ違うが)を寂しそうに見て、残ったビールを空けていた。


 順番にお風呂を頂き、体を清め、いつでも出かけられるように着込んでコタツに潜り込む。コタツで寝ていた義弟も、風呂に入って酔いが醒めたのか、すっきりした顔でコタツに潜り込んで来た。子供たちも眠そうな目をこすり、起きてきた。遠くから梵鐘が聞こえ、いよいよ年の瀬を感じる雰囲気になってくる。

 テレビに映し出される「0:00」の文字を見て、私達は寒空の中、出かけた。



 元旦、家族が全員揃ってから、おとそを廻し、新年の挨拶をする。今年は真一さんという新しい家族がいるため、いつになくまじめそうに、敦さんが乾杯の音頭を取って、甑に注がれた日本酒を飲んだ。子供達にはポチ袋に入ったお年玉が配られた。どこで用意したのか、私とは別に真一さんも子供のために、懐から二つのポチ袋を出し、子供達に「ありがとうオジさん」と言われ、ニコニコとしていた。親が「そんな気を使わなくても」と言っても、子供達は遠慮などない。もう、お年玉を貰えなくなって久しいが、子供はそんなものでいいのだと思う。

 年に一度、子供にとってはとても高額な臨時収入にはクリスマスのプレゼントとは違う別の夢があったように思う。

 真一さんが寝物語に語った子供のころの話を思い出した。関西ではよく知られた『えべっさん』、近くに在った戎神社の十日戎の出店に、毎日のように出かけ、「限りあるお年玉をどういう風に有効活用しようかと頭をひねった」と言う話。私は「貯金すれば一番いいのに」と言って、「夢のない子供」だと言われた。買いたいものが無かったわけではないが、すぐに浪費してしまう姉や妹を横目に見ながら貯金通帳を眺める、私はそんな子供だった。でも、決してケチと言う訳でもなく、何か大きなものを買う時に必要と考えていただけだった。が、そんな大きな物、となると結局親が買ってくれたりしていたので、高校に入り服やアクセサリーなどお洒落に強く関心が湧くまで通帳の額が減る事は殆どなかった。二十歳過ぎるまで、通帳など作ったことがない、と言う彼とはだいぶ違ったが、男の子はそんなものだろうと思っていた。


 2日になり、姉の理江と義兄の信孝さんがやって来た。長男である義兄は、同じ都内ではあるが、離れたところに住んでいるご両親の所へ新年の挨拶をし、一晩泊まってから、こちらに廻ってきたのだ。酒好きと聞いていた義弟(まだ違うが)のために、日本酒を下げてやって来た。いつもは義兄だけがトンボ帰りで帰らされていたが、本人も好きなお酒を飲める相手があるというので、「一晩お邪魔します」と言って日の高いうちから、味見と称してその新しいお酒の封を切り、真一さんと杯を交わしていた。あまり飲めない敦さんでは、とても望めない事だったので楽しみにしていたようだった。


「鶴の舞。あまり聞いたことがないですねー。しかし美味い。米の旨みが感じられるのに甘ったるくなく切れがある」

「そうでしょ~う。真一さんは味が分かる。これは新潟の酒蔵で作られ、殆ど地元でしか流通していないんです。だからあまり有名じゃないけれど、その評価は高いんです。インターネットで少しだけ売ってるのを手に入れたんです」

「高いんでしょう?」

「いえいえ、そこら辺の大手の酒と値段は変わりません。むしろこのクォリティでこの値段だと値打ちあると思いますね」

同い年の同学年、と言うこともあり、会うなり旧知のように杯を交わし、酒談義に花が咲いていた。あまり飲めない義弟も、ふんふんと相槌を打ち二人の話を聞いてあまり飲まない日本酒を舐めていた。そんな三人をそれぞれの相方が「しようがない」という風に眺めていたが、女4人揃ったら、いつものようにお酒が入らなくても話に花が咲く。姉が参加しない内には手持ちの話を出し惜しみしていたかのように、お喋りが始まる。台所のテーブルを4人で囲みミカンをあてに、まずは聞きたがりの妹の美香が口火を切る。

「姉さん後悔してないの?真一さん良い人だけど、ふつ~のサラリーマンでしょ。玉の輿に乗り損ねたんじゃあないの?」

「全然。あんた結婚してるから分かるでしょ。相性、ってものがあるでしょ」

と言う私に、妹は

「私、アツシと相性が良いなんて思ってないよ。なんかトキメキもなくなって、当たり前のような存在」

と長年夫婦を続けてきた主婦の愚痴のようなことを言った。

「それでいいのよ。敦さんはよく辛抱してるわ、あんたは多くを求めすぎ」

と母にたしなめられて、

「だって、義兄さんと理江ねえは今でもアツアツじゃん。なんかいいなぁー、て思うよ」


と言う。姉はそれに対して

「でもね、その分喧嘩もよくするのよ。こないだも、もういい年なのに会社の若い子にバースデープレゼントなんか貰って鼻の下伸ばしてたから、その箱投げつけてやったわ」

「何も目くじら立ててそんなに怒らなくても」

と私が言うと、

「だってね杏ちゃん聞いて。黙ってそのリボンの掛かったプレゼント、クローゼットの奥の袋に隠してたのよ。やましい事がなかったら、堂々と見せればいいのに」

「恥ずかしかったんじゃないの?」

母が義理の息子を庇う。

「義兄さん渋いから若い女の子にも受けがいいのよ。仕方ないんじゃないのそれくらい」

妹も義兄の味方をする。妹は義兄のファンだ。


「ところでねぇー、杏ちゃん籍は入れたの?」

と姉が言ったのを、私は何事も無いかのように

「まだ」

と答えた。

「まあ、二人とも働いてるから節税には関係ないかも知れないけど、保険やらなんやら手続きもあるから早めにしてたほうがいいわよ」

と現実的な妹が言う。私はどうしようかと思ったが、正直に言った。

「実はね、彼、まだ正式に離婚はしていないのよ。娘さんたちが二十歳になるまで籍は抜かない、てことになってるらしいの」

「ええーっ、それじゃあ杏子姉、2号さん?」

「それはダメだわ」

「そうよ。もう子供が出来て云々はないと思うけど、病気やけが、万が一のことがあったらどうするの?」

姉も母もそれに同調する。

「もう、別居して一年以上だから、私が2号さんという訳じゃないけど、内縁関係と言うのは確かだわ」

 慎重派の杏子にしては、と皆が思っているようだった。確かに、私の立場としては不安定なものだ。二人の関係を証明する法的な根拠は、婚姻関係を維持している元妻より随分と薄い。

 でも、最初結婚した時もそんなに慎重では無かったなぁー、と今でも思う。自分に正直だっただけだ。今回も、自分に正直に行動したつもりだから後悔など微塵もない。これからもそれは変わらないと思う。


「いいのよ。これでまた別れても、×は増えないし」と冗談っぽく私が言うと、

周りは『何を暢気な』という顔をしていた。



 その晩、現在の飯田家の家族がフルメンバーで集まった事になる。姉夫婦、私と真一さん、妹夫婦とその子供達、そして母。

 女4人が集まる事も少ないが、その伴侶も含めて食卓を囲むのは本当に久しぶりだった。これで父が生きていれば完璧だったのだか、それは仕方がない。


 火を使う料理を最小限にして、妹の負担は少なくしていたが、それでも妹ひとりが、台所と和室の行き来をしていた。気を利かそうと立ち上がる真一さんに「義兄さんは座っててください」と言って、そのかわり顎をひねって旦那の方を引っ張り出していた。「敦さんと結婚出来なかったら死ぬ」とまで父に言ったあの妹はどこへ行ったのだろう、とふと思う。

 皆が揃って、母を除いて一番の年嵩の姉婿が乾杯の音頭をし、正月2日目の夕餉が始まった。美味しそうに酒の杯を重ねる義兄と真一さんを、ちょっと恨めしそうに、義弟は私達と同じようにビールを飲んでいた。

 ひとしきり料理を食べたところで、姉の理江が皆に向かって私と真一さんの入籍問題について言った。

 

 そのことを始めて聞いた義兄は

「直接法的に問題になるのは、嫡子と財産問題だから、それだけキッチリしていれば問題はないんじゃないのかなぁ」

と言った。義兄は法律家ではないが、大学は法科を出ていると聞いていた。

「じゃあ、何にも財産のない僕は問題ないですか?」

「その点は大丈夫だと思いますよ。ただ、生命保険とかはそれぞれの契約に因りますから、受取人を変える必要があれば早めにした方がいいですよ。死んでからは何かと面倒です」

横から「縁起でもない」とたしなめられて「失礼」とだ義兄は言った。


 確かに、今、彼が死んだとしても私には何にも残らない。彼にそんな財産がある訳でもないだろうし、私達の間に子供が居る訳でもない。逆に考えると、二人が健康なまま別れたとしても同じ事ではないのか、と思った。

 

 それはそれで良いのではないか、私は経済的に誰かに頼って生きるという事を、選択肢に入れないで生きてきた。たぶんこれからもそれは変わらないだろう。


by 杏子





~十日戎~


 僕は柳原恵比寿神社の近くで生まれた。映画評論家で「さいなら、さいなら、さいなら」のフレーズで有名な淀川長治さんの生家の近くだった。淀川さんと同じように、初めて映画舘で映画を観たのは、衆楽舘という古い劇場だった。映画舘の上にはスケートリンクを備えた、当時としてはハイカラな場所だったという、もっとも僕が子供の頃にはスケートリンクは既になかったと思う。

 親父に連れられて最初に見た映画は「ミクロの決死圏」というSFの外国映画だったと思う。カップに入ったアイスクリームを舐めながら真剣に、その不可思議な人体の世界に魅入っていたように思う。小学校に上がっていたかどうか、分からないくらい記憶が曖昧だが、その映画は克明に記憶していた。

 柳原と地名にあるとおり、昔は遊郭があったらしいが、戦後、僕が生まれた頃には、色町というのは新開地、福原を指し、柳原にはその風情を残す数件の建物が残るのみだった。柳原恵比寿神社はその名の通り、福の神として知られる「えびす様」をお祭りする神社で、正月にある十日戎は総本社の西宮えびすには規模も劣るがそれでも何万人単位の人手があった。国鉄(今のJR)兵庫駅から近かったせいもあり、近在からの沢山の人手で賑わっていた。僕はお年玉を握り締め、神社の周りに出ていた夜店を廻るのが楽しみだった。


 その話を杏子さんに言うと、「神戸に住んでて一度も行ったことない。今宮戎には行ったことがあるけれどね十日えびすの日じゃなかったわ」

 その年は10日の本戎の日が土曜日だったので、午後明るいうちにJRに乗って出かけた。


 柳原戎に面した広い通りは全面車両通行禁止となる。その歩行者天国となった道ばかりでなく、東西南北に広く渡って夜店が立ち並び、その中を身動き取れないくらいの人が歩いていた。勝手知ったる生まれの地、裏道を通って僕達は表参道に出た。


「こんな路地、良く知ってるよね」

「そりゃあ子供の時は、ここら辺を走り回っていたからね」

「真一さん、子供の時はどんなだった?」

「どんな、って言われても、ふつ~の子供だったよ」

「普通、てどんな?」

「ふつ~はふつ~。他に言いようがないよ」

「普通かー」


彼女はそう言って、前を歩く阪神のマークの入った野球帽を被った小学生くらいの子供を見ていた。


「もしもね、私が流産しないで産んでいたら、その子は22歳になっていた筈なの」

「22か。ずいぶん若々しいお母さんだね」

「若くもないわよ」


と言って絡ませていた肘で僕の脇腹を突付く。


「たまにね、ごくたまにだけど、その子が夢に出てくるの」

「そんなに大きな子供が?」

「ううん、小さいの。たぶん小学生だと思うわ。その子はいつも野球帽をはすかいに被っているの。真一さんも子供の頃そんなだったかなぁー、って思ったの」


 確かに僕もそれくらいの頃は野球帽を被っていたかも知れないが、回りの友達もみんなそんな感じだった。「巨人の星」というアニメが始まり、それくらいの子供達は野球一辺倒で、ジャイアンツかタイガースの野球帽を被っている子が多かった。僕も、巨人ファンでもなかったがGとYの重なったマークの帽子を持っていた。


「ここが入口?」

「そう、小さいだろ。中も小さい」

「ホント、今宮さんに較べたら可愛いモンね」

「西宮神社は総本社だから仕方がないけど、今宮戎に比べても小さい。でも子供の頃はここしか知らなかったから、これがふつ~だと思ってた」

「普通ねー」

「そう、ふつ~」


 赤い袴の巫女さんからお神酒を頂き、本殿の前に進んだ。


by 真一




 若くてきれいな巫女さんから杯を受け取り、鼻の下を伸ばしている彼を横目で睨んで、私もお神酒を頂いた。思っていたよりも狭い境内は人人人でごった返していた。人の波に押され、徐々に本殿前にたどり着いた。


「えべっさんは耳が遠いから、大きな音を立てないと聞いてくれないんだ」


と言って、彼はガランガラン、と鈴を鳴らした。彼と私は、パンッパンッ、と拍手を打ち、手を合わせて願い事を思った。彼は私の後ろにまわり、後ろから押してくる人の流れを押し留めてくれていた。彼の吐息がかすかに聞こえ、心臓の鼓動が伝わったように思った。私は私達二人の健康と幸せを願った。


 境内を抜け、夜店の立ち並ぶ通に出た。いつの間にか夜の帳が下りて、吊るされた裸電球が煌々と店前を照らしていた。


「綿菓子買っていこうか」

「そうね」


 彼は、裸電球に照らされた色とりどりのビニル袋に包まれた綿菓子をひとつ取り、私に渡した。私は袋を開け、その白いふわふわを小さく千切って彼に手渡し、自分の口にも入れた。あっという間にその体積がなくなり、甘いざらめが口に残った。


「甘いね」

「うん甘い」


 私達は、JRの高架沿いに一駅向こうの神戸駅を目指して歩いた。

一口づつ、その甘いふわふわを小さく千切っては口の中に入れ、その頼りない感触を確かめるようにゆっくりと溶かし、また千切り、口の中に入れた。一駅分歩く間に、綿菓子はなくなり、割り箸とビニル袋だけが残った。


 綿菓子はなくなったが、二人の口の中には、その甘さだけが残っていた。


by 杏子





~検査入院~


「悪性腫瘍?つまりガンですか」

「はい、肺に腫瘍があります。かなり進行しています。検査の結果はまだ出ていませんが、転移があるかも知れません」

ある程度覚悟はしていたが、バットで頭を後ろから殴られたような衝撃で眩暈がした。

「大丈夫ですか?小峰さん」

「はい、手術をすれば助かりますか?」

「もちろん。その可能性があるからこうやって貴方に直接ご報告しているんです」

そう言ってから、少し間があり、

「平行して薬物や放射線治療も行っていきます。かなりつらい治療になると思いますが」

担当の医師は正直に言ってくれた。

 僕の親父はやはり肺がんで亡くなった。もっとも80手前だったので、僕はずいぶんと早い発病という事になる。ガンそのものはは遺伝はしないが、環境や遺伝的になりやすいということはあるらしい。母方はほとんどが長命で、老衰に近い格好でなくなっていたが、父方の親戚にはガンで亡くなった人が何人かいた。だが、殆どは80歳前後になってからの話だった。ちょっと早すぎるんじゃないか? 会社に戻り、長期治療のための休暇申請をした。

 

 杏子さんに「早めに帰るのでどこかで待ち合わせできないか」とメールをした。「最近痩せた」と喜んでいた僕に、「ちょっと急過ぎない?どこか悪いんじゃないの?」と心配していた彼女に「君は正しい」と言わねばならなかった。


「肺がんだって」

「えっ嘘っ」

「嘘を言っても始まらない。近々入院する」

「手術するの?」

「うん。それと抗がん剤、放射線治療。長い入院生活になると思う」

「分かった。落ち込まないで。二人で頑張ろう」

きっと彼女はそういうだろうと思っていたが、僕は深呼吸して言った。

「別れよう」

「えっ、何故?」

「僕達は結婚しているわけではない。君が僕の苦労まで背負い込むことはないよ」

それを聞いて、しばらく僕を睨んでいた彼女が言った。

「何故そんなこと言うの?籍は入ってないけど、私はあなたの奥さんじゃあなかったの?いまさらになって、はいさようならなんて出来ないわ。絶対」

「でもな、・・・」と言おうとした僕の口を手で塞ぎ、彼女は黙って僕の方を真っ直ぐに見ていた。


 翌日から検査のために一時入院という形で三日間入院した。さまざまな検査をし、色々な機械を付けられた。食事はごくふつ~の物だったから助かったが、一切酒が飲めないのは少しばかり辛かった。入院したのが神戸の病院だったので、面接時間が終わるギリギリに彼女はやって来た。

「週末には帰るんだから、毎日来なくても良いのに」

と言うと

「ううん、大人しくしてるか見に来ないと、抜け出してお酒でも飲みに行かないかと思ってよ」

と彼女は笑っていた。少しは当たってる。

「昨夜ね、奥さんから電話があったの」

「ああ、保険の件だな」

「そう、『よろしくお願いします。何かあったらすぐに連絡ください』って言ってた」

「そうか。元気そうだった?」

「心配してた。私に『ご迷惑をかけます』って。何か嫌味でも言われるかと思ったけど、全然そんなこと無かった。いい奥さんじゃない?」

「離れてるとそうなのかも知れない」


 前の妻には病状のこととか、入院のことは知らせていた。今住んでいるところも、杏子さんのことも以前から言ったあった。だから、入院費用のこととかを心配して保険の書類などを送ってくれるように頼んであったが、電話をしてくるとは思っていなかった。たとえ心が離れてしまっていても、それはそれで気に掛かる事なのだろう。

 離れてから2年も経つと、その頃どういう気持ちだったかも忘れかけていた。


by 真一




 彼が最近急に痩せてきたことを本人は喜んでいたが、私はただ事ではないと思っていた。検診で再検査、と言われて「正月はちょっと飲みすぎたかなぁー」などと暢気に構えていたが、病院からは私の方に結果報告の打診があった。


「長くて半年です」


医師のその言葉を聞いて、全身の血の気が引いていくのが分かった。


「本人には?」

「悪性腫瘍だと言うことは伝えています。手術と抗癌剤治療を行う事も了承済みです」

「治療をしても治らないんですね」

「酷なことをあえて言いますが、現時点では、延命することは出来ますが、いつまでそれに耐えられるかは本人次第です。ただ、全く望みが無い訳ではありません」


医師は私を励ますようにそう言った。


「わかりました。本人にはそのことは言わないで、望みを繋いで貰います」


 彼の前で、不覚にも涙なんか流したらどうしよう、それが怖かった。でも、私が希望をなくしては、本人もそのことに気がつくはずだ。普段と変わらない、ちょっと入院、という程度で終わる、そんな風に接していこうと私は誓った。


 彼が検査入院している時、元の奥さんから電話があった。


「始めまして、小峰の家内、いえ元妻です」


と彼女はハッキリと真一さんとの関係が過去のものであることを私に伝えるように言葉を選んだ。


「始めまして。飯田杏子です。書類を送っていただきありがとうございます」

「彼に対して何の未練もありませんが、子供達のことがありますので、生命保険の受取人は私のままにして置いてください。入院費や治療費は二つの保険でまかなえるはずです」


私よりひとつかふたつ若いはずだが、もっと声は若く聞こえた。歯に衣着せずはっきりと物を言う人みたいだった。私は


「わかりました」


とだけ伝えた。


「何かあったらご連絡お願いします」


と彼女は事務的に電話を切った。彼の病状を詳しく聞いてくることは無かったが、たぶん本人からは何かしら聞いているのだと思う。彼本人が思うより重症だとは聞かされてはいないだろうが。

 二十年近く一緒に居た彼女よりも、たかだか一年足らず一緒に居ただけの私に重い心の負担を預けられたことが不公平だと少し考えたが、今、彼の行く末を、この世で一番心配しているのは間違いなく私だと確信していた。それはもう仕方がないことなのだ。



「毎日来なくても、三日したら帰るのに」

「夜、見張っとかないと、抜け出してどっかへ呑みに行っちゃうかも知れないでしょ」

「はは、ばれたかー。食事は早いし、消灯は10時。そんなに早く寝られないよ~」


以前より痩せて少し精悍になったぐらいで、血色もよく、彼は元気そうに見えた。この先の彼の苦しみを思うと涙が出そうになったが、


「帰ってきたらご馳走するわよ。それまで辛抱辛抱」

「わかった。それまでこっちも辛抱だな」


と言って私のお尻を掴んできたのを、ぺしっと平手で叩き


「どこが病人なんだか」


と言って二人揃って笑っていた。



 「また明日」と言って、片手をひらひらと振りながら病室を出た。ナースステーションで挨拶をしてからエレベーターに乗り1階に降りた。もう、正面玄関は締まっていたので夜間入口から外に出て、何台か停まっているタクシーの先頭に手を上げ乗り込んだ。行き先を告げシートに深々ともたれた。溜まっていた物が溢れるように涙がこぼれてきた。いや、いいんだ、彼の前で涙を見せないためにも、ここで枯れるまで泣いておこう、と思った。


by 杏子





 電灯が消え、誘導灯の灯りだけが小さく光る病室の中で、僕は悶々としていた。大声で叫びたかった。

 医師は、手術さえすれば、と言ったが、それだけでは終わらないだろうと、僕は覚悟していた。80手前で亡くなった親父は手術さえ出来なかったが、僕にも転移がある以上、それは同じような結果を迎えると思っていた。

 たぶん彼女はそのことを聞かされているだろう。その上で明るく振舞ってはいるが、それを表に出さないで置こうという態度には気がついた。ここで僕が追求したら、きっと彼女はそれに耐えかねて折れてしまうだろう。僕は彼女がするがままにしておく事にした。

 昼間、彼女にも仕事がある。これから先僕が働けなくなり、いつまで続くのか分からない闘病生活を続けるとしたら、彼女の負担は想像以上になるだろう。死ぬ事は怖い。しかし、そのことがもっと僕の心を重くした。僕が病気で死ぬ事は仕方がない。それは定まっている事なのだろう。しかし、彼女が僕にさえ会わなかったら、こんな重い負担を強いる事はなかっただろう。

 だが、これで落ち込んでいては治る物も治らない。明日、彼女が面会に来たら、周りに誰がいようと彼女を抱きしめキスをしてやろううと思った。


by 真一




 明日は退院、と言う金曜日、私は早めに仕事を切り上げ、私の事情を何も知らないで「たまには一杯付き合わんかね」という部長の舐めるような視線を振り切り、コートを掴んで「失礼します。急ぐので」と言い入口に向かった。「何だ?男と待ち合わせか?」と言う声が後ろから追っかけてくるのを振り切って、ドアを勢い良く開けて飛び出した。悪い人ではないが、部長が転勤してきたこの三年、生理的に私は受け入れられないでいる。飄々とした支店長とは何か違う物を感じる。支店長には彼の病気のことを話した。仕事の上で何かしら影響が出ることがない様にはするが、どうしても事情があるときはお願いする、と言い置いた。

「心配するな、他言はしないが、協力はする」

と言い、私の部署に人を廻してくれることを約束してくれた。

「少しは負担が減るだろう」と言った支店長の言葉に、私は心から感謝した。


 

 中年の担当医師は、検査結果を淡々と病状を説明し、私に言った。


「奥さんは正式にご結婚されていないようですね」

「はい」


私は隠す事もないので正直に答えた。


「手術に際して、親族の同意書が要るのですが」


と申し訳なさそうに言うので


「必要であれば、私が頂いてきます」


と答えた。それは誰も反対はしないだろうと思っていた。


「まだお若いので、進行は早いと思いますが、しばらくご自宅に戻って頂いて、それから手術の準備をします。それで宜しいですか?」

「はい、結構です」


 昼間、彼には検査結果とこれからの予定をある程度伝えてある、と言う事だった。それはずいぶん希望的観測による明るいものだったろう。「直そうという意思が一番大切だ」とも医師は言った。

 

 病室に行くと、彼はノートパソコンを叩き、何か作業をしていた。


「何してるの?病人の癖にー」


と入口で声を掛けると、彼はニッコリと笑い


「会社からメールで書類を送って貰ったんだ。僕がいないと分からない事があるからね。やれる事はやっておこうと。でないと会社に復帰した時、席がないかも知れないだろ」


彼はいつものようにノンビリとした口調で言った。


「それよりも早く直して会社に出るほうが良いんじゃないの?」

「それは分かってるよ」


彼は少しも病気のことを気にかけていないように見えた。胸の中でつまってくる物があったが、顔にそれが上がってくるまでに何とか留める事ができた。


「退屈でさあ、酒も飲めないだろ。何かしてないと」

「明日帰れるじゃない。帰ったらお酒も少しは大丈夫だってお医者さんも言ってたから、それまでの辛抱よ」

「わかった。明日は呑むぞ~」

「だから、少しだけ、て言ってるでしょ」

「はいはい」

「はい、は1回。2回言うとバカにされてる気がするわ」

「はい・・・・・・・はい。ごめん」


 サイドテーブルに、花が活けていたあった。夕刻、子供達が見舞いに来たのだという。元妻は来なかったらしい。日曜には家族の揃って食事に行くと、彼は言った。それも大切だと、今の私には思えた。



「じゃあ明日、お昼過ぎでいいのよね」

と言って、帰ろうとすると私の手を握って、彼は私を抱きしめた。そして、私にキスをした。顔見知りになった若い看護婦さんが入口に立っているのもお構い無しに、長いキスが続いた。


「明日退院なのに」と言うと、

「明日の予行演習」

だと笑っていた。


 笑みを浮かべる若い看護婦にお礼を言ってエレベーターに乗った。今日はそれほど涙が出る心配はなさそうだった。明日からはしばらく一緒に居られる。私は有給を潰して一週間休むことにしていた。急な仕事がない限り、私の部署に居るスタッフで十分こと足りる上に、助っ人で私と同期の香苗が来てくれているのだ。彼女は私より四つほど若いが、名古屋ではナンバー2の位置を確保している、と本人が言っていた。ナンバー1と言わないのは本人の奥ゆかしさで、本社でも一目置かれている存在だった。それがわざわざ私の部署に来てくれるのだから、とても心強かった。支店長や社長の計らいに感謝した。


 金曜日の夜のせいか、病院の前には一台のタクシーもなかった。少し離れたところに灯りの消えたタクシーが停まっていて、私が近づくと、明かりが点った。前に廻り、少し手を振ると気がついたのかドアが開いた。

 私が乗り込み、行き先を告げると、運転手は無言で車を発車した。少しお酒の匂いがしたように思ったが、窓が少し開いていたので、その匂いは風に消えてしまった。私はシートに持たれ、携帯に入ってきた彼からのメールを見た。


「明日の晩は寝かせないぞ!」


と書いてあった。私は『バカっ』と呟いた。その時、大きなクラクションの音が聞こえ、右から大型の車が迫ってくるのが見えた。直後に強い衝撃があり、私は意識がなくなった。


by 杏子




~「銀の貝殻」~


 「小峰さん、奥さんが事故で」

 いつも僕の世話をしてくれる看護婦さんが、杏子さんが僕の居る病院に担ぎ込まれた、と言う知らせを持って来た。僕は病院の服のままスリッパを履いて1階にある緊急処置室に行った。

 まだ、彼女は病院を出て行った服装のままだったが、衣服に乱れはなく、頭に包帯が巻かれただけだった。意識はなく、目を閉じていた。


「外傷はほとんどないのですが、頭を強く打ったようです」


処置をしてくれた医師は言った。僕の知らない若い医師だった。


「これから、検査をしますので、しばらく表でお待ち下さい」


と7階とは違う白衣を着た看護婦さんから言われ、表の長いすに座った。


 一時間ばかり、陰鬱な気持ちで待っていると、ドアが開き、「どうぞ」と中に招き入れられた。


「頭に出血をしています。今、体は正常に機能していますが、もう意識は戻らないでしょう」

「えっ、彼女は死ぬんですか?」

「いえ、すぐには」


 頭が真っ白になる、と言うのはこのことだろうと思った。何をどうしたら、どう言ったらいいのか分からなかった。頭に包帯を巻かれただけで、あとは殆ど普段と変わらない彼女の手を取り、彼女の名を呼んだ。何度も何度も・・・・・・・・



 日曜の朝、僕の知らせを受けやってきた彼女の母親、姉妹が見守る中、彼女は静かに息を引き取った。


 それまでに彼女の頭に取り付けられた脳波の状態を示す器具は、彼女がすでにこの世にないことを示し、ただ体の機能だけが残る肉体となっていた。病室に移された彼女の傍に僕は居た。トイレに立つ以外、飯も食わず、ずっと彼女の傍に居て、手を握り、声を掛けていた。であった頃の話、行けなかった花見の話、三ノ宮の食べ物屋の話。ありとあらゆる話をした。

 夏にヨットに乗った時の話をし、「また行きたいね」と僕が行った時、彼女が手を握り返してきた。そのことを回診に来た医師に言うと、


「残念ですが、もう聞こえてはいないと思いますよ。反射神経に因るものだと思います。」



と言われた。確かに、それ以降、ぴくりと動く気配もなかった。



 僕は姓が違うまま喪主となり、彼女の遺影の前に座り、親族や関係者の挨拶を受けていた。身の回りの事は彼女の姉妹、母親がすべてやり、僕はただ座っているだけの亡骸のようになっていた。

 斎場から親族だけが彼女のマンションに戻った。

「後の事は、また相談しよう」と義兄が言い、一旦それぞれの生活の場に戻る事になった。

彼女の母は「ひとりで大丈夫?」と杏子さんにそっくりのくりくりとした目で言った。


「大丈夫です」と言い、僕はひとり彼女の居ないマンションに残った。


 

 遠くハーバーランドの明かりが見えた。彼女と二人、夜景を見ながら乾杯をしたことを思い出した。あれはまだ一緒に暮らす前だった。今も同じように、殆ど目には分からないスピードで観覧車が廻っていた。


 僕は彼女が死んでからずっと思って居たことを実行する事にし、窓を開け、手すりの前にイスを置いた。病気で死んだ場合と事故でなくなった場合とでは、保険金の額が違う。僕は自ら命を絶っても保険がおりる事を確認していた。子供達が成人し、1人立ちする頃までは、金の心配はないだろう。死は怖い。だが、病魔に冒されじりじりとその命が絶たれるのを待つのは耐えがたかった。彼女が居なくなった今では。

 灯りをすべて消し、ガスの元栓を締め、彼女の遺影にキスをしてから、リビングの端に立った。

 走り幅跳びの助走よろしく勢いをつけ走り出した僕は、ベランダに置いたイスを踏み、手すりを蹴って飛び出した。少し上向けに飛び出した体が、放物線を描いて下降していくのが分かった。観覧車が近くに見えたような気がした時、体がふわっと浮いたような感じがあった。真っ暗な中、僕の意識はなくなった。




 気が付くと、僕は以前住んでいたワンルームの部屋で目が覚めた。何が起こったのかわからなかった。時計を見ると、いつも起きる時間だった。カレンダーは僕が飛んだ日の丁度一年前の月の物が貼ってあった。あれは引越しの時に捨てたはずだった。テレビを点けると、見たことのある画面があった。変わったはずの政権が、元のままで、現政権の支持率低下を告げていた。

『夢?』

とてもそんなことは考えられなかった。しかし、周りの状況はこれも現実だと言わざるを得なかった。

 僕は出勤の支度をして、いつも出かけていた時間に家を出た。



 その女性の様子がおかしいと思ったのは三ノ宮を出てすぐだった。

 僕は始発駅から乗っているので、長椅子の端に座り、いつものように本を開いていると、その女性の体が、端の手摺りを越えて僕の肩口に被さったように押してきた。

朝の通勤ラッシュとは言え、それほどの混雑ではない。見上げると、ドア側の袖壁に背中を付けたまま、ずるずると座り込もうとしていた。

 周りがざわざわとなり、「大丈夫?」とか声が出ていた。

僕は本をふせ、立ち上がり、周りの人に手伝ってもらい、僕の座っていた席に座らせた。




 何も言えずに、ただ手すりに持たれて、小さくそして小刻みに息をしている彼女の顔は、血の気がなく、真っ白に見えた。

西宮北口に着く頃、ようやく居ずまいを正して座り、僕に

「ありがとうございました」

と小さい声で言い、彼女は電車を降りて行った。


『杏子さん』と声を掛けたがったが、たぶん僕の事は何にも知らないのだと、僕は悟った。


 彼女が降りた後、その座席に光る物があった。

僕はその「銀の貝殻」を上着のポケットに入れた。



 週明け、いつもより遅い電車に乗ったため空いた席がなく、片手に本を持ち、揺れる電車に身を任せ、つり革に身を預けていた。

三ノ宮の駅に到着し、ドア際の人が降りて行き、新しい乗客を見ていると、杏子さんが乗り込んで来た。

 髪の毛は肩口までのセミロング、艶やかな髪の毛と、キリッとした顔立ち、明るいキャメル色のロングコートを着ていた。一年前に(この世界では今だが)出会った頃、僕はひと目で恋する中年となったのだった。


 ドア際の袖壁に凭れ、ちょうど僕の正面を向いていたが、僕は空いていた奥の方に移動し、彼女を見ていた。

ポケットの中にある「銀の貝殻」を握り締めて。


by 真一




 目が覚めると、自分の家ではなかった。長い長い夢を見ていたような気がした。とても楽しくて、とても悲しくて、何故か私は泣いていた。

 夢の内容は霞が掛かったようにハッキリと思い出せなかったが、幸せと不幸せをミックスしたような不思議な気持ちだけが残っていた。しばらくぼーっと周りを見回していたが、そこが会社の近くのビジネスホテルの一室だという事が分かった。

『そうだ、今日はプレゼンの日だ』

 時計を見ると出勤時間を過ぎていた。私は急いで見繕いをし、部屋を出た。


 当日のプレゼンは、何とか上手く進み、契約の運びになった。

 一仕事終えて気分も楽になると、自分の身なりが酷い物だと気が付いた。髪もぼさぼさ、いつの間にかお気に入りのピアスも片方なくしてしまい少し落ち込んでいた。

 気分を一新、休みに美容院にも行き、その帰り、大丸で新しくコートも衝動買いしてしまった。

まあ、自分へのご褒美、と言う事で、自分に言い訳していた。


 週の初め、いつもより少し遅めの出勤になったが、相変わらず電車は混んでいた。電車の壁に凭れて、吊り広告を見ていると、目の前に中年の男性が立っていた。見ず知らずの人のはずなのに胸の奥から熱いものがこみ上げてきた。『私は彼を知っている』どこの誰だかわからないのだが、懐かしさと熱い気持ちが湧き上がり、何故か涙がこぼれてきた。

 「真一さん」、私の口から突然その名前が出てきた。その男性はそれが聞こえなかったかのように、車両の奥に移動して行った。


 私はすべてを思い出した。駆け寄って彼に抱きしめられたかった。しかし、彼は何にも私のことは知らないのだと思った。あれは決して『夢』などではなかった。けれどこれも現実、私はどうしたらいいのか分からなかったが、いつものように日常は続いていく。


 私は彼「真一さん」の会社を訪ね、彼に会おうとしていた。しかし、彼は長期休暇だといい、会うことは出来なかった。私は彼を知っているが、彼は私のことなんか全然覚えていないに違いない。


 梅雨が明けようとしている7月、朝の通勤電車の中に彼の姿を見た。

『元気だったんだ。良かった』

 かなり痩せてスマートにはなっていたが、血色も良く元気そうだった。


 私の中の真一さんは私の中にだけ存在する。私はそう思うことにした。

 私は年下の彼のプロポーズを受ける事にした。


by 杏子





~エピローグ~


 僕は自ら病院に行った。精密検査を受けると、早期のガンが発見された。闘病生活は辛かったが、妻や娘達の献身的な介護のおかげか、夏を待たずに仕事に復帰した。再発の可能性は残っているにしろ、今は以前よりスマートになり、健康的なくらいだった。

 僕は家族の住む家に戻った。


 秋になり、今、急成長を遂げている衣料関係の会社のホームページで、若い社長が結婚したことを僕は知った。

 そのサイトに小さく載っていた写真には、真っ白なウェディングドレスを纏った美しい彼女の姿があった。

 

 その日の帰り、中ノ島を結ぶ橋の上で、僕は定期入れに入れてあった「銀の貝殻」を取り出し、川に投げた。

 弧を描いて落ちるイヤリングが、水面に落ちる一瞬、廻りのネオンの光を反射して、キラリと光り、暗い川面に沈んでいった。



by 真一




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― 新着の感想 ―
[良い点] ストーリーや、物語の構成が気に入って、物語にのめり込めました。 [気になる点] 少し誤字・脱字があるのと、キャラクターの口調(主に真一)を統一したほうがいいと思います。
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