第九夜
昔から、怖いもの見たさがやめられなかった。
子どもの頃は、夜中に押し入れを開けてみたり、噂の廃墟に忍び込んだり。
少し大人になると、掲示板で「読むと呪われる」と書かれた怪文書を集めては、心臓を早鐘のように鳴らしていた。
今では、その延長のようにダークウェブを覗くのが習慣になっていた。
匿名性が保証されたその世界は、都市伝説と現実の境界が曖昧で、
薄暗いデータの断片に触れるたび、自分の内側がじわりと侵されていく感覚があった。
ある夜、その暗がりの中で「auction」とだけ題されたページを見つけた。
黒い背景に、淡々と文字が並ぶ。
「幸福感、平均的な5年間分」
「左手の器用さ、限定的」
「夢に出てくる湖畔の情景」
冗談だと思った。
だが、入札履歴には確かな競り合いが刻まれており、
出品者の短い言葉が、コメントとして添えられていた。
「母の声を失いました。どなたか大切にしてください」
「これが最後の誇りです。どうか高値で」
ただの嘘や虚構にしては、切実すぎた。
⸻
私は、試してみたくなった。
そういう衝動に抗えるほど、大人ではなかった。
出品欄に「最近楽しかったこと」と入力し、送信した。
画面が一瞬暗転し、赤い文字が点滅する。
「出品を確認しました」
その瞬間、頭の奥に空白が生まれた。
何を失ったのか、はっきりとは言えない。
だが確かに、そこには「最近楽しかったこと」が存在していた、
はずなのだ。
思い出そうとするほど、曖昧さだけが広がっていった。
⸻
翌日、昼休みに同僚と他愛もない話をしていた。
映画の話や新しいゲームの話、取り留めもなく笑い合っていた。
その流れで、同僚がふと口にした。
「そういえば、この前の旅行、楽しかったな」
旅行?
私は旅行に行っただろうか。
机の上には、旅先で買ったらしい土産物が置かれている。
スマホのアルバムには、確かに見覚えのない観光地の写真が並んでいた。
だが、それを見ても心は空白のままだった。
笑顔の自分が写っている。
けれど、その顔を「自分」として結びつけられなかった。
⸻
オークションサイトを確認すると、
私の出品は「落札済み」と表示されていた。
落札者のIDは乱数の羅列。
コメント欄には、一行だけ。
「とても鮮明でした」
私は震えた。
自分が忘れたものを、今、誰かが所有している。
その確信だけが、息苦しいほど重かった。
——だが、それと同時に、奇妙な安堵もあった。
空白になったはずの場所に、確かに“取引が成立した”という痕跡が残っている。
失ったのに、まだどこかに存在している。
その事実が、恐怖と背中合わせの心地よさを伴って胸に広がった。
気づけば私は、その感覚をもう一度味わいたいと思っていた。
⸻
それから、私は繰り返した。
「嫉妬心」
「父への怒り」
「ワンピースを着たあの子の面影」
次々と出品し、次々と落札されていった。
そのたびに、胸の中に穴が開いた。
だが、不思議なことに、穴はすぐ別のもので埋められた。
知らない街の夕暮れ、聞き覚えのない歌、
悪夢の断片。
気がつけば、自分の中に、見知らぬ記憶や感情が流れ込んでいた。
それが誰のものか分からないまま、私はそれを自分のものとして抱えていた。
⸻
やがて私は、自分を信用できなくなった。
この声は本当に自分の声なのか。
目の前の風景は、自分の記憶に属しているのか。
いや、そもそも「自分」とは何で構成されていたのだろう。
サイトにアクセスすると、いつの間にか「出品者:あなた」と表示されていた。
出品した覚えはない。
それでもリストは更新され続けていた。
「歩き方」
「皮膚の温度」
「呼吸のリズム」
次に来るものは分かっていた。
「存在そのもの」
⸻
ページの隅に、新しい入札コメントが追加されていた。
「最後の一品を、楽しみにしています」
それを読んだ瞬間、胸の奥がすうっと軽くなった。
まるで、最初からここには何もなかったかのように。




