第六夜
引っ越したばかりのアパートは、古くはあったが、静かで落ち着いた。
隣の部屋には、小さな子供と若い夫婦が住んでいるらしかった。
夕方になると、子供が走る足音が弾むように響く。
「こら、もう少し静かに」母親の柔らかな声。
「ただいま」と父親が帰ってくる気配。
「おかえり」と応える声。
壁越しに伝わるその生活音は、見えないのに不思議と温かく、孤独な自分には救いのようだった。
⸻
変わったのは、ほんの些細なことからだった。
ある夜、子供の笑い声がいつまでも途切れなかった。
「キャッ、キャッ」と同じ音が、一定の間隔で壁を震わせる。
笑っている、のだろうか。
それともただ、音が流れているだけなのか。
次の日には、夫婦の会話が変だった。
声は聞こえる。
だが意味を結ばない。
「ねえ……」
「……ええ」
「ねえ……」
「……ええ」
同じやり取りが、何十分も繰り返されていた。
⸻
三日目の夜、確かめたくなって、隣の玄関に立った。
ドアの前で耳を澄ます。
部屋の奥から声がする。
だが、それは夫婦でも子供でもなかった。
大勢の人間が、一斉に喋っている。
けれど内容は会話ではなく、意味を結ばない断片だった。
「……います」
「いません」
「……います」
「いません」
肯定と否定が同時に、重なり合って、押し寄せてくる。
郵便受けの隙間が、わずかに揺れた。
暗闇の向こうから、誰かがこちらを覗いている。
目ではなかった。
それは、口だった。
⸻
慌てて部屋に戻り、布団に潜り込んだ。
壁越しに、まだ声が聞こえる。
「います」
「いません」
繰り返し、重なり、混ざり合って──
ふと気づいた。
その声はもう、隣の部屋からではなかった。




