第8話 御言葉の力
夜明け前、横浜の港を見下ろす丘の上に、田宮紫苑と白石登、そして黒いフードをかぶった預言者が立っていた。
ルミナス接種の混乱と暴動を避け、彼らは北から南下し、比較的被害が少ないこの区域に身を寄せていた。
しかし、街はすでにかつての横浜ではなかった。摩天楼のビル群のあちこちに崩落の跡があり、地震で割れた道路の亀裂からは黒煙が上がっている。
「……信じられないな。俺たちが知っていた街じゃない。」白石が低い声で呟く。刑事として幾多の現場を見てきた彼も、この光景には眉を寄せていた。
横浜港をなめる風が急に冷たくなった。雲は低く垂れこめ、ベイブリッジの灯は血のように赤くにじんでいる。
臨港パークからは人の波が押し寄せ、泣き声と怒号が入り混じった。ナノチップを感知する警備ドローンが頭上で目を光らせている。田宮紫苑は白石昇と肩を並べ、輸送コンテナの陰から周囲をうかがった。背後には、これまでの奇跡のうわさを頼って集まってきた生存者たちが身を寄せ合っている。
「囲まれる前に抜けたいが……動けば、飲み込まれる」白石が短く息を吐く。
紫苑はうなずき、小さな聖書を開いた。喉が渇いている。昨夜から何も口にしていない。代わりに、胸の底の闇が、静かに別のものへと置き換わっていくのを感じていた。
「御言葉で、道を開く」
「任せる。俺は人を守る」
ゾンビの先頭が金網を越えようとした瞬間、紫苑は声を張った。
「神はわたしの避け所であり、わたしのとりで、わたしの信頼する方だ」(詩篇91章)
宣言が空気を震わせ、見えない波のように広がる。うめき声がもつれ、先頭の数体が膝から崩れた。白石は即座に人々を誘導する。
「列を二つ! 子どもを真ん中に! 走れる者は後衛を固めろ!」
好青年の刑事らしい明快な声が、混乱を秩序へと変える。
群れの後方で、黒いフードの男――預言者が無言で動いた。影が揺らめくたび、飛びかかってきたゾンビの動きがわずかに逸れ、刃の届かない場所へ弾かれていく。誰も気づかぬほどささやかに、しかし確かに、彼は紫苑の進路から死を払いのけた。
「次、来るぞ!」白石が指さす。
高架下から、装甲車に護送された武装治安部隊が現れた。肩章には世界政府の紋章、腕にはルミナスの識別バンド。スピーカーが声をまき散らす――「即時集団接種区域に移動せよ。抵抗は処分対象とする」
紫苑は再び聖書に目を落とした。指先が自然に一つのページで止まる。
「救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、つまり神のことばを取りなさい」(エペソ6:17)
彼は白石と目を合わせ、うなずき合う。
「行くぞ」
二人はコンテナの陰から飛び出した。
治安部隊の照準が合う――その瞬間、紫苑は息を吸い、はっきりと宣言した。
「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」(ローマ10:13)
風が裏返るように吹き、砂埃が白い壁となって視界を遮った。銃口が揺れ、ドローンが軌道を外れる。群衆の前に、一瞬の「通り道」が開いた。
「今だ、全員移動!」白石の号令。
人々が走る。紫苑は殿に回り、迫るゾンビに向き直った。
「たとえ千人があなたのかたわらに倒れ、万人があなたの右に倒れても、あなたにはふりかかることはない」(詩篇91:7)
足音が沈むように止まり、群れは海風に押される藻のようにその場でよろめく。紫苑の喉に、渇きではない熱が灯る。
聖霊が祈りに応え、自分たちを生かしている――そう確信できた。
やがて人々は赤レンガ倉庫の広場へ流れ込み、壁際で肩を寄せた。電源は落ち、非常灯の赤が不安定に瞬いている。白石はすばやく負傷者を確認し、止血を手伝いながら紫苑に声を落とした。
「さっきの言葉……効き目が、前より早い」
「信じて祈る者が増えてる。御言葉は生きてる」
そのときだった。紫苑のコートのポケットで、小さなものが硬く当たった。日野――真理の部屋で見つけ、今は紫苑の手元にある〈〈真理はあなたを自由にする Ap12:10〉〉と書かれたメモだ。無くしてしまわぬよう硬質なカードケースに入れて持ち歩いていた。
「……『Ap』?」白石が覗き込む。
「アポカリプス。黙示録のことだと思う」
紫苑は頷き、聖書の巻末をめくった。
「十二章十節……どんなところだ?」
薄暗がりの中、紫苑は声に出して読んだ。
「そのとき、わたしは天で大きな声がこう言うのを聞いた。『今や、わたしたちの神の救いと力と国と、そのキリストの権威が現れた。わたしたちの兄弟たちを訴えていた者、昼も夜も神の前で彼らを訴えていた者は、投げ落とされた』」(黙示録12:10)
黙示録の響きが、レンガの壁でやわらかく反響する。
白石が眉を寄せた。「“訴える者”って、誰のことだ?」
「それはサタンのことだ。」
どこからともなく現れた預言者が答える。
「黙示録の文脈では、終末のときに神の民を訴え続けていた悪しき存在が、ついに天から追放されることを意味している。真理が残したこのメモは、ただの聖句の引用ではない。彼女は患難のただ中で、この勝利の約束を思い起こさせようとしていたのだ。」
白石が腕を組む。「けど、こんな時に『勝利』って……この状況を見てみろよ。地震、暴動、ゾンビみたいな連中。勝ち目があると思うか?」
預言者は静かに首を横に振った。「だからこそ、聖書は警告する。『島々は逃げ去り、山々も見えなくなった』(黙示録16:20)。大地が揺れ、海が陸を呑み込む。やがてこの国も、その波にのまれるだろう。」
紫苑と白石は顔を見合わせ、背筋が凍る思いをした。横浜の海を見下ろす視界に、かすかに波が白く光るのが見える。
「……日本が沈む、って言ってるのか?」紫苑が低い声で聞いた。
「恐れることはない。」預言者は一歩近づき、紫苑と白石の肩に手を置いた。「神は脱出の道を示す。恐れに支配されるな。信じる者は決して滅びない。」
白石は眉をひそめた。「簡単に言ってくれるな。だが……妹が信じたものを俺も信じてみる価値はあるかもしれない。」
紫苑はメモカードを見つめた。
――真理は、いつこれを書いた?誰に向けてのメッセージだったんだ?
彼の脳裏に、日野の静かな微笑が浮かんだ。あの動画の、天使のような眼差し。
(答えは、まだ先だ。焦るな)
外で風が変わった。雲が裂け、夜空に黒い筋が走る。ベイブリッジの上を、火の尾を引く破片が滑っていった。預言者が顔を上げ、フードの奥で目を細める。
「……上が、騒がしい」
次の瞬間、海沿いの高層ビル群のガラスが一斉に震え、空から閃光が落ちた。ドローン制御網が焼け、火花を散らして墜落する。人々が悲鳴を上げ、ゾンビが狂ったように吠えた。紫苑は反射的に叫んだ。
「恐れるな。わたしはあなたとともにいる」(イザヤ41:10)
轟音のただ中で、その言葉だけがはっきりと聞こえた。
白石が紫苑の背に手を当て、前へ押し出す。
「広場を守る。ここを落とせば、逃げ場がない」
二人は階段を駆け上がり、赤レンガ倉庫の屋上へ出た。港が見渡せる。闇の底で、巨大な影が身じろぎした――竜。もちろん実物ではない。だが雲と炎と光が重なったその形は、否応なく「竜」を思い出させた。紫苑の口から、自然に次の御言葉が漏れる。
「私たちの戦いは血肉に対するものではなく、この暗闇の世界の支配者や、天にいる悪の霊どもに対するのだ」(エペソ6:12)
白石がうなずき、拳を握りしめる。
「なら、俺たちは俺たちのやり方で戦う」
二人は声を合わせた。
「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」
祈りは叫びではない。宣告だ。屋上の縁から、透明な波が港へ走った。ゾンビの群れが一斉に硬直し、治安部隊の通信が砂嵐に飲み込まれる。群衆の中から、震える声が上がった――「わたしも、祈っていいですか」。
白石が振り返る。「もちろんだ。『主よ、あわれんでください』と言えばいい」
広場のそこかしこで、短い祈りが芽吹く。
紫苑は胸のポケットにメモカードを押し当てた。
Ap12:10――この印は、ただの章節番号ではない気がする。
それは天の戦いの合図であり、地上の戦いの鍵でもある。
だが「何に勝つのか」「誰が勝つのか」。その核心は、まだ霧の向こうだった。
預言者は屋上の影に立ち、静かに二人を見守っていた。フードの奥のまなざしは、どこまでも崇高で、どこか遠い。
「時は満ちつつある」
誰にともなく、彼はつぶやく。
「だが、印はもう一つある。十二章十節の『声』――それが何を告げ、誰に響くのか。紫苑、お前自身が聞くのだ」
風が頬を打つ。
紫苑は聖書を閉じ、白石の隣に立った。
「進もう。次は、“なぜ彼女がこのメモを残したのか”を探る」
「わかった。黙示録を、もう一段深く読むんだな」白石は微笑む。「難しい本でも、相棒がいれば怖くない」
二人は再び広場へ降りていった。
赤い非常灯が、彼らの影を長く引き伸ばす。
遠くで、竜めいた雲がほどけ、星が一つだけ顔を出した。