第6話 狭き門の友
夜明けの空は灰色に澄み、瓦礫の街を静かに染めていた。
昨夜の狂気が嘘のように、世界は沈黙している。
紫苑は白石の腕を支えながら歩いていた。
「傷はもう平気か?」
「……ああ、妙な話だが、もうほとんど痛まない」
白石は短く答えると、笑った。
「お前のおかげだよ、田宮」
二人の歩調は自然に揃っていた。
嵐の中で掴んだ確かな絆が、今も互いを支えていた。
✝狭き門の解き明かし
彼らの前を歩く預言者は、立ち止まって聖書を開いた。
声は凛として澄んでおり、響き渡る言葉は石造りの廃墟に沁み入るようだった。
「『狭き門から入れ。滅びに至る門は大きく、その道は広い。そこから入って行く者が多い。
命に至る門は狭く、その道は細い。そして、それを見出す者は少ない』──マタイによる福音書7:13-14」
紫苑はその言葉を噛みしめるように目を伏せた。
「俺たちが選んだ道は……狭き門、ということか」
預言者は静かに頷く。
「お前たちの前には幾重もの試練が待っている。
その道を共に進めるかどうか――それが命の分かれ道だ」
紫苑がこの狂った世界で正気を保っていられるのは、隣に立つ白石の存在が大きい。
そんな紫苑の気持ちを察してか、白石は短く「大丈夫だ」とだけ告げ、迷いなく前を見据えていた。
✝沈黙の影
二人のやりとりを、預言者は沈黙のまま見つめていた。
その眼差しは、どこか遠いものを見透かすようでありながら、紫苑の一挙手一投足を逃さぬ熱を帯びていた。
彼は紫苑を「選ばれし者」として守る使命を帯びている。
それは天から与えられた絶対の役割。
しかし――紫苑が白石と肩を並べる姿を見るたびに、胸の奥で言葉にならない揺らぎが生まれていた。
預言者はそれを打ち消すように、再び聖書に視線を落とす。
「紫苑……お前は神の憐れみによって選ばれた者。
その意味を忘れるな。お前を守るのは私だ」
その声には確かに神聖さが宿っていた。
だが、かすかな切実さが混じっていることに紫苑は気づけなかった。
✝壊れたレコード
その夜、瓦礫に囲まれた小さな廃墟で焚火を囲んだ。
白石が眠りについた後、預言者は紫苑に低く語りかける。
「……お前は特別だ。
数えきれぬ人々が滅びの道を選ぶ中で、神はお前を見出した。
理由はお前の力でも、善でもない。ただ、神の一方的な憐れみだ」
紫苑は言葉を失った。
自分は教師としても人間としても中途半端で、何かを誇れる存在ではない。
その自覚があるだけに、預言者の言葉は心を抉るように響いた。
「……なぜ、俺なんだ」
預言者の瞳が深い影を宿す。
「その答えは神にしか分からない。ただ――お前は選ばれた。それだけだ」
その声は崇高でありながら、どこか切ない響きを帯びていた。
「お前は何を聞いても、神、神、神ばっかりじゃないか」
まるでこいつは壊れたレコードだ。
紫苑は途方に暮れて焚火の炎を見つめた。
自分の隣に眠る白石が、唯一まともな存在の、何よりの拠り所となっていた。
その姿を、預言者は黙して見つめ続けていた。