第4話 終わりの始まり
夜の住宅街に、不気味なうめき声が響いていた。
田宮紫苑は息を殺し、背後の物音に耳を澄ませる。
月明かりに照らされた交差点には、人影がふらふらと徘徊していた。
その顔は蒼白に爛れ、目は虚ろに揺れている。
かつて人間だったはずのものが、そこにいた。
「……あれがゾンビ、だと?」
乾いた声が紫苑の喉から漏れる。
やつらは、最近ネットに流れ始めた映像と同じ姿だった。
ルミナス接種後に錯乱し、家族を襲った者たち。
政府は「ただの薬害ではない」「一過性の集団ヒステリー」と言って取り繕ってきた。
だが、目の前の光景がその言葉を嘲笑っていた。
一体が紫苑に気づき、血走った目で駆け寄ってくる。
「くそ……!」
咄嗟に後退するが、背後は袋小路。逃げ場はなかった。
伸びる腕。腐臭。
その刹那、鋭い閃光が夜を切り裂いた。
黒いフードを深く被った男が立っていた。
曲刀を一閃させ、ゾンビの首を刎ね飛ばす。
「……お前は……」
紫苑の記憶が呼び起こす。あの“預言者”だ。
フードの奥から、淡々とした声が響く。
「お前に傷をつけるわけにはいかない」
かつて人だったモノが群れで襲いかかる。
預言者は舞うように剣を振るい、次々と薙ぎ倒した。
紫苑はただ呆然とその光景を見つめるしかなかった。
やがて静寂が戻り、剣の血を拭う預言者に紫苑は声を震わせた。
「なぜ、俺を……?」
預言者は近づき、紫苑の目を覗き込む。
「お前は選ばれた者だからだ」
その距離の近さに紫苑は後退る。
「選ばれた……?」
「ヨハネの黙示録を読んだか?」
預言者の声は淡々としていたが、どこか紫苑にすがるようでもあった。
紫苑の脳裏に、日野が残したノートの一節が浮かぶ。
《第六の封印が解かれる時、空は巻物のように巻かれ──》
預言者はゆっくりと語り始めた。
「封印とは、終末を告げる七つの段階だ。
戦争、飢饉、疫病、死……やがて大地震と天変地異が世界を覆う。
そして七つ目が開かれた時、最後の審判が訪れる」
その声はまるで教師の講義のようでありながら、冷たく絶対的だった。
紫苑は胸が締めつけられる。
「そんなもの……ただの宗教的な寓話だろう?」
預言者は首を横に振る。
「いいや。もう始まっている。
ルミナスによる“疫病”も、狂気に堕ちた人間たちも、裁きの一つに過ぎない」
言葉の一つ一つが、紫苑の心を抉った。
しばらくして駆けつけた白石が、剣を収めた預言者を睨む。
「てめぇ、何者だ。妹はどこにいる」
預言者は一瞬、興味なさそうに白石を見ただけで、すぐに紫苑へ視線を戻した。
「お前の妹も生きている。だが、この世界の住人ではなくなった」
紫苑は息を呑んだ。
「日野も……そうなのか?」
「そうだ。携挙されたのだ」
預言者の口元が微かに歪む。
携挙──聖書で語られる“選ばれし者が天に召される”現象。
紫苑は、日野が残した走り書きを思い出す。
福音を信じ、心からイエスを救世主として受け入れた人間のみに与えられる祝福。来たるべき大いなる患難から逃れるため、一時的に天国に迎えられる。
そしてやがて新しい天地が創造され、かつてのエデンの園のような究極の平和という理想郷が完成するという途方もない話だ。
《目を覚ませ、時は近い》
預言者は紫苑に一歩近づく。
その目はまるで、執拗に所有を主張するかのように熱を帯びていた。
「紫苑……お前は特別だ。俺はずっと、お前を見守ってきた。
お前が歩むべき道を踏み外さぬように」
「なぜ俺なんだ……」
紫苑の胸は荒く波打つ。
教師として生徒を守れすらしない自分が、なぜ“神の計画”などという異常な物語に組み込まれているのか。
頭では拒否しても、心の奥底では日野の失踪と聖書の預言が繋がりつつある。
「俺はただの教師だ。普通に授業をして、平穏に生きたかった。それだけだ……」
紫苑の声は震えていた。
預言者は微笑む。
「だが、それは与えられた幻にすぎない。
お前は選ばれた。俺はその証人であり、守護者だ」
紫苑はその言葉に背筋を凍らせた。
守護者──?
自分は、この狂気のような預言者に守られてきたというのか。
預言者の導きで、三人は市街の外れにある廃教会を訪れた。
崩れた天井、朽ちた祭壇。だが、蝋燭の炎が揺らめき、異様な神聖さを漂わせていた。
預言者は祭壇の前に立ち、二人を見渡す。
「この世界は“終わらされる”ために存在している」
紫苑は思わず叫ぶ。
「なぜだ! 俺たちが何をしたっていうんだよ……」
預言者は瞳を細めた。
「人間は須らく罪という呪いを持ってこの世に生を受ける。かつて人類の始祖アダムが蛇に唆され、禁断の実を食べてしまったがゆえに。滅びの定めを与えられているのだ。
この世界に争いや病気が絶えないのは何故だと思う?
……この世界が呪われているからだ。
その抗えぬ呪いから人類を救うため、かの尊いお方は十字架刑で死に、そして死という究極の呪いさえも打ち破って復活された。
真の平和は、裁きの後にしか訪れない。
それが神の救済計画だ」
白石が拳を握りしめる。
「ふざけるな。じゃあ、妹を奪ったのも“神の計画”だってのか?」
預言者は答えない。ただ静かに紫苑だけを見据えていた。
その視線は、彼をこの世界から切り離そうとするかのようだった。
紫苑は思考の渦に呑まれていく。
──本当に、俺は選ばれた者なのか?
──もしそうなら、この現実は……ただの序章なのか?
頭では否定したい。だが心は恐ろしくも確信し始めていた。
その瞬間、教会の窓ガラスが震え、遠くから不気味なサイレンが鳴り響いた。
夜空を裂く稲光が世界を白く染める。
「……始まったな」
預言者の声が低く響き、紫苑の問いは深い奈落へと落ちていった。