第五十四話 嵐の前兆
低く唸るような音が、艦全体に伝わってきた。
それは機関の振動ではない。深海の静寂を震わせる、得体の知れない低周波――まるで海そのものが警告を発しているようだった。
艦長席に座る遼は、視線をスクリーンに固定していた。
赤い光点がひとつ、またひとつと現れ、静かに近づいてくる。
その配置は、自然の群れではない。明らかに編隊を組んだ艦隊行動だ。
「距離、二万三千。進路こちらに固定」
副官席のルナが、緊張を隠しきれない声で報告した。
「敵艦隊と断定していいな?」
遼の問いに、通信席のユイが即答する。
「はい。発する熱源パターンと波紋の形状、いずれも北方帝国の艦種と一致。潜水型の主力艦を含む可能性が高いです」
遼は短く息を吐き、肘掛けを軽く叩いた。
「全艦、戦闘配置。音響探知班、敵の推進音を解析。無駄な交戦は避けるが、向こうが仕掛けてくるなら応じる」
ルナが艦内放送に手を伸ばし、冷静な声で命令を全区画に伝えた。
艦内の空気が、一瞬で張り詰める。
◆深海の舞台
〈みらい〉の外は、音も光もほとんど存在しない世界だ。
海底の地形は起伏に富み、暗黒の中に時折、発光生物が淡い青白い光を放つ。
水圧は容赦なく外殻を締め付け、耳の奥に重苦しい圧迫感を残す。
ユイはセンサー情報を操作しながら、遼に言った。
「この深度だと、音響索敵の有効距離が半減します。敵はこちらの位置を正確には掴めないはずですが……」
「だが、あの隊形は探している奴らの動きだな」
遼の声は低く、しかし迷いがなかった。
◆艦長と元AI
「艦長、回避行動を優先しますか?」
ユイの問いに、遼は首を横に振る。
「いや、まだ動くな。この暗闇を利用する。必要になったら、俺が命じる」
ユイは短く頷いた。
彼女はかつて、艦そのものであり、無数の演算で最適解を選び続ける存在だった。
しかし今は人間の姿となり、決断の最終権限は艦長――遼にある。
その事実を、彼女は受け入れていた。
「了解。艦の全制御系は待機状態に。必要時は即時切り替え可能です」
◆日常との対比
ふと遼の脳裏に、数時間前の光景がよみがえる。
温室で芽吹いた小さな“希望”の花。子供たちの笑顔。
――あれを、絶対に壊させはしない。
「ユイ、民間人区画の隔壁を再確認しろ。最悪の場合でも安全を確保できるように」
「了解。隔壁ロック、三重構造に変更します」
◆接触の兆候
「距離、一万八千。速度変化なし。……艦長、敵の側面に大型反応を確認!」
ルナの声が鋭く響く。
「映せ」
前方スクリーンに映し出されたのは、黒い影のような巨艦だった。
艦体の表面には棘のような突起が無数に並び、まるで深海生物を模したかのような不気味さを放っている。
「……グラディオン級重潜航戦艦。北方帝国が誇る旗艦クラスです」
ユイの声に、艦橋の空気がさらに重くなる。
「旗艦がいるってことは、向こうは本気だな」
遼は顎に手をやり、数秒だけ考え込むと、きっぱりと言った。
「全砲門、初弾装填。こちらからは撃たない。だが――撃たれた瞬間に倍返しだ」
◆静かな嵐の前
敵影はゆっくりと、しかし確実に接近してくる。
深海の暗黒の中、二つの艦隊が互いを探り合い、沈黙のまま距離を詰める。
その時、遼の耳にかすかな震動音が届いた。
低く、腹の底を揺らすような、深海の心臓の鼓動。
それは嵐の前触れであり、〈みらい〉の次なる戦いの合図だった。
「……全員、気を抜くな。これは始まりに過ぎない」
遼の言葉が艦橋に響き、誰もが息を呑んだ。




