第四話 集落の女神官
腰を抜かした青年兵を支えながら、橘遼は慎重に岩場を進んだ。
「立てるか?」
「あ……ああ……」
震える膝を押さえながら、青年は何度も遼を盗み見る。恐怖と混乱、そしてかすかな期待が入り混じった視線だった。
「集落に案内してくれ。話をしたい」
「わ……わかった……でも、村の皆は……きっと驚く……」
青年の声は震えていたが、それでも彼の槍先は既に下がっていた。
黒砂混じりの浜辺から、小さな崖を越えて集落へ向かう。崖を登ると、一面に広がる荒れ地に、粗末な木造家屋が点在していた。畑はあれど作物は枯れかけ、井戸の周りには数人の老人がうなだれて座り込んでいる。人々の顔色は悪く、希望の光が感じられなかった。
(……これが、魔獣に奪われた世界……)
胸が痛む。艦橋でモニター越しに見ていた荒廃よりも、実際の光景は遥かに苛酷だった。
「この者を……神殿へ……!」
青年兵が声を張り上げると、集落の人々が一斉に振り返った。見る間にざわめきが広がる。
「何だ……あの鎧は……」
「魔族ではないのか……?」
「いや……神の遣い……?」
老若男女が不安げに見つめる中、奥から足早に駆けてくる人影があった。
「どうしました!? この騒ぎは──」
清らかな声だった。現れたのは、年若い女性。白と淡青を基調にした簡素な神官服を纏い、胸元には月と波を象った銀のペンダントを下げている。艶やかな黒髪を後ろで一つにまとめ、額には小さな宝玉が輝いていた。
(神官……か)
遼が思わず見入るほど、彼女はこの荒廃した集落に似つかわしくない清浄さを纏っていた。
「ライオ、どういうこと……この方は……?」
青年兵──ライオと呼ばれた男は震える声で答える。
「えっと……海辺で見つけたんだ。魔族かと思ったけど……違う……。この方は、神の遣いだって……」
「神の遣い……」
女性神官の瞳が揺れる。その奥に、微かな光が宿ったのを遼は見逃さなかった。
「……初めまして」
遼は深く頭を下げた。彼女と村人たちは息を呑む。異質な軍装の青年が、真摯に頭を下げる姿は想像外だったのだろう。
「俺は橘遼。遠い海の向こうから、皆を助けに来た」
翻訳されたその言葉は、集落全体に静かな衝撃を与えた。
「皆を……助ける……?」
呟く神官。彼女の瞳には、長い絶望の夜に微かに差し込む夜明けの光のような、そんな色が宿っていた。
しかしすぐに、その光は現実に押し潰されるように陰った。
「……気持ちはありがたいです。でも……今までも、何度も『助ける』と名乗る者は現れました。そして皆……魔獣に殺されました」
「神官様……」
周囲の村人たちも、期待と恐怖を入り混ぜた瞳で遼を見つめていた。
遼は無言で彼らの顔を見回した。痩せ細り、疲れ果てた表情。戦意を失った兵士と同じ顔だった。
(……こんな世界で……どうやって生きろというんだ……)
奥歯を噛み締める。だが、艦長としての冷静さを失わないよう、深呼吸をした。
「神官さん、俺は口先だけの救い主じゃない。……見せるよ。俺の船を」
神官の瞳が揺れる。
「……船……?」
「そう。君たちの海を取り戻すための、鋼鉄の艦だ」
その言葉に、周囲がざわめいた。
「船……? 船なら何度も作ったが……魔獣には勝てない……」
「いや……鋼鉄……?」
神官が震える声で尋ねる。
「……もし……もし本当に、海を取り戻せるのなら……お願いです。皆を……この村を、救ってください……!」
その声は、祈りだった。神に縋るのではなく、目の前の青年に縋る弱い人間の祈り。
遼は静かに頷いた。
「……わかった。約束する。必ず、この海から魔獣を追い払う」
その瞬間、女性神官の瞳から溢れ落ちた涙が、土埃に濡れた足元に消えた。
◆神殿へ
神官の名はレイリアと言った。
彼女に案内され、遼は集落中央にある小さな神殿へと向かっていた。
道中、すれ違う村人たちは皆、畏怖と希望の入り混じった視線で遼を見送る。
「……本当に、神の遣いなのでしょうか……」
「神官様が連れているのだ。きっと……」
古びた石造りの神殿内部は薄暗く、外界の荒廃から切り離された静寂があった。
中央には、海を象った大理石の祭壇と、その奥に淡い光を放つ女神像が立っている。
「この村は、ずっと海と共に生きてきました……。でも魔獣が現れてから、漁にも出られず、食料も尽きかけています」
レイリアの声には諦めが滲んでいた。
遼は無言で彼女の横顔を見つめる。華奢な肩がわずかに震えている。
「神官さん」
「はい……?」
「一つ聞かせてくれ。この世界の魔獣は……いつ、どうやって現れたんだ?」
彼女は小さく息を呑むと、祈るように女神像を見上げ、話し始めた。
「……二十年前まで、この海は豊かでした。魚も貝も、海草も人々を養ってくれた。でも……ある日、空から黒い光が落ちて……そこから魔獣が溢れ出したんです」
「黒い光……?」
「はい……。そして……その日から、海の神の力も弱まり、私たちは……」
言葉を詰まらせ、彼女は俯いた。
(黒い光……神か? それとも、別の存在……?)
遼は腕を組んで考え込んだ。だが今は、敵の正体を探るよりもやるべきことがある。
「神官さん」
「……はい?」
「君たちを救うために、俺はここに来た。この海を取り戻すために、力を貸してくれないか」
彼女の瞳が驚きに大きく開く。
「……私に……できることがあるのですか?」
「ある。君の祈りと、君のこの海への想い。それが必要だ」
沈黙。
長い沈黙の後、レイリアは小さく笑った。
「……わかりました。私にできることなら、何でも……!」
その微笑みは、荒廃した世界の中で見た、初めての光だった。
◆艦へ帰還
夕暮れ。二つの太陽が交錯し、赤と金の光が海を染める。
複合艇に乗り込んだ遼とレイリアは、暗くなり始めた海面を滑るように進んでいた。
『艦長、複合艇を確認しました。帰還ルートに問題ありません』
ヘッドセットからユイの声が響く。
レイリアは周囲を不安げに見渡し、小さく口を開いた。
「……これから、私……どこへ行くのですか?」
遼は彼女に微笑みかけた。
「君に、見せたいものがある。君たちを救うための力だ」
海上に浮かぶ巨大な黒い影。
イージス艦「みらい」は、二つの太陽に照らされ、異世界の海神のように静かに佇んでいた。
「──あれが、俺の船だ」
レイリアは言葉を失った。
彼女の瞳に映るのは、絶望に沈む海を取り戻すために現れた、新たなる守護神の姿だった。