第二話 目醒める鋼鉄の守護神
眩い光が収まったとき、橘遼は自分が艦橋の艦長席に座っていることに気づいた。
しかしそこは、彼が知っている「みらい」とは決定的に違っていた。
艦橋内は静寂に包まれ、乗組員たちの姿がない。各種モニターは稼働しているが、人の気配はどこにもない。唯一耳に届くのは、システムが稼働する微かな電子音だけだ。
「ここは……本当に、みらいなのか……?」
遼はゆっくりと立ち上がり、艦橋の正面窓に近づいた。
そこに広がるのは、相模湾の深い青ではなかった。
エメラルドグリーンの、あまりに美しく、しかしどこか現実味のない幻想的な海。そして空には、二つの太陽が昇り、淡い金と赤の光を交錯させている。まるで夢の中の風景だ。
「……イステリア……本当に、異世界……」
胸の奥から冷たい震えが込み上げてきた。これまで数多くのシミュレーションを経験してきたが、こればかりは誰も予想できない現実だった。
そのときだった。艦橋中央のメインモニターが自動起動し、静かに音声が響く。
『ご覚醒を確認しました、艦長』
表示されたのは、一人の女性の顔だった。黒髪を肩まで伸ばし、知的で涼やかな瞳を持つ美貌。しかし、その表情にはわずかながら無機質さがあり、現実の人間ではないことを直感させた。
「君は……まさか、AIか?」
『はい。統合管制AI、ユイと申します。艦長補佐として、この艦の全運用を担当いたします』
女性──ユイと名乗ったAIは、落ち着いた声で続ける。
『神より与えられた魔力機関により、本艦は乗組員なしでの稼働が可能です。艦長は戦術指揮に専念してください』
まるでSF映画のような台詞だった。だが、今や遼にとってはこれが現実だ。
息を整え、艦長としての顔を取り戻す。
「ユイ。現在位置は?」
『イステリア海域、南西座標。水深約600メートル。周囲5キロ圏内に大型魔獣反応なし。ただし、東方12キロ圏内に複数の大型反応を感知しています』
「魔獣……」
神の言葉が脳裏に蘇る。この世界を支配する脅威──魔獣。彼らを倒し、人々に海を取り戻す。それが彼に与えられた使命だった。
しかし現実感がない。まるで自分だけが無重力空間に取り残されたようだ。
『艦長。これより本艦システムの稼働チェックを開始します。各武装、航行機関、魔力システム、全て正常作動を確認』
「了解……」
遼は艦橋を見渡した。かつてここにいた部下たちの姿が脳裏に浮かぶ。艦橋オペレーターの宮本、CIC担当の野田、航海長の鈴木……。彼らのいない艦橋は、機能としては問題がなくとも、どこか空虚だった。
(必ず帰る。皆と一緒に、あの相模湾に帰還してみせる)
無言の決意が胸を満たす。だが、その時だった。
『艦長。新たな反応。左舷前方10キロに大型魔獣、接近中。速度上昇しています』
「距離は?」
『現在、9200メートル。到達まで2分以内と予測されます』
「武装システム、戦闘配置!」
『了解。全武装、スタンバイ完了』
艦橋の照明が赤に変わり、緊張感が一気に高まった。戦闘システムディスプレイに映し出されるターゲットシルエットは、巨大なワニに似た体躯に、背中から魚竜のようなヒレを複数突き出した異形だった。
『魔力反応強。既存武装での撃破率、38%』
「……低いな」
遼は短く息を吐いた。現代兵器が通じない可能性。最悪のシナリオだ。
「ユイ。魔力兵装は?」
『使用可能です。ただし、艦長の精神認証が必要です』
「わかった」
艦橋中央の認証パネルに手を置く。冷たい金属板から微かな振動が伝わる。その感覚に集中し、心の奥底から言葉を放った。
(この艦の力を解放する。海を脅かす魔獣を討つために──!)
刹那、青白い光がパネルから艦橋全体に走り、ユイの瞳が淡い光を宿す。
『精神認証確認。魔力収束砲、使用可能』
「よし、目標に照準。撃て!」
『了解』
艦首部に配置された巨大砲塔がゆっくりと回転し、魔力収束砲が展開される。砲身に淡い青白い光が収束し、周囲の海水すら螺旋状に渦を巻いた。
──轟。
空間を震わすような重低音と共に、魔力砲が発射される。海を切り裂き、音速を遥かに超える速度で放たれた光線は、目標の魔獣に一直線に命中した。
『命中確認。目標個体、生命反応消失』
海中を漂う魔獣の死骸。その巨体から、緑がかった血液が淡く光りながら溶け出していた。
「……効いたか」
艦長席に腰を下ろし、背もたれに体重を預ける。全身の力が抜け、冷たい汗が額から頬を伝った。
『艦長。周囲海域に魔獣反応なし。戦闘終了と判断します』
「ありがとう、ユイ。君がいてくれるおかげだ」
『私はあくまで艦長の補佐です。艦長の決断と覚悟が、この艦の力を引き出します』
ユイの声は相変わらず冷静だったが、その奥に僅かながら安堵の色が混じっているように聞こえた。
窓の外を見やる。どこまでも続く異世界の海。そこに潜む脅威は未知数だ。
(だが──負けない。この海を、必ず取り戻してみせる)
孤独と決意を胸に、橘遼は再び艦長席を立ち上がり、モニターに映る航路マップを見据えた。
「ユイ。次の移動計画を立ててくれ。できるだけ魔獣遭遇率が低いルートで、沿岸部を目指す」
『了解しました、艦長。これより最適航路を算出します』
AIユイの冷たい声が、彼の孤独を慰める唯一の存在だった。
イージス艦「みらい」、異世界イステリア海域航行開始。
彼の、そしてこの世界の運命を賭けた戦いは、いま始まったばかりだ。