白いワニ・序
一歩でも道を誤れば、奈落に落ちる。
表と裏。天と地。ひっくり返せば、姿が変わる。
落ちたのではなく、下りた。自ら望んで、自らの意思でそこへと立った。
「ひっ、ぐっ、ぐう……」
陽の光が届く事はない場所で、男は涙を流し、許しを請うていた。
逃げるどころか、もはやこれ以上動くのも不可能な状態に陥って、涙を流し続ける。
鼻を突くのは下水の臭い。甘く、濃く立ち込めた血の臭い。
「ぎいいいいいいいいいいいいいっ!」
どこからか声が聞こえる。反響して轟くそれは、男の耳朶を確かに劈いた。目に見えるものは、この世のものとは思えぬ惨状。
「はあ、マジなん、それ?」
短くなった煙草を捨て、男は馬鹿にしたように笑った。
「らしいぜ」
短く答えるのは髪を銀色に染めた長身の男である。彼が歩く度、じゃらじゃらと音が鳴っていた。身に着けた、大量のアクセサリーによるものだろう。
「白いワニ、ね。つーか、下水道に?」
男はジーンズのポケットから煙草の箱を取り出し、火を点ける。
「誰かに捨てられたんじゃね? いや、そーゆーのは別にどうでも良いだろ。問題なのはいるか、いないか」
「いや、いる訳ねえじゃん」
立ち止まり、空を仰ぐ。良く晴れて、実に鬱陶しい太陽だと男は内心で舌打ちした。そして、視線を下に向ける。
そこには、マンホールがあった。この蓋を開ければ、男にとっては何も知らない世界が広がっているのだろう。見た事のないモノは、確かにあるのかもしれない。だが、信じられない。
「いたら、だよ。いたらすっげえ面白いと思わねえ?」
「そりゃ、思うけどよ」
確かめる術はない。まさか、マンホールの蓋を無理矢理こじ開ける訳にもいかないだろうし、そも、下水道なんて場所に行きたいとも男は思わない。
「お前さ、最近金やばいって言ってたよな?」
「……ああ」
嫌な事を思い出し、男の眉間に皺が寄る。彼は先日、買ったばかりのオートバイで接触事故を起こしてしまった。男の新車は中破。だが、修理には出せない。事故相手の車を破損させ、そちらの修理費を工面するのに手一杯なのである。出したくても出せないのが本音であり、現状でもあった。
「ま、裁判沙汰になんねーだけマシだろ」
銀髪の男が気楽そうに言う。実際、悩んでいるのは彼ではない。
「ああ」
苛立ちを隠し、男は頷いた。
男と、銀髪の男は中学からの知り合いだ。しかし、友達と呼べるような間柄ではない。本人たちもそう認識している。ただ、どうしてつるんでいるのか、その理由だけは説明出来る。
要は、他に知り合いがいないのだ。連れ立って歩く者を知らないのだ。
男も、同じく銀髪も。義務教育ですらまともに受けるのを拒んだ彼らに、熱情を傾ける目標、夢すらもない彼らに近付く者は殆どおらず、また、選択肢すらも用意されていなかった。完全には閉ざされておらず、しかし、先があまりにも見えなさ過ぎる道。来年で成人を迎える彼らは、まだ親の庇護下にある。まだ、守られている。だからアルバイトで得た給与も、貯金には回さない。その日を楽しむ為だけに、明日を考えず、刹那的な思考に身を任せる日々。
「金、か」
明日がどうなるかは分からない。だが、見えない何かにじわじわと己の未来を食い潰されていくような、それぐらいのビジョンは男にだってある。
「白いワニだぜ? そーゆーのって、写真でもマスコミとかどっかに持っていけば金になんじゃねーのか?」
「どうなんだろうな」
白い、ワニ。まだ、その存在を信じる事は出来ない。しかし、男は先程よりも興味が湧いていた。いや、ワニの存在と言うよりも、その先に。その先で得られるモノに。
「……でも、アレか。確かめてはみたいよな」
男の言葉に、銀髪が嫌らしく反応する。
「イイねえ、んじゃ、行ってみようぜ」
「行くって、下水道にか?」
銀髪は何が楽しいのか、盛大な笑い声を上げて、口の端を意味ありげにつり上げた。
「どうやってって顔してんなあ。いや、行けるんだよね、下に」
「まさか、無理矢理こじ開けるとか言わないよな」
「実はよ、開いてるらしいんだな、今」
「開いてるって……?」
男は煙草を捨て、何食わぬ顔で歩き出した。その後ろを、にやにやとした様子で銀髪が追い掛ける。
「マンホールだよ。そっから行けるんだぜ」
「嘘くせえな」
「行ってみりゃ分かるだろうが」
銀髪に同意するのは癪だが、その通りだと男は思った。
太陽は徐々に沈み始める。男が銀髪の後ろを付き従い、住宅街を抜けて、空き地が目立つ場所までやってきたところで、
「ここだ」
立ち止まった。
「おいおいおい。お前、誰からこんなの聞いたんだよ?」
「いや、先客がいるんだってよ」
「ああ?」
銀髪はポケットに手を突っ込み、少しだけ困ったような表情を作る。男は察し、渋々ながら煙草を一本手渡した。
「火も貸してくれよ」
「……ちっ」
安物のライターで火を点け、銀髪は美味そうに紫煙を吸い、吐く。
「バイト先の先輩が言ってたんだけどよ、結構、知ってる奴は知ってるらしいんだわ、ここ」
「ワニがいるかどうか、確かめにか?」
「んな訳ねえじゃん。アレじゃね、女連れ込むとか、そんな感じじゃねえの?」
「ここに、かよ?」
「逆に燃えるんじゃね? そういう奴もやっぱいるんじゃねえのか?」
そんな気持ちも萎えるだろうに。男は想像し、頭を振る。
「ま、つまり、俺らが白いワニを見つける一番乗りって訳だよ」
はたして、マンホールの蓋は開いていた。いや、蓋などなかった。ぽっかりと、地面に穴を開けている。水の流れる音が微かに聞こえ、男の胸は期待の音に高鳴った。今ばかりは、下水道を管理する者の怠慢さを手放しで褒め称えてやりたい衝動に駆られる。
「行こうぜ」
銀髪は手招きするが、男は迷った。誰も見ていない。だが、本当に良いのだろうかと自問する。何も問題はないのかと苦悩する。
「ああ? びびってんのか? 気にすんなよ、何か言われてもさ、財布を落としたとか適当言えば良いんだよ」
逃げ道を用意され、男の気持ちは軽くなった。軽く、なってしまった。
今にして思えば、どうして蓋が開いているのか。そしてそのまま放置されているのか。――中に入った者がどうなったのか、疑問に思うべきだったのだろう。
「うぎいいいいいいいいいいいいいっ!」
銀髪の叫びが下水道内に響き渡っていた。当然だろう、右腕を失い、左足を失ったのだから。並の人間ならば、当然だ。
男も背中の部分を食い破られていたが、まだ意識はある。ぼんやりとしたまま、壁にもたれかかり、入ってきた場所を見上げた。僅かに光が差し込む、生還への道を。
だが、それも叶うまい。アレが、こちらへ向かってくる。銀髪の声がいつの間にか途絶えている事から、男は彼の死を悟った。そして、己の死をも悟る。
もはや姿を隠そうとは思っていないのか、わざとらしいほどに水音を上げながら、男に大口を開けた死が迫る。
「ひ、ひひっ……」
覚悟など、出来ている筈がない。出来る筈がない。ちょっとした好奇心だった。こんな目に遭うなんて、思っていなかった。
「いひひひひっ」
不揃いの鋭い歯が見え、塗り固められた赤と黒が男を覆い隠す。
「ひひ……ひいっ、ぎっ、あ、ああああっ!」
皮が裂かれ、肉が食まれ、骨が砕けた。自らの肉体が損傷、欠損していく様を見ながら、その音を聞きながら、男の心は緩やかに崩壊していく。
男は生きながらにして、足が噛み砕かれ呑み込まれていく様を見ていた。痛覚は麻痺していない。感覚はまだ残っている。だが、彼は叫び声を上げなかった。体が食われていく度、短く呻くだけ。もう、捨てたのである。生にしがみ付く事も、希望を持つのも、あるいは死ぬ事、絶望する事に対してさえどうでも良くなっていた。生きていたところで、これ以上自分が成せる事など高が知れている。満足に何かを成し遂げた事もない。この世に残せるものなど、ない。それならばと、諦めた。
「あ……」
下肢の感覚が消え失せる。意識を手放す寸前、男の視界をソレが覆った。
目前に迫った恐怖を認めてしまった瞬間、
「ひっ、ひああああ! いやだまだ死にたくねえぇ! どうして、どう、してっ、どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてだああっどうしてなんだよ! いやだっ、いやだあああ――――……」
彼の慟哭は、呑み込まれた。彼の全ては飲み込まれ、もうこの世には――。