件と聡明
空間が歪んでいるように認識する。ぐにゃりと捻じ曲がり、見る者を圧迫する。圧倒的な存在感が俺を見て笑う。俺を見て声を上げる。俺を、俺を、俺を。
「どうしたんだい聡明君。感動の再会じゃないか。君はずっと都市伝説を探していたんだろう? 諦めた振りをして、頑張る真似をして、それでも尚しがみ付こうとしていたんじゃないか?」
腰が抜けそうになる。漏れた声はやけに響いて聞こえた。
「結局さ、抜け出せないんだよ。君はこの町の悪意に囚われたままなのさ。僕は他の町や国に顔を出したけどね、都市伝説なんてモノは中々根付いちゃくれない。ここだけだよ、僕たちの存在を歓迎してくれるのは。それというのもね、刺激が足りないからなんだ。人間は刺激にはすぐ慣れる。新しいものを求め続けているんだと思う。僕とここは相性が良いんだよ」
駄目だ。逃げられない。こいつがどうして、なんて聞くのに意味はない。こいつに意味なんかないんだ。目的だってない。忘れるものか。件とは、ただそういうモノなんだ。
薄気味の悪い笑みを浮かべた件は、カシマさんに視線を遣る。
「僕もね、君に惹かれている理由が良く分かっていないんだ。ただ、あの子は君を気にしてる。そのせいかもしれないし、繰り返しに飽きたのかもしれない。何か、新しい事が起こるんじゃないかって、その辺は僕たちも人間と変わらないんだね」
カシマさんが動く。俺を見て、捉えて、こちらに向かってくる。
「一つ試させてくれないかい? カシマさんは覚えてるだろ? 彼女と立ち向かうにはどうしたら良いかって、忘れてる筈はないよね?」
「うっ、うわああああ!」
覚えてる筈ねえだろ! とにかくやばい、ここにいちゃ駄目なんだ。一刻も早く逃げ出すべきだったんだ。これは夢でも幻でもない。確かな現実だ。何かやらなきゃ俺はここで殺されちまう。
「おや? 逃げるのかい? どこに? この町には逃げる場所なんてないと思うけどな」
「……な、何言って……」
カシマさんが立ち止まったので、俺も背を向けるのを止める。それよりこいつ、今、何を言った?
「言ったじゃないか。僕だって刺激が欲しいと思う時もあるって。それが今さ。君の住む町には都市伝説が溢れているんだよ。ああ、勘違いして欲しくないのは、それを望んだのが君たちだって事だね。僕は人間の悪意に手を貸したに過ぎない。都市伝説を誕生させたのは、君たちなんだ」
こいつ、何だ? 都市伝説を町に誕生させた?
「君の知っている都市伝説も、まだ見た事のない都市伝説も、この町での活動を開始する筈さ。殺すよ、それは。人を食うし、人を襲うし、人を殺すよ」
「ふ、ふざけんな……!」
「ふざけてないって。これが僕の意味だからね。件は予言をする。その結果、何がどうなろうとも」
なんで、どうしてっ、ここなんだ!? よりによって俺の住む町にそんな事をするんだ! 折角、あいつが守ってくれたのに! ここで頑張ろうって思ったのに!
「止めさせろ!」
「え、何を?」
気付いたら、俺の体は勝手に動き出していた。リノリウムの床を蹴り、件に狙いを定める。背負っていたリュックサックを外して、右手でぶら下げる。それを振り上げて、力いっぱい振り下ろす。
「『当たらないよ』」
「この……っ!」
リュックサックを振り回すも、件には当たらない。当たる気がしない。この野郎、予言を使いやがったんだ。
「怖いな、君。ほら、後ろに気を付けなよ」
凍えそうになるほどの殺意をぶつけられて、俺は咄嗟に尻餅を付いた。頭のすぐ上を何かが通り抜けて行く。それは、カシマさんの腕だった。
「やめろっ、やめろって!」
「だから、何を?」
ふざけんなふざけんなふざけんなよ、全部こいつが悪いんじゃねえか。今までに痛い目見た奴らも、殺された奴らも、全部が全部このブタ野郎のせいなんじゃねえか! こいつが余計な事をしなけりゃ……!
「どうして人を殺すんだ!?」
「君らが望んだからだろ。僕はそれを予言で助けた。僕が、そういうものだからだ。理由が他に必要かい? そもそも、人が死ぬのに理由なんかいらないんじゃないのかい」
「てめ――――がっ」
後ろから首を捕まれる。カシマさんの指が俺の肉に食い込み始めた。まずっ、息、出来なく……。
「僕を責めるのは筋違いでお門違いだと思うよ。……そろそろ聞こえてくるんじゃないかな。口裂け女は人を食うし、メリーさんは人を襲うし、ひきこさんだって人を殺すよ」
違うっ、違う! あいつらはそんな事しない! するもんか!
「この町の人間の悪意が、この町自らを喰らうんだ。自業自得って言うのかな? まあ、そういう事もあるよ。ただ、さ、伸田聡明君。君はあの子に気に入られてるし、そのせいで僕も多少は気に入っているところもある。だから、ここで一緒に見ようよ。悪意が蔓延していくのを。都市伝説が跳梁し、跋扈するのを」
嫌だ嫌だ嫌だ。ここには俺だけじゃない。たくさんの人が住んでいる。生きているんだ。父さんも母さんも妹も、友達だって、皆がいるんだ。
「……『カシマさん、離せ』」
意識が落ちかけた瞬間、カシマさんの腕が俺を解放する。俺は崩れてその場にへたり込み、咳き込み、酸素を取り込もうとしてまた咳き込む。
「どうだい? 君だけは助けてあげても良いよ。あの子もそれを望んでいるだろうからね。いや、実際、君はすごいんだと思う。僕たちに予言以外の事をさせるなんて、今までにそんな人間はいなかった。時間って経つもので、僕たちだって変わるものなんだね」
件はカシマさんを見つめる。まるで、実の子に向けるような優しい顔で。
「都市伝説は変化し、進化する。君たち人間みたいに、さ。僕もあの子も同じだ。変化しないものなんか、この世にはないのかもしれないね」
声が出ない。言い返してやりたい。言い負かしてやりたい。
件は、そういうモノなんだ。彼自身に悪意もクソもない。彼自体に目的はない。頭のどこかでは分かってるんだ。件は悪くないんだって。でも、それでも、俺はこいつを許したくない。こんな奴に許されたくない。胡散臭くてうそ臭くて、何よりも、ムカつくんだ。
「ま、あの子が実際に何を考えているかは難しいけど。ある程度の感覚を共有していたって、届かないものもあるし、伝わらないものもある。一心同体みたいな僕たちだけど、本当のところでは分からないよね」
お前が、彼女の何を知っていると言うんだ。したり顔でだらだらと喋りやがって。我慢ならねえ。分かったような口振りで俺を、俺たちを語るんじゃねえよ。
「さ、大人しくしてなよ」
差し出された手を払う。立ち上がって、定まらない視線で件を睨みつけてやる。
「強情だね。人間って……いや、君は合理的じゃないよね。ここで僕に逆らったって良い事なんかないのに」
「……ぶん殴ってやる」
「無理だよ。でも、暴れられても困るな。ああ、そうだ。死ななければ良いのかな。よし、そうしよう。その手と足は怖いからちぎってしまおうか」
片腕の女が俺を押さえつける。力を振り絞って、手足を振るって抵抗を試みるけど、カシマさんの力は強いなんてもんじゃなかった。
悪意の塊が、俺の背に乗る。うつ伏せに倒されて、胸を強かに打ちつける。
「『君では僕を殴れない』よ」
「がっ、ああああああああああ!」
もはや、叫ぶ事しか出来ないのか。このまま、本当に手足ちぎられて、俺は、どうなるんだ? 折角高校に入れたのに、部屋から出られたのに、家族とだって仲直り出来そうだってのに、ここまでなのかよ。やっぱり、俺は一人じゃ何も出来ないのかよ。こんなのってないだろ。理由もない。意味もない。なのに、死ぬのか? 殺されるのか? 俺だけじゃない。この町の人たちも殺されちまうってのかよ。
「…………く」
「ん?」
「くだん。くだんっ……」
ああ、情けない。何なんだ俺は。どうしたって言うんだ。どうして、こんなにも泣けてくるんだ。
「……『カシマさん、聡明君の手足を――――』
『やらせないわ』
あ。
嘘、だろ。
そんな、こんな事って。
携帯電話から、声が聞こえてくる。飴玉をどろどろになるまで煮詰めたように甘く、舌足らずで、鈴を鳴らしたみてえに高い声。もう、聞けないと思っていた。
『そいつに指一本でも触れてみなさい。あなた、二目と見られない顔になるわよ』
「へえ、驚いた。僕の予言にもこういう事が起きるんだね。それとも……」
「う、おおおっ!」
ここで死んでたまるか! 膝を立てて、空間を作る。動きの止まったカシマさんの顎を狙って、肘を突き出す。鈍い感触が伝わり、俺はその場から抜け出した。構えて、携帯電話をポケットから取り出す。
「自分で言っていたのに、忘れていたよ。都市伝説は変化するんだったね」
件とカシマさんを見遣りながら、俺は電話に出る。
もしもしと言えば、返ってくる答えは一つきりだった。
『はあい、あたしメリーさん。今、あなたの近くにいるの』
ああ、くそっ、くそ。まさか、こいつに助けられるなんて。
「なあ」
『何よ?』
「可愛いな、お前の声」
『今更気付いたの? ……あたしたち、そっちに向かってるわ。もう少しだけ生きてなさい。じゃ』
電話をポケットに戻す。何だか、何でも出来そうな気がしていた。
「メリーさんだね? それは困るな。僕だって何度も予言の邪魔はされたくない」
件は口の端をつり上げる。彼は改札の向こうを見つめて、口を開いた。
「『カシマさんは三人いる』」
「なっ……!?」
予言だ。そして、すぐに現実のものとなる。改札口から、それがやってくる。
古めかしい軍服を着た男と、小さな女の子だ。……確か、そんな話もあったな。こいつらも、カシマさんなのか。クソが、ぽんぽこぽんぽこ新しい都市伝説なんか持ち出してきやがって。
「諦めなよ。君は人間だろ? 人間が、人の悪意に打ち克てる筈がないんだ」
「ここまできて諦められるかっ」
「そう? じゃ、痛いのは我慢してよ」
来る! 三人のカシマさんが床を蹴飛ばした。舐めやがって。人間様を舐めんじゃねえぞボケが!
「らああああっ!」 リュックサックを振り上げた。一番最初に飛び掛ってきた少女の顔面に命中する。彼女は床を転がり、軍服のカシマさんが両腕で俺を掴もうとしてきた。
怖い。めちゃくちゃ怖いが、身を低くして脇をすり抜ける。そのまま、駅を抜け出そうとして走り続ける。
「しつこいね。『カシマさんは君に追いつくよ』」
背後からの足音が変化した。暴力的な音を聞き、俺は立ち止まって、床を転がる。その上を、カシマさんたちが飛び越していった。戻れ、戻れ戻れ戻れ! 動いてなきゃ死んじまう! 早く助けて! 誰か助けて!
「……追いつきました」
「みたいだねっ」
俺の前方、件の顔が歪む。ああ、こいつもこんな表情が出来たのか。ざまあみろ、だ。
振り向いて、手を上げる。二人は俺に答えてくれた。そうだ。メリーさんは言っていた。『あたしたち』って。
「うわっ」
次の瞬間、衝撃音が二つ。軍服のカシマさんと、少女の姿をしたカシマさんが壁にめり込んでいた。
軍服を壁に叩きつけたのは、快楽主義の口裂け女で、少女を壁に擦りつけているのは、和装のひきこもり女である。……二人は俺の友達だ。来てくれた。助けにきてくれたんだ。安心して、俺の体から一瞬だけ力が抜ける。
「へえ、こういうのを面白いって言うのかな」
件は俺から距離を取り、最後に残ったカシマさんを傍らに立たせた。その代わりに、俺の隣には大口と森が立つ。って、痛い!?
「ひっさしぶりじゃんソーメン君! 元気してた!? って、うわあソーメン君が学生さんの物真似をしてる!? 夏が終わりそうなのに青春真っ只中のまま秋に突入しちゃってる!」
「抱きつかないでくださいっ」
「あ、じゃあ私も」
「しなくて良い!」
何だお前ら! 変わってねえな!
「……伸田さん、学校に行くようになったんですね。私、置いていかれた感で胸がいっぱいです」
「何言ってんだ。置いてったのはそっちだろ」
勝手にいなくなりやがって。ちょっと心配したし、少し寂しかったんだぞ。
「恨めしいし妬ましいですが、そのお話は後でしましょうか。状況は上手く飲み込めていませんが、私たちが呼ばれた理由は何となく分かりました。やっぱり、こういう事だったんですね」
「うんうんっ、いきなしメリーちゃんから電話が来た時はびっくりしたけど。でも、ソーメン君を守って悪い都市伝説をやっつけちゃうってのは分かってるよ」
ああ、何だか、二年も経ったなんて信じられないな。
「……ずばり、私はあの偽者さんが気に入りません。まずはカシマさんらしきモノを片付けましょうか」
「ふふん、お姉さんの出番だね。ソーメン君はそこで見ているが良いさ!」
「あ、あの、大口さん、森、俺……」
「心配不要、ご意見無用だぜソーメン君。私たちは四天王の中でも一番の使い手だからね、クライマックスはもう目の前だ! ハッピーエンドとかグランドフィナーレとかゴールはここだ! 行くよ森ちゃん! 二人はプリ……」
「それは言っちゃ駄目ですっ」
大口が走り出す。その後ろを森が追いかける。夢でも見ているような気分だった。あの頃に戻ったような、そんな。このまま終わって欲しくない。だけど、大口の言う通り、終わるんだろう。