件
セミが鳴かなくなって、暑さがなりを潜めた。本格的な夏が終わった。実感が湧かない。曖昧で、不確かな夏だった。その感覚だけは確かである。おかしな話だ。
「伸田先輩、宿題やってきたんすかー?」
「……先輩はやめてよ」
「おいお前らやめろよ、伸田大先生怒らせたらゲーム借りれんくなるぞ」
「あー、そりゃ困るよなー。でもさー、ノブくんったらイジリ甲斐があるから」
「ぎゃっはっは! 言えてる!」
「言うなよ!」
人間、やれば出来るものらしい。
このままじゃいけない。そう思った俺は父さんに頭を下げて頼み込み、死ぬほど勉強して、電車で数駅先の高校に編入した。マジで死ぬかと思った。けど、父さんは笑ってくれていた。笑って、泣いていた。俺も泣いた。何か、訳分からんくらい泣いた。入学が認められた時も、二人して泣いた。
『リビングで男二人でキモい。バカみたい』
妹は勉強している俺の邪魔をしたり、たまに、下手くそなサンドイッチを持ってきてくれた。勿論、ありがたく頂戴した。母さんは、相変わらず、俺には何も言ってくれない。だけど、許してもらえるまで謝り続けるつもりだ。今までずっと迷惑を掛けてきたんだから、これから先、一生頭を下げたって構わない。それくらいの事をやっちまったんだ、俺は。
高校二年生。高校生二年目。それが、俺の今の肩書きである。ニート脱却である。引きこもり脱出である。とは言っても、何だかんだでやっぱり部屋が一番良い。安心するし、何より居心地が最高過ぎる。
可愛い彼女は出来ないけど、クラスに慣れて友達が出来た。部活に入って先輩も後輩も出来た。まだ、学校にビビる時だってあるし、朝起きて外に出たくないって泣きそうになる日もある。だけど、俺は頑張っていた。今までに出来なかった事に対して、必死に喰らいついていた。マジで、やれば出来るもんだなと、人間って素晴らしいなと実感している。
「あれ? 伸田帰らないの?」
「もしかして部活? うわー、ないわー、遊ぼうぜ。部活で汗まみれになるくらいならゲーセンかカラオケで欲にまみれようぜ先輩」
「明日な、明日。明日なら付き合うわ」
友人。友達。何か、未だに信じられない言葉で存在だけど、確かにそこにある現実だ。
「上から目線とか怖っ! 借りたゲーム売るぞコラァ」
「したらお前の妹をもらうから構わん」
「やっ、やめろ!」
ぎゃっはっは。学年こそ同じだが、年上をからかっちゃいかん。俺はお前らよりもえげつない連中に鍛えられてきたんだからな。あ、自慢にはならねえな、これ。
「委員の仕事あっからさ、悪いな」
「あー、真面目。部活とー、委員とー、勉強とー」
「ノブくんは、ほら、失った青春を取り戻そうとしてるから」
「あー、なるほど」
うるせえぞ!
「伸田さん」
「はい?」
眼鏡を掛けた、茶髪の女子が話し掛けてくる。
「伸田さんって真面目ですよね」
……クラスメートだ。入学してから隠し通そうとしてきたが、俺が年上だって事はバレてしまっていた。なので、仲の良い奴ら以外には基本的に敬語を使われてしまう。もう慣れたけど、距離取られてる感が見え見えで、ちょっとだけ気分が沈む。
「そうかな」
「そうです」
今は図書委員の仕事中である。カウンターで隣に座っているのは、同じクラスの同じ委員の子だ。つまり、ロマンスでも何でもない。
「好きな人とかいるんですか?」
「……えっ」
まさか、これって……! おいおいマジかよ。やったじゃん聡明。すげえ、頑張って委員にまで名乗りを上げた甲斐があったなあ! やっぱり時間に自由の利く部活動選んでて正解だったぜ! 空手部なんざ願い下げだとか思ってたけど、顧問はいつもいないし先輩は適当だし後輩も適当だしでもマネージャーなんてステキ要素があるし最高じゃないか!
「付き合ってくれるの!?」
「え」一歩引かれた。椅子ごと距離を取られた。
「面白いくらいポジティブなところありますよね」
「いや、期待するよ普通!」
違うのかよ! バカ! 弄びやがって畜生!
「や、何となく聞いただけなんで」
「ソウデスカ」
「だって色々やってるじゃないですか、伸田さん。センセーの受けも良いし」
「そうなの?」
「そうです」
女の子は頷き、眼鏡の位置を指で押し上げる。
「好きな子ならいるよ」
「あれ、そうなんですか」
「遠くに行っちゃったけど」
「ありゃ、そうなんですか」
うわ、残念そう。こういう話、好きなんだなあ、女子って。一つ覚えた。
「遠距離って大変ですよね。それはそうと」
「はい」
「私、彼氏が待ってるんで今日は帰っても良いですか?」
「彼氏いんの!?」
「はい」
涼しい顔で頷きやがって畜生が!
「最近の子って怖いわー」
「そうですか?」
「そうです。……良いよ、行っても。どうせ殆ど誰も来ないんだし、俺一人でも何とかなるし」
「……ありがと。今度、ジュースでも買ってあげましょう」
眼鏡ちゃん(彼氏アリ)は手提げ鞄を持ち、立ち上がった。
「それじゃ、お先に。お疲れさまです」
「うん、お疲れ。へっへっへ、楽しんでおいで」
「うるさいですね」
一人きりの図書室ってのは、めちゃくちゃ落ち着く。俺は最近、この部屋の書物を制覇してやろうと企んでいた。委員の権力を使って、好きな本を入れたり出来る。ラノベと漫画が増えた、第二のパラダイス、アヴァロンである。はっはっは。……失ったものを取り戻そうとしている、か。あながち、それは間違いじゃない。部活に入ったり、委員になったり、無駄に学校に残っていたり。何かを埋めようとしているのは自分にだって分かっていた。
「……楽しいなー、学校は」
本を閉じる。時計で時間を確認して、俺は立ち上がった。もう、外は暗くなり始めている。鍵を返して、そっから、適当に寄り道して帰ろうかな。
人ごみには慣れた。俺を知ってる奴がここに混じっているんじゃないかって、そう思うと汗が止まらなくなる時もあったけど、もう平気だ。こうしてホームに平然と立っている時、人間って変われるものなんだと改めて実感する。
……俺は変わったんだと思うし、変わってしまったんだとも思う。
あれから、二年が経った。くだんがいなくなった日から、二年も経った。あの日以来、俺は都市伝説に会わなくなった。大口とも、メリーさんとも、森とも、である。嘘みたいに、皆が消えた。ケータイには、あいつらの連絡先が残っている。だけど、メールをしても電話を掛けても、返事もないし誰も出ない。幾ら町を出歩いたって、後姿すら見る事は叶わなかった。彼女らの噂話を聞く事もなくなってしまった。
この町から、都市伝説が消えた。
だから、あいつらもいなくなってしまったんだろうか? それとも、俺が変わったから、引きこもりじゃなくなったからか? ……でも、あの日の俺に戻ろうとは思わない。俺は俺だ。寂しいし、悲しいけど、そういうものなんだと思う。くだんがこの町から去ったように、あいつらも、違う場所でいつものように遊んでいるんだろう。
だったら、良い。
いつかは会える。次に会う時に笑われないように、俺は俺で頑張っておこう。そんでもって見返してやろう。大口には話すネタが増えたし、メリーさんにはヒッキーだの何だのでバカにされなくなるし、森には新しいゲームやアニメのブルーレイなんかを貸してやろう。そんで、くだんには、どうしようかな。彼女には何を伝えよう。何か、プレゼントでもあれば喜んでくれるだろうか。ああ、駄目だな。会いたいな。
電車を降りた時、見知った格好の奴を見かけた。心臓が高鳴る。
小さな背丈。厚手のニット帽。黒いパーカーに、ホットパンツ。……冗談だろ? この時期に、あんな格好をした奴を俺は他に知らない。
その後姿を追いかけ、人波を掻き分け、どうにかこうにか改札の手前で声を掛ける。
「はい?」
振り向いたのは、全然知らない女の子だった。と言うか小学生くらいの子だった。あれれ?
「あ、ごめん、ひ、人違い」
少女は無言で歩き去っていった。まあ、アレだ。現実なんてこんなものである。少しばかりの期待に振り回されて、そんでもってがっかりするんだ。
俺は恥ずかしくなってトイレに逃げ込む。鏡の前で頬が赤くなっているのに気付き、アホ面が死ねボケと自分自身に毒づき、溜め息を吐いた。あー、もう。あああああ、もう。畜生! ああ外って楽しいな! 学校って楽しいなあ!
「……クソ」
トイレを出て、ポケットから定期入れを取り出す。改札を通って、誰もいない駅の構内を見回した。
もっと頑張れ、俺。
大口と会う時まで、メリーさんと会う時まで、森と会う時まで、いつかまた、くだんと会える時まで。都市伝説のいたこの町で、俺は一人で都市伝説を待ち続けよう。……一つだけ、良かったと思える事がある。あいつらに『さよなら』と言わなくても済んだ事だ。信じていれば『また会える』。だから、それまでは――――。
「ミツケタ」
「…………え?」
「やあ、久しぶりだね。見違えたよ。まるで別人じゃないか」
どう、して?
「あれ? 君は伸田聡明君だよね? 本当に別人って訳じゃないよね」
「な、なんで……」
その、顔は。
その、気味の悪い笑顔は。
「ほら、僕だよ。件だよ。忘れちゃったのかい」
忘れるものか。
お前は、お前は……!
「探したよ。ほら、紹介するよ。これは新しい都市伝説」
何も変わらない。胡散臭くて、嘘臭い。件の隣には、背の高い女が立っていた。彼女には、片腕がなかった。それが、都市伝説だと? まさか、そんな、どうして、今になって。
「カシマさんって言うんだ。知ってるよね?」
頭が回らなさ過ぎて痛い。どうして、ここには誰もいないんだ。どうして俺以外に人間がいない。駅員は? どこにいる? どこに行った?
「忘れた訳じゃないよね? 都市伝説は消えないんだ。そして、僕も消えない。人の悪意が僕らを呼んだ。だから、また会ったね、聡明君」
件の、頬の肉が揺れる。カシマさんが俺を見て、笑い声を上げた。
忘れていた。都市伝説ってのは曖昧で、不確かで、突然で、何よりも、残酷だったのだ。