カシマさん
人を殴った事がある。
誰にだって経験があると思う。その行為の意味、理由を問うのは難しいが、生きている限り、他人に暴力を振るってしまうのも無理からぬ事だと、俺はそう思っている。
高校に入学した、その年の春、俺はクラスメートを殴った。何度も、何度も。馬乗りになって、鼻を殴った。鼻血が出ても止めなかった。泣いて謝ってきても許さなかった。そいつの前歯が折れていても構わなかった。自分を守ろうとしたんじゃない。誰かの為に拳を振り上げたんじゃない。ただ、力を見せたかった。調子に乗っていた金髪の男子生徒に絡まれて、舐められたくないから、見せつけてやろうと思った。効果は覿面だった。俺には力がある。そう、誤解してしまうくらいには。
学校から家に連絡がいくのは早かった。俺は母さんと一緒に職員室へ出向き、殴った相手に頭を下げさせられた。悔しかった。何より、自分の親がぺこぺこしているのを見たくなかった。
その日の夜、他人に迷惑を掛けた事について咎められた俺は、父さんを殴った。生まれて初めて、親に手を上げた。理由を聞かず、一方的にまくし立てられたのに腹を立てたのかもしれない。どうして、俺を分かってくれないんだろう。そうも思った。父さんは殴り返さなかった。殴り返せなかったのだ。ぐったりとして、リビングの冷たいフローリング。そこに倒れている父さんを見て、俺は何を思っていたのだろう。
母さんに強く罵られ、部屋にこもった時を覚えている。忘れられる筈がない。あの時、唯一幸運だと思えたのは、彼女に力をぶつけなかった事と、妹がその場にいなかった事だろう。
次の日から、母さんは俺をいないものとして扱い始めた。父さんは何も変わらないように見えたが、明らかに俺に対して気を遣っていた。妹は口を利いてくれなくなった。いつの間にか、部屋にいるのが当たり前で、そこから出ないのが当然で、ルールだった。伸田の家は、俺がいなくなって初めて、家の体を成す。俺が消えてようやく完成する。俺にとっては、それも当然だと思えた。
思うのは、どうしてあんな事をしてしまったのだろう、ではない。どうして、父さんは殴り返してくれなかったのだろう。どうして、母さんは分かってくれなかったのだろう。どうして、俺は。
どうして、こんなにも駄目なんだろう。
くだんがいなくなってから、一週間が経っていた。
あの日、俺に背を向けたくだん。彼女からは何の連絡もない。この部屋を訪れる事もない。くだんの顔も、声も、何も見られないままだった。
いつも通りの生活だった。
相変わらず、大口たちはこの部屋にやってくる。ただ、くだんの話は出ない。何となく気を遣われているような気がして、自分の空間だってのに居心地が悪かった。
『人間ではない』
帽子を取り、自らに生えた角を見せ、彼女はそう言った。驚きは、殆どなかった。そんな気はしていたのである。むしろ、自然だとも思えた。都市伝説を追い、正体不明の力で爆発させるような奴だったのである。人間じゃなくたって、別に気にしない。と言うか、今更なんだ。
『さよなら』
どんな気持ちだったのだろう。
どんな気持ちで、くだんはその言葉を口にしたのだろう。
俺は、くだらない理由で引きこもった。
くだんは、どうして姿を消したのだろう。
いつも通りの生活だった。
ただ、街には妙な静けさが漂っていたと思う。和やかだ。穏やかだ。その筈なのに、嵐を予感せざるを得ない。そんな落ち着かない気持ちにもさせられていた。
「ねえ」
俺は頭を振った。ケータイで時間を確認して、舌打ちする。メリーさんは嫌そうに顔をしかめた。
「良いの?」
「何が?」
「……別に」
何だよ、鬱陶しいな。
「はあ。最近、都市伝説も出ないわね」
「平和で、良いじゃんか」
この街からは都市伝説が消えた。訳ではない。事実、俺の目の前にそれはいる。ただ、新しいものは現れないのだろう。ここにくだんがいないのが、その証拠だ。
「ゲームでもしようかしら。あなた、相手になってよ」
「気分じゃない」
「あたしも。……何だか、締まらないわね」
だらだら、ゆるゆる。いつも通りじゃねえか。
「妃田でも呼ぼうかしら」
メリーさんはポケットに両手を突っ込み、俺を睨む。彼女は携帯電話を失ったままなのだ。つまり、俺が代わりに連絡をしろという意味なのだろう。良いけどな、暇だし。
ケータイを取ろうとする俺に先んじて、それは震えた。少しだけ期待して、俺はケータイを開く。大口からだった。朝っぱらから彼女の声を聞くのは辛い。
「……もしもし?」
『あ、ソーメン君! 聞いて聞いて!』
酷く嬉しそうな大口の声。
『聞いてよちょっともう大変なんだよお姉さんは! 実はね、出たらしいんだよ!』
「出た? 何が?」
メリーさんが顔を近づけてくるので、俺は彼女の頭を押して退かした。
『都市伝説!』
「……マジで?」
『マジマジ大マジだよ! 本気と書いてマジと読み、宇宙と書いてソラと読み、好敵手と書いてライバルと読み……あれ? 何の話だっけ? ああ、そう、都市伝説だよ!』
恐ろしいとは思わなかった。むしろ、俺は喜んでいたのだろう。もしかしたら、また、彼女と出会えるのかもしれない。そんな事を考えていた。
午前九時前。いつものメンバーが俺の部屋に集まってきていた。……いや、一人、足りないか。
「……本当に、また出たんですか?」
訝しげに大口を見遣るのは森である。彼女は落ち着きのない様子で着物の帯を弄っていた。
「ふふん、その事については私が説明しようじゃないか」と、大口が胸を張る。つーか、説明出来るのはこいつしかいない。
「私がいつも通りその辺をうろうろしていると、たくさんのパトカーが停まっているのを目撃しました。野次馬さんたちの話をふんふん聞いてると、何だか人が死んじゃってたみたい。あ、じゃなくて、殺されてたのかな」
語り口が、あまりにも軽い……。一応、人死にの話なのに。
「野次馬さんたちが言うには、カシマさんって人の仕業らしいんだよね」
「カシマ? 誰よそれ、ただの人じゃないの?」
「だとすれば、普通の殺人事件では?」
頷き掛けて、普通の殺人って何だよと疑問に思う。どうにも、その辺の神経はまだ麻痺しているらしかった。いかんいかん。
「じゃなくて、カシマさんっていうのは都市伝説らしいんだよね。私も知らなかったんだけど。文明の利器で調べたところ、鹿島大明神、カシマさま、カシマレイコ、仮死魔霊子とか、色々と呼び名があるものらしいんだ」
そんだけバラバラに呼ばれてるって事は、有名なものなのだろう。しかも、この街の人たちが知っているくらいだ。俺は聞いた事がないけど。
「ただの噂なんじゃないの?」
「だけどさー、都市伝説ってそういうものじゃないの? メリーちゃんも森ちゃんも、私も、そういうものじゃんか。だからさ、カシマさん見つけようよ!」
「何だか、すごく乗り気ですね」
「だって、くだんちゃんに会えるかもしれないよ?」
場の空気が凍るのを感じた。メリーさんと森は、明らかに俺を気にしている。つーか、気を遣ってる。何か、情けねえ。そんなに俺が凹んでるように見えてたのかよ。畜生が。
「ソーメン君もそう思うよね!?」
「そう、ですね」
「……あの、伸田、さん? あ、いえ、やっぱり、何でもないです」
しかし、まあ、大口の気持ちも分かる。直接『さよなら』と言われた俺とは違い、くだんは彼女たちに挨拶の一つもなしに消えてしまったのだ。そりゃ、思うところはあるだろう。それに、都市伝説か。まさかまた、こういう事が起ころうとは、思いもしなかった。
「探そうよー!」
大口はきっと、カシマさんを探したいんじゃない。くだんを探したいんだ。……けど、俺に気を遣ってるから、面倒くさい事をする。馬鹿だ。俺なんか無視しろっつーの。
「でも、あたしたちだけで大丈夫かしら」
「そうです、よね。こういう時はいつも、くだんさんが引っ張ってくれていましたから」
「だめだめ、私たちだけで頑張らなきゃ!」
何となく読めてきた。多分、カシマさんなんてものはいない。大口の作り話なんだ。彼女は、くだんを探す理由が欲しかったに違いない。
「私はもっかい外を見て回ってくるよ。色々と、話も聞けるかもしれないし」
「現場百遍ね。良いわ、あたしも付き合う。どうせ、そこの引きこもりに外回りは務まらないだろうし」
「あ、じゃあ、私は文明の利器に頼ります。伸田さん、パソコンお借りしますね。……だ、大丈夫です。履歴とか、勝手に見たりしませんから。新しいタブ開いときますね」
……でも、まあ、こいつらが楽しそうだから良いか。
「が、がんばって」
俺は頑張って二度寝しとくから。
俺がぐうすか惰眠を貪っている間、三人はそれなりの収穫を得たらしい。満足。充実。そういった表情を顔に浮かべている。羨ましかった。俺だって、そういうものが欲しかった。
「はいソーメン君、お昼ご飯。ついでに三時のおやつもあるよー。あっ、やばい、三時まで後三十分しかないよ! 早くご飯食べなきゃ! サンドイッチとおにぎり、どっちが良い? あ、こっちのハンバーガーは駄目だよ、私のだから」
げ、もうそんな時間なのかよ。道理で腹が減る訳だ。ありがたく、サンドイッチをいただく事にする。
「クソーメン、もうちょっとクーラー利かせなさいよ。こっちは暑い中、都市伝説の情報を集めてきてあげたんだからね。ほら、言われたら動く。すぐに動く」
「リモコンなら、そこに」
「あなたがやりなさいよ!」
それくらいで怒るなよ!
「私、おにぎりもらいます。高菜ってあります? あ、じゃあ、それと昆布を」
「あっ、新しいゲームがある! ねえソーメン君、これやって良い? 良いよね? やったー」
「……都市伝説は?」
メリーさんは紙パックのミルクティーに口を付け、鼻で笑う。
「お腹が空いていては戦は出来ないもの」
かっこつけてんじゃねえぞ。ストローを鼻に突っ込んでやる。
こいつら、やっぱりいつも通りだった。いつも通りになっていた。