赤マント・Ⅲ
「赤マントが出たんですってね」
「…………今、何時?」
「八時過ぎね」
付け加えるなら、朝の。
朝早くから、メリーさんがやってきた。携帯電話を持っていない、出来損ないの奴である。
「放ってはおけないわ。既に犠牲者も出ているって話だし。さあ、行くわよ」
嫌だ。眠い。俺は頭から布団を被る。もう何も見えない。聞こえない。
「殴るわよ」殴り返すぞ。
「もう、くだんはとっくに動いているっていうのに。ここで後れを取るわけにはいかないのよ」
「い、いって、らっしゃい」
勝手に一人で赤マントとやらを探してれば良いだろ。善良な一般市民を巻き込もうとするな。頼むんなら、もっと正義感の強そうな、主人公っぽい奴に頼め。
「そう言えば、くだんって何なのかしらね」
「何、って?」
「色々とあるのだけれど、どうして、あたしたちみたいな都市伝説を追い掛けてるんだろう、とかよ」
それは、俺だってずっと前から気になっていた。だけど、聞いても答えてくれないし、口を開いたかと思えば『くだんがくだんだから』とか電波がゆんゆんしていたし。だから、どうせ教えてくれないのだろうと諦めている。
「あたしはね、くだんは選ばれた存在なんじゃないかって思うの」ほう。
「神様? みたいな奴に『街の平和を守れ』みたいな事を言われたんじゃないかしら」
映画の見過ぎだ。何が神様だ。そんなもんいるか。いてたまるか。いたとして、そいつらは何も見てないし、何もしないぞ。だから、俺みたいな可哀想な人間が生まれちまうんだ。奴らは何も助けない。救わない。目の前に現れてみろ、ぶっ飛ばしてやる。
メリーさんが帰った後、次は森がやってきた。
「赤マントって都市伝説が出たらしいですね」
「う、うん」
寝られん。
「伸田さんは行かなくても良いんですか? 私は、メリーさんから連絡が来て、どうしようかなあって迷っているところなんです」
勝手に行けば良いじゃん。でも、俺はいかねえ。行きたくねえ。
「大口さんも捜索をしていると聞きました。……あの、伸田さん?」
「な、何」
「その、ええと、ずっと、ここにいるつもりなんですか」
それは。
「……ほっといて」
「……ごめんなさい」
何だよ。お前なら、分かってくれると思ったのに。分かってくれてるんじゃなかったのか。お前だって、俺と同じだったんじゃないか。
扉が叩かれる。無視した。が、声は嫌でも届いてくる。かしましい、耳障りなそれだった。
「ごはん、出来たんだけどー!?」
置いとけよ。俺が床を二回踏み鳴らしたら部屋の前まで持ってこい。三回なら漫画を買ってこい。いつもの奴だ!
「出てこいやヒキニートが! 静が作ってあげたんだから残さず食べるのがスジでしょ! つーか何、静が帰ってきてたのに挨拶の一つも出来ないなんて最低じゃん! ムカつくから一発殴らせろや、ああ!?」
……はあ。どうしてこう、悪くなっちゃったんだろうな。あちこち。昔はもっと真面目な子だったのに。この馬鹿女が『お兄ちゃんとけっこんするー』なんて言ってた日々が懐かしい。遠い。遠過ぎてもはや真実だったのかどうかすら怪しい。俺の妄想だったのかもしれない。と言うか、扉の向こうにいるのは実は妹じゃあないのかもしれない。全て夢。全部幻。オール俺の妄想。
「早くっ」ひっ。
しかし、扉を叩いている者がいるのは事実。そしてやっぱりそいつが俺の妹なのだ。まあ、最近はどういう風の吹き回しか知らんが、俺のメシまで作ってくれてるので許してやろう。毒とか入ってるんじゃ? なんて懸念はゴミ箱にぽいだ。考えたら負け。もう食べちまってるし。
「あ、開けるって」
「返事しろっつーの、ごはん、冷めちゃうじゃん」
鍵を一つ一つ外していく。無意味だなと、何となく思った。鍵を全て外した瞬間、妹が扉を開ける。……足音が聞こえた。階段を、一段一段上ってくる、鈍く、重い……。
「あ、母さん? 今日はちょっと早いんだね? 晩ご飯なら静が作ったから」
俺の全身から力が抜けていく。立ってられなくて、膝をついた。
どう、して?
どうして開けちまったんだ?
どうして出ちまったんだ?
どうして、どうして、どうして。
「あれ? ちょ、あんた、何して……」
顔を上げると、妹の顔が固まっているのが分かった。目を見開き、深刻そうな表情を張りつけている。俺は、そんなにやばい顔をしているのだろうか。
ああ。そうだろうな。しているんだろうな。
「も、戻る、から」
「あ、ご、ご飯、は」
「いら――――」
足音が止む。俺は、顔を上げてしまった。見て、しまった。
「あ」
その人は、確かに俺と目を合わせた。なのに、何も言わず、自分の部屋へと戻って……。
「ああああああああああああああっ!」
「ひうっ……」
妹の体を押し退けて、俺は階段を飛び降りていた。靴を履く時間すら惜しくて、適当なものを引っ掴み、玄関の扉に半ばぶつかるようにして、俺はここから逃げ出した。どこにだって、逃げ場はないと知っているのに。
そうだ。そうじゃねえか。
だから、俺は引きこもるのを選んだんだ。
気付けば、陽が落ち始めていた。暗がりの中、俺は目を細める。あの橙色の光は、俺の目を潰そうとしているんだ。潰して欲しい。出来れば、痛くしないで欲しい。
走り回って、逃げ回った。俺は結局、駅前の路地裏に身を潜めていた。近くを通り掛かる人影が見えては息を殺し、足音が聞こえては死にたくなる。死にたい。久しぶりに、そう思えた。忘れてたんだ。ずっと。俺は、むしろ死ななくちゃいけない人間なんだって。生きてちゃ駄目な奴だって、忘れようとしていたんだ。
体が震えている。さっきからずっとだ。だけど、もう逃げない。
「……こ、殺してくれ」
俺はもうここにいたくない。ここからいなくなりたい。だから、良いんだ。
擦れるような、耳障りな音が鳴る。
真っ赤な外套が翻る。
背の高い男は、表情を変えなかった。
お前が、赤マントなんだろ?
もう嫌だ。もう終わっちまえ。
「早く、やれよ」
あ、サーベルだ。マジかよ。そんなんで、人を殺してたのか。超痛そう。どうせやられるなら、もっと楽に。一思いに。
「ソーメイっ」
「……!?」
赤マントが首を巡らせる。俺は、その声だけでうんざりした。目を瞑り、流れに身を任せる。もう、何も考えたくなかった。
くだんは暫くの間、何も話さなかった。俺も口を開く気がなかったので、黙ったまま、その場に座り込むのを選んだ。
さっきの赤マントは、どこかへ行ってしまったらしい。くだんにビビったのか? ……なんだって良いか。どうでも良い。どうにでもなっちまえよ。
「ソーメイ、君は、どうしてあそこから出ない?」
俺は目だけをくだんに向けた。彼女は、少し怯んだようにも見える。
「あそこって?」
「君の部屋の事を、くだんは言っている」
出たじゃないか。だから、こんな事になってんだ。いや、違うか?
「くだんは聞かせて欲しい」
何を言ってんだ、こいつは。関係ないだろうが。助けてやったから、なんて調子に乗ってるんじゃないだろうな。ほっとけよ。もう無視してくれよ。俺みたいな奴と関わろうとすんなよ。
「何も、教えてくれないのに?」
「……ソーメイ?」
「くだんはさ、何も言ってくれないじゃないか。なのに、俺は話さなきゃならないのか。嫌な事を、思い出したくないような事をっ」
「ソーメイ、それは」
それは、何だよ! 言えよ! 巻き込んだのはそっちだろうが! もうどっか行けよ。頼むから、もう、俺と……。
「それはしようがないよ」
透き通るような声だった。
その声は俺の耳朶を打ち、心を揺さぶる。顔を上げると、そこには、くだんがいた。……いや、違う? 厚手のニット帽を被っていたのは、少年である。小太りの男だった。声こそアレだが、イケメンとは程遠い。何か、アンバランス。つーか勿体ねえ感じ。くだんとは、似ても似つかない。似ているといやあ、服装だけである。どうやったって見間違える筈がない。なのに、どうしてだ?
小太りの少年は足を一歩踏み出す。くだんは立ち上がり、警戒した様子で俺の前に立った。
「どうして、ここにいる」
「どうして? さあ、どうしてだろうね」
くだんの知り合い、か? それにしちゃあ、友好的って風には見えない。
「君こそ、どうしてここにいるんだい? ああ、やあ、初めまして。伸田聡明君、だよね?」
「そう、だけど」
どうして、俺の名前を知っている。こいつとは初対面の筈だ。っつーか、マジで知らねえ。誰? もしかして、くだんが教えたのか?
「君は彼女の話を聞きたがっているようだけど、それはしようがないよ。嫌な話だからね。思い出したくもないんだろう。ん?」
少年はくだんを見遣る。彼女は目を逸らさず、強く見据え返した。
「今なら、くだんは見逃す」
「僕をかい? へえ、僕を? 嘘だろ、どうしたんだい、君」
こいつら、いったい、何を話しているんだ。見逃すだのどうのって、どういう関係なんだ。
「もしかして、彼にバレるのが嫌なのかい? そりゃ遅いよ。と言うより……」
少年が何かを言い掛けた瞬間、くだんが地を蹴っている。彼女はまっすぐに拳を突き出し、彼の顔面を狙っていた。が、
「『当たらないんだよね』」
宣言どおり、くだんの拳は空を切る。少年は情けない動作で後ろに下がっていたが、その動きは俺には追えなかった。
「へえ、やっぱりそうなのか。こりゃ良い。久しぶりに面白いかもね。いったいどういう心境の変化なんだい?」
くだんは少年を追おうとするが、彼は楽しそうに後ろ――――俺の後ろを指差した。
「ほらっ、来たよ! 良いのかい!?」
振り向くと、逃げ出した筈の赤マントがすぐ傍に迫っていた。既にサーベルを抜いており、俺に、狙いを定めており。おり?
「うっ、うわっ、わあああっ」
「ほら早く! 君は都市伝説をどうにかしなくっちゃあね!」
「うるさいっ!」
くだんは立ち止まり、息を吸い込む。
「『吹き飛べ』」
……え?
何か、変だ。だけど、赤マントの男はサーベルを取り落とし、上体を反らし始める。みしりみしりと、軋む音が響いた。俺はその隙に、男から距離を取る。そこで、初めて気付いた。赤マントは上体を反らしているんじゃない。自らの意思で、そうしているんじゃない。無理矢理、折られようとしているんだ。見えない、何かで。それは、恐らく――――。
「『吹き、飛べ』」
そうだ。
都市伝説を追い、都市伝説を終わらせる存在がここにいる。
「『ふきとべ』」
くだんは三度宣言し、赤マントを指差した。それだけで、男の体躯は、呆気なく。
赤マントの破片から目を逸らし、俺は彼女を見た。
さっきの奴は誰だ? どういう関係なんだ? いったい、何をするつもりなんだ? どうして、赤マントは……?
「ソーメイ」
「な、何」
聞きたい事はたくさんあった。言いたい事も出来た。だけど、俺は何も聞けなかった。何も言えなかった。
「くだんは、人間ではない」
「いきなり、何を」
くだんが帽子に手を遣る。外す。露わになったのは、豊かな黒髪と、そこから覗く角だった。白くて、牛のような二本の角が、彼女の頭から伸びて、生えている。小さなそれだが、それは、くだんが人間ではないと断ずるに確かなものだと思えた。
「……何、言ってるのか」
「君には見えている筈。だから、もう、くだんとはさよなら」
「飾り、だろ……? いや、つーか、それ」
くだんは寂しそうに微笑んだ。思えば、それは彼女が初めて見せる顔だった。
彼女は背を向け、歩き出す。くだんが、俺から離れていく。
何も聞けなかった。何も言えなかった。そして、これから先、その機会はもう訪れない。そんな予感がしていた。