赤マント
父親は胃の中の物を戻した。先ほど、ファミリーレストランで食事をしたところだったのである。妻と娘。それから祖母。一家四人で、慎ましい幸せを噛み締めていたところであった。
「に、げ……」
「いやああああああああああああっ!」
母親は金きり声を上げる。父親、つまり、自分の伴侶の頭部が潰されてしまったのだ。
暗い夜道。通行人はいない。いたとして、それの前では何も変わりはしないだろう。
「……あ、か……」
祖母が腰を抜かして、へたり込む。彼女の前に男が立った。赤いマントを羽織った、背の高い男である。だが、照明のない空間と、混乱に陥っていた事もあり、母親と娘からは男の顔が良く見えなかった。
母は娘を庇うようにして、胸の中に抱いている。祖母は声すら出せないようだった。現実を受け入れていないようにも見える。あまりにも愚鈍だった。
赤マントの男は、腰から時代錯誤の得物を抜く。それは、サーベルと呼ばれるものだった。彼はそれを構え、年老いた女の胸に、深く、深く突き入れ、立てた。鮮血が飛び散り、男は僅かに口の端を歪める。
母は叫んだ。娘は喚いた。
そこに、少年が通り掛かる。彼はだるまのような体格で、恵比寿さまのような、人好きのしそうな笑みを浮かべていた。
「あっ、ああ……!」
母は、その少年に縋るような視線を送る。ポロシャツとジーンズというラフな格好をした彼が、仏のようにも思えたのだ。
少年は帽子に手を遣る。夏だと言うのに、彼は厚手のニット帽を被っていた。
「助けて! 助けてっ! 助けて!」
何故?
理解しがたいモノだと思い、これはそういうモノだと思い直す。少年は小首を傾げ、表情を消した。彼はつまらなさそうに、赤マントの男を見遣る。それから、助けを求める親子を。少年の瞳には、およそ感情と呼べるようなものはなかった。ただ、路傍の石ころが目に入ったかのような、それだけの事でしかないとでも言わんばかりである。
気付くべきだったのだ。
親子は、助けを求める相手を見誤っている。人が二人も死んでいる。なのに何故、少年は声の一つも出さず、怯えた素振りを見せないのか。逃げ出す事もしないで、ぼうっと突っ立っているのは何故なのか。……理由は明白である。彼は怯えていないのだ。逃げる必要性を感じておらず、更に言えば、そこで殺され掛けている親子を助ける理由も見当たらないのである。
母親の腕から娘が抜け出した。まだ、幼い子である。実の父親が潰され、祖母が血を流す場面を直視したにも関わらず、十歳にも満たない彼女は気丈だった。あるいは、既に狂っているのかもしれない。母の庇護を拒否し、見ず知らずの少年に助けを請うているのだ。泣き叫ぶだけで何も出来ない家族に、見切りをつけたのかもしれない。
「おねがいっ、おねがいします!」
少女は聡明で、強かで、
「それは、無理な相談だね」
愚かだった。
初めて発した少年の声は、透き通るようなそれである。大声を出した訳でもないのに、澱んだ路地裏に強く、響いていた。だからこそ、少女は目を丸くし、彼を見上げる。
母親が何事かを叫んだ。その声に、少女は反応出来なかった。赤いマントの男が、己の得物を振り下ろしている。
「ああ」少年は目を逸らさなかった。自分にすがり付いていた少女の頭蓋が割れ、その中身が噴出し、零れているのにも、何の興味も示していない。終わりを見届けている。一種、超然としていた。
「やっぱり」
この家族は幸福だったのだろう。こうして終焉を迎えたとして、その直前までは、腹も、心も、充たされていたに違いない。活力を得て、明日は何をしようなどと話していたのだろう。だが、これはそういうものなのだ。少年は赤いマントの男を見据える。これは、やはり、そういうものなのだと、改めて思う。地震や竜巻のような天災と似ている。しかし、違う。これは……彼は、人が生み出した災いなのだ。出遭えば逃れられない部分は一致していても、出自は異なる。似ているとは、やはり違うと言う事に他ならない。
少年が視線をずらすと、母親がぐったりとしているのが見えた。事切れてはいないのだろうが、動かず、悲鳴すら上げない。腹を痛めた子が眼前で逝くのを認め、諦めてしまったのだろう。と、少年は認識する。
赤いマントが翻った。少年は僅かに目を細める。これまでに吸った血が、男の存在を証明していた。鮮やかな赤色は、もともとのものではない。そのマントは鮮血によって染められている。色が変わり、定まるほどに。それだけ、男は人間を殺害してきたのだろう。
「君は、見ているのかな」
そしてこれからも、染まり続けるのだろう。くぐもった悲鳴を聞き届け、少年は路地裏を後にした。