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ひきこさん



 雨が降る。雨が降り続けている。

 それは既に結果だ。梅雨の時期と言う事もあり、分かりきった事に文句を言う人間は誰もいない。誰もが傘を差して、黙々と道を歩いていく。学校へ行く為に、会社へ向かう為に、あるいはどこかへ遊びに行く為に。

 ビニール傘を差す彼も、昨日と変わらない朝の時間を緩々と過ごしていた。先日十七回目の誕生日を迎えた、学生服を着ている少年である。何も変わらない。願っても、祈っても。が、今朝は昨日とは少しだけ違う。少しだけ、寝過ごしてしまったのだ。一時間目には問題なく間に合うが、朝礼には間に合わない。少年は、それぐらいなら別に良いかと開き直ってわざとらしくゆっくりと歩いている。通り過ぎる人たち、追い抜いていく人たちの足は早い。彼の目には時間に追われてせせこましく生きているように映っていた。くだらないと、内心で吐き捨てる。

 道すがらのコンビニで立ち読みしていると、既に九時を半分も回っていた。一時間目はとっくに始まっている。

「……まあ、良いか」

 呟き、少年はコンビニを出た。傘を差してゆっくりと歩いていく。

 確か、一時間目は古文だったか。サボれて正解かもな。そんな事を考えながら、コンビニで購入したホットスナックを齧りながら歩く。学校までは十五分掛かるか掛からないか。

 ゴミを溝に捨てた時、少年の感覚が異常を察知する。向こうから歩いてくる何者かが、いやに目に留まった。

 それは、女だ。

 それが傘を差さずに歩いているからではない。

 それが白い着物を着ているからではない。

 それが何かを引きずっているからではない。

 ただ、歩いているだけで異常なのだと思えた。

 何か悪い事が起きる。自分にとって耐え難い何かが。そう思っていても、少年の足は動かない。少しずつ近付いてくる女の顔に、彼はぐっと息を飲み込んだ。

 長い髪の毛に隠れているが、僅かに覗いた片方の目はつり上がり、血走っている。顔全体には新しいもの、古いもの問わず生傷が出来ており、痛々しく見えた。同時に、酷く醜く見える。否、気持ちが悪い。近付きたくない。来るな。寄るな。外へ出るな。

「…………は――――」

 喉から空気が漏れる。少年は瞬きを繰り返しながら、少しずつ、無駄だと分かっていても、女に気付かれないように後退りを試みる。

 痛いくらいに心臓は脈打っていた。血液が全身に駆け巡る感覚を覚えながらも、四肢は先から冷えていく。それはきっと傘を手放して受ける雨のせいではない。

 髪の先から滴る天水が少年の目に、鼻に、口に入り込む。女との距離は縮まっているのに、足はまともに動かなかった。意思と切り離されたかのように、びくともしない。自分の足の筈なのに、所有権が、操縦桿が知らない誰かに握られているみたいに。

「…………か?」

 女が口を開いた。何か言っている。何を言っているのだろうと彼女に視線を向ける。見てしまう。目が合ってしまう。瞬間、少年の足がもつれて、冷たい地面に尻餅をついた。制服も体も到るところがずぶ濡れで、それでも尚纏わりついた不快感は濡れたせいではない。

 どこかおぼろげで、手を伸ばして握り締めれば壊れてしまいそうな幻めいた世界に少年はいた。

 そうだ、自分は今、フィクションの渦中にある。虚構だ、夢だ、全部嘘で作られている。だから、こんなに恐ろしい。信じられない。まだ、夢の続きを見ているだけなんだ。お祝いにもらった金の使い道を考えて……新しい服を買おう。新しいゲームを買おう。今日は、学食で一番高いものを頼もう。そうだ。夢だ。嘘だ。

 ここから逃げて、現実に帰ろう。背中を向けて首根っこを掴まれる。強烈な力でもって、少年の顔面がアスファルトに叩きつけられた。前歯が何本か折れて、口内から血が溢れてくる。雨に混ざって汚泥と雑じってどろどろと流れていく。鼻も強く打っていた。涙と鼻水が彼の顔を汚して、雨がそれを拭っていく。逃れようとしても体は押さえつけられて動かない。

「や、め……」

「醜いか?」

 女の声は存外、綺麗だった。

 雨が地面を打ちつける音に紛れて、何かが落ちる音を聞いた。少年はもう一度顔面を打ち据えられて、解放される。そして、見せつけられる。女が引きずっていたものの正体を分からされた瞬間、現実味が湧いた。流れる血も、失った永久歯も、何もかも夢ではない。人形だと思っていたそれは、人間の死体だった。ぼろぼろに擦り切れていたが、死体の着ているのが自分と同じ学校の制服だと気付いて、少年は目を凝らす。

 損傷の度合いというのは、著しく酷かった。スカートを穿いていたので、辛うじてそれが女のものだと分かるぐらいに、である。両足の皮は所々が擦り剥けて中身が見えていた。腐りかけて凝固した血液がこの雨で濡れ、どす黒く肉を染めている。片腕は女に引きずられていた為か取れかかって、どうにか繋がっているという次第であった。特に酷かったのは顔である。何の恨みがあるのか知らないが、もはや一目見た限りでは判別が不可能なほどに痛めつけられていた。額にはぱっくりと大きな傷が開いており、眼球の片方がくり抜かれている。空っぽの眼窩はぐちゃぐちゃにかき回されたであろう痕跡があった。鼻は、もはやないと言っても良い。何度も、何度も、叩きつけられ、押し潰されたのだろう。歪な方向に曲がり、周囲の皮膚と同化しているように見えた。口角はつり上がっており、最期を理解した少女が何を思い、どんな顔で殺されたのかが少しだけ理解出来る。自分と近い年代の者が、こうまで変わり果てるのかと、少年は場違いな事を考えた。頭の中身が麻痺して、この状況から逃れるのをとっくに諦めているのかもしれない。

 何を思ったのか、白い着物の女は死体を放り投げた。柔らかい肉が地面に落ち、体のどこかが崩れる音が鼓膜にねっとりと纏わりつく。少年は髪の毛を引っ張られて、その力だけで無理矢理に起き上がらされる。僅かに残った生への望み、抵抗を試みて女を掴み返そうとするも、ぶちぶちと、何かがちぎれていく嫌な音を聞いた。

「は、ああああああぁぁぁああああっ!」

 少年はそれこそ、ちぎれんばかりに首を振る。腕をもがれた苦痛から逃れようとしているのだ。喉からは絶叫が迸る。彼の肘から先の部分が無造作に放り投げられた。天水に負けじと、少年の傷跡からは鮮血が噴き上がる。

「いってえええええええええ! いてええええ! いてえええええよ!」

 その声を煩く思ったのか、女は少年の髪の毛を引っ掴んだまま塀を目指して駆ける。充分に勢いのついた速度で、彼の顔面を塀に叩きつけた。少年は叫ぶのをやめ、嗚咽を漏らす。女は、マッチを擦るような気軽さで、彼の顔を塀で擦った。少年は火が点いたように泣き叫ぶ。

 少年の額は赤く擦り切れ、鼻が折れて上を向いていた。二つの鼻孔がひくひくと動いて滑稽に見える。口内には鼻血が垂れ込み、彼はがふがふと苦しそうに喘いだ。女は、今度は少年の後頭部付近の髪の毛を鷲掴み、地面に激突させる。アスファルトには真っ赤な染みが作られ、すぐに消えていく。既に、彼の意識は切れ掛かっていた。

 女は少年の右足を掴んで、抜く。彼女の持った部分、皮と肉だけがずるりと抜けて、出来の悪い義足のように見える骨だけが残った。露出した骨を、彼女は躊躇いを見せずに掴む。瞬間、少年は失神した。

 ずるずると、女は少年を引きずっていく。べっとりと、路面に血肉がこびりつく。

 ふと、女が足を止めて少年の顔を覗き込んだ。恐怖に歪み、苦痛に染まった彼の表情を認めると、彼女は声を上げて笑う。くつくつと、蛙のような声を漏らす。

 この先、女が少年をどこまで引きずるのか、いつまで引きずるのか、それは彼女以外には誰も分からない。

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