コインロッカーベイビー・後編
夢を見ていた。
こんな田舎からは出て、煌びやかで、華やかな街に行くのだと。そこで素晴らしい生活を送り、人生を終えるのだと。そう、夢見ていた。
だが、夢は夢でしかない。見ていられるだけでも幸せなのだと、まだ十代の少女が現実の、とびっきりの悪夢にも似たそれを確認するのにはあまりにも早く、悲しかった。
好奇心、だった。高校に入り、友人を作り、別れ、また新たな生活へと進む。その筈だった。が、入学した高校で出来た彼女の友人たちは少しばかり軽かったのである。軽い。軽いのだ。少女には地球外の生命体に思えるほどに、である。抜けようと、距離を置こうと考えた。しかし、自分を含めて形成されたコミュニティを脱するのは難しいものである。それも、家と学校しか知らない学生ならば尚更だろう。ある種鳥かごのような狭い世界。悪目立ちすれば、彼女の生活、世界が崩れてしまう。だから、耐えた。自分には合わないと理解しつつ、グループに溶け込もうと歯を食い縛り続けた。たった三年、それだけの辛抱だと何度も言い聞かせる。
たった三年。たった三年で、人生は軽く破綻する。あっけなく壊される。少女がそう気付いたのは二年目の春であった。
それまでは学業優秀で素行にも問題のなかった少女に、友人との夜遊びが目立つようになったのである。
決して、遊びたい訳ではなかったのだが。しかし、断れば付き合いが悪いと非難され、尚も断れば、夜中だと言うのに家にまで押し掛けられる始末。付き合えば、悪い遊びを教えられた。警察の世話になりかけた事もある。
夜遅く、朝早くに家へ帰れば、公務員の父親と専業主婦の母親から強く叱責を受けた。友人は選べと、自分でも分かっていて、それでいてどうしようもない事を言われた。母親の激昂したところは始めて見た。人格を否定されるような言葉を家族から受けるとは思いもしなかった。
少女の心から、日増しに何かが欠けていく。学校でも、家でも安らげない。そんな生活にも慣れていく。壊れ、蝕まれていく事が当たり前になりつつある。肌は荒れ、髪からは光沢が失われた。体調を崩す事が多くなり、授業に付いていくどころか出席すらままならない。
『あんたもヤんない?』
ある日、ヤニ臭い息を吐きながら黄色くなった歯を見せる友人に誘われ、少女は頷いた。
乱れ、抜け落ち、欠けていったモノを取り戻せるとは思わなかった。ただ、少女は僅かでも構わない。隙間を埋めて欲しいと縋ったのである。あるいは、一時でも自身の現状を忘れ去りたかった。事実、男に抱かれている間は何もかもがどうでも良くなっていた。純潔を散らした相手が見も知らぬ脂ぎった中年でも気にならなかった。何度も、何度だって繰り返す。誘われるままに、時には自らが誘い、体だけを委ねた。そこに快楽はなく、苦痛も存在せず、少女の心を満たすのは忘我とほんの少しの後悔だけだった。
三年目、少女は学校を辞めた。退学に対して彼女の意志が介在したかどうかは定かではない。見るからに荒れて登校しなくなった彼女を見かねて、両親が勝手に決めたのかもしれないし、学校側からの通達だったのかもしれない。しかし、少女の居場所がなくなったのは確かな事実である。
何もなくなった。
これで本当に空っぽになった。
いつしか、友人たちは少女から離れていった。虚空を見上げ、にやつく癖が気味悪がられた。何をされても反応を見せなくなった。隣に誰がいようとも放つ独り言の数が増えた。そのどれもが当てはまり、何を言われても原因には思い当たる。
全部、お前らのせいだろう。
恨み、嫉み、憎んだ。その度に、彼女は男へとのめり込む。溺れる。少女を瀬戸際で人たらしめていたのは、皮肉にも、憎んでいる相手から教わった遊びだった。
何人の男と付き合い、捨てられ、誘い、抱かれたのだろうとは考えなかった。
考えたのは、腹が大きくなってきてからの事である。学生の肩書きを失い、履歴書には中卒までしか書けない。職にもありつけず、部屋で息を殺して両親の言い争う声を黙殺した。陽が落ちれば適当な男を安い文句で誘う。だが、引っ掛かるような者はいなかった。特異な趣味を持つ男と出会わなかったのは少女にとって幸か不幸か。
父親の分からない子は、誰にとってもたらされたモノなのか。膨らんだ腹で胎動するモノは愛の結晶、などと呼べる微笑ましい存在ではない。自らが望み、数々の男が吐き出していった欲望の残滓にしか過ぎない。
だから、殺そうと思った。
だから、死のうと思った。
先は一切ない。もう、閉じてしまったのである。
やがて少女は誰にも知られずに、ひっそりと出産を終えていた。望まれない命を抱き上げた時も、何も感じなかった。ただ、重いと思った。自分の腕では抱えきれないモノだと諦めたのである。
まだ十代の少女、それも子が出来る覚悟をしていなかった彼女に子育てなど上手く筈はなかった。一人で養っていける経済力は皆無であり、気が遠くなるような論争の果て、子の面倒は母親が看る事になった。
『……ああ』
母の溜め息は増える一方で、誰とも知れぬ子が毎晩夜泣きをするものだから、次第にノイローゼになっていく。父親が家に帰らない日も続いた。
軋み、壊れ、砕け始めていたのは少女の心、生活だけではなかったのである。
限界を悟るのはそう遠くなかった。少女は子が良く眠っているのを見計らい、深夜にそっと家を抜け出た。それが今、今日の話である。
家を抜け出した少女は子を両腕で抱いたまま、駅前まで来ていた。自然と足が向いたのかと言えば、そうではない。彼女は知っていた。聞いていた。コインロッカーベイビーと呼ばれる都市伝説を。
まさか、自身が古ぼけた都市伝説を再現する事になろうとは、その時には思いもしなかった。しかし、何と甘いのだろう。子を捨てる。それさえ出来たならば、これ以上の破綻を避けられる。そんな気がしていたのだ。
昼の間に鍵は手に入れている。後はロッカーを開けて――――捨ててしまえば良い。少女もうっすらと気付いている。何をしたところで現状は好転しない。光明は見えないまま、崩れ掛けた生活が続くだけなのだ。それでも、今よりもマシになるのかもしれないのなら。
「組み手よ!」
「…………っ」
こんな田舎町の真夜中だと言うのに大声が響き渡る。その声に驚き、女は振り返った。
と、何とも趣味の悪い色のジャージを着た気の強そうな女と、やたらと背の高い、しかし気の弱そうなジャージの男が向かい合っている。
邪魔をしてくれるなと、最初にそう思った。ジャージの二人組はよほど仲が良いのだろうか、公然で喧嘩を始めている。尤も、乗り気なのは女だけで男に軽くあしらわれ、挙句飛び膝蹴りを入れられている始末だ。とにかく、彼らは周囲に対して気が向いていない様子である。が、万が一と言う事も有り得た。もしも、ロッカーに赤ん坊を捨てたのが見つかってしまったら――。
迷いに迷って、少女ははたと気が付いた。そして、目が合った。
産みの親をまっすぐに、どこまでも信頼しているような、純真無垢な瞳が少女を捉えている。
「……あ、ああ」
我知らず、少女は震えた。抱いた子は泣きもせず、笑いもせず、ただ、母親を見つめている。
罪の意識を感じていた。だから気のせいなのかもしれない。しかし、この時ばかりは少女にはそう思えなかった。
見透かされている。
そう、思った。望まれない子だったとして、それでも親らしき事は何一つ出来なかった。やろうとしなかった。そして今は、捨てようとしている。それでも、子にとっては少女が親なのだ。
「う、うわっ、きょ、凶器はナシ!」
「勝てば官軍! あなたに勝つ為ならあたしはっ、このっ、石ころだって握ってみせるわ!」
なんて腐った世界。泥のように濁り、灰を敷き詰めたように汚れ、一切の光が見当たらない世界。
少女はいつだってそう思っていた。理不尽に、突然にもたらされた崩壊が彼女を変えていたのである。無理もない。狂わされた生活の中では蝶を追い掛け、花を愛でるような余裕もなくなるに決まっていた。
「…………」
役所に届ける為、気紛れに考えて付けた名が、今となっては無性に愛しく思える。
親は子を選べない。
同時に、子も親を選べない。
望まれないと言うのなら、それはお互い様なのだろう。
少女に母親としての自覚が芽生えた訳ではない。だが、子に罪はない。捨てられるような理由はない。その目はまだ世界など知らず、思わず、見えていないのだ。泥のような、灰のような、そんな世界を知る由はない。
知らなくて良いのだと、少女は思った。
自分があの時、もっとはっきりとしていればこんな事にはならなかった。今頃は、本当に華々しいところへ行けたのかもしれない。
終わった事に、閉じた事に変わりはない。だからと言って、終わらせる事を、閉じる事を選んではいけないのだ。
終わったのなら始めれば良い。閉じたのなら開けば良い。まだ、何も初めてはいないのだから。
恐らく、明日になれば少女の考えは変わっている。またここへ来るのかもしれない。今度こそ、捨ててしまうのかもしれない。この思いは今日だけの、今だけの、この一瞬だけのものなのだ。
それでも、彼女は決意した。自分の子を、ぎゅっと抱き締めた両腕は温かい。
――――酷い世界だ。
ここで生きるには辛過ぎる事が多くあった。だが、ここで生きると決めた。今日だけは、今だけは。
「……私、頑張るから」
少女は久しぶりに笑みを作ってみる。我が子に向けたそれは少々ぎこちないもので、次の瞬間には駅前に泣き声が轟いていた。