表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/45

口裂け女・起

 どうして、自分はこんな目に遭っているのだろうか。

 どうして、自分はこんなモノと遭ってしまったのだろうか。

「いひ、いひ、いひひひ」

 女が笑う度、ごぽっ、ごぽっと、どこからか水音が聞こえてくる。

 その音を聞きながら、少年はここに到るまでの事を思い出していた。



 つい先ほどまで、少年は塾を出て、家までの帰り道を歩いていた。来年からは受験生なのだからと親に無理矢理入れさせられた、市内でも名高い進学塾である。

 しかし、少年には確固たる意思もなければ、目的もない。宙ぶらりんな彼が塾での勉強に付いていける筈もなく、取り立てて仲の良い友人も出来ず、常ながら、教室に入ってもただぼんやりと時間が過ぎていくのを待っているだけだった。

 塾での唯一の暇潰しが、聞き耳を立てる事だった。隣りの生徒が話している内容に耳を澄ませ、くだらないとほくそ笑んだり、それは違うと勝手に、心の中だけで批判するのである。

 どうしようもない悪癖だと自身も気付いていたが、簡単には止められない。

「なあ、聞いたかよ?」

「え、何々?」

 泡のように弾けて消える会話の中、少年の心を一際強く惹き付けるものがあった。

「またこの辺で出たらしいぜ?」

「出たって、アレ?」

「おう」

 けらけらと、甲高い笑い声が少年の心を逆撫でする。

「気ぃ付けろよ、夜中一人で出歩いてたら会っちまうらしいぜ」

「へえ、ま、俺らは大丈夫だろ」

 つまり、一人で帰るような寂しい奴が酷い目に遭うんだと、少年にはそう聞こえた。

「しっかしさー、またブームが来たんだな」

「え、何が?」

「だからさ、アレだよ」

 何が、だ。

 少年が件の名前を聞こうと意識を集中させる。

「ほら――」



「いひひひひひひひひ!」

「あああああああああっ!」

 醜悪な笑い声と、身を切り裂く激痛が少年を現実の世界に呼び戻した。

 肉体と言う肉体は蹂躙され、精神と言う精神は汚染され、神経と言う神経は暴虐の限りを尽くされていた。

「ね、ね、ね」

 声が出ない。

 押し迫った女の顔を間近で見てしまい、少年は声を失う。

 黒く、暗く、どこまでも淀んだ、濁った目。

 女の肌からは生気が感じられない。返り血に染まって隠れてはいたが、その肌は土気色だった。

「ひっ、ひいっ、ひい!」

 少年はこの場から逃げようとして立ち上がる。が、足に力が入らない。

「駄目、だから、ねっ?」

 首根っこを掴まれて引き倒される。背中に衝撃を感じて、呼吸がままならない。

「ひうっ」

 膝の近くに硬く、冷たい何かが押し当てられる。

「いひっ、いひっ、いひっ」

 誰も助けてくれない。誰も通り掛からない。

 血の臭いが立ち込める路地裏でもがく少年を見ているのは、ビルの隙間から僅かに覗いた月だけだった。

 ――ごりっ。

 引いて、引いて、引いて。

 女がそれを引く度に、少年が身を捩り、狂ったような声を上げる。

「あが、がっ、ぎゃああああ!」

 少年は激痛から逃れようと髪の毛を振り乱して、生ゴミの散乱する汚らしい地面に顔を擦り付ける。何度も何度も頭を上下させ、自らを地面に打ち据え続ける。その度に額から、鼻から血を吹き出し、歯は欠けて抜け落ち、整っていた彼の顔立ちが崩れていった。

 対して、女はひたすらに笑っている。手に持った(のこぎり)を嬉しそうに引き続ける。

 ――ごり。

 女が鋸を引く度に不揃いの刃は少年の皮を剥ぎ、肉を削ぎ、やがて、骨にまで到達した。

「いひひひひひひ、ね、ね、ね、どう? どう?」

 そう尋ねる女は酷く親しげである。親しげに、骨を鋸で引き始めるのだ。

「ぎいいいいいいいい!」

 鋸は既に血で汚れ、脂に塗れている。切れ味は鈍り、一息には終わらない。ゆっくりと、少年の骨だけでなく、心までも削っていく。

 ぱっくりと割られた箇所からは、ピンク色の肉と白い骨が見え隠れしていた。女はそこに指を差し込んでいく。

「あ、ああ、あああっ」

 少年の声は掠れ始めていた。

 女はその声に背筋を震わせる。軽く痙攣しながら、傷口の内部で指を掻き回した。

 もう、少年は声すら出せない。自分の身に降りかかった災厄を忘れて、現れる筈もない助けを求めながら目を瞑る。

「いひっひひひひひ!」

 耳元で哄笑を受け、鼻先には生臭い息が吹き掛けられた。

 そして、遂に、

「――――い」

 女の作業が終わる。

「いたっ、痛い! 痛い! 痛いぃぃぃ!」

「ね、ね、ね、見て、見て?」

 耐えるのはもう限界だった。少年は目を見開きながら、叫び声を上げる。

「見て、見て」

 女が誇らしげに掲げたものを見て、少年は更に高い声を上げた。

 血の滴る、自らのものだった足。

「いやだああああああ! たっ、助けて! おか、おかあさあん!」

 泣き叫ぶ少年に女は遠慮なく飛び乗る。馬乗りになった状態で頭を上下させながら、尚も切り取った足を少年に見せ付けようと押し付けた。

「ね、ね、ね」

「いやだ、いやだあっ」

 少年は目を固く瞑って拒む。業を煮やした女は彼の目蓋に手を伸ばした。無理矢理に開けて見させようとしたのである。が、女の膂力は凄まじかった。人体を切断するには適さないだろう鋸で骨を切断するほどの力である。

「いぐあああああ!」

 目蓋など、塵芥程度の盾にしかならない。余り余って、眼球ごと抉り出してしまったのである。

 視神経が繋がったままの状態で眼球はアスファルトを転がっていった。女は気にも留めずに少年に残された、もう片方の目にも手を伸ばす。

「ね、ね、ね?」

「お父さぁん、お母さあん! お願い、おねがいだからっ!」

 もう何度少年は失禁しただろうか。ズボンは血と尿で浸され、彼と密着している女の下半身もずぶ濡れである。

 しかし、女は一向に気にしない。首が折れてしまいそうなほどの速さで頭を振り、気の狂った声で笑い続ける。

 少年は、不幸だった。こんな状況下でも未だ理性を保ち続けている。もっと早くに気をやってしまえば、どんなに楽だったろう。

「いひひ、いひ、ひっ、ひひひっ」

 少年の気は徐々に遠くなる。体から血液が失われ、ゆっくりと冷たくなるのが分かった。彼なりに、これが死なのかと、そう実感する。

「ね、ね、ね?」

 問い掛ける女がしつこくて、少年は諦めて目を開いた。

 すぐそこに、女の顔がある。目は血走り、髪は乱れて、醜いと言うよりはむしろ、哀れだと思えた。

「ね、私――きれい?」

 出会った時にもされた質問に、少年は再度恐怖を覚える。ここで嘘を吐けば命だけはまだ間に合うかもしれない。

「……き、き」

 だが、胸の内に残った僅かなプライドが訴えた。最後ぐらい、抵抗してやれ。

「キモイ、んだよ。クソババア……」

 言ってやった。言ってやった。昂ぶる感情が少年を後押しする。――無情にも。

「……うぜえ、死ね、お前なんか、お前なん、か」

 後悔とは、決して先に立たない。このまま黙っていれば、少年は楽に死ねたのだ。

「い、ひ、いひひ……」

 女の口がつり上がる。留まらず、裂けていく。

「あ、ひ、ひあ……」

 塞がり掛けた視界。少年がその目に焼き付けた最後の光景は――。



「――アレだよ、ほら、口裂け女!」




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ